写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2010年10月アーカイブ

 

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昨日、12月中旬のような寒さのなか、都内の新橋へ行った。僕が同人になっている「一滴会」の第112回俳句会がおこなわれるからだ。この日は中原道夫講師のほかに同人16人が参加した。いつものように1人3句投句したなかから全同人が1人7句選びうち1句を特選にする。最後に中原講師が入選句、佳作句、そして特選句5句を選んでそれぞれの句に選評をしていくと言うのが、句会のながれである。僕は先日訪れた土佐を題材に次の3句を投句した。当日に詠み新橋へ向かう電車の中で推敲したので自信は丸でなかった・・・・・・。

紙漉の彼方に透けし土佐路かな (特選)

脱藩の道毬栗の多かりし     (佳作)

無月なり水平にらむ龍馬像    (入選)

と言う中原道夫選の結果であった。前回に引き続き特選句に選ばれたことはとにかく良かった。もっと精進せねばと思うのだが、いつも句会の前になって慌てて詠むという状態がつづいているのだ。先師の高島茂先生が生きておれば当然お叱りを受けることは言うまでもない。先生は僕にいつも言っていたのは「とにかく続けなさい。どんな句でもいいから詠み続けることが成長につながるよ・・・・」であった。本格的に句をやりはじめて21年が過ぎる。そろそろ句集の刊行もふくめて前向きに考えていきたいと思う今日この頃である。句会終了後は恒例の中原道夫先生を囲んでの懇親会。岡井代表は体調が優れないので大事をとり欠席したがそれでも10人程が繰り出した。「いそむら」というご夫婦で俳句をしている酒処だ。2次会もやはり俳人が主人をしている「どびん」という瀬戸内の味の店へ。ここで十数年ぶりに「未来図」同人の藤田女史とばったり出会った。彼女はいま、句会を主宰していてその生徒さんたちと飲みにこの店に来るのだという。以前と少しも変わらない美貌であったので驚きと懐かしさでいっぱいになったのだった・・・・・・・。

 

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先日、自宅前の住宅開発予定地での市教育委員会の文化遺跡発掘調査で7000年前の住居跡や9000~2000年前の土器の破片、中世の堀跡などが発掘されたと写真付きでブログに載せたが、一昨日からの発掘でさらに16000年前の人類がこの地で魚や木の実、獲物など狩りをし火を使って食事をしていた跡がつぎつぎと発見されたのだ。地下も地層など調べるために2メートルまで掘り下げていた。調査していた青年に聞くとこの地が当時丘陵の最先端で、直ぐ近くに川や海があり獲物が豊富に獲れたので人々は、この周辺で焚き火をして生活していたのだという。確かにかつては、直ぐ下は谷になっており、沼地や小川が流れていて子どもたちの絶好の遊び場であった。そこにいつの間にか土砂が盛られて駐車所となり、数年して家々が立ち並んだのである。僕の家から200メートルほど下った所には新河岸川がある。調査委員によれば「小松さんの家の下にもきっと遺跡が眠っていますよ・・・・」と言うことであった。僕は記念に

16000年前のいくつか火で焼けた跡が残る石ころを拾った。大きな石など400個あまりは一つ一つビニール袋に入れて持ち帰り調査するという。僕はその残りを同じ土地に暮らす者としていただいたのである。洗ってよく見ると火で焼け赤くなっていたり、黒く焦げていたり、何か石で欠いたような痕跡があったりして興味が尽きない。僕の家には1800年前の中国・三国時代やその前の後漢時代の城の屋根瓦の破片やチベット、ヒマラヤ、南米アンデス、シベリア、ニューギニアなどの石などがゴロゴロしている。何万年もの歳月を黙って愚かな人間たちの営みを見続けてきた石たちが僕は好きなのである・・・・・・・。

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10月23日から新宿の柿傳ギャラリーではじまった友人の高橋芳宣作陶展に行った。この7月に一緒に中国四川省へ旅した友人たちも6人駆けつけてくれ、高橋芳宣さんを囲んでささやかな祝う会を催した。高橋さんは会期を前に仕事場で転び足首を骨折したそうだがこの日は元気な姿を見せてくれた。彼にしては珍しくこの作陶展に寄せる思いを案内状に次のように書いている。「作陶、それは人間が永い歴史の間に大自然の原理を最も巧みに把握して来た創造活動です。・・・・・・」と。僕も彼の作品をこの16~7年間にわたり見つめつづけてきているが今回ほど新作で意欲的な作品が多い展示会はなかったと思う。ぜひ会場に足を運んで手にとって見てください。   ☆柿傳ギャラリー(新宿東口1分・TEL03-3352-5118)

 

 

 

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若い頃は、どんなに飲もうが食べようが胃が痛くなるようなことは経験したことがなかった。しかし最近はときどき胃の痛みやムカつきを覚えるようになった。ここ数日胃のムカつきと鈍い痛みがとれない。一昨日はそういうこともあって僕にとっては数ヶ月ぶりに酒を一滴も飲まなかったのだが、今日も朝から胃が重い。土佐で夜中に突然胃が刺し込み何度か吐いたことがあったが、それからかもしれない。もう齢ということなのかもしれないな。考えてみれば後、2年足らずで還暦を迎えるのだから・・・・・。今日は寒いこともあり、いま安かった玉葱をそのまま大量に使ったスープを作っている。胃にもやさしいスープだ・・・・・・。

さて話は変わるが僕がいまの土地を購入して家を建てたのは30数年前、その頃ののどかな風景はこの10数年の間に激変した。家の前は麦や里芋の畑が広がり、その先は谷になっていて小川湧きでていて子どもたちの遊び場、そしてその背後にはむさし野の面影をのこす林が広がっていたのだ。僕の大好きな散策コースであった。それが今はつぎつぎに開発されて住宅が立ち並んでしまった。小川が流れていた谷も大きな木が繁っていた林もである。そして僕の家の前の畑だった所が駐車場になり、その駐車場が突然宅地開発されることになった。その工事が7月1日から始まることになっていたが、さすがに僕は黙っているわけにはいかなかった。その後、開発する地元の業者や市の建築課や市議会議員などを巻き込んでいろいろな騒動があったのだがここではまだその顛末を書くことはやめておこう。ただ、昨年多くの市民の声を聞き、ようやく開発事業や手続き関する市の条例が施行されたばかりであったが、この条例に違反する疑いがあったので、市の建築課などに厳しく指摘したのである。

その甲斐あってまず、教育委員会が文化財についての調査をすることになった。そうしたら僕の家の前から約7000年前、縄文時代前期の住居跡が発掘されたのだ。さらに9000年前~2000年前の土器の破片、大きな水路と思われる跡などもつぎつぎと発掘されていった。僕はそれをみていて何か大きな歴史的なロマンを感じて写真を撮ったのだった。だってそうではないか、僕が住んでからはわずか30数年だがその9000年前から僕が今住んでいる土地に家族が暮らしていたのである。実はこの辺りは30000年前から人々が暮らしていたという事を証明する石器や火を使った跡などが発掘されているのだ。僕は単純にうれしかった。そして宅地開発工事に対してだまってなくてよかったと思った。もし、文化財の調査がされていなければ、この地に7000年前から暮らしていた人々の歴史が誰にも知られないままに埋もれてしまっていたからだ。少なくとも僕が目撃して写真を遺したし、市の教育委員会でもレポートを作り、発掘された資料は保管されるという。本当に小さな市民の声ではあるがやはりこうした声は大切なことだとつくづくと思ったのである・・・・・・・。

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昨日、10月21日は銀座にある「ギャラリー・アートグラフ」へ行った。「フォトコン」12月号の”小松健一の写真道場”のインタビューのためだ。担当の坂本副編集長はすでに来ていて会場の写真などを撮影していた。このギャラリーは(株)写真弘社が運営している。何故、銀座に写真ギャラリーを作ったのかなどいくつか質問をした。このぎゃらりーの歴史などもふくめて詳しくは11月20日発売の「フォトコン」12月号をご覧下さい。6時からは新宿で新潮社のO編集者と打ち合わせの約束をしていたので、新宿へと向かった。宮沢賢治の本を出版することになっているので、近くまた岩手県へ取材に行くことや本の内容などについて話しあった。新宿歌舞伎町の奥まった路地にある小さな酒場でゆっくりと。この店は前にも紹介したことがあるが、まずは一見さんは入ってこないし、席数も7~8人しか入れないので静かに話ができるのだ。大将も女将さんの20数年来の知り合いだから気兼ねはいらない。Oさんは熱燗をちびりちびりやりながら本の企画内容を熱く語っていた。

彼女が大学を卒業したての新米編集者の頃、僕が連載していた森鴎外の担当だったので、小倉や津和野などにも取材へ行ったものだ。その頃から酒豪だったし、タバコも愛していた。結婚して2人の母親になってもそれは変わらない。「わたしは誰に何を言われようとも好きなものは止めませんからね~」と美味しそうに酒とタバコをのんでいた。打ち合わせも終わったので近くのゴールデン街へ行ってみた。写真家の森山大道さんら多くの写真家が常連客になっているバーだ。「久しぶりですね。どこか外国にいってらしやったの・・・・」とママがいつものように迎えてくれた。大道さんは北海道に撮影に行っているとのことだった。ここはギャラリーにもなっていて、いま展示している作者もいた。Oさんの夫も写真家なので、ママが何回か来ていると言ったので、彼女は驚いていた。軽くやって彼女をタクシーに乗せて別れた。僕は久しぶりの夜の新宿なので昔よく通った新宿西口のいわゆる「しょんべん横丁」の中華の店とジャズバーへ顔を出してから帰宅した。今月は土佐の旅からはじまって少々飲む機会が多すぎた。この日もやはり気心が知れたOさんだったこともあり、ちくっと飲みすぎたようであった・・・・・・。それでもって今日は深く反省をして禁酒デーとしたのであ~る(ちっとも偉くないのに、僕としては勇気ある行動なのだからちょと言ってみたかったのです)。

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一昨日の10月18日、銀座の和光デパートの裏の路地裏で30年間にわたり築地の鮮魚を中心に旬の料理をを手頃な値段で振舞ってきた銀座村の名物・板前の荻久保忠雄さんが急逝された。その荻久保さんを偲び奥様を励ます会が銀座で開かれたので参加した。1980年代後半の頃、コダックの銀座支店長が「小松さん以前、二コンに勤めていて今は居酒屋の女将をしている店があるので案内しますよ」と言って連れていかれてからの付き合いだからかれこれ20数年は経つだろう。銀座村そのものは30年間やったというが、3年前に突然と閉店してしまったのである。僕は銀座で写真展などをやった時は必ず貸切で使っていたし、一人でも銀座に出たときはよく行っていた。大将も女将もそして板さんの荻久保さんも本当に親しく接してくれたのである。僕にとっては大都会の心のオアシスであった。そんな店の板さんの荻久保さんが亡くなられたと常連中の常連が集ったというわけである。世話役のMさんが「小松先生はゲストですので必ず来てくださいね」と連絡をくれたので出席した。3年ぶりでほとんどの人が名前も知らないものの皆あっという間に打ち解けて多いに盛り上がった。盛り上がるのは荻久保さんが何よりも好きだっからである。何から何まで仕切ってくれた世話役のMさんと有楽町駅前の飲み屋でしみじみと荻久保さんへ献杯をしたのだった・・・・・・。

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10月19日朝、夕べの酒が残っている頭に電話のベルがけたたましくなった。布団に入ったまま受話器を取ると写真家の烏里君だった。昨夜、四川省の西南部から戻ったばかりでまた、22日から来月の10日過ぎまでヒマラヤのチョモランマ(エベレスト)の撮影に行くのだが、どうしても会いたいというので池袋まで出かけることにした。12月にフレームマン銀座サロンで開催する「チベット山岳写真協会第2回写真展」へ出品する作品を2点持って行った。烏里君も30点ばかり持ってきて見て欲しいと言うのでそのなかから聖なる山カイラスなど2点セレクトした。その後、彼が旨い中華料理の店に案内してくれて「三国演義」という10年ものの紹興酒をボトル2本空けた。料理の味もよかったので、写真創作の話から日中問題に至るまで2人でじっくりと話した。そしてもう一軒軽く行きましょうということになって、これまた20数年前からの友人である店に行った。店もすでに3箇所変わっているが年に何回かは顔を出す程度の客である。僕が西池袋に事務所を構えていた時代に彼女は店を出したばかりで、僕が暗室作業で深夜になって空腹のときに、おにぎりなどを食べに行ったのがきっかけだった。その頃小さかった3人のお子さんたちはみな成人して一人立ちしているという。ときどき店に手伝いに来ていたご両親も元気で一緒に暮らしていると聞いた。出かけてくる前に弟から電話があり、母が昨日、転倒して頭を怪我して何針か縫ったという。幸い大きな事故にはならなかったが、この夏にも転倒して肋骨にヒビが入ったばかりである。電話をすると声はやけに元気であった。この日、久しぶりに母を歌った曲を2曲歌った。歌いながら独り暮らしをさせている長男の責任を感じて胸がつまった・・・・・・・。

 

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10月8日の第64回高知県美術展覧会の初日には、岡山から写真研究会「風」同人の写真家高田昭雄夫妻とHさんの3人が朝から駆けつけてくれた。100人をこえる人々がこの日の写真部門の作品講評会に参加してくれた。その会をおえてからJRP高知支部の人たちが設けてくれた昼食会へ岡山から来た3人と出かけた。土佐最後の食事もやはり、カツオの刺身とカツオのタタキを大蒜たっぷりで食べた。瀬戸大橋を渡り一路、備中早島へ。岡山での宿泊はいつも高田宅にお世話になっているので今回も甘えさせていただいた。夜はさっそく来年1月に夫婦写真展が岡山市内で開催が決まっている高田夫妻のヒマラヤの写真のセレクトをした。すでに2人は10年前からヒマラヤへ8回ほど取材に行っているの作品としての内容は充分である。高田さんが35~6点、奥さんが26~7点に絞り込んだ。見ごたえのある展覧会となるであろう。高田さんの愛弟子の人も作品をもって来て、彼女の写真も見せてもらった。足の指を骨折したのでその記念にと写真を撮ってやったがおもしろい若い奥さんだなと思った。

翌日は朝から「第1回児島湾岸写真コンクール」の審査を早島町の教育委員会へ行っておこなった。初の試みではあったが思っていた以上の質の高い作品が集まり「金比羅往来をゆく」というテーマにふさわしい展覧会になりそうである。午後から岡山市の国際交流協議会へ。ここで講演をする高木美佳さんにネパール以来7年ぶりの再会を果たすためだ。僕が高田夫婦と会場に入るとマイクをもったまま、「えっ何故?小松さんがいるのですか・・・」と言うので会場から笑い声が起こり、少し照れくさかった。久しぶりにスンダリ美佳の歌声も聞いた。彼女が若かりし頃、15~6年前にカトマンズの町でであった頃を思い出した。夜は早島や玉野、倉敷などから30人ほど集まり、写真セミナーをした。今回で4度目になる。毎回みな熱心で驚く。指導している高田さんの教え方がいいのであろう。終わった後は高田宅でまた写真談議・・・・・。僕はこの旅ですでに5000点近くの写真を見ていることになりさすがに疲れがでていた。

 

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10日は倉敷を中心舞台として幅広く活躍し、昨年亡くなった写真家中村昭夫さんの奥様から依頼のあった2012年度の中村昭夫作品集・カレンダーの写真の選定をした。僕の思うようにしていいということであったので今までの様な風景でなくて、中村昭夫でしか撮れない作品、彼の作品を代表するものということで、「倉敷」に絞った。それでも1000点ぐらいは見せてもらったであろう。中村さんは僕の写真家としての先輩であり、高田さんの師匠である。撮影の多くは4X5の大型カメラと6X9版だ。驚くほどきちんとポジの整理をされていて、いかに自分の作品に愛着を持っていたかが偲ばれ頭が下がる思いがした。4時間程かけてようやく1月から12月までの倉敷の町の表情を選び終えた。夕飯は児島の昨夏にも行った瀬戸内の味が売りの料理屋へ。高田さんのお弟子さんの案内である。ちょうど季節の変わり目なのか、期待ほどの瀬戸の魚の味は楽しめなかった。しかし下津井の真ダコのコロッケは絶品だったので高田さんの奥さんにお土産に包んでもらった。

 

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翌11日は、僕の生まれた蒜山高原の湯原温泉へ行きたいと高田さんにリクエストしていた。連休の土曜日とあって高速道路は渋滞だった。7年前の冬、雪がまだ多くある中、ネパールから僕の家に写真を学ぶためにホームステ―イにきていた青年と訪ねて以来だ。一番最初に訪れたのは35~6年前、僕がまだ20代であった。父が当時日本一の湯原ダムの建設のために、結婚してまもない母とこの地に来てそこで僕が生まれたという。母によれば環境の厳しい所で、生まれたての僕は重い肺炎にかかり一時生死をさまよったという。1年余りで母と僕だけが先に母の故郷上州へ戻ったのだ。当然、1歳の僕はその当時の記憶はない。しかし産湯に浸かった地、体のどこかに郷愁みたいのが染み付いているのも事実である。父が亡くなるまえに病床で「もう一度湯原に行ってみたい・・・・」と言っていたのも忘れられない。母もすでに83歳、「行きたいけれども長旅は自信がない・・・・」と言うようになってしまった。でもこれるのなら連れてきたいという思いはいまもある。

7年ぶりの湯原はほとんど変わっておらず、ひなびた山の湯というたたずまいだ。1950年代まで日本一の巨大ダムといわれ、当時観光用のケーブルまであったというが、今は個人周りとした小さいダムに見える。そのダムサイトの直ぐ下に露天風呂が旭川の岸辺にある。僕はその湯に浸かるのが好きでこの日も1時間近くぼーっと入っていた。57年前に僕が産湯として浸かった湯なのである。何か不思議な安らぎを覚えるのであった・・・・・・・。最終日は早島町長を表敬訪問するというので、高田さんと写真クラブの事務局長のHさんとで出かけ30分程話て帰ってきた。岡山駅で瀬戸内の珍味やアナゴ弁当にビールなどを買い込んで新幹線に乗り込んだ。流れゆく車窓を眺めながら10日間の高知、岡山の旅で出会った人たちの顔を思い返していた・・・・・。(おまえの醜いヌードなど見たくはないぜよ。という方もおられると思いますが・・・・ごめんなさい。記念に高田さんが撮ってくれたものですので目をつぶってくださいませ・・・・・)

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10月16日、僕が主宰する写真研究会「風」の10月例会が都内で開かれた。この日の会には僕もふくめて5人の参加。後の懇親会には、塩崎編集長が参加した。名古屋から参加しているH君は取り組み続けている「藤巻干潟ーいのちの物語」の新作の他に、新たなモチーフで撮り始めた作品を30点程持ってきた。この作品はいままでの作品とは表現方法が異なり期待がもてる。在日朝鮮学校を撮り続けているKさんは、そろそろまとめにかかるため時間を作って一度構成をすることになった。また何故自分がこの被写体に取り組んできたのか、論議した。そして文章にまとめ始めることとなった。Yさんは「誕生」という題名の作品を20数枚ならべて自分のイメージ、作品に対する思いをのべた。しかし本人が語るほど見る側には伝わらず、そのギャプは何なのか、もっと深く考察するようアドバイスした。作者の思い込みは写真には写らないことをしっかりと知るべしだが、ユニークな試みはおもしろいと思った。最後は鈴木事務局長の作品。この6~7年間、JRの青春18キップで北海道から沖縄までを普通電車を中心にして旅をした写真日記である。年内にこの作品と中国、ネパールのモノクロ作品をバラ板印画紙でプリントすると語っていた。時間があったので1時間ほど写真について僕の方から語った。終了後は有志でいつもの「味とめ」という居酒屋へ。ここへはもう何年通っているだろうか。15~6年は経っているだろう。写真学校の授業が終わったと塩崎編集長も参加してむさ苦しい男4人とこの中ではただ一人の女性となるYさんとで交流会がはじまった。まず先日急逝した「アサヒカメラ」編集長の奥田君のご冥福を祈り献杯した。みな一緒に飲んだり、語ったりしているからだ。終電近くまで残ったのは僕もふくめて男3人。「チベットへ来年は行こう!」などと気勢をあげていたのだった・・・・・・。

 

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10月6日、この日も土佐は朝から清々しい秋晴れだった。昨日に引き続き、須崎の写真家Oさんが案内を買って出てくれた。Oさんは15年前に僕が「フォトコンテスト」というカメラ雑誌の月例の審査をしていた時に、1年間を通して最高賞にあたる年度賞を受賞した人だ。まずは彼女の暮らす須崎に、そして窪川へ。3年前に近隣の町村が合併して四万十町などと訳のわからぬ町名になってしまった。近くの中村市も何百年もの歴史ある町の名前を変えて四万十市としたからややこしい。隣接しているカツオの一本釣りでは日本一の水揚げを誇っていた佐賀町も黒潮町と町名を変更した。佐賀に住む友人は「くろうしおる町になったぜよ・・・・」と怒り嘆いていた。窪川は人口数千人の小さな町だが喫茶店は60軒以上あるという。僕の友達も喫茶店と旦那さんがパン屋さんをしているがその目の前にも喫茶店がある。本当に狭い町にぼこぼこと喫茶店があってよくぞ潰れないかと心配するのだが何処も繁盛しているのである。東京などではいわゆる純喫茶というものはほとんど消えてなくなっているのに何故・・・・?という気が高知の町や村を廻っていて思った。答えはお年寄りたちのサロンになっていると言うことである。僕はいいな~と思った。窪川駅前で長年スタジオをしながら写真家として創作活動をしている友人を30年ぶりに訪ねた。お互いに30代の意気盛んな頃に出会ったので写真について熱い論議をしたことが懐かしく思い浮かんだ。彼は今もしっかりと写真創作を続けていてうれしかった。友人の喫茶店で焼きたてのパンと美味しい珈琲をご馳走になってから今日の宿泊地である佐川町へ向かって山越えの道を進んだ・・・・・。

 

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20年来の友人宅まで送り届けてもらってOさんと別れた。彼はテレビ高知に長年勤めていたが大病を患って退職した。奥さんは美術の教師である。今は彫刻家として今年の県展でも入選して頭角を現しつつあるのだ。二人とも山や自然をこよなく愛し、大乗仏教の研究も深い。佐川の山に入り、谷川の清流を好む。栗林を歩くのも好きだと言う。とにかくユニークな男なのである。僕は佐川へ行くと司牡丹の酒蔵ではなくて、必ず行きたいのが大正軒。そこのうなぎめしが大好きなのだ。オリックス時代のイチローをはじめ、阪神の選手らも多数このうなぎを愛したらしく、彼らのユニホームやバット、グローブなどがたくさん店に飾ってあった。翌日は仁淀川の中流域の町・越知町へ行き、天然鮎の塩焼きやモズクガ二のソーメンなど食べた。そして彼が作ったという自慢の山小屋「観自在」を訪ね、静かな一時を送ってから県展前夜祭がおこなわれている高知市内の文化プラザへと行った。

 

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(日航高知ホテルの朝食。カツオのタタキや野菜たっぷりのカレーなどがあり旨いのだ~。10月8日)

7日、夕方5時からの県展前夜祭には出品者をはじめ450人をこえる人たちが出席して盛況だった。審査委員の参加は僕一人だけだったので、紹介され照れくさかった。僕が泊まっているホテルのバテンダーのSさんもわざわざ来てくれてうれしかった。写真作品について少し案内をして廻った。前夜祭終了後、県展の無鑑査の人たちと高知最後の夜を飲んだ。そしてやはり締めは「ときわ」へ。独りで行くと女将と大将だけ。3人でしみじみと飲んだ。肴はマスター自慢のカツオの酢じめ。これが控えめではあるがカツオの旨いがよく出ていて大変よろし。土佐最後の宵もまたカツオと栗焼酎で更けていくのだった・・・・・・・・。翌8日は県展のオープニング。朝10時30分から作品講評を会場でやることになっていたので出かけた。すでに100人をこえる参加者、高知放送のテレビインタビューなどで熱気が溢れていた。約2時間あまりを使って丁寧に、特産作品、褒状作品などを中心に講評をした。誰もが熱心でやりがいがあった。高知の写真文化の向上に少しでも役立てることができたらと微力ながらこころから思った・・・・・・・・。

 

 

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昨日10月14日、2週間ぶりに都内に出かけた。朝日新聞東京本社のコンコースで「2010年全日本写真連盟関東本部委員展」という写真展がおこなわれており、この日は出品者による懇親会が同社でおこなわれていたからである。僕が到着したのは終了間際であった。この展覧会は毎年開かれており地方も1年間かけて巡回している。僕は全日写連の関東本部委員になったのは20数年前。亡くなった写真家の佐藤明さんと大石芳野さんと3人で委任されたのだが、ほとんど名前だけの委員で申し訳ないと思いつつ、この写真展だけは毎年出品してきたのだ。理事長の田沼武能さんや理事の熊切圭介さんをはじめ、英伸三、桑原史成、栗原達男さんら多くの写真家たちが参加していた。僕は事務局の人たちと最後まで話してから銀座・キヤノンギャラリーで開催している松本徳彦さんの写真展へ向かった。

 

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築地の朝日新聞社からぶらぶらと明治座前を通り、歌舞伎座横の路地を抜けてキヤノンギャラリーに着いた時にはまだパーティが始まっておらず人も少なかったので、まず松本御夫妻にあいさつをして写真を見た。その頃から人は増え始めあっという間に満杯状態。僕は外でいろいろな人たちと会話を楽しんでいた。日本写真界の長老である芳賀日出男さん、丹野章さんがお元気な姿で来ていたのはうれしかった。管洋志さん、長倉洋海さんら多数の写真家、写真業界の人たちがかけつて大いに盛り上がっていた。僕は大先輩の丹野章さんと喫茶店で1時間あまり写真談議をして別れた。預かっていた丹野さんの著書『撮る自由ー肖像権の霧を晴らす』50冊が高知、岡山ですべて売れたのでその代金も渡した。その後、独りでこの2日に急死した「アサヒカメラ」編集長奥田明久君を偲んで梯子酒をした。2日は僕は千代大海の断髪式に参加していたため、行けなかったが日本写真家協会主催の写真フーォラムがあった。田沼会長と水越武さん、野町和嘉さんとのトークの司会を務めた。打ち上げでは旨そうに生ビールを飲んでいたと言う。しかし・・・・・その日のうちに突然の死。誰もが驚いたにちがいない。僕は土佐の取材先でその訃報を受けたのだった。彼が「アサヒカメラ」の編集長が内定し、その後編集長になった頃、よく飲み歩いたものだった。気持ちのよいのみぷっりで「小松さん僕はカメラ雑誌を変革したいんだ」、「若い写真家を育てるような編集にしたい」と意気込みをいつも語っていた。兎にも角にもこの8月に逝った宮地敏行君しかり今度の奥田君しかり、僕よりも若い友人が先に逝くのはこころに堪える。残念至極ではあるがいまは静かに冥福を祈るばかりである・・・・・・・・。  合掌

 

 

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10月3日夕刻、土佐龍馬空港に着いた。この日1時間に80数ミリという豪雨が高知地方を襲い、各地に被害をもたらした。一時期空港も閉鎖され離着できなく大幅に飛行機のダイヤが乱れたという。僕が着いた頃は、雨は小降りになっていた。夜は高知新聞社の社長をはじめ、役員、県展事務局ならび県外からの審査員5人による明日からのおこなわれる第64回高知県美術展覧会の審査の打ち合わせがおこなわれた。僕は昨年に引き続き2回目であるが、他の4氏は初審査である。しかし筑波大大学院教授、京都市立芸術大教授などみな大学の先生ばかり。歳は僕と同世代だった。それだけ僕も歳をとったというわけか・・・・・・。打ち合わせの後は恒例の懇親会。会場が明治3年創業の南海第一楼とうたわれた得月楼である。明治の全盛期には従業員は1400人をこえたというからいかに繁栄していたか想像できよう。坂本龍馬の師であった河田小龍の描いた絵の前で、土佐に伝わる酒席での遊びをした。「ベロベロの神様は正直な神様よお酒の方へとおもむきゃれ~」と繰り返し詠いながら小さな独楽を回し、軸の指した方の人が盃に並々ついだ酒を飲み干すというものだ。先生方はひとしきり盛り上がっていた。小龍の描いた絵のなかの赤い絵の具は当時、アメリカから戻ったジョン万次郎が持ってきたと言うので僕は興味深く鑑賞した。宴が終わってから事業部長と二人でやり直した。「三国志」という居酒屋も面白かったが、彼が良く行っているというジャズのバーは、ピアノの演奏が流れていて洒落ていた。一日目の土佐の夜はこうして更けていったのであった。

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翌4日は、朝から高知新聞の写真部長がホテルに迎えにきてくれて審査会場へ向かった。会場は市内の中心地にある文化プラザ「かるぽーと」ここでは写真の他に、彫刻、工芸、書道、グラフィックデザインの審査・展示もおこなわれるので、大勢のスタッフで活気に溢れていた。今年は全体で1836人の3678作品が搬入された。昨年より78点増えたという。写真部門は1794作品から第1次審査で334作品に絞りこんでいたのでこのなかから特選3点、褒状20点、県美術振興会奨励賞1点、新人賞1点を決めるのである。昼食をはさんで3時過ぎには決定した。褒状までは比較的スムーズに運んだが最後の特選で時間がかかってしまった。でも全体には昨年よりも質的に向上していい展覧会になると思った。6時から高知新聞社のホールで昨年に続き講演会をした。100人をこえる写真愛好家で熱気があった。終了後希望者で近くの土佐料理店で懇親会。30人近い人が参加して遅くまで写真談議に花が咲いていた。僕は前写真部長と2人で僕の大好きな店、「ときわ」に顔をだしてしみじみとやった・・・・・・。

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5日は朝から清々しい秋晴れ。須崎の写真家Oさんが案内をかってくれて車で迎えに来た。昨夜、高知新聞の専門委員のKさんが「先生明日、寺田寅彦記念館で土佐・一絃琴の演奏を取材するので一緒に行きませんか・・・」と誘われていたのでまず、寺田寅彦記念館へ行ってみた。目の前で聞くのははじめてであったが何か物悲しいしらべでこころに残った。その足で真っ直ぐに室戸岬へ走った。僕は土佐大好き人間で、30年あまり通っていたのに、何故か室戸には行ったことがなかったのである。ときわの女将も事業部長も前写真部長も室戸出身でみな口をそろえて「室戸いいぜよ」というのである。室戸岬のダイナミックな地形や地層、弘法大師ゆかりの地の霊場と遍路道、紀貫之が都への帰還の途中に避難したという室戸港など西土佐とはまた違う風土があり印象に残った。漁港の町は昔ながらの町並みが残っており、飛び魚の日干しは70尾で600円と信じられない値段であった。僕はみんなのおみやげにとたっぷりと買った。室戸生まれで室戸育ちの人たちが「飛び魚の日干しも珍しいがこんな旨いのは食べたことがない」とみな喜んでくれたのはうれしかった・・・・・・。

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10月3日から12日まで、高知県内を8日までめぐり、午後から岡山県早島町へ車で移動、その後岡山県内を5日間めぐり今日の夜、自宅に久々に戻った。第64回高知県美術展覧会の審査、第1回児島湾岸写真フォトコンテストの審査、倉敷に在住していた写真家・故中村昭夫さんの2012年度のカレンダーの写真のセレクト、そして僕が生まれた地、蒜山高原・湯原温泉へ7年ぶりに訪れてみた・・・・・・・。そんな10日間を写真を中心に数回に分けて明日から報告する。お楽しみ下さい。とにかく何とか無事に生きて帰りました。みなさんもお元気でしたか・・・・・・。明日からのブログにご期待ください。(写真は日航高知ホテルロビー、得月楼の料理と仲居さん)  合掌

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10月3日、秋晴れのこの日、「千代大海引退・佐ノ山襲名 披露大相撲」に出席するために両国国技館へ行った。前にも書いたが先日、池袋のみやらびでたまたま席を隣り合わせたジーンズメーカー「EDWIN」のKさんが席を用意してくれたものだった。昨日の「結婚を祝う会」に行った時に、女将から「Kさんが奥様とわざわざ届けに来てくださったわよ」といって招待券を2枚渡された。翌日から長旅に出るのでどうしょうかと正直迷っていたが、本人があの酔った席での約束を忘れずに届けてくれたのなら、その義理はきちんと僕も守らなければいけないなと思った。しかし、1席余るのでどうしょうと思っていたら「フォトコン」編集部の若いIさんが「夕方から用事があるけどちょうどその時間なら空いてるのぜひ行ってみたい」と言うので、彼女と両国駅の改札で待ち合わせをすることにしたのだ。国技館周辺はすでに参加する人々でごったがえしていた。席は正面2階席の椅子席で少し遠いが全体が見渡せるいい席であった。しばらくするとKさんご夫婦があいさつに来た。地元の伊勢原の落花生まで持って。そして「先生もしよければ、1階の枡席が用意できますので移りませんか」と言うのである。僕はこの席で充分だと思ったがせっかくの好意を断わるのも失礼と思い枡席へ移動することにした。弁当やらつまみ飲み物など買い込んで向こう上面の枡席に陣取った。すぐ近くに力士たちが見え、肌と肌がぶつかり合う激しい音や息ずかいまでが聞こえる場所である。

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この日の取り組み表は、ふれ太鼓からhじまり幕下・三段目決勝正五番、次に相撲の禁じ手などをユーモラスに演じる初切、高見盛関による髪結いの実演、十両土俵入り、相撲甚句とつづき十両取り組みとなった。そうしてこの日の最大イベントである断髪式。第69代横綱・白鵬による横綱綱締め実演、中入りとなり櫓太鼓打ち分け実演と続いた。最後は幕内の力士による全取り組みである。僕のご贔屓力士の白馬、豊真将、鶴竜、栃皇山戦などは見ごたえがあったがやはり、三役力士の三番はとりわけ迫力があった。魁皇、阿覧戦はひときわ大きな声援が飛び、熱戦の末、魁皇が寄り切ったときは会場は頂点に達した感があった。つづいて琴欧州、杷瑠都の戦いは力相撲であったが最後は杷瑠都が勝った。この日、最後の取り組みは、現在本場所で62連勝という偉業を更新中の白鵬と先日、婚約発表をしたばかりの日馬富士の一戦。両者激しい立会いの後、差し手争いをくり広げて土俵を動いていたが、一瞬勇み足のようなかたちで白鵬が寄り切られて土をつけた。会場は「えっ~」というような雰囲気が漂ったあと惜しみない拍手が送られた。僕も62連勝中の横綱がいくら披露相撲の興行だからと言って土を付けるはずがないと思っていたので確かに意外ではあった。しかし考えてみればここ4場所土付かずの横綱・白鵬が負けた一番が目の前でみれたのだからラッキーだった。元千代の富士・九重親方によって髷を落とされた千代大海関は、涙ぐみながらも17年間続けてきた土俵と別れを告げた。会場からは惜しみない拍手といつまでも「千代大海、千代大海」というコールが鳴り響いていた・・・・・・・・。

 

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昨日、10月1日池袋の沖縄料理店・みやらびにおいて、「フォトコン」副編集長坂本大士君と美幸さんの「結婚を祝う会」がおこなわれた。この会は僕と写真家で写真学校時代の恩師である築地仁さんと「フォトコン」編集長の藤森邦晃さんの3人が呼びかけ人となって開かれたものだ。2人の本当に親しい友人だけに呼びかけたアットホームな会となった。写真家の鈴木一雄さん、神立尚紀さんをはじめ、写真家たち。学生時代の友人たち、石井聖也社長を先頭に会社の同僚たちが大勢参加してくれた。同僚たちが企画した2人の出会いから現在までをストリーにした人形芝居やケーキカット。みやらびのみなさんによる琉球舞踊など心温まる会となった。最後にあいさつに立った新郎、新婦の2人は「今日のみなさんの励ましを糧にあたたかい家庭をつくっていきます。ありがとうございました」とお礼とともにこれからの人生への決意を語って満場に拍手喝采を浴びたのだった。まだまだ若い2人、これからさまざまな困難も待ち受けているであろうが、持ち前の楽天性をおおいに発揮して乗り越えていって欲しいと切に思った。幸多かれとこころから祈る・・・・・・・・・。 合掌

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