写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2012年5月アーカイブ

 早いものであの過酷だったチベット取材から帰国してもう2週間がたとうとしている。あの日々はすでに遥か彼方の夢のような感じさえする。さて帰国後は、ほとんど家にこもっていて、チベット報告のブログを書いたり、溜まっていた手紙の返書などを書いていた。しかし、まったく外出しなかったわけではない。日本写真家協会の総会に2年ぶりに参加し、久しぶりに写真仲間と飲んだ。6月27日~7月1日から川越駅前のアトレ6Fで開催される写真集団・上福岡の弟30回記念写真展の作品選考の例会にも参加した。それに僕が主宰する写真研究会「風」の2011年度の最後となる例会にも参加した・・・・・・・・。

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市の建築環境基準に触れるため、1年間にわたって建設や売買が凍結されていた家の前の土地にいよいよ一戸建て住宅が建つこととになった。建主や業者との交渉で最終的には当初の倍近く境界線より空けて建てることにはなったが、やはり日照権などを考えれば陽はほとんど射さなくなる。これから8月まで工事で煩い日々が始まる・・・・・・・・・。日本の建築基準法の不備をつくづくと感じた1年であった。

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写真集団・上福岡の例会で。記念写真展へ出品する作品の最終選考をした。今年の個展は松村敏興さんでタイトルは「はな いのち」。力のこもったユニークな作品である。6月30日(土)午後3時から僕が講師で作品合評をおこなう。無料で自由に参加できるのでぜひ、おこし下さい。

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東京都写真美術館でおこなわれたJPS総会。会員百数十人が参加した。演壇は役員のメンバー。総会終了後の懇親会にも出た。地方からもたくさんの会員が参加していたので話が弾んだ。その後、宮崎から来ていた日本写真家ユニオン理事長の芥川仁さんと日本写真家協会名誉会員の丹野章さんと3人で11時半まで飲みながら話し合った。三人で会うのは久しぶりであった・・・・・・・。

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「風」の例会には、仕事や体調不良で4人が欠席以外は出席した。それぞれ個展に向けた作品を持ち寄り、2012年度の各自の創作課題と目標について討論した。途中、前会員の中田さんが自宅で採れたレモンを届けてくれたのでみんなで分けた。感謝!!

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2011年度最後の例会の打ち上げは、いつもの居酒屋。元メンバーだった写真家の菱山君も来てくれて総勢8人で賑やかな会となった。たまたま隣り合わせた親子とその学友とも盛り上がり写真をパチリ!☆ずいぶんと若いお母さんであった。娘さんはピアノをしているのだが、今はギター演奏に力をいれているという。ジャズが好きと言っていた。中田さんからいただいた大きなレモンを1個プレゼントした・・・・・・・・。

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家の最寄り駅にある酒屋がやっている立ち飲みに寄ったら、僕が常連の居酒屋「三福」の若大将が呑んでいた。一緒にいた女性が今度アルバイトに来ている学生のAさんだと紹介した。大分僕も酔っ払っていたが記念にパチリ!しかしご覧の通り後ピン・・・・・・・。でも雰囲気はわかるでしょう。一杯驕って乾杯をして失礼した・・・・・・。2人はその後、次の店に行って遅くまで呑んだという・・・・・・・・・。若いのはいいさ~☆!!

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シガッェを代表するのは、タシルンボ寺。1447年のゲルク派の開祖ツォンガバの高弟・ゲンドォン・トゥプ(ダライ・ラマ1世)によって創建されたもの。そのタルシンポ寺で笑う猫と出合った。仏塔が並んでいる所を巡礼者が廻って祈りを捧げているのを見守るようにこの猫はいた。カメラを向けるとニッコリと笑って僕を見つめていた・・・・・・・・。

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タルシンポ寺には、猫や犬が多く居た。それも人を恐れない、人馴れしていた。

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高さ26メートルある阿弥陀仏の座像。金銅仏としては世界最大といわれている・・・・・・・・。

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パンチェン・ラマ4世の霊塔殿の前ではラマ僧たちが御守りを売っていた。僕は母などのへのみやげに幾つか求めた・・・・・・。

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80歳というラマ僧と写真を撮らせてもらった。老僧は何度も僕の手を握って額につけてくれた。 

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これまでの写真はすべてタルシンポ寺で撮影。この寺はゲルク派6大寺のひとつ。ダライ・ラマ5世の時代、この寺の僧院長・ローサン・チョエキ・ギャルツェンが阿弥陀菩薩の化身であるパンチェン・ラマの地位を得てから歴代のパンチェン・ラマの政治・宗教活動の中心となて繁栄した。僧も多い時には4500人が修業をしていたという。現在でも1000人の僧たちが生活している。

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午後からはシガッエのバザールや生活品などの店が軒を連ねる町へ行ってみた。

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ラサを発ってから12日目。いよいよラサに戻る日。「一路平安」を祈ってもらった白い絹のカタをしている僕とローサン(左)とドライバーのジュンペイ。

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シガッエからラサの道は約350キロメートル。両側にはこのような光景が広がっていた。 

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思ったより早くラサに到着した。山崎君と電話連絡をしていた「足洗い」の店のイ族出身のリンちゃん(上)と重慶から3年前に妹と働きにきているワンちゃんを夕食に誘った。結局、僕はラサにいる間に4回も足や全身のマッサージに通ったのだ。それでお友達になったのである・・・・・・・。

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拷問を受けているようだがこれはマッサージのサービスで身体の悪いものを吸い出すというお灸みたいなもの。身体に悪い所がある人ほど、赤い痣が浮き出るのだそうだ。僕はご覧の通り、痣だらけとなった。烏里君はほとんど痣がでなかった。彼は健康そのものであり、僕は病気の巣窟らしい・・・・・・・。 

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今回の旅では、最初にも書いたが思いもよらぬ人々と出会えた。矢島保治郎の妻・テンバ・ノブラーと同じ血を継ぐ元貴族・デンバ家のデンバ・ストップ・ソナム・トップゲルさん(54歳)。俗名ソラドジェさん。現在はチベット藝術研究所編纂委員長を務めている。僕が持っているのは『チベットの貴族』という本。ここに彼の父親と母の妹さんの若い頃の写真が載っている。2時間程のインタビューに快く応えくれた。詳しい話は写真報告集のなかで書きたいと思っている・・・・・・・・・。この秋に刊行予定です。

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路地という路地まで巡回する武装警察。必ず7~8人のグループだ。

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車の中から撮影したポタラ宮殿。以前は中も撮影できたが、今は一切の撮影禁止だ。他の寺院のように何がしかのお布施を払えば撮らしてもらということは絶対にないというので高い入場料を払って入るのは止めることとした。山崎君も24年前に1度入っているので入らないと言った。ジョカン寺、ノルブリンカも一切の撮影を禁止されていた。

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ラサの中心地から西へ8キロメートルほど行ったウェツ山の中腹にあるセラ寺の問答修業。1419年創建のゲルク派の寺院。ツォンカバの高弟によって建てられた。最盛期には5500人もの僧侶たちが修業に励んでいた。矢島と同時代に河口慧海や矢島と親しかった多田等観もこの寺で修業していた。午後3時から5時までぶっ通しでおこなわれる問答は、若い僧侶たちの甲高い声が響いていた・・・・・・・・。

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ラサの象徴ともいえるポタラ宮殿の全景。歴代ダライ・ラマの宮殿で、その規模は高さ115メートル、東西360メートル、南北300メートル、総面積は41平方メートル。1994年にユネスコの世界遺産に登録された。建設は7世紀に始まったといわれるが、その中心部分はダライ・ラマ5世の時代、17世紀中期から始まっている。西日に照らされて白亜の宮殿になった・・・・・・・。

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5月14日朝、ラサを発つので、前々日の12日に、ガイドのローサンとドライバーのジュンペイのご苦労さん会を開くことになった。重慶名物の「火鍋」が食べたいというので、ラサで一番美味しいという火鍋料理の店へ。そこで大いに盛り上がった後、ローサンは小さい子どもと会うために帰ったが、ジュンペイは家がラサでないため、まだ飲みたいというので「君がよく行く店へ行こう~!」と僕と山崎君と烏里君と4人で繰り出した。そして連れて行かれた所が上の写真の店。これは僕らが案内された一つの部屋であってこんな部屋いくつもある。女性は全部で420人いてさまざまな民族の女性がいるという。僕らには5人が付いた。というよりも自分の好みで選ぶのである。そしてひたすら飲み、歌い、踊る・・・・・・・。畳4~50畳ほどの広さだ。トイレなども完備され、巨大なスクリーンのカラオケがついている。ビールは5~60本空けたろうか。生花やつまみなども次々に売りに来るのだ・・・・・・・・。勘定のことが心配になてきたが、ここはラサ、ジュンペイは本当にこんな店に出入りしているのか! 烏里君もそうとう粘って3割引きにさせたといっていたが、前の火鍋の店と合わせて7000元支払ったという。日本円にすると約10万円強だ。僕と山崎君も少しカンパすることにした。でも烏里君もドライバー君も山崎君もとても楽しそうだったので、こんなこともあってもいいかなあ・・・・・・と思ったりもしたのである。 しかし、この出費は痛すぎた・・・・・・・・。明日からラーメン暮らしだね。

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ラサ川の対岸の山に登ってポタラ宮を撮った・・・・・・・。白い大きな建物がポタラ宮殿。

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チベットの太陽は、近いせいか灼熱のように熱い。家々の前には不思議な光景があった。太陽熱を集めてお湯を沸かしているのである。どのくらいで沸騰するのか興味を持った。 

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ラサを離れる前にどうしてももう一人の人と会っておきたかった。それはソラドジさんとは母方の従兄弟にあたるツーベムさん(64歳)だ。30年前に亡くなった彼女の母親がソラドジさんの母と姉妹にあたる。実はこのツーベムさんはガイドのローサンの母親なのである。家に招いてお茶や手作りの菓子でもてなしてくれた。1時間ほどのインタビューの後、一緒に写真を撮らせていただいた。何か上州の母方の伯母さんたちに雰囲気が似ていて懐かしくなった・・・・・・・。

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チベット軍の騎兵隊か、矢島保治郎が最初にチベットに騎兵隊を創設したのだが・・・・・・・。ホテルの僕の部屋に飾られていた写真をコピーした。

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ガイドのローサン(左)と運転手のジュンペイに僕らで気持ちお礼をした。漢字で書くと二人の名前はこうなる。

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ラサを発つ前日の13日、突然僕のホテルの部屋にソラドジさんが従兄弟のツタンゾウカさん(38歳)とともに訪ねてきてくれたのには驚いた。烏里君のノートパソコンに、ノブラーや矢島の写真が入っていたのでみてもらった。そしたらノブラーの写真を指差し「母や伯母たちに面影が似ている・・・・・」と持ってきた写真を見せてくれた。日本にいる親戚の矢島仲子さんへのおみやげや写真を託された。僕らにも一人ひとりにおみやげを持ってきてくれた。感謝の気持ちで一杯である・・・・・・・・。帰り間際には僕の手を握って何度も僕の額にソラドジさんの額を付けて別れを惜しんだ・・・・・・・。  合掌

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5月14日、午前8時10分発、青海海の西寧までの約24時間、1950キロメートルの列車の旅である。一人796元だが軟座の個室2段ベットである。トイレも直ぐ近くにあり、隣の車両はレストランであるいい部屋であった・・・・・・・。

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標高5000メートルを超える土地をひたすら走る。雪になった場所もあった。まだ残雪が多くあった・・・・・・。

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この川の上流、もう間もなくで黄河の源流だ。

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夕暮れの大地を野生のロバたちが餌を探していた・・・・・・・・。

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ラサから走ること14時間、青海省のウルムドで夜の10時、ようやく暗くなった。それまでの間、烏里君は食堂車でよく飲んでいた。僕は眠ったり、こうして車窓から風景を眺めていた。そのほとんど土地は人間が暮らしていない土地。野生のヤクやロバなどが群れをなしているばかりで荒涼とした風土であった・・・・・・・。

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早朝、西寧に着いた。ウイグル族の料理で腹ごしらえをしてからバザールへ行ってみた。十数年ぶりの西寧の街は大きく変わっていたが、何か懐かしい匂いがした・・・・・・・。

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午後の飛行機で西寧を発ち、夕刻北京に着く。見渡す限り高層ビル群だ。

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北京ダックが旨い店に行く。烏里君の四川藝術大学時代の友人も呼ぶ。油科には11人の同級生がいたというが、そのうち7人が現在、大学教授で残りは4人のうち一人は酒造会社の副社長、2人は画家、そして写真家の烏里君・・・・・・・。彼は画家、絵だけで生活をしていると言う。全紙ぐらいの大きさの絵が1点150万円ぐらいで売れると言っていた。ぜひアトリエに遊びに来てくださいと誘われた。今度機会があれば彼の絵を見てみたいと思った・・・・・・・。

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もう一軒行った。北京の歌舞伎町みたいな所なのか、道路にテーブルなどが広がっていて、欧米人も多い。外からガラス張りになっていてダンスなどのショウーが見れるようになっている。生演奏のライブハウスもあった・・・・・・・・。これが中国の北京かと正直ため息をつく・・・・・・・・。

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最後はギターの流しのお兄ちゃんを呼んで生で歌ってもらった。中国最後の夜だからと午前3時頃まで飲んでいたような記憶があるが定かではない。無論もう高山病に苦しまなくてもよくなった山崎君も付き合ったのは言うまでも無い・・・・・・・・・。

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最後の日は、タクシーで北京市内を廻ってみた。何故かイトウヨウカ堂に入って、吉野屋の牛丼で朝飯とした。宿泊していたチベット自治区政府の北京事務所が運営しているチベットホテルで、経理を担当している劉さんに昼食をごちそうになった。彼女はこのホテルの役員をしている。「このホテルのなかにも直営の旅行社があって今年はヨーロッパなどから多くのチベット旅行の申請を出したが一本のツアーも許可されていないのです。何故あなた方は入れたのですか?」と不思議そうに聞くのだった。僕の方が逆に、 「チベット政府直轄の旅行社が申請しているのに何故許可が下りないのですか」と訪ねると「解りません・・・・・・・」と微笑むのだった・・・・・・・・・・・。

これで長い長い「矢島保治郎の足跡を辿るーチベット6010キロメートルの旅」はお終い。お付き合いいただきありがとうございました・・・・・・・・。  合掌

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チベットの山嶺が雲の間から見えてきた・・・・・・・。  2012年4月28日午前中、成都からラサへ向かう上空より撮影。

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今朝は5月5日。朝から快晴、日本では「こどもの日」だ。今日からまったく気候風土がことなる中央チベットから西チベット方面へコースを取る。僕の部屋から撮影。チベット南東部へ来てから6日目。

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途中、約100年の歴史を持つ、名刹ラマリン寺へ寄る。1966年に文化大革命により破壊されたが1987年に再建された。地元の人たちがたくさん出て、寺の周りの掃除などをしていた・・・・・・・。

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チベットを貫流する大河・ヤルザンポ川にそってさかのぼる。川向こうにあるウー・ツァン村はダライ・ラマ13世の生誕の地だ。菜の花が風に揺られていた。矢島保治郎と深い信頼関係で結ばれていた法王の出身地だと思うと感慨深いものがあった・・・・・・・・・。

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舗装されていない道が延々と続く。この日は486キロメートル走った。夕日が迫る標高4910メートルの布丹拉山にようやく到着した。午後8時を廻っていた・・・・・・・。

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以上の5点の写真は、布丹拉山 (4910m)で撮影。タルチョーに夕日が当たり、風にはためく・・・・・・・。周りには標高6000メートル級の雪山・・・・・・・。タルチョー(祈祷旗)だけでも絵になる光景である。 

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烏里君が撮影してくれた。遥か茶褐色の大地に沈んでいく太陽を受けてカメラを構える僕で~す!!☆

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宿に着いたのは夜10時を廻っていた。遅くなったので予定を変更してツェタンに泊まる。ホテルがなく捜し歩いていたら1時間ほどたってしまった。遅い夕食をとった食堂で。四川省から出稼ぎに来ている女性。

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以上の5点の写真は、ツェタンから南に12キロほど行った小高い山の上に建つユブム・ラガン。標高は3750mほどであった。チベットで最初に建てられた宮殿としてしられている。紀元前一世紀前後にこの地を治め、チベット初代王となったにャティ・ツァンポが建てた宮殿だと言う。町を一望できる見晴らしの言い場所だ。途中、巡礼者と一休みする。旅の最中何度も「あんたはどこのチベット人か?」と聞かれたことか・・・・・・。

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僕らは最初にも書いたが、この取材を示実現するにあたり、チベットの人民軍、公安局、外事局、旅遊局の許可を取得していたにもかかわらず、何十回も検問で止められた。この日は特にひどく、数キロおきに検問に引っ掛かった。パスポートを提出せられて本人確認をさせられた。前の定期バスの乗客も一人ひとり降ろされて身分証明書を提示させられていた・・・・・・・・。

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夕暮れの峠で出合った少女たち。4000メートルから4500mの所を走っているので、何処が峠かはっきりと判別できない。丘のようだったりして、5000メートルといっても500メートル程の違いであり、あまり峠という感じがしないのである。

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矢島保治郎が都合3回通ったヤムド湖。矢島も「美しい湖・・・・・・・」と記しているこの湖は本当に美しかった。夕暮れ時の午後9時過ぎに湖畔に行って撮った。また満天の星空も撮りたくて真っ暗になるまでねばったが、ちょうど満月の日であり、月明かりのため思ったほどの大銀河は見れなかった・・・・・・・・。湖の対岸の雪山の連邦は標高7200メートル以上のリンジンカンザだ。

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大きな氷河あった峠だったが、名前は忘れてしまった・・・・・・・。トイレタイムに寄ったことだけは覚えている。

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峠を下るとまたエメラルドブルーの湖が広がっていた。この湖も矢島は3度見ている。最後は妻のノブラーと子どもの意志信を伴って湖の辺の道を歩いた・・・・・・・・。

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タルッエンドの町で夕食を取ったレストランのチベットの娘さん。全員おしゃれな征服を着ていた。

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タルッエンドからダージリン、今はインド領となっているがその国境に向かって30キロメートルほど行ったカンマルの風景。早朝出かけたので公安の検問を突破してきたが、ここの検問所で外国人は追い返されることとなった。烏里君とチベット人運転手のジュンペイと僕と山崎君とガイドのローサンとの2組に分かれることにした。烏里君たちは、矢島が通った道をトモまで進み、国境近くまで行くことにした。明日の午後まで別行動となった。 

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矢島の妻・ノブラーの現在のファミリーの父方の実家であるハツラ荘園。300年以上続く王族の血筋を継ぐ貴族の家。現在の当主は、ダライ・ラマ14世とともに亡命しているという。ガイドのローサン君の家も遠い親戚にあたる。ちょうど改修中で6月まで中には入れないと張り紙がしてあった。ギャンゼとシガッエの周辺は、ヤルッザンポ川とその支流で土地が良く肥えており西蔵一の豊かな土地であるため、昔から栄えていた。

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14世紀に建てられたギャンツェ・ゾンは現在、改修中であった。この山城でチベット軍とイギリス軍との間に戦いがくり広げられたのが1904年のこと。矢島が入蔵するわずか7年前のことである。この町のどこからでも見えるシンボル的な存在だ。

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ギャンツェ・ゾンから見る町と白居寺(左側)。

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城下町となるギャンツェの古い町並。どこからも正面にツォン山の山頂に築かれているギャンツェ城を見ることができる。

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生活感漂う街で道端でチャン(チベットのどぶろくみたいな酒)をツァンパ(大麦を炒って粉にしたもの)をつまみに飲んでいた。僕にのめのめと勧めるのでいただいた。ネパールでもよく飲んでいるので懐かしかった。ツァンパもいただいた・・・・・・・。

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白居寺ことパンコル・チョーデンは、1418年にギャンツェ王らによって創建された古刹。本堂の阿弥陀如来像。最初の写真はパンコル・チョルテン。8階13層で高さは34メートルもある仏塔だ。

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ひたすら五対投地をくり返す女性の巡礼者(白居寺で) 

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白居寺でガイドのローサン君の学校の同級生だという女性に会った。彼女も英悟のガイドをしていると言う。笑顔をさわやかな女性だった。その後、シュガッェのセラ寺でもバッタリ会った・・・・・・・。 

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白居寺の境内の木陰で一休みしていたら地元の子どもが来たので、一緒に記念写真を撮った・・・・・・・。

 弟2回目は、チベットの南東部にあたるニンティ地区を中心に報告する。本来はチャムド地区にも入りたかったが、どうしても許可がおりなかった。それだけでなく昨年9月に取材した、康定、理塘、巴塘、丹巴などの四川省に属するカンゼチベット族自治州も一切の外国人の立ち入りを禁止しているのだ。チャムド地区の境界線ぎりぎりまで行き、102年前に矢島が通ったであろう道へ思いを馳せてシャツxターを切った・・・・・・・。

この地区は、中国でも最も美しく、長い国道として知られる川蔵公路のハイライト。標高7782メートル、7000メートル峰では世界で一番高い山、ナムチャパルワ峰をはじめとした6000メートル級山々に囲まれた渓谷である。ヤルッアンポ川をはじめとした幾筋の激流が深い谷間を形成している。チベットの中でも標高は比較的低く平均は約3000メートルだ。ヒマラヤ山脈がとぎれるため、インド側からのモンスーンの影響を受け、降水量は多く、それによって地区の40パーセントが森林地帯である。僕らはこの地に5日間泊まって、小さな村々を訪ねたり、山へ登ったりしてのんびりと過した。 

僕はラサでの高度順化がうまくいって2日間ほどで、後は普通に酒も飲んでいたが、同行の山崎君は、高山病と下痢と嘔吐をくり返していて、この後ラサまでその症状は完治しなかった。しかし、昨秋の経験もあり、高山病対策は万全を期していたので、前回みたいに寝たままという状態ではなかった。とにかく無理をしないように、ゆったりと撮影するように心がけたのである・・・・・・・・・。

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山桜にた桃の花が、氷河がある山の前で咲いていた・・・・・・・・。

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ポミを過ぎた所から公安の署長がパトカーで先導してくれれることになった。何でも前回来たときに烏里君が友達になったのだという。このときばかりは検問はフリーパスであった。

 

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以上の7点の写真は、すべてミティ氷河の麓にあるミティ村で撮影。標高3800メートルの周りを氷河に囲まれた谷間にある村。現在は27世帯、125人がくらしている。1988年の大洪水の被害にあうまでは、70崇世帯あったというが、このときに多くの家々が流されて村を去っていたという。この村から馬で2時間ほどさらに山に入った所がミティ氷河だ。僕らが着いた時に、急に雪が激しく降りだし、雪崩の危険があるのでいけなくなってしまったのである。村は昔ながらの面影が残り、静かであった。おそらく矢島が訪れた102年前もこうした村々が広がっていたのだろう・・・・・・・・・。畑は春耕の準備が整い黒黒とした沃土であった。

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ミティ村に向かう道。矢島がラサに向かって歩いた道もこんな道であったのではないかと想像しながらシャツターを切った・・・・・・・・。

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ニンティ地区とチャムド地区の境界線。深い渓谷を削って作られた細い道が続いていた。矢島はこの道を四川省から通ってチベットに入ってきたと思われる・・・・・・・・。

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国道318号の川蔵公路沿いには、石楠花が色とりどりの花をつけていた。エメラルドブルーのハーロンザンポ川と氷河が間近に迫る・・・・・・・・。

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 この道も矢島保治郎がラサに向かって歩いた道・・・・・・・・・。

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ポーミ県は人口4万人程度。川蔵公路の行く手にはクイチャ山。ニンティ地区の東部を走るカンリンカ山脈に連なる峰々である。

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ニンティ地区滞在4日目。朝から晴れ渡った。宿泊先のポミからすぐに140キロほど山道を入ってガロン・ラ峠へ向かった。辺りは5~6000メートル峰々で氷河直ぐ目の前まで迫る。雪崩も何度も見た。その轟音たるや辺りの峰々に木魂して不気味であった。しかしその音が静まるとあたりはまた静寂に戻り、風がタルチョーをはためかす音とせせらぎの音のみでまるで極楽浄土にでも誘われたのではないかと思うほどであった・・・・・・・。

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忽然と現れた白いタルチョーは死者を弔うものだという。その前でみんなで記念写真を撮らせてもらう。

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約4000メートルの工事中の長いトンネルを抜けるとそこはメイドという小さな村だった。僕がジョークで「トンネルを抜けるとそこは冥土であった・・・・・・・」というとチベット人にはやはりちっとも受けなかった。

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僕らの頼もしい足となったトヨタ自動車のラウンドクルザーと同行の仲間たち。

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この地方へ来てはじめての朝からの快晴。さっそく泊まっていたポミからガロン・ラ峠に向かった。道は工事などの連続でひどかったが、周りの峰々からは目前まで氷河が迫る光景の連続であった。

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ポミ郊外の山の中腹にあるチベット仏教の名刹。庭でラマ僧たちが語らっていた。

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いま中国全土で、若者たちのサイクリングが流行っていて、それはチベットも例外でなかった。一人の者もあれば、グループで走っている者たちもいた。とにかく想像を絶する悪路を走る続けるだから、中国の若者たちも根性があると感心した。僕も中学生から高校生の頃は、自転車の旅をずいぶんとしたものであるが、それは日本でのこと。広大な中国大陸やチベットとは訳が違う・・・・・・・・。

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煤で真っ黒になったやかんをぶら下げてトボトボと道を歩いてくる老人とあった。歳を尋ねると僕と2歳しかかわらない。彼は山火事などを発見して初期消火する仕事を持ったひだという。だから簡単な消火器を背中に背負っていた。一緒に写真を撮らせてもらった。懐かしい煙の匂いが体中からプーンと漂ってきた・・・・・・・・。

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松宗鎮。周りを氷雪の峰々囲まれて、村には山桃や杏の花が咲き乱れてまるで桃源郷のようであった・・・・。

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チベットのどんな小さな町に行ってもこのように様々な果物が並んで売られているのには驚きであった。(ポミで)

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ポミの町で夕食に入ったレストランで、久々に優しい女の子と会った。カメラを向けるとVサインをしてニッコリと微笑んでくれた・・・・・・・。

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夜、宿の部屋の鏡に向かって自写像を撮る。顔は日に焼け、浮腫んでもいる。まだ高山病が完全には治っていないのだろうか・・・・・・・。

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4日前に通った標高4700メートルを超える色季拉山峠のタルチョー(祈祷旗)が雪のなかで風に打たれて鳴っていた。天風火水土を表した五色の旗の一つ一つには経典が刷られており、それが風になびくたびに経典を唱えたことになるのである・・・・・・・・・。  合掌

 今年生誕130年となる上州の探検家・矢島保治郎が102年前の1910年に世界で初めて中国・四川省から当時鎖国状態にあったチベットに入蔵したルートを辿る取材をはじめて6年、今年の8月をふくめると計8回、のべ走行距離は30000キロメートルを超える。4月27日から5月16日までの20日間の今回の取材はその核となるもので、チベット・青海省で6010キロメートルを走った。一部許可の下りなかった東チベット・カム地方のチャムドとインドとの国境線のヤートンをのぞいて矢島が歩いたコースを巡ることはできた。 

さらに矢島とチベット人の妻・ノブラーが暮らし、一子、意志信が生まれたノルブリンカやノブラーの実家があった場所、ラプランニンバータラを探し、その当時の建物を確認した。さらに奇跡的であったが、ノブラーの家族であるデンバ一族の人たち4人とも会い、お話を聞き、ノブラーの存在を確認できたことはこの旅最大の収穫であった。このことは、今後おいおいと書くことにする。写真も撮っているので紹介したいと思う・・・・・・・・。

4月27日、旅のはじめからハプニングではじまった。まず、早朝5時半にいつものタクシー会社に迎えにきてもらい羽田までのリムジンバスが出ている駅まで送ってもらう。そして予定の5時50分発のバスの時刻表を確認したら、何とその時刻のバスは無く、すでに20分前に出ているではないか。次は6時40分となっていた。「馬鹿な・・・・昨年3回も乗っているのだ」しかし無常にも今年になって改定されたらしい。仕方ないので羽田までタクシーで行くことにした。バスは1500円だが、家まで迎えに来てもらった分を足すと約18000円の出費となった。この後、次々とハプニングは襲うが・・・・・・・。ここでふれているとそれだけで長文となってしまうのでやめておく。結局僕は、今回同行してくれる写真家の山崎政幸君と烏里烏沙君の2人が到着するまで約2時間空港で独り待つはめとなったのである・・・・・・・・・。 

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それでも羽田ー北京ー成都はほぼ定刻に飛行機は飛び、中国時間の午後7時前には四川省の省都・成都空港に着いた。空港には烏里君の友人の中国国際航空の役員をしている王さんとクルージングを中心とした旅行会社を経営している女性が迎えに来てくれた。さらに美味しい四川料理までご馳走になってしまった。旅の初日で朝からハプニングに見舞われたが、この一件で帳消しかと思われたが・・・・・・・・。

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翌日の早朝、成都を立ち空路・チベット自治区の都・ラサへ。途中窓からチベットの雪の山々を撮影していたため、空港に着いた時には軽い高山病にかかったらしくしばらく地べたに座り込んでいた・・・・・・・。とにもかく にも十数年ぶりのチベットの地への弟一歩!!

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僕らの宿の前にある大型スーパーでは、イベントをしていてたくさんの市民が集まっていた。街はずいぶんと活気にあふれ、建物は新しくなり、僕が取材に来た十数年前とは隔世の感があった・・・・・・・・。

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街の通りで売っていたスイカ。中国のどこもまだできていないのに、標高4000メートル近いこのラサで収穫していることに驚く。そのほかだいたいの野菜、果物なんでもビニール栽培で作れるようになったと言う。

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宿で少し休んでからジョカン寺(大昭寺)とその周辺の八角街へ行ってみた。山崎君は高山病を心配してカメラを持たないででかけたが、僕は今回はじめて使用する二コンD700とこのブログに使うために、シグマDP1Xを持ってでかけた。日本人観光客をはじめ、外国人はほとんどいなかった。あらゆる所に立ち、集団で俳諧しているのは武装警察だった・・・・・・・。

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ジョカン寺前で五体投地をして祈る人々の姿は変わっていなかった・・・・・・・・。敷かれた石が磨きこまれたように光沢を放っていた・・・・・・・・。 

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ひらすらに祈りを捧げる女性・・・・・・・・。ジョカン寺は7世紀中期に創設されたチベットの中でも一番の古刹。

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ジョカン寺に向かって祈りを捧げるチベットの人々・・・・・・・。

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異様な迷彩服で銃器を持って祈りの道を徘徊する武装警察・・・・・・・・・。カメラを向ければすぐに没収される。僕も危うくやられそうになった。細心の注意を払って撮影をした・・・・・・・。

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八角街の通りには小さな屋台の店が何百と並んでいた・・・・・・・。

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チベットの食堂では、日本で言えば「流し」の歌い手がどこにでもいる。ただし生でなく、電気でギターやマイク使って歌うため煩い。しかし、烏里君に言わせると中国人はみな煩いから拡声器を使わないと聞こえないのだと言う。日本の1970年代のフォークソングのようでもあった。

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僕は「足洗い」が好きで中国に来たときは必ずしてもらう。前日成都のホテルでやってもらったが、これがひどいもので、今までのなかでも最低。まったくそのためのトレーニングをしていない正にど素人。気分が悪かったので改めてラサで挑戦してみたのである。当りで非常に技術が高く、満足した。値段もサービスしてくれ、さらに小雨がぱらついていたこともあったのでか、僕の手を握って階段を降り、なんとホテルのロビーまで送ってきてくれたのである。 写真は足の爪を切って貰っている所で^~す。

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翌日からいよいよチベットでの本格的な取材の開始。まずは矢島と結婚したノブラーが特別なダライ・ラマ13世の計らいで住むことを許されたノブルリンカ宮殿へ。この宮殿はダライ・ラマ7世が1740年に造園をはじめたもので、広大な敷地に大木の樹木が多い繁り、たくさんの花々が咲き誇っていた。ここで2人は一子である長男・意志信を生んだのである。歴代ダライ・ラマの4月から9月までの夏の離宮であるこの宮殿のどの建物に矢島とノブラーが暮らしていたかは不明である。

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ダライ・ラマ14世も夏を過した「タクテン・ミギュ・ボタン」離宮。1956年に竣工されたこの建物はノルブリンカのなかでも一番の見所である。

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ジョカン寺を取り巻くように広がる八角街に面した場所にあるノブラーの生家。いまは人に貸しているが、以前は家族が住んでいた。ジョカン寺の正面に向かって右側の繁華街の一等地にあった。

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ノブラーの生家の中庭。ノブラーが生まれた家は、ダライ・ラマが法王を務めるチベット仏教・ゲルク派の創始者ツォンガバの末裔である貴族だったことがわかった。この家も祖先がゾンガバから褒章として譲り受けたものだという。ツォンガバもしばらくここに住んでいたという。 

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建物の柱などには、かっての美しい装飾がまだ残っていた・・・・・・・・。

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ジョカン寺から広場とポタラ宮を望む。右側の岡に聳えるのがポタラ宮殿。

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僕の助手をかってでてくれたチベット人のローサン君(37歳)と写真家の山崎君。ジョカン寺で。実はこのガイドとして協力してくれたローサンの母親がテンバファミリィーの血を継ぐ人だった。そこから今回のノブラーの家族の消息がつかめたのである。

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ジョカン寺の内部。幾重にも回廊のようになっている。巡礼者と中国人観光客が引きを切らない。

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ジョカン寺広場で。ラサ滞在中に1416年に創建されたデプン寺にも行ってみた。ここから西北へ12キロほど行った山の中腹にある。矢島の文章にも記述が残る寺だ。 

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一日日程を早めてラサを発った。102年前に矢島がラサをめざしてきた道を逆に辿る道程である。昨年秋に四川省の成都を出発して康定、理塘、巴塘と来て、長江の上流である金沙江で引き返したが、今度は逆に金沙江のある東チベットをめざして走る旅である。途中、ラサから50キロほどのワンポル山に建つガンデン寺に寄る。ゲルク派の創始者・ツォンガバが1409年に創設した古寺である。 

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矢島が歩いた道・・・・・・・・。現在は川蔵公路となっている。

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最初の峠は、標高5130メートルのメラサン峠。雪と風で帽子も手袋もしないで20分ほど撮影していたら指先が痛くなってしまい、後でマッサージして戻すのに苦労した。

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辺りの山々もみな一面雪景色・・・・・・・・。ヒャ~寒いよ~。

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一端3800メートルまで下って一休み。今回の旅のメンバー紹介。右からイ族出身の写真家・探検家の烏理烏沙君、ドライバーのチベット人、僕の倅と同じ呼び名のジュンペイ(31歳)、ガイドのローサン、長崎在住の写真家・山崎政幸君で~す。この5人と僕とで今回の旅は通した。この道も矢島が通った道・・・・・・・。

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翌日の5月1日も昨日山は雪だったらしく樹木みな雪化粧で美しかった。標高4500メートルのセチラサン峠は雪で真っ白だった。

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ニンティに入ると山は緑が深く、川は清流、渓谷が続く。チベット自治区のなかでも信じられないような森林地帯だ。モンスーンの影響も受け降水量も多い。南側をヤルッアンポ川が流れ、高低差が5000メートルの大渓谷を作っている・・・・・・・・。

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道の傍らに無数のタルチョーが張り巡らされた場所があった・・・・・・・。

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無地のタルチョーは死者を弔う場所に立てるという。この近くにはチベットで唯一おこなわれている樹葬が見られるという。幼くして亡くなった子どもたちを大きな木にくくりつけて埋葬するやり方だ・・・・・・・・。この道も矢島が102年前に通ったかと思うと胸が熱くなる・・・・・・・・。ラサを発って3日目、940キロメートル走った。

 4月25日以来、23日ぶりのブログの更新、大変ご無沙汰しました。実は西蔵ことチベットへ取材に行っていました。今年生誕130年となる上州の探検家・矢島保治郎の記念事業の一環として今年11月に開催される展覧会をはじめとした事業を成功させるために敢行した旅であった。中国政府のビザはもちろんチベット自治区政府の軍区、公安局、外事局、旅遊局の4部門の許可書を取ってようやく入れた取材だった。これは奇跡に近いことで、日本をはじめ、欧米の観光客のツアーのほとんどは許可がおりていないのが現実であった。

当初は許可が下りていた地域も現地に入ってから許可が取り消された地域もあり、大変な取材となった。検問に継ぐ検問、パスポートの提示はもちろん何度も呼ばれて本人確認をさせられた。その数は数十回、22年間中国を旅し、5万6000キロメートルにおよぶ取材をしてきたが、こんな経験ははじめてのことであった。

今回の取材には、都内在住の中国の写真家であり探検家でもある烏里烏沙君と長崎在住の写真家・山崎政幸君の2人が同行してくれた。高山病や下痢、胃腸炎など苦しんだが何とか3人とも無事に帰国することができた。さまざまなエピソードがあったが、明日から数回に分けて写真を中心に報告していきたい。どうぞご期待ください・・・・・・・・・・。   合掌 (オーマニ・ペイメイホン)

 

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 チベットを象徴するポタラ宮殿を背景にして(ラサ市内)

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 まだチベットが統一されていなかった時代の初代西蔵王の宮殿で。標高3750mの岩山の上に聳えていた。旅の安全を祈願してタルチョー(祈祷旗)を奉納した。

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 メラサン峠(5130m)をはじめ、5000m級の峠はいくつも越えた。標高4500m以上は氷雪だった。雪が降りしきる峠も多かった。2度越えた4500mのセチラサン峠で。

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 1419年創建の色拉寺の入り口のマニ車を旅の安全を祈願して廻す。

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夕暮れの布丹拉山(4910メートル)に立つ。午後8時を廻っていた。写真家の烏里烏沙君が撮影してくれた・・・・・・・。

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