写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2009年8月アーカイブ

2009年8月30日は、日本の戦後の憲政史上おそらく歴史的な日と位置づけられることになると思う。朝、目覚めると台風の影響か時折、強い風が吹いていた。小雨もぱらついていたので急いで近くの投票所へいった。すると雨の中、会場に入りきれない人々が外に延々と列をつくっているではないか。ぼくも30数年間にわたり投票をしてきたが、こんな光景ははじめての経験であった。いつも投票所の中は、閑散としていて記名する鉛筆の音が室内に響いていたほどである。それが今日は、何か異様に活気があり、興奮したような空気が満ちていた。お年寄りはもちろんお洒落をした若者たちも目立った。車椅子の人もいた。僕は民衆の声とはこういうものなのか、と漠然と歴史のページがめくられていく音を聞いたきがした。「主権在民」、「国民が主人公」など叫ばれてから久しいが、僕は日本人に対しては、どこかであきらめの気分が正直あった。自分も含めて駄目などうしょうもない民族だと・・・・・・。今回の選挙でもし、民衆が立ち上がらなくて、なんら変わることがなく60数年間にわたり一党だけの政権が続くようならこの国は終わりだとも。しかし今朝、この東京近郊の小さな町の小さな投票所で目にした光景は、充分に僕の憂慮を吹き飛ばしてくれた。まだ、自分の大切な権利を行使してない人がいたら今夜8時までに必ず、自分の意思をこめて投票をしましょう。そして今夜は、それぞれの場所で、互いにおいしい祝盃をかかげようではないか。日本人としての誇りのために・・・・・。

僕の俳句の先師、高島茂が創刊した俳句雑誌「獐(のろ)」が第190号でその歴史をとじることとなった。二代目主宰となった高島征夫さんがこの6月30日に急逝したことによるものだ。同人の一人として残念ではあるがいたしかたない。高島征夫主宰の追悼号となる190号に寄稿しょうと思い俳句作品8句と「征夫俳句の鑑賞」という短い文章を書いてみた。

あじさゐやおもひのはてのとどかざる   征夫

高島征夫主宰が急逝された二日前の2009年6月28日の句会で詠んだ句。これが辞世の句となってしまったが、先師である高島茂先生の遺句「八十の少年にして曼珠沙華」と何か思いが通ずるものを感じて不思議な気がした。思い返せば、征夫さんと僕は、いまから十年前の1999年3月15日に先師から朱文彰、中村吉次郎とともに4名で、のろの会の新同人として推挙されたのだった。その文章は「のろ」通巻第100号に載っている。当時の雑詠集には64名、同人の黄羊集には19名が投句しているからずいぶんと盛んな時代ではあった。先師に”ぼるが”のカウンター越しから「のろのこと頼むね」と笑顔で言われ、一瞬とまどった記憶がある。その後、わずか4ヶ月余りで師は突然に、僕らを置いたままで旅立たたれてしまったのだから、のろの主宰を継いだ征夫さんは、さぞや大変だったと思う。本当にご苦労さまでした。  合掌

「無頼とは愛しきもの」・・・・・・・小松風写

無頼とは愛しきものよ桜桃忌                  無頼漢といわれし炎暑の津軽ゆく

無頼ふたり山背風の荒れし津軽なり             奥秩父の無頼の墓の茂りかな

火取虫我れも等類無頼なり       (故郷上州にて) 秋澄みて郷里の処刑地無頼かな

無頼らの処刑の地なり白粉咲く    (高島征夫急逝す) 句語り盃干す秋の無頼かな


通巻第190号まで続いた俳句雑誌「のろ」の表紙

通巻第190号まで続いた俳句雑誌「獐(のろ)」の表紙

一昨日の23日、板橋区立文化会館小ホールで開かれた「冠船流・琉球舞踊 川田功子の会 第15回葉月の会」の発表会を観にでかけた。「遊びぬ清らさやん衆ぬ揃い踊て遊ば」をテーマとした今回の葉月の会は、15回記念でもあり、特別出演として大蔵流の狂言師・善竹十郎、和太鼓の川田公子、琉球音楽奏者の名嘉ヨシ子、具志幸大など豪華な顔ぶれで会に花をそえていた。第一部は、伝統はきらめきながらくり返す漣にも似て・・・・・を主題にした古典舞踊を中心とした演目。幼い演出者たちの踊りがとりわけ可愛らしかった。第二部は、共に生きるよろこび 創作「ゆんた」 総勢18名による舞台で繰りひろげる踊りは、圧巻であった。川田功子によるお婆は、コミカルななかに琉球の女が背負ってきた厳しさとともに強靭な精神性を感じられて、観客のこころを打った。僕は以前にも書いたが、彼女とはかれこれ30年来の付き合いである。毎年のように舞台も見つづけてきた。15年前に赤坂プリンスホテルで開催した僕の出版記念会には、先年他界した功子さんのご主人であった三線の名手・仲濱靖一さんと一緒に出演してくれたこともあった。忘れられない思い出である。冠船流・琉球舞踊の一端は、池袋駅西口にある「みやらび」で月、水、金曜日に観ることができる。


打組踊  醜童(しょんどう)

打組踊  醜童(しょんどう)


雑踊  花風(はなふう)

雑踊  花風(はなふう)


雑踊  島尻天川

雑踊  島尻天川


女踊  月見踊

女踊  月見踊


会場で来場者とともにカチャシーを踊る

会場で来場者とともにカチャシーを踊る

第20回記念 人と海のフォトコンテスト「マリナーズ・アイ展」が8月20日から25日まで、東京芸術劇場5F展示ギャラリー(池袋駅西口)で始まった。第1回展の入賞作品から第20回展までの作品、約500点を一堂に展示しているので見ごたえがある。この後、9月26日~10月18日まで北九州市立美術館でも開催される。また、20年におよぶ全入賞作品が収録された20周年記念写真集も刊行されている。25日午後6時から同会場の2階レストランにおいて、オープニングパーティが開催された。遠く地方からも入賞者が多く参加して、活気があった。あいさつに立った国土交通省の人は、「人と海がこれほどまでに身近な関係だったのかと改めて知り、感動した」と写真展の感想を述べた。僕も多くの入賞者の人たちと直接話ができて、楽しかった。写真研究会「風」や写真集団・上福岡のメンバーも参加してくれて遅くまで写真談議に花が咲いた。会の終了後、今月23日らスペインへ取材に行く、塩崎亨君の激励会を有志でおこない、彼のいい仕事をみんなで期待して乾杯した。

第20回記念 人と海のフォトコンテスト「マリナーズ・アイ展」が8月20日から25日まで、東京芸術劇場5F展示ギャラリー(池袋駅西口)で始まった。第1回展の入賞作品から第20回展までの作品、約500点を一堂に展示しているので見ごたえがある。この後、9月26日~10月18日まで北九州市立美術館でも開催される。また、20年におよぶ全入賞作品が収録された20周年記念写真集も刊行されている。25日午後6時から同会場の2階レストランにおいて、オープニングパーティが開催された。遠く地方からも入賞者が多く参加して、活気があった。あいさつに立った国土交通省の人は、「人と海がこれほどまでに身近な関係だったのかと改めて知り、感動した」と写真展の感想を述べた。僕も多くの入賞者の人たちと直接話ができて、楽しかった。写真研究会「風」や写真集団・上福岡のメンバーも参加してくれて遅くまで写真談議に花が咲いた。会の終了後、今月23日らスペインへ取材に行く、塩崎亨君の激励会を有志でおこない、彼のいい仕事をみんなで期待して乾杯した。

帰京の日、地元の写真愛好家たちが一緒に撮影に行きたいというので案内をしてもらうことにした。今回巡ったのは利根、沼田地域。上杉謙信らが何度も行き来した三国街道を先ず歩いてみた。三国峠のすぐ下にある法師温泉にも久しぶりに行ってみた。父が元気な頃、母と一緒にきた懐かしい思い出の地でもある。

帰京の日、地元の写真愛好家たちが一緒に撮影に行きたいというので案内をしてもらうことにした。今回巡ったのは利根、沼田地域。上杉謙信らが何度も行き来した三国街道を先ず歩いてみた。三国峠のすぐ下にある法師温泉にも久しぶりに行ってみた。父が元気な頃、母と一緒にきた懐かしい思い出の地でもある。


三国街道から水上温泉へ抜ける峠の手前にある手打ち十割蕎麦の店。赤城高原でとれた玄蕎麦を石臼挽で食べさせてくれる。昼のみの限定である。蕎麦好きの弟夫婦が毎週通っているという店で、「兄貴、とにかくうまいから一度行ってみてよ」とやたらと進めるので遠かったがやってきたのだ。確かに蕎麦も一品だったが400円の山菜天麩羅に感動した。この時期に籠のなかに揚げてあったのは、あかだ、うまぶどう、独活の葉、みょうが、真竹の筍、山桑など。そのどれもが食感あり、ほのかな味がするのだ。

三国街道から水上温泉へ抜ける峠の手前にある手打ち十割蕎麦の店。赤城高原でとれた玄蕎麦を石臼挽で食べさせてくれる。昼のみの限定である。蕎麦好きの弟夫婦が毎週通っているという店で、「兄貴、とにかくうまいから一度行ってみてよ」とやたらと進めるので遠かったがやってきたのだ。確かに蕎麦も一品だったが400円の山菜天麩羅に感動した。この時期に籠のなかに揚げてあったのは、あかだ、うまぶどう、独活の葉、みょうが、真竹の筍、山桑など。そのどれもが食感があり、ほのかな夏山の香りがするのだ。


旅の締めは何と行っても温泉で一風呂浴びるのがお決まりである。この日は、僕の穴場の湯へ案内した。月夜野の本当に山の中の一軒屋である。しかし、この湯が無色透明だが、やわらくなんとも云えない味わいのある湯なのだ。このすぐ近くに友人の陶芸家がいて、いまでもりっぱな登り窯を焚いている。この日も寄って奥様手作りのアイスクリームなどごちそうになった。もってある器は、旦那の作品だからよけい引き立つのだ。この6月にも新宿・小田急デパートで作陶展を開いたばかり。僕も彼の陶器は普段使いがとてもよく、いつも愛用している。

旅の締めは何と行っても温泉で一風呂浴びるのがお決まりである。この日は、僕の穴場の湯へ案内した。月夜野の本当に山の中の一軒屋である。しかし、この湯が無色透明だが、やわらくなんとも云えない味わいのある湯だ。そして驚いたのは、入浴する人はみな手にハエ叩きを持っていることだ。最初は何事かとおもったがすぐにわかった。下の谷川からアブがやってくるのである。僕は殺生はしたくなかったので、アブが飛んでくると湯のなかに潜ることにした。おもしろい光景であった。このすぐ近くに友人の陶芸家がいて、いまでもりっぱな登り窯を焚いている。この日も寄って奥様手作りのアイスクリームなどごちそうになった。それを盛っている器は、旦那の作品だからよけいに食べ物が引き立つのだ。この6月にも新宿・小田急デパートで作陶展を開いたばかり。僕も彼の陶器は普段使いがとてもよく、いつも愛用している。

幼馴染で同級生だったKは、4年前に独りで大好きだった信州・白馬で亡くなった。一昨年、彼の終焉の地の白馬を訪ねてみた。高校時代から山岳部で鳴らして、よく白馬に来ていた。その山に登って彼がこよなく愛した風景をカメラに納めてきたのである。そして今年、僕らも子どものころから本当に世話になったKの母親が突然に亡くなった。そのおばさんの新盆で。Kの弟夫婦と妹と末っ子の弟。みな小さい頃から良く知っている。珍しくそろっていたので記念にパチリ。  Kよ、そしておばさん安らかに・・・・・合掌

幼馴染で同級生だったKは、4年前に独りで大好きだった信州・白馬で亡くなった。一昨年、彼の終焉の地の白馬を訪ねてみた。高校時代から山岳部で鳴らして、よく白馬に来ていたのだ。その山に登って彼がこよなく愛した風景をカメラに納めてきたのである。そして今年、僕らも子どものころから本当に世話になったKの母親が突然に亡くなった。そのおばさんの新盆で。Kの弟夫婦と妹と末っ子の弟。みな小さい頃から良く知っている。珍しくそろっていたので記念にパチリ。  Kよ、そしておばさん安らかに・・・・・合掌


母のすぐうえの兄「和之(かのう)伯父さん」の墓。墓碑には次のようなことが記されていた。「陸軍軍曹 勲七等 功六級 上田和之墓」 「昭和17年5月8日 中国折江省に於いて24歳で戦死」祖母は戦地で若くして立派に亡くなったこの伯父さんのことをいつも僕に聞かせていたことを思い出した。

母のすぐうえの兄「和之(かのう)伯父さん」の墓。墓碑には次のようなことが記されていた。「陸軍軍曹 勲七等 功六級 上田和之墓」 「昭和17年5月8日 中国折江省に於いて24歳で戦死・・・・・」祖母は戦地で若くして立派に亡くなったこの伯父さんのことをいつも幼かった僕に聞かせていたことを思い出した。

いま、注目となっている八ッ場ダム建設地となっている吾妻川の渓谷。この場所の少し上流にダムサイトは、建設される予定。下流である湖底に沈まない僕の実家などがある町も大変な迷惑だ。写真のように美しかった景観が巨大なコンクリートの標柱群によって破壊されている。僕が高校生の時に、みんなで建設計画阻止の運動をしたのだが、あれから40年以上の歳月が流れている・・・・・。

いま、注目となっている八ッ場ダム建設地となっている吾妻川の渓谷。この場所の少し上流にダムサイトは、建設される予定。下流である湖底に沈まない僕の実家などがある町も大変な迷惑だ。写真のように美しかった景観が巨大なコンクリートの標柱群によって破壊されている。僕らが高校生の時に、みんなで建設計画阻止の運動をしたのだが、あれから40年以上の歳月が流れている・・・・・。


八ッ場ダム建設地に隣接する新たに発掘された温泉におふくろと行った。少し温めで、鉄分が強い湯であつたが、夏場はゆっくりと浸かれて気持ちの良い湯であった。その湯の近くに一面に花が咲いていた。正面の山は岩櫃山(802m)。武田領の三堅城として知られた真田の岩櫃城があった地としても有名。織田・徳川連合軍に長篠戦いで敗れた武田勝頼が、この城に落ち延び再建を果たすことになっていたというが、その夢も虚しくつい果てたのである。

八ッ場ダム建設地に隣接する新たに発掘された温泉におふくろと行った。少し温めで、鉄分が強い湯であつたが、夏場はゆっくりと浸かれて気持ちの良い湯であった。その湯の近くに一面に花が咲いていた。正面の山は岩櫃山(802m)。武田領の三堅城として知られた真田氏の岩櫃城があった地だ。織田・徳川連合軍に長篠戦いで敗れた武田勝頼が、この城に落ち延び再建を果たすことになっていたというが、その夢も虚しくつい果てたのである。


上州といえば「かかあ天下と空っ風」であるが、蒟蒻もその生産は全国の約80パーセントを占めるほど有名。煮物にしても何にしても旨いが、やはり刺身でたべるのが絶品である。いまでも家の周りは蒟蒻畑が広がっている。

上州といえば「かかあ天下と空っ風」であるが、蒟蒻もその生産は全国の約80パーセントを占めるほど有名。煮物にしても何にしても旨いが、やはり刺身でたべるのが絶品である。いまでも家の周りは蒟蒻畑が広がっている。

みんなが釣ってきた鮎や岩魚。串に一本一本刺して塩焼きにした物や燻製にした物などどれも美味である。冷えた生ビールの肴に僕はしっかりと7~8本は食べた。
みんなが釣ってきた鮎や岩魚の一部。串に一本一本刺して塩焼きにした物や燻製にした物などどれも美味である。冷えた生ビールの肴に僕はしっかりと7~8本は食べた。


お盆恒例「清流倶楽部」の面々による吾妻川の河原でのバーベキュー。僕もよく知っている近所の後輩たちが多いこともあって、数年前から参加している。この倶楽部は、20年程前に、弟や釣りの好きな仲間が中心になって「故郷に清流をとり戻す会」という組織を立ち上げたのが、発端となっている。自分たちが子どもの頃、遊んだ川があまりにも無残な姿に変わり果てたのを目の辺りにしたのが、行動を起すきっかけとなったという。10年前に現在の「清流倶楽部」となり河川の掃除をはじめ、環境を守るさまざまな活動は高く評価され群馬県知事からも表彰されている。現在、会員は釣りをしない主婦たちも参加して20数名となっている。

お盆恒例「清流倶楽部」の面々による吾妻川の河原でのバーベキュー。僕もよく知っている近所の後輩たちが多いこともあって、数年前から参加している。この倶楽部は、20年程前に、弟や釣りの好きな仲間が中心になって「故郷に清流をとり戻す会」という組織を立ち上げたのが、発端となっている。自分たちが子どもの頃、遊んだ川があまりにも無残な姿に変わり果てたのを目の辺りにしたのが、行動を起すきっかけとなったという。10年前に現在の「清流倶楽部」となり河川の掃除をはじめ、環境を守るさまざまな活動は高く評価され群馬県知事からも表彰されている。現在、会員は釣りをしない主婦たちも参加して20数名となっている。


炭火を熾して家で作っている野菜と豚や鶏を網で焼く。このほかに自家製のトマトやスイカ、糠漬けのキュウリなどご馳走が盛りだくさん。

炭火を熾して家で作っている野菜と豚や鶏を網で焼く。このほかに自家製のトマトやスイカ、糠漬けのキュウリなどご馳走が盛りだくさん。

8月13日夕刻、家の前でおふくろと迎え火を焚く。
8月13日夕刻、家の前でおふくろと迎え火を焚く。


僕が田舎にいる間の大切な日課は、おふくろを守っているワンちゃんの散歩。おふくろが付けた名前は「ピーチャ」だが、僕は「五右衛門」とかってに呼んでいる。この犬の前にいた犬とその前の犬と2代続けて「五右衛門」だったからだ。僕が「ゴエー」と呼ぶとちゃんと尻尾をふって応えてくれる。おふくろが「ピーチャ」と呼んでも応えるが・・・・。。

僕が田舎にいる間の大切な日課は、おふくろを守っているワンちゃんの散歩。おふくろが付けた名前は「ピーチャ」だが、僕は「五右衛門」とかってに呼んでいる。この犬の前にいた犬とその前の犬と2代続けて「五右衛門」だったからだ。僕が「ゴエー」と呼ぶとちゃんと尻尾をふって応えてくれる。おふくろが「ピーチャ」と呼んでも応えるが・・・・。。


今回は、お盆だからではあるが、そうでない時の帰省でも僕はよく墓参りをする。親父さんやお祖父さん、お祖母さんはもちろんだが、本家の伯父さん、伯母さん、従兄弟たちや友達などの墓参もする。何故か田舎へ帰ってくるとお墓参りを自然としたくなるのである。そして墓参りをするとこころが落ち着くのである。暑い中、墓掃除をする81歳を過ぎたおふくろ。

今回は、お盆だからではあるが、そうでない時の帰省でも僕はよく墓参りをする。親父さんやお祖父さん、お祖母さんはもちろんだが、本家の伯父さん、伯母さん、従兄弟たちや友達などの墓参もする。何故か田舎へ帰ってくるとお墓参りを自然としたくなるのである。そして墓参りをするとこころが落ち着くのである。暑い中、墓掃除をする81歳を過ぎたおふくろ。

今日から田舎ではお盆。亡くなった人たちをあの世から迎える日である。僕らが子どもの頃は、この季節は別な意味で楽しかった。家の前の道や辻に、この日に合わせてカマドを作るのである。山から粘土質の赤土をとってきて藁をまぜよくこねて、それぞれの形をつくるのだ。一番オーソドックスなのは、凹の逆の形だ。ここで夕刻になると迎え日の今日から、送り日の16日まで藁を燃やす。どの家もみなやる。この役割は、子どもたちである。そこで僕らはカマド作りに徹底して凝ったのである。形は本格的な炭焼きのカマドのミ二チュア版だ。大きな桐の葉などをカマドの屋根に敷いて何度も赤土を重ね塗りをしていくのである。もちろん煙突も大切でこれがうまくいかないとよく燃えない。最初は板の切れ端などを燃やしていたが、これではおもしろくないと山に入り松の木の瘤などに多い脂をとりに行くようになった。僕らはその松脂のことを「ひで」と呼んでた。黒煙が煙突からもうもうとたつのを眺めながら子どもごころに満足していたものである。松脂を取るときに鉈で過って左人差指をしたたかに切った。いまも僕の指に2センチ以上の傷跡を残して、確かな存在感がある。その傷跡を見る度に、友達の家々を回ってどのカマドがかっこいいか競い合ったりした懐かしい思い出が蘇るのである。


2年前の秋口に、久しぶりに知り合いの編集者から連絡があった。、2年後の太宰の生誕100年に出版計画をしているので、相談にのってほしいというものだった。その後1年あまり無しの礫でだったので、企画が流れたのだと思っていたが、昨年の晩秋に突然やるということになって本格的に動き始めてから10ヶ月間。この間、僕は太宰一本に注いできた。それが今日、表紙カバーが出来上がってようやく形となった。久しぶりに津軽にも厳寒の2月と春の5月に取材へ行った。その他、谷川岳や富士山、甲府、鎌倉、三鷹など太宰ゆかりの土地のほとんどを訪ねる日々であった。原稿も太宰と彼を撮影した僕の写真の師でもある田村茂のふたりの「無頼」についての考察を試みた。編集室長のK氏の協力がなければ成し得なかった仕事であったことは言うまでもない。心から感謝している。編集者にまだこうした魂を持った人がいると思うと僕もまだまだがんばらくてはと、励まされた。その本『太宰治と旅する津軽』(新潮社)は、9月下旬に刊行予定です。お楽しみに・・・・・・。


ようやく責了までこぎつけた『太宰治と旅する津軽』の原稿やゲラ(8月13日、朝)

ようやく校了までこぎつけた『太宰治と旅する津軽』の原稿やゲラ(8月13日、朝)


夕暮れに家の近くを散策した。疲れた目にやさしく映ったおしろい花。

夕暮れに家の近くを散策した。疲れた目にやさしく映ったおしろい花。

今日8月9日は、64年前の長崎に、広島につづき原子爆弾がアメリカによって落とされた日である。原爆によって長崎の地で、この日までに亡くなられた149.266人の御霊に追悼の意を捧げたい。   合掌
一昨日の7日は、この5月に太宰の取材で弘前に行った折りに、知り合った鎌田伸爾さんと池袋で再会した。彼は音楽の高校教師が本業であるが、雑誌「北奥気圏」の編集長であり、いま話題となっている津軽語訳『走っけろメロス』の著者である。津軽弁で朗読をし、パリ仕込みのバリトンの美声でシャンソンも歌うというユニークな先生だ。その彼が様々なイベントのために上京して来たので、新潮社のK編集者と一席設けたというわけである。鎌田さんは、さらに俳句もたしなんでいるという。そしてライフワークにしているのは、寺山修司研究だ。8月下旬に『望郷の虹ー寺山修司青春譜』(未知谷)という俳句小説仕立ての本を出版する。現在も青森に暮らす寺山修司初恋の女性を発見したことがこの作品を書く動機となったという。僕の手持ちの寺山の資料も提供した。


昨日、8日は写真研究会「風」の第2回例会が都内でおこなわれた。この日は創立メンバーの他に、フリーのライターをしている女性が取材先の南房総から駆けつけて新たにメンバーに加わった。さらに中国四川省、イ族出身の写真家、日本写真家ユニオン会員の写真家も特別参加してにぎやかとなった。皆でひとりひとりの作品を丁寧に合評していき、作品の方向性などについて討議を深めた。例会終了後、8月下旬からインドへ取材へ行く女性メンバーの激励会をいつもの魚の旨い居酒屋でおこなった。一緒に行く前メンバーだった写真家も来て、2人を大いに激励する場となった。またこの日、名古屋から参加しているメンバーの奥様も合流して、さらに華やかとなって盛り上がった。若い2人には、インドは熱いが、がんばっていい取材をしてきてほしいと思っている。

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写真研究会「風」第2回例会での合評(8月8日)

写真研究会「風」第2回例会での合評(8月8日)

今日、8月6日は64年前に広島の街に、原爆が投下された日。地球上で、唯一多くの市民が被爆し、犠牲になった人類史上忘れてはならない日である。3日後の8月9日には、長崎が被爆し、言葉では言い表せない惨劇が繰り広げられたのである。亡くなられた人々の御霊にこころからの哀悼の意を捧げるとともに、二度とこうした過ちはくりかえさせないと誓いを新たにする日でもある。昨年の夏、僕は広島、長崎の被爆の実態をより多くの人たちに知ってもらおうと2冊の電子書籍(ebookjapan)の写真集を編集・構成をした(企画:日本写真家ユニオンebook編集委員会)。それは『ヒロシマ 1945.8.6ー原爆を撮った男たち』と『ナガサキ 1945.8.9ー原爆を撮った男たち』(各定価1000円)である。


この2冊に収められた22名、201枚の写真は、1983年3月に日本のジャンルを越えた写真家550人が呼びかけ人となって発足した「反核・写真運動」が収集、保管している780点余の被爆直後の写真の中から、編集、構成したものだ。僕は発足時からこの運動には係わって来た。そうして自らの生命の危機も省みずに、被爆直後の惨状とその後の被爆者の苦しみの記録を撮影し続けた松本栄一、林重男、松重美人さんをはじめ先輩写真家たちから、貴重なさまざまの体験を聞くことができた。僕は何もできない一人の写真家ではあるが、先輩たちの意思を継承し、歴史の証として後世に伝えていく使命を果たしていかなければと強く思っている。


  

皆さんが、まだ見たことのない貴重な被爆直後の広島と長崎の映像がたくさん載っています(未発表写真も含めて)。ぜひ、ご覧になって購入していただければ幸いです。原爆写真のネガ保存・保護などNPO活動の資金にもなりますのでよろしくお願いします。 購入はこちらからです。(その他の日本写真家ユニオン名作シリーズです。)


デザートに岡山からの白桃をかじめ、鹿児島からの天日干しのきんめ鯛と鯵のひもの、新潟・栃尾の厚揚げ(納豆、浅葱入り)、自家製糠漬けに青梅ジュース、路地トマトにきゅうり(葱味噌、昆布梅肉のたれ)。メインは讃岐の包丁切りそうめん。 薬味には、家の裏に生えてる天然の紫蘇の葉、茗荷、万能葱。

この季節、各地の友人たちからさまざまな頂き物をする。そのおすそ分けで簡単な昼飯をつくってみた。デザートに岡山からの白桃をはじめ、鹿児島からの天日干しのきんめ鯛と鯵のひもの、新潟・栃尾の厚揚げ(納豆、浅葱入り)、自家製糠漬けに青梅ジュース、路地トマトにきゅうり(葱味噌、昆布梅肉のたれ)。メインは讃岐の包丁切りそうめん。 薬味には、家の裏に生えてる天然の紫蘇の葉、茗荷、万能葱、黒胡麻。やはり夏はさっぱりとした献立がいいですね。

先日、久しぶりに花火を見たと書いたが、あれは遠くから眺めたという程度だった。今回は知人たちに誘われて本格的に花火大会を鑑賞する会に参加してみた。僕は、画家の山下清ほどではないが、花火が好きで以前はよくでかけたものだった。隅田川の花火は毎年、出版社の社長の招待で本当に打ち上げの直ぐ前で見れるという特等席だった。しかしこれは花火保険に加入しないと参加できないことになっていた。確か一人1000円だった。一度「未来図」主宰の鍵和田柚子ご夫妻とご一緒したことがあった。その時に白扇に彼女が揮毫してくれた句は「 待乳山したたりやまぬ花火かな 柚子 」である。いまも記念として大切にしている。その他、晴海ふ頭でおこなわれる東京湾花火や多摩川の花火、神宮外苑の花火などなど写真や俳句仲間たちとよく出かけていた。


しかし、ここ10年ぐらいは見にいくこともなかったが、つい先日、抽選で貸切船から花火大会を鑑賞する席が当たったので来ないかと声がかかったのである。太宰の本の原稿も最終段階までいき、ちょうど暇だったので参加してみたのだ。夕刻、隅田川を出港して1時間半余りを東京湾岸をゆっくりとクルージングして、荒川の花火大会会場に到着。あたりは百艘をこえる提灯を燈した屋形船などがひしめいていた。花火は4000発というからそれほど大きな大会ではなかった。しかし、この日は雷・暴風雨注意の予報をうらぎって夕刻から一気に晴れて西の空は夏雲が広がり何ともドラマチックであった。正直、僕は花火なんぞよりもはるかに東京湾岸の夕景の方にこころを奪われたのであった。みなさんにご報告しなければならないので写真は撮ったが、写真から少しは僕の心情をご理解いただけるでしょうか・・・・・・。


浴衣姿で隅田川の夕景を見つめる少女。

浴衣姿で隅田川の夕景を見つめる少女。


東京の夕暮れもまんざらでもないね。こうして見ると東京はいまも水の都であることが実感できる。

東京の夕暮れもまんざらでもないね。こうして見ると東京はいまも水の都であることが実感できる。


荒川に浮かぶ船の上から見た江東花火大会の光景。

荒川に浮かぶ船の上から見た江東花火大会の光景。

新潮社から9月25日発売予定の『太宰治と旅する津軽』は、デザイナーのページごとのレイアウトもほぼ終わり、いよいよ最終段階へときた。しかし、玉川上水の写真1点がどうしてもイメージに合わず、今春から3度目の撮影に出かけた。明日3日、最終的に印刷所に入稿することになっていたのに、僕がもう一度撮影に行きたいと言うものだから、K編集者もあきれながらも「もうここまできたのですから、とことんいい写真を撮ってきてくださいよ」と激励してくれた。1回目の4月同様、写真家の塩崎亨君が車の運転や機材までふくめて助手をかってでてくれた。撮影場所はすでにこの間、2回も取材しているので決めていた。2人で1時間ほど深い緑の玉川上水の流れのなかに入ったまま撮影を続けた。気づかないうちに、2人とも下半身はびっしょりと濡れていた。まず撮影したなかの1点をお見せしましょう。


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実は塩崎君が持ってきたカメラは、デジタルカメラのなかでも最高機。ついこの前までボデーだけでも100万円近くしたもの。それに30万円近いレンズを装着して、一番流れが急な川のなかに三脚を立てて撮影した。水しぶきがかかるので心配したりしながら、絞りやピント、シャツタースピード変えながら何カットも撮りつづけたのである。足の感覚がなくなってきたので「よーしOK!」と撮影を終え、最後にこのブログ用にと僕のコンパクトデジカメで数枚手持ちで撮って終わりにしたのだ。腹が減ってきたので、塩崎君推奨の釜飯屋へ行き、「3日間限定 丑の日うなぎ釜飯」にありつき、遅い昼食とした。その後、彼の事務所へ行き、パソコンに撮影した写真を移し、セレクトをしたのだが、なんと最終的に5点残った全てが、僕のコンパクトカメラで撮ったものであった。「いったいあの苦労は何だったんでしょうかね」と塩崎君は少々むくれていた。しかし、その塩崎君もふくめて、その場にいた彼の仲間の写真家、デザイナーたちも異口同音にそれらの写真を選んだのだからしかながない。


玉川上水は、言わずと知れた太宰治が山崎富栄と今から61年前に、入水自殺を計った終焉の地である。当時は「人食い川」と呼ばれていたほど、水難事故が多かったと言う。大雨の後は狭い川幅いっぱいに激流が流れていた。今回撮った写真を画面で見ているうちに、何か波間に写っていると思ってよーく見ていると人の顔である。それも水底で叫んでいる苦しそうな女顔、男顔、顔・・・・・。みているうちどんどんふえてくるし、顔も変化していく。中には白骨化していき、髑髏だけになっていくものもある。そうして波間からおいで、おいでと女が手招きをしているように見えてくるのだ。一瞬、僕は我が目を疑い塩崎君をはじめ他の人にも聞くと「あっ見える。恐~い」と言うのである。僕は写真に向かって数珠をしている手を合わせた。一緒に見ていた女性の写真家も黙って合掌していた・・・・・・・・。梅雨も明けたかどうかはっきりしない蒸し暑い日々がつづいているので、ぼくが何かひんやりとした怪談話を作ってみなさんを涼しくさせようとしているのではありませんぞ。これは2009年8月1日に玉川上水で、本当にあった話なのです~よ。 クワバラ、クワバラ・・・・・・でも、今度の本は売れますように。    合掌


帰宅後、この夏はじめて花火をじっくりと見た。地元で毎年盛大におこなわれているらしいが、見たことはなかった。近くいた主婦が、「多くの市民の血税が一瞬にして夜空に消えていくと思うと、ただ綺麗だと喜んでばかりではいられないわね~」と突然話してきた。僕は飲んでいたビールが急に苦く感じたのだった。

帰宅後、この夏はじめて花火をじっくりと見た。地元で毎年盛大におこなわれているらしいが、見たことはなかった。近くにいた主婦が、「多くの市民の血税が一瞬にして夜空に消えていくと思うと、ただ綺麗だと喜んでばかりではいられないわね~」と突然話してきた。僕は飲んでいたビールが急に苦く感じたのだった。

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