3月10日、今年はこのまま雪は降らないで春を迎えるかと思いきや降った。家の周辺でも7~8㎝は積もった。この日はあいにくの歯医者さんへ行く日、バスと歩きでなんとかたどり着いた。確か数年前にも歯科医へ行った日に大雪に見舞われた記憶があった・・・。
治療が終えて家路へ向かう途中に、先ほどの母子が作ったのか、小さな雪だるまが誰もいない公園に、ひっそりと立っていた。
まだ夕方前の4時過ぎだが、体が冷えたので駅前の焼き鳥屋で一杯やった。お客は僕の他は一人だけ、入口の窓ガラスからは、しんしんと降り続く雪と家路を急ぐ人びとの姿が見えた。まるで雪国で呑んでいるような気分であった。
僕の短歌の師であり、石川啄木研究者としても知られている歌人の碓田のぼる先生に20数年ぶりにお会いした。この2月5日で95歳の誕生日を迎えたというのに信じられないほどかくしゃくとしてお元気だった。亡くなった母と同じ歳である。僕が20代の頃、写真が撮れなくて短歌をしていた頃にづいぶんとご指導いただいた。そしてフリーランスの写真家になってからも何かと奥様ともどもにお世話になった。その折の感謝の気持ちはいまも忘れていない。先生いつまでもお元気でいてくださいね・・・ 合掌 ☆啄木 多喜二の火を継ぐ決意胸にたたみ吹雪の津輕野面上げて行く 健一 (僕が20代の時に詠んだ歌)
2月11日にお茶の水の神田明神のほど近い場所で開かれた「小林多喜二没後90年文学のつどい」に先生が参加するというので僕も出かけた。ぜひ、お会いしたいと思ったからである。数年前から会おう、会おうと互いに言いつつもコロナ禍などもあり実現できなかったのだ。「つどい」は満席で、コロナ禍で入場制限もあり、入れずじまい。終了予定時間を1時間もオーバーしたが、寒いロビーで待っていたのだ。ちなみに多喜二は1933年の2月20日に特高警察の拷問により虐殺された。まだ29歳という若さだった。この時期、全国で多喜二を偲び、多喜二の意志を継ごうという「つどい」が計画されている。左手は歌人の大津留公彦さん。文化団体連絡会の事務局長、新日本歌人協会の常任幹事を務めている。碓田先生とも旧知の仲だったので同席したのだ。僕は会ったのははじめてだったが、1970年代初めから短歌を通じて名前だけは知っていた。同世代だった・・・。
12日、春の日差しが降り注ぐ快晴の日曜日。写真家の眞月美雨さんにどうしてもと誘われて付き合う羽目になって、芝にある東京プリンスホテルで開催される旅行社のイベントへ出かけた。彼女が取材を計画している海外の資料などを集め参考にしたいのだという。各国の料理や飲み物などが招待者は無料でいただけるのと、各国のブースでは資料などをそろえ相談に乗っていた。僕は余り興味がなかったのでフランスとトルコ料理を食べながら舞台で繰り広げられるハワイのフラダンスなどを見ていた。
青山学院大学のフラダンスのサークルなどが次々に軽やかに踊っていた。
ホテルのロビーで、眞月美雨さん。

僕も一応撮ってもらった・・・。
イベントの方は一時間余りで退席して、ホテルの隣にある浄土宗 大本山増上寺へ参拝に行った。
いま、NHKの大河ドラマで始まったばかりの「どうする家康」と関係する徳川将軍家霊廟がオープンしていたので入場した。昭和20年の空襲で焼け野原になってしまったが、それでも二代将軍秀忠をはじめ6人の将軍、皇女和宮など5人の正室など多くの人たちが埋葬されていて、厳かな雰囲気が漂っている。正面には東京タワーが聳え立っていた。
現・徳川将軍家墓所門(元文昭院殿(6代家宣公)宝塔前中門・旧国宝)前で。
増上寺本殿前で、撮影していたカナダ主催のミスコンテストのファイナルの彼女と記念写真を撮る美雨さん。
僕も記念写真を。マネジャーさんが撮ってくれた。「がんばってね~!♡☆」と握手を交わして別れた・・・。
増上寺正面の三門。
三門の通り沿いにあった居酒屋に入った。炭火で焼く串焼きがメインだが、牛刺しがあったので注文した。久しぶりに食べたが美味であった。
うなぎの串焼きもあったので注文。一串360円なり、まあまあかな。酒は民衆の酒・ホッピーの焼酎割り。