写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2010年8月アーカイブ

28日は、30数年来の友人の写真家・奈路広さんが、2時間以上かけて高知の西、幡多郡から僕を訪ねて来てくれた。四万十川を全国的に有名にしたのも彼の写真集『四万十川』だと思うし、土佐湾のすばらしい写真集もある。土佐を代表する写真家である。十数年前に一緒にヒマラヤへ行って、写真展を東京と高知で開催したこともあった。家族ぐるみの付き合いをしてきた友人だ。奈路さんとまず、長浜へ向かった。近年、長宗我部元親を再評価する気運が高まっているという。僕は昔から、土佐は山内より長宗我部があっていると思っていたので、うれしい評価だと歓迎する。何度か見ている龍馬記念館にも行ってみたが、人の顔を見にきたように混んでいて、とてもじっくりと龍馬の手紙を読む雰囲気ではなかった。もともとあまり見るべき資料はないのではあるが・・・・・。

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桂浜も人混みの山なのでほどほどにして、観光客が来ない浦戸湾の小さな漁港を巡ってみた。元親の居城の浦戸城もこのあたりにあった所で、小高い山と入江が入り組んでいて風情があった。いまでも一昔前の漁村のたたずまいが残っていた。その一隅で夫婦でやっている小さな食堂へ入った。サワラのあぶり寿司が名物で一人前500円。手書きのメニューをみると岩がき、たちイカ、エガ二、ガザミなど地物が、カツ丼やラーメンなどと並んでいた。僕はガザミとたちイカのげそ焼きと岩がきのフライをたのんだ。運転はしないのでチューハイも。ガザミはその場で茹でてだしてくれた。2人でも充分に堪能できる大きさである。濃厚な味で旨い。イカは2キロもあったものでげそだけど太くやわらかい。塩を少し振って焼いてもらった。カキフライはこれほど旨いのは初めてだった。目の前で生きている牡蠣を割ってフライにするのだから、その大きさといい、歯ごたえのあるミルクのようなまろやかな味といい絶品であった。みな500円前後であった。

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夜は7月下旬の岩手県花巻市の山奥の台温泉で知り合ったF夫婦と再会した。2人は3週間にわたる北海道・東北のバイクツーリングの途中だった。5年ほどまえに2人で脱サラして、やったことのない農業に挑戦したのだという。いま、「夜須のフルーツトマト」というブランド化したトマトの栽培一筋にやっているのだそうだ。11アールの作付けしたハウスを2人で運営しているので8月から翌年の6月下旬までは一歩も外に出れない生活で、そこから解放されるといつも2人でバイクの旅にでるのだという。高校生の娘さんを抱えながらよくぞ決断したと拍手を送りたくなった。いかにも土佐の「いごっそう」と「はちきん」の気質をもった夫婦である。呑みっぷりも豪快で、旦那は生ビールを7~8杯は空けたろうか、奥さんはぐびぐびと日本酒の冷をあおっていた。僕はまだその夜須のトマトを食べたことがないのでいまから食するのを楽しみにしている。

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最終日は、僕が10数年前に写真雑誌の審査員をしていたときに年度賞を取ったOさんが訪ねてきてくれた。高知城の大手門の前で開かれている日曜市へ撮影に行った。晴れていたかと思うと突然バケツをひっくり返したような豪雨、この繰り返しがつづく亜熱帯のような天候だった。干物屋や骨董店などをのぞいて、うるめいわしの干物と明治時代の蕎麦猪口をひとつ求めた。土佐の最後の昼飯は、やはりカツオでしめたかったので、「葉牡丹」へ行った。そしたらなんと「ノアの箱舟」の娘さんがバイトしていたのには驚いた。カツオの刺身、カツオのたたき、四万十川の手長エビのから揚げ、サバ寿司、チャンバラ貝、めひかりの焼き物など注文、それにチューハイも。Oさんと写真談議などしながら土佐の”最後の晩餐”を庶民的な店ですませた。僕の希望で土佐電鉄の終着駅、桟橋前で撮影して空港へ向かった・・・・・。この4日間お世話になった土佐の人たちにこころから感謝しながら夏雲の立つ高知空港を飛び立った・・・・・・。夕暮れのなかに孤高の富士山が小さく見えた・・・・・・。

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高知市内の僕が常宿にしている「ホテル日航高知旭ロイヤル」にチェクインしたのは、午後5時を少しまわっていた。空港からは重たくなった黄金色の稲の田んぼを両側に見ながらの30分ほど車で走った所で、便がいい。市内の中心街にも歩いて近い。目の前に鏡川が流れていて景観も大変よろしいのである。去年も1週間ほど泊まった。こじん周りとしているホテルではあるが、きびきびとしたサービスが気持ちが良い。何よりも最上階にあるバーの夜景がきれいで、そこでシェイクを振るバーテンダーの那奈さんのつくるカクテルが美味しいのである。グラスを傾けながら静かに語る彼女の夢を聞いているのが僕は好きだ。彼女は日本バーテンダー協会の技術研究次長でもあり、今年おこなわれた第37回全国バーテンダー技能競技大会へも出場したが残念ながら思うような結果にはならなかったという。これから長い人生をどう生きていくかは、彼女自身の問題である。自分の夢をあきらめずに追い続けてほしいと思った。龍馬の生まれた地で育ったのだからね・・・・・。

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「フォトコン」の原稿が書きあがっていなかったので、まずホテルの部屋で仕上げた。フロントからFAXで送ってもらってから一人で夕食を食べに「葉牡丹」というかって良く通った店に行ってみた。3年ぶりであったが、昔とちっと変わっておらずうれしかった。地元の常連客が多いカウンターに座った。さっそくカツオの刺身、めひかりの焼き物、四万十川の青海苔とゴリの揚げ物、土佐清水のしめ鯖など地物ばかりを肴にいも焼酎をいただいた。隣の青年の結婚できない悩みなども聞きながら呑んだのである。

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27日は朝、9時半には高知新聞の土居写真部長が迎えにきた。高知新聞社の会議室で10人ほどのスタフッが待ち構えていた。今年、事業局長になった土橋宏史さんなど幹部の方々とあいさつしてからただちに審査にとりかかった。今年から審査方法を変えたので少しとまどったが、スタッフのみなさんの協力でスムーズに審査は進んだ。出品数は昨年より174点増えて1794点。524人の人たちが応募してくれた。全作品を2度にわたって見直して最終的に1次審査を通過した作品は336点となった。本選は10月上旬に他の部門と一緒におこなわれる。この日の審査を終えたのは午後6時をまわっていた。さすがに少し疲れた。事業局長と写真部長と昨年に続き取り仕切ってくれている事業企画部の栗山君と大原さんとでご苦労さん会へ繰り出した。まず一軒目は、僕の好きな小料理屋「ときわ」。小さな店だが雰囲気といい、料理といい隠れ家みたいな粋な店である。その後は、日航高知ホテルのバー・エンジェルルビー、そして〆はこの店も20年以上前から行っている「ノアの箱舟」という名前は洒落ている店で、めざしとかますの干物を肴に栗焼酎を飲んでお開きにした。みな僕より若い世代ではあるがとても愉快な一夜であった・・・・・。この日、高知新聞の学芸部と高知放送が審査中に取材にきて、高知放送は15時50分と夕方のニュースで2~3分間にわたって放送していた。高知新聞は翌日の朝刊の社会面に5段の写真入りで大きく報道していた。

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8月26日の昼前に自宅を出て、羽田から高知へ向かった。第64回高知県美術展覧会の写真部門の1次審査のためである。この展覧会は高知新聞社とRKC高知放送が主催するものだ。僕が審査員をするのは、昨年に引き続き2年目。写真の他に洋画、日本画、立体作品、彫刻、工芸、書道、グラフィックデザインの8部門が同時におこなわれる。高知県においては、芸術の一大イベントである。審査は27日一日で、28日、29日は坂本龍馬ゆかりの地や土佐の小さな漁港、土佐電鉄などを取材した。初日から朝、昼、夜とも毎日カツオを食べまくった旅であった。いつになく大河ドラマの影響で土佐の街はどこに行っても人が多く「龍馬伝」様様という感があったが、やはり僕は静かなおっとりとした土佐の町が好きぜよ・・・・・。”土佐日記”の旅を写真を中心に2回に分けて報告する。

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写真は、土佐湾上空から龍馬高知空港へ到着するまで。普段あまり飛行機からは撮影しないのだが、窓から見ていたらあまりに美しかったので、めずらしくシャッターを切った。

23日は夕方から「フォトコン」の藤森編集長と坂本副編集長と会った。はじめは現在同誌に連載中の「小松健一の写真道場」の件だった。その後、つい先だって結婚した坂本くんの「結婚を祝う会」についての打ち合わせだった。20日に上海から帰国したばかりの長崎の写真家・山崎君も同席した。打ち合わせが終えたあと僕と山崎君と2人でしばらく写真談議をした。彼には写真家としての道を歩んでほしいと願っている。「飯の種になる写真ばかり撮らないで作品を作れ!」と厳しく言ってしまった。自分のことも省みずに・・・・・。25日は病院の定期健診を済ませた後、銀座の写真弘社へ作品の上がりを受け取りに行き、その足で毎日新聞社へ行った。「サンデー毎日」に3回分の原稿を入稿するためである。4月から月1回の連載中である「三国志大陸をゆくー古戦場をめぐる」は、好評のため、9月7日(火)発売の9月19日号から巻頭のグラビアページになるという。うれしいことだ。ひきつづいて10月から12月までも巻頭にすることになったときかされた。10月からは2週目の火曜日発売になるという。ご期待ください。今日から4日間、坂本龍馬の故郷・土佐へ行ってくる。第64回高知県美術展覧会の予備審査会のためである。本選考会は10月にあるのでまたその時は、土佐に来ることになる。僕は土佐はもう30年以上前から来ている大好きな土地だ。鰹も好きなのだが、なによりも「いごっそう」や「はちきん」といわれる土佐の気質と肌が合うのだろう。自由民権運動発祥の地であることも好きな理由だ。黒潮が海流する太平洋とがっぷり四つに組んだような格好の高知県は、開放的で豪快でどこか間が抜けている感じがして憎めない。上州気質にも通じるものがあり、そこが僕にとっては居心地がいいのかもしれない。

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写真は岩手山(2038m)を焼き走り溶岩流から望む。2010年8月4日撮影

 

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8月25日、都内新橋において同人誌「一滴」(しずく)の第110回目の句会が講師に中原道夫さんを招いて開かれた。21人が炎暑のなか出席した。思い返せばこの会を始めてから間もなく10年になろうとしている。代表の岡井輝生さんのご苦労を思うと大変なものがあったとことだろう。同人誌「一滴」も10号数えた。句会は中原講師の軽妙な語り口でずんずんと進んでいった。この日僕が出した句は、先日のみちのく取材で題材を取ったもの。その日に詠んだので、自信はてんでないものばかりだが、ここに記録しておこう。

                    鹿踊り太鼓遠のく夏の果て

                    炎天に風生ませいる鬼剣舞

                    山の湯や古老はぴしゃり夏の虻    (風写)

この3句のうち最初の「鹿踊り・・・」の句が中原道夫特選5句に選ばれた。「炎天に・・・」は予選通過であった。同人の選で票が多かったのは、「炎天に・・・」の句であった。句会終了後、句会110回を祝って懇親会をした。15人が参加。中原講師を囲んで俳句談義が盛り上がったのは言うまでもない。第1回全国フォトx俳句選手権(信濃毎日新聞主催)の仕掛け人でもある同人の中谷龍子さんが最後にしめて会は終わった。希望者で2次会へ。前回も行った俳句をご夫婦でしている「酒房 いそむら」。落ち着いたいい店だ。中原さんも常連客で以前から通っているとのこと。ここでも焼酎のボトルを1本空けて、さらに全員で3次会へ。地元の同人の案内でスナックでカラオケを歌った。その頃は、みな相当酔いがまわっていて、僕も写真を撮ったがご覧の通りのピンボケ、手振れであるが、これもひとつの記録と思いここに掲載する。終電の時間が気になっていたので僕と中原さんとで先に失礼して家路を急いだのであった・・・・・・。

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昨日は、写真研究会「風」の8月例会がおこなわれた。例会の前に希望者で、いま東京写真美術館で開催されている(社)日本写真家協会創立60周年記念写真展「おんなー立ち止まらない女性たち1945-2010」を鑑賞することになっていたので、恵比寿へ向かった。前日、上海取材から1ヶ月半ぶりに日本へ戻った長崎の写真家・山崎政幸君も見えていた。今年の正月の熱海合宿以来である。写真展は1945年から1995年までは、見ごたえがあったが、最終章の1996年から2010年が、作品自体も混沌としていて突然弱く感じたが、この感想は僕だけではなかったようである。例会会場には、すでに名古屋のH君がきており、ゲストとして上海帰りの山崎君も参加してくれた。久しぶりに大作を持って出席したTさん。彼女は年内に個展を開催することを目指しているので、その作品は力作ぞろいで、皆を唸らせていた。名古屋のH君は、来月に個展開催の審査に出すために、最終的に50点に絞り込む作業をした。題名も「名古屋・藤巻干潟ーいのちの物語ー」に決定。一年半の努力が報われるかが、楽しみではある。Yさんはグループ展への出品作品を10点ほどにセレクトした。鈴木事務局長の作品「靖国ワンダーランド」を雑誌「季論21」の巻頭グラビア8ページに組むことを体験した。編集部からときどき発表してくれることを約束しているので、良い作品ができれば、「風」のメンバーから次々に登場させていきたいと思っている。山崎君の最新上海の映像もコンピュターで見せてもらった。会の終了後、いつもの三軒茶屋の店に行って、山崎君の帰国祝いに乾杯した。途中から元メンバーの写真家の菱山君も合流して夜の更けるのを忘れて写真談議に花が咲いていた・・・・・。次回例会は10月中旬に決まった。

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亡き父の2歳年上の伯母、山川いくが17日、87歳で他界した。母からの知らせを受けて、8月20日午後6時から執り行なわれた通夜に母の名代として出かけた。弟2人とも連絡をとって生花を二籠出すことにした。会場は荒川区の町屋斎場である。写真家の野上透さんの葬儀以来の町屋斎場であった。今年はお盆はとうに過ぎたのに極暑の日々は続いていて、家から会場にたどり着くまでで、汗びっしょりになってしまった。いく伯母さんとは、ずいぶんと会っていなかった。2年ほど前に、いく伯母さんと父の妹になるその伯母さんといく伯母さんの娘さんたち6人で、田舎の墓参りに来てくれ、弟が務める伊香保温泉のホテルへ2~3日泊まっていったというが、僕はこちらにいるので参加することはできなかった。2人の弟夫婦たちはみな一緒に一時を過したのだという。「とても楽しかったのよ・・・・」という話を後で聞いた。通夜の式が終え、席を変えて久しぶりに会う、その伯母やいく伯母の従兄弟たち。初めて会う従兄弟たちの子どもたちも大勢いた。この子たちとも僕は血のつながりがあるのだと思うと何か不思議な気がするのだった。秋も深まったらその伯母とお祖父さんとお祖母さんが眠る上州の墓参りに行くことを約束して別れた。帰りはのんびりと都電に乗って帰ってきたのである。 あらためていく伯母やすらかに・・・・・・・。  合掌

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8月18日、銀座二コンサロンで、桑原史成写真展「激動の韓国ーその四半世紀の記録」のオープニングパティーが開かれたので、上州から戻ったばかりで疲れていたが出かけた。桑原さんとは40年近い付き合いで、写真家のなかでもとりわけ先輩としてもその仕事は尊敬している写真家なので無理をしてでも行こうと思っていたのである。会は桑原さんの人柄を感じさせる和気会い合いとしたものであった。奥様とも十数年ぶりにお会いして懐かしかった。写真家で映画監督でもある本橋成一さんも韓国の酒、「まっこり」を美味しそうに呑んでいた。会場にはドキュメンタリーの写真家の顔がめずらしく多かった。本当に何十年ぶりの編集者などとも再会できて楽しい会であった。また、この日の午前中に告別式がおこなわれた編集者の宮地敏行君を惜しむ声も会場のあちこちで聴こえた。宮地君がいたならきっと旨そうに「まっこり」を飲み干しているだろうなと思いなが天国の彼に献杯をしたのだった・・・・・・。

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☆オープニングパティーの終了後、韓国の著名な写真家ユン チュヨンさんを囲んで一杯やろうということになり、写真家の江成常夫さん、宮崎から来ていた芥川仁(日本写真家ユニオン理事長)さん、バク斉藤(日本写真家協会常務理事)さん、昆虫写真家の海野和男(ニッコールクラブ幹事)さんと銀座ライオンへ行った。話は多岐にわたったが、ユンさんが南米のチリ大使だったというので、僕とチリの話で盛り上がった。韓国の文化大臣も歴任されたという。その彼が、「今の日本の写真界を救うのは、幕末に吉田松陰が開いていた松下村塾の写真版をいま、ここにいるあなた方が創ることだ・・・」との指摘は胸を打った。現在の混迷した写真表現に、いまこそ進むべき方向性をきちんと指し示さねばならないのではないかと、その語気はきつかったが、後輩の僕らに深い愛情を感じたのである。楽しくも有意義な時間はあっという間に過ぎ、10時を廻っていたのでお開きとした。固い握手をそれぞれがして別れた。そうしたら海野さんがもう一軒行きましょうというので、芥川さんと僕の3人で有楽町駅近くの店に入った。そこでも引き続き、1時間半ほど、熱い写真談議がくり広げられたのであった。

盂蘭盆の初日となる13日に、82歳を過ぎた母が独りで暮らす田舎の上州へ帰った。次男の弟夫婦が朝から来て母と墓掃除などしてくれていた。長男の僕としては申し訳ないといつも思って感謝している。18日までいる予定だったが1日早めて帰京した。夕方家に着いて溜まっているFAXを開いてみたら、なんと親しい友の宮地敏行君が急死したという知らせが入っていた。14日に享年56歳であの世に旅立った。つい先日の7月29日、僕がみちのくの取材にでる前日、銀座のパティーで会ったときには、旨そうにビールを飲んでいたのに・・・・・。昔はよく飲み歩いたもので、彼は尾崎豊の歌が18番で、感情たっぷりに歌い上げ、女性にもうらやましいほどモテタものである。呑んだくれて鎌倉の家に帰れなくなり、僕の石神井公園の事務所に泊まったこともあった。ごろ寝でまたそこでも呑みながら熱く写真談議をした。僕より若く逝くなんて信じがたい思いが今もする・・・・・。宮地君天国はこんなに極暑ではないだろううからやすらかに眠ってくれたまえ。 合掌

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上州でのことを写真を中心に駆け足で報告する。14日、朝から渋川に列車で行き、レンタカーを3日間借りた。まず、向かったのは前橋市。前月一緒に中国・四川省の旅に行った矢島保治郎の娘さんの仲子さんと会うためである。この日は仲子さんと保治郎の生家のある佐位郡殖蓮村(現・伊勢崎市本関町)へ行き、現在の当主の矢島良雄さんに会った。(保治郎の長兄の息子さんの子)仲子さんにとっては従兄弟の子どもにあたるのだが、歳は同世代である。良雄さんから保治郎も食べた畑でとれたジャガイモと茄子をもらった。近くの保治郎とチベットの妻、ノブラと長男意志信と仲子さんの母、きんさんの4人が眠る墓に詣でた。その後、保治が入学した殖蓮小学校、よく遊んだ生家近くの八幡沼を巡った。前橋に戻り、晩年まで暮らした矢島家を見て仲子さんと別れた。ノイエス朝日で、知人の群馬県美術会理事・事務局長の斉藤健司作品展「65年目の夏」を見て、東吾妻町へ戻った。恒例の「吾妻清流倶楽部」の納涼会が吾妻川畔でおこなれていたので、顔を出した。ここでの鮎や岩魚、山女の料理はいつもながら絶品である。若き日に食べたあこがれのハムかつも並んでいた

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翌15日は朝から本家の上田家の墓参りと小松家の墓参りに出かけた。三男の弟夫婦も駆けつけてくれてた。墓参りを終えてから母が温泉に行きたいというので、2人で万座温泉へ車を飛ばした。ちょうど友人で先日の中国へも同行した七宝工芸作家の斉藤芳子さんが、「万座プリンスホテル」で展示会をやっていたのでそれも見てみたいと思ったのである。やはり工芸作家の娘さんと2人で出迎えてくれた。昼食をとってからこのホテル自慢の「標高1800メートルの雲上の露天風呂」を充分に満喫してからいよいよ、斉藤さんの作品を見させてもらった。40年以上の作家生活と海外でも高い評価を受けている彼女の作品は、いわゆる七宝焼きの概念をはるかに超えていて興味深かった。その技法は建築物の壁画を手がけたり、ローケツ染めのような表現をあみ出したりと幅広い。僕も手ほどきを受けながら母の誕生祝いに、ネックレスの七宝焼きに挑戦してみた。彼女のアドバイスがよかったか、思いもよらぬいい物ができて、母もとても喜んでくれた。猫をモチーフにして作品作りをしている娘さんが8月31日から9月5日まで高崎の「flowershop papagona」(027-323-5582)で4作家展をやる。ぜひ、お出かけ下さい。天気が良かったので、白根山と草津を巡って実家へ戻った。

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16日は、午前中に「榛名高原邑」へ家を見に行くアポイントを事務局の方にとってあったので、榛名湖経由で出かけた。実家から40分もかからなかった。まず、この邑に住んでいる友人の翻訳家の和田さんを訪ねた。夏草の多い茂る中、4軒の家を拝見させてもらい、検討することとした。環境は抜群に良い。春先にも一度訪れてみたが、今回来てその思いはさらに増した。和田さんと遅い昼食をして別れてから榛名神社、榛名湖と抜けて伊香保温泉へ。次男の弟の顔をみてレンタカーを返す渋川駅まで戻った。3日間で約390キロあまりの運転であった。中国では1日に500~600キロは走るので、何のことはないが、狭い土地ではよく走った方であろう。夜は久しぶりに家族水入らずで、よく飲み、食べ、そして歌った。母の歌をこうして聞けるのもあと何年だろうかと思うとかけがえのない時のような気がした・・・・・・。

 

8月6日は、早めに盛岡を発った。祭りの後の寂しさを北の街は漂わせていた。花巻の賢治の母イチの実家を訪ねるのが目的だった。27日まで一般公開しているという賢治がつかった「産湯の井戸」を取材するためである。今日も34度をこえる極暑日。井戸は蝉時雨のなかにあった。氷水のなかに賢治が好きだったといラムネが冷やしてあり、1本100円で飲めるように配慮されていて、賢治の母の実家の人たちのやさしさを感じられて、一服の清涼をいただいた気がした。また、東北自動車道に戻り、水沢へ向かった。ここでは、2年前に開館した「奥州宇宙遊学館」に寄るためである。かっての水沢緯度観測所の本館を保存して記念館としたのだ。ここに賢治は足を運んでいて、「銀河鉄道」などの構想のヒントを得たといわれている。

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もう一箇所、撮影したい場所があった。それは種山が原だ。2度とも濃い霧か、雨だったので、夏空の広がる高原を撮りたかったのだ。急いで山道を走った。雲行きがどんどん怪しくなってなってきていたからだ。山頂に着いたときは、ぎりぎりだった。あわてて撮影していると間もなく大粒の雨が落ちてきて、あっというまに辺りは深い霧に包まれてしまった。「ゆ」の看板がでていたので雨宿りをかねてひとっ風呂浴びることにした。山の天候は本当に急変する。地元の人が「種山が原めったに晴れないよ・・・」と言っていたのを実感した。佐伯研二さんに電話をしたら、人首の実家に居るというので、寄ることにした。江刺名物の玉めんというのを食べさせてくれた。佐伯さんは乾麺の研究もしているらしくやたらと詳しい。南部蕎麦の乾麺では一番旨いという「土川そば」という乾麺を土産に持たせてくれた。いよいよこの旅の最終目的地の北上市に向かった。明日から3日間「北上みちのく芸能まつり」が始まるのである。ホテルに着くとシグマの桑山さんから2本目のレンズが到着していた。このレンズがあれば、明日からのスナップは安心して撮影できると思うと一安心であった。こころから感謝!!

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翌朝は早くから市外にある極楽寺へ向かった。護摩法要と念仏剣舞があるからだ。この辺りは、平安時代前頃までは一大聖地だったらしく、国見山文明という蝦夷一帯に影響をおよばしたほど山岳宗教地だったという。その遺跡があちこち発掘されていて、極楽寺はその一角にある。1時間ほど取材して、今度は市郊外の西側にある岩崎城址の鬼剣舞合同大供養に行ってみた。22団体の鬼剣舞が集っていた。北海道や京都、佐渡、東京など各地からも来ていた。じりじりと肌を焦がすような炎天下だから厚ぼったい衣装に面をかぶり、激しい踊りを長時間くり返すのだから大変だ。ファインダー越しに見ていても全身で呼吸しているのがわかる。倒れないかと心配になるほどであった。この鬼剣舞にしても鹿踊りにしても神楽にしてもみな動きが激しいのである。どちらかというとゆったりといたイメージだった神楽などとはまったく異なるのである。北の大地の短い夏を精一杯謳歌でもしているかのように・・・・・・。昼間は街中は死の街のように人はいなく、店はシャッターが閉まっている。しかし宵闇が迫る頃になると何処から人々が浴衣姿で集まって来て、通りは人々でいっぱいになるのが不思議な気がした。北上の3日間は、ホテルの近くの「一平」という30代の兄弟で切り盛りしている店に通った。宮古漁港から毎日新鮮な魚介類を親戚の業者が届けてくれているので旨い。もともと両親が宮古で店をやっていてのだという。手際よい二人の包丁捌きも気持ちが良い。色気は丸でない店ではあるが、僕は気に入った。兄弟の求めに応じて、その場で一句詠み色紙に揮毫したのである。「炎天下風生ませ入る鬼剣舞  風写」  長かった夏のみちのくひとり旅もようやく終わりかと思うとグラスに注いだ焼酎がほろ苦く感じるのであった・・・・・・・。

 

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☆帰京した翌日、7月に中国四川省を旅したみなさんと東京芸術劇場で再会した。群馬の3人からはそれぞれメッセージや写真が届いていたが、東京近郊の人たちは全員そろった。烏里君も5月に一緒に、四川省南西部を旅した大岩さんも来た。写真や俳句などの合評のあと近くの沖縄料理の店「みやらび」へ行って琉球舞踊を堪能しながら泡盛と琉球料理に舌鼓を打ったのであった。

8月3日は、まず市内に新しくできたという「もりおか啄木・賢治青春館」のぞいてみた。その足で渋民にある石川啄木記念館へ行った。この記念館との付き合いは長く、僕がはじめてこの地を訪れたのは、20代前半だからもう35年ほどになる。もちろん今の記念館でなくてその前の館。いまは物置になっているという。学芸員を20数年務める山本玲子さんとは、彼女が記念館に勤め始からであるから旧知の友でもある。啄木生誕110年のときに、作家の高橋克彦さんと関川夏夫さんと亡くなった漫画家で江戸文化研究家でもあった杉浦日向子さんと僕の4人で出来立ての姫神ホールで講演をしたことがある。それ以来かもしれない。館長や山本さんたちと八幡平の温泉で泊まり込みの忘年会もした。みななつかしい思い出である。今年は『一握の砂』刊行100年であり、来年は啄木の没後100年である。館では企画展として、「啄木と龍馬の視線」をしていて山本さんが丁寧に解説してくれた。3時間あまり2人だけで話しまくった。とにかく10数年ぶりだったので話が山ほどあるのである。彼女の労作『啄木うた散歩』をもらった。1月から12月までの季節ごとに啄木の短歌にエッセイを綴ったものである。僕は昨秋発行した『太宰治と旅する津軽』をプレゼントした。閉館時間を過ぎていたので、なごりほしかったが彼女と別れて北上川に建つ啄木歌碑の前に行った。厳寒の季節にひとりでこの歌碑の前にたたずんでいた20代の僕に思いをよせてみた。岩手山は深い霧のなかで姿は見えなかった。

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昨夜行ったホテルのすぐ近くの「モーリオの田舎料理 どん兵衛」という店が気に入って今夜も出かけた。宮古などから直送の魚介類はもちろん旨いが、ここの大将と女将さんと意気が会ったのである。賢治や啄木が好きで、地元では知られた山岳家で岩手山にほれ込んで180回以上登山しているという。女将さんも一緒に登るという。「岩手山だけは、おら賢治さんよか、登っているさ~」と言うだけあって詳しい。僕が岩手山を撮影にきたというとさまざまな撮影ポイントを教えてくれた。レンズの調子が悪くなったので、シグマの桑山さんと足立さんに連絡するとすぐに送ってくれた。ホテルを決めてなかったので、朝日新聞の盛岡総局へ送ってもらったのだが、届いたレンズを持ってT記者が店に来てくれたので一杯。南部は蕎麦処、旨い蕎麦を食べにもう一軒梯子した

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翌日は、まず小岩井農場へ撮影にでかけた。ここも10回以上は来ているのでほとんどは勝手を知っているようなもの。滝沢村の姥屋敷の集落を中心に走ってみた。夕べ教えてもらった春子谷地湿原に行ってみるとすぐ目の前にくらかけ山、その背後に高く聳える岩手山が雄大にある。この岩手山はいいな~と思った。さらに東側の山麓に広がる焼き走り溶岩流へ車を走らせた。噴火から260年前以上たっているのに一面の溶岩原にはコケ類しか繁殖していない不思議な光景である。人っ子一人いない溶岩流のなかを明るい内に3度歩いてみた。夜になって迷わないためである。しかし、漆黒の闇のなか、わずか50センチ四方の明かりの懐中電灯では、どこを照らしてみても同じような溶岩ばかり、1時間ほど彷徨って怖い思いをした。なんとか溶岩流から抜け出せたのは9時をまわっていた。夕日はよかったのだが、星空はきれにでなかった。温泉で汗を流して盛岡の街をめざして真っ暗な山道をひたすら走りぬけたのである。

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盛岡での夜は最後の日となる5日は、もう一度冬に来なければだめかも・・・と半ばあきらめかけていたが、この日はじめて朝から晴れ渡った。この日にかけるしかなかった。昨日に引き続き小岩井農場方面にまずは向かう。しかし、この日は姥屋敷でなく、網張方面に登ってみた。くらかけ山、岩手山山頂も間近くみえる。山容は裏山となるのでずいぶんと崩れる。途中に啄木の歌碑があつた。岩手山を詠んだ歌が刻んであり、バックの岩手山に対峙しているようでいい歌碑であった。網張温泉は、故郷の万座温泉の湯を思い出させる乳白色で硫黄の香りがした。岩手にきていくつかの温泉に浸かってみたが、この湯が僕は一番好きだ。ただ、山は虻が多い。早池峰山でさんざ虻の攻撃に合い、そこらを刺されていたので、落ち着いて湯に浸かれないので閉口した。みなハエ叩きを手にぶんぶん振り回しながら湯に浸かっているのである。大沢温泉もしかりで、僕は髪を洗っているうちに5~6箇所は刺された。跡がまたかゆくてたまらない。網張では、古老が僕の体をピシャリ、ピシャリと叩くのでびっくりしたら虻がたかっていたのだ。「みな虻たちは、旨そうなあんたに吸い付くからわしらは助かるよ~」と笑うのである。「山の湯の古老はぴしゃり虻を打ち」と僕は駄句を一句詠んだ。夕刻から春子谷地に陣取って、満天の星になることを祈りつつ待った。結果は写真をみてのお楽しみ・・・・・・・。盛岡最後の夜のビールはとりわけ旨かったのは言うまでもない。どん兵衛の主人も喜んでくれて、酒を何杯もついでくれて乾杯をしたのだった。

7月30日、東北新幹線・新花巻駅でレンタカーを借りてまず、向かったのは「宮沢賢治記念館」だった。館長の照井さんと副館長で学芸員の牛崎さんが待っていてくれた。賢治の生誕100年の頃以来だから、何と14年ぶりの来館であった。この記念館が創設されてから27年だから僕は27年前からここに来ていることになる。何か懐かしい気持ちが訪れるたびに湧いてくるから不思議だ。牛島さんから資料と1時間ほどお話を伺ったあと、写真が趣味で、記念館の周りの動物や野鳥、植物などを撮っていて、記念館の一角に展示してあるという館長の案内でそれらを見せてもらった。9月29日まで企画展として開催している「早池峰山と賢治ーいにしえの残丘幻想」は興味深く拝見した。館内に賢治関連の著書を展示してあるコーナーがあるが、そこに僕が三好京三、早乙女勝元、栗原敦さんとの共著で1996年3月に、日本図書センターから出版した『ジュニア文学館 宮沢賢治』全3巻がで~んと置いてあったのにはうれしかった。この本はA4版の大型本で、僕の写真約500点と文章も入っている。今見ると豪華本であるが、当時1セット定価37080円するこの本が発売と同時に3000セット完売してしまったといううから驚いたものだ。ともかく僕の代表作のひとつである。今回、新潮社が昨年の太宰治につづき「とんぼの本」シリーズで宮沢賢治を企画してくれたので、久しぶりのイーハトーブの取材となったのである。

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初日と2日目は、花巻温泉の奥にある台温泉に泊まることにした。もう30年以上花巻に通っているのに、台温泉は初めてであった。途中に賢治の童話「台川」の舞台である釜淵の瀧を撮影した。台温泉では老舗旅館の松田屋旅館に宿泊。そこの露天風呂で、たまたま一緒になった高知のFさんと夕食の時間も忘れて話しこんでしまった。奥さんと7年前からこの季節に約3週間、オートバイでツーリングに出ているのだそうだ。高知から北海道、東北を走って高知へ戻るという。農業をしていてこの季節だけ、少し時間が取れるのだという。僕が今月と10月に土佐へ行くし、土佐には、かれこれ30年前から行っていることを話すと一層話は盛り上がった。宿の人が心配して風呂場へ呼びに来たのであわてて部屋に戻った次第である。翌日再会を約束して別れた。31日、8月1日は、早池峰神社の例大祭宵宮と例大祭のため、70キロほど離れている大迫へと通った。「早池峰賢治の会」会長の浅沼利一郎さんとは、2日間、会ってこの地における賢治の行動について話を聞いた。浅沼さんは山岳ガイドもしていて早池峰山には100回以上登っているという。「どんぐりと山猫」に登場する笛貫の瀧や「風の又三郎」の舞台となった猫山、火の又分教場跡など興味深く取材した。

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早池峰神楽の取材では、第1回日本写真家ユニオン公募展で大賞を受賞した写真家のO君に会った。僕が審査委員をしていたので、覚えていて声をかけてくれたのであろう。早池峰山は登山口まで行ったが、2日間とも深い霧のなかでその山容は見せてくれなかった。3日目は賢治が小学校時代の夏によく父に連れられて行った大沢温泉へ泊まった。ここは僕の定宿でもう十数回は泊まっているだろう。久しぶりの菊水館は、昔とほとんど変わらないで出迎えてくれた。4日目は、奥州市の人首へ行って、「賢治街道を歩く会」の事務局の佐伯研二さんと会った。彼とはその後、また会うのだが共通の友人・知人も多く驚いた。15代目となる佐伯家もすばらしく、彼がそれを守っている。五輪峠、種山が原など一日僕を案内してくれた。高校教諭を50代で辞職して、自分が生まれ育った地と賢治の研究に情熱を注いでいるという。こういう地道な研究家がいるからこそ賢治研究は支えられいるのだと強く思った。花巻まで送ってくれた佐伯さんと別れて、一路、啄木や賢治が青春時代を過した盛岡へと走った。盛岡の街は1日からはじまった1万の太鼓が夏の夜空を奮わす「さんさ踊り」でごった返していた。20年来の友人の朝日新聞盛岡総局のT君が、ホテルを手配してくれていて助かった。10時過ぎに久しぶりにT君と再会を祝して乾杯をした・・・・・。

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7月30日の朝、自宅を出てから11日ぶりの今日、8月9日の夕刻に無事帰還しました。正直、相当疲れました。体がボロボロです。もう決して僕は若くはないのだとつくづくと実感した旅でもありました。でも取材すべきことは、ほぼ満足できたと自負しています。たくさんの人との新しい出会いもありました。宮沢賢治をもうかれこれ35年間取材続けてきたのに、新たな発見や深部が見えたような気がします。岩手県内だけでしたが、運転して走った距離は約900キロメートル。それも山道と夜道が多かったのでハードでした。夜は毎晩、9時、10時まで撮影をねばったので、山中では漆黒の闇、得体の知れない「ギャー」というような獣や鳥の鳴声を聞きながら・・・・。いくら熊といわれている僕でも決して気持ちのいいものではありませんでした。今日は写真を何枚か見てもらい明日から数回に分けて報告をしたいと思います。ちなみに今回の取材は、新潮社からとんぼの本シリーズで出版する宮沢賢治の本の取材です。ところで東北でありながら東京以上に極暑の日々が続き本当にしんどかったです。現地の人たちもはじめての体験であり、「つらい、つらい」を連発していましたよ・・・・・。

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☆11日ぶりの家の玄関は、山のような郵便物、書籍、雑誌などなど。その中に、毎年夏になると送ってくれるうれしい届け物がありました。高松のSさんは、絶品の讃岐うどん、岡山のHさんからは、僕はこのとき意外は口にすることはできない白桃の箱詰を。そして福岡のT君からは、僕の大好きな「かねふく」のめんたいこです。ほんとうにありがとうございます。 合掌!

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