8月4日、早朝に自宅を出発、バスの大幅遅れなどあったが、飛行機の遅れもあり何とか沖縄の名護市辺野古崎に夕方辿り着いた。
今回のプロジェクトを手伝ってもらっている出口ユカさんと展示作品や書籍など資料を持って那覇空港で合流、明日10時からの展示作業に間に合うように沖縄北部の名護に入ったのである。1年ぶりの辺野古の変貌ぶりには驚いた。海の埋め立てによって潮の流れが変わったのだろう、美しい白砂の浜辺は、草ぼうぼうの荒れ地のようになっていた。
8月5日、10時から展示構成作業が始まった。沖縄写真協会、名護市文化協会、画家をはじめ、地元のみなさんが多数駆けつけてくれた。 心からの感謝をします。
作業風景など沖縄テレビが撮影に来ていた。オープンの午後1時前には、きれいに展示作業は終了した。
帰った人も5~6人いたが、残っていた人だけで、展示作業終了の記念写真を撮った。
やんばるに来て初めて地物ばかりの新鮮な刺身をいただいた。
名物の地物海鮮の太巻き寿司。
地物の魚の煮つけ、安価で美味だった。
僕の歓迎を兼ねた懇親会を開いてくれた。左から30数年来の友人宮城さん、40年来の写真仲間の宮里さん、名護のフォトフェスティバル以来の友人東江さん、前沖縄写真協会会長・写真家の東さん。日本ハムファイターズの名護市応援団長も務めている宮城さんのお店で。
名護市立中央図書館の写真展会場への入口。
初日から入場者は多かった。
真剣に見つめる・・・
『決定版 広島原爆写真展』40冊、『決定版 長崎原爆写真展』37冊、テキサス大学出版局発行の写真集3冊、「反核・写真運動」のポスター(写真・サイン:Wユージン・スミス デザイン:粟津潔)1983年制作も5部売れた。片隅に置かせてもらっていた僕の著書も少しは売れた。東京展と同じ以上に販売できたことは、沖縄の人々の関心の高さがうかがえる。
那覇市民ギャラリーと比較すると会場が狭く、壁面の一部がコンクリートのために展示できなかったので写真の点数を30点ほど減らして展示した。
小学生、中学生、高校生の来場者も多かった。夏休みの課題で来たという中学生たちもいた。
会場の2カ所に生花を手向けてくれた81歳の女性がいた。母が広島で暮らしていたが、自分の出産のために実家のある沖縄に。父は南方へ出征したが長崎でなくなっていた。そして、いま自分は沖縄に暮らしているという運命を考えると・・・。 涙ながらに語ってくれた。

2冊の感想ノートには、多くの人たちが熱い思いを綴っていた・・・。それに比べると会場である図書館の館長はじめ、職員の誰一人も見に来なかったのは残念だった。8月6日、9日をはさんで広島・長崎の原爆写真展をしているのに、まったく興味がないらしい。市民からの問い合わせの電話にもまともに応えていないのにも驚いた。
ギャラリートークに母が長崎で被爆したという人が飛び入りで参加した。女学生の時の母から聞いた被爆体験を生々しく語ってくれた。
8月9日。80年前に長崎に米国によって原爆が投下された日、ギャラリートークが行われた。70人を超える市民が集まってくれた。
帰京する前日の11日、那覇に行くと必ず顔を出す、「節子鮮魚店」。母の後を継いだ2代目が一人でやっている。食事をする家族連れや地元の常連客しか来ないのでいい。観光客や外人の客が多くいる店は騒がしくて嫌いだ。呑みたい酒を自分で持って来て呑む。お代は最後にまとめて。この夜は、貝の刺し身の盛り合わせにご飯を肴に独り沖縄の最後の夜を楽しんだ・・・。
