写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2012年6月アーカイブ

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梅雨の晴れ間となった昨日、上野にある東京都美術館へ行った。久しぶりの美術館だった。20数年にわたりこの美術館で毎年開催してきた公募写真展「視点」、JPS展もここでやっていた。深く係わっていた時期があった頃を思い出しながら美術館の門を入った。この春、リニューアルオープンしたばかりの美術館に入館するのは初めてだった。今回はその新装オープンを記念した企画展の内覧会とレセプションに出席するためだった。実はこの美術館の広報担当者に、僕が主宰している写真研究会「風」のメンバーだったSさんがいて、この間、さまざまなご案内や招待状など送ってきてくれていたが、いつもタイミングが合わず出席できなかったので今回はどうしても思い出かけてきたのである。

会場はプレスをはじめ美術関係者などでいっぱいだったが、それでも内覧会だからフェルメールの「真珠の耳飾の少女」や「ディアナとニンフたち」などの代表作を目の前でじっくりと鑑賞できた。最晩年の「自画像」をはじめレンブラント作品が一挙に6作品並んでいる姿は壮観である。そのほか17世紀を彩った巨匠たち、ハルス、ライスダール、ルーベンス、ヤン・ブリューゲルらの傑作の数々を堪能できる企画展だ。作品鑑賞の環境やレストラン、休憩ルームなどの設備が充実した都美術館にぜひ、足を運んでみてください。上野の森は大樹に囲まれ気持ちがリフレッシュできる。この展覧会は今日6月30日から9月17日まで。

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僕もフェルメールたちの世界的コレクションに触発されたのか、いつになくシャツターを切った。会場内は許可を取ったプレス関係者しか撮影できないので、僕は美術館周辺をスナップした。    薄暗い会場で「小松さ~ん」と呼ぶ声がしたので振り返ると、この4月まで「アサヒカメラ」の編集長をしていたH君だった。脚立や大きな三脚を担いでカメラをぶら下げてニコニコ笑っていた。僕はあ~あ現場に戻って良かったと思った。彼も生き生きと見えた。別れ間際に「小松さん、また新宿のぼるがで飲みましょう」と言って取材に出かけて行った・・・・・・・・。

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夕方、出版社のYさんが明日から韓国に出かけるというので、前祝に軽く池袋でいっぱいやることにした。実は一昨日も病院に行った石神井公園で友人と沖縄料理の店に2軒いったばかりだった。Sさんも沖縄料理の店に一昨日行っていたという。しかし、またもや沖縄料理。時間が余り無いというので、駅前のいつも通っている「おもろ」と「みやらび」に顔をだした。昨日は夏のボーナスが出た会社が多かったらしく、めずらしく「おもろ」も「みやらび」も混んでいた。帰りに地元の店をのぞいたがどの店も満員状態。不況ではあるが、せめて懐が暖かい日ぐらいはという心情は良くわかるのだ~。

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 昨日6月27日から川越駅東口のアトレ6Fで始まった弟30回記念写真展「写真集団・上福岡」、松村敏興写真展「はな いのち」を見に行った。30周年記念にふさわしいそれぞれの力作が並んでいた。午前中飾り付けをし、午後1時からオープンしたのだが、僕が行った4時にはすでに入場者が100名を超えていた。非常に好評だと会員たちは喜んでいた。僕も「宮澤賢治 雨ニモマケズという祈り」よりー早池峰神楽の1作品を出品しているが、何だか気恥かしくなるような思いがするくらい会員たちの作品はいい。見に来てくれた日本写真家協会会員の烏里烏沙君も「プロ、アマチュアの壁を越えてすばらしい出来栄え・・・・・・」と感想を語っていた。

写真展は7月1日(日)17時まで。会期中の6月30日(土)15時から僕の作品合評が行われる。無料で自由に参加できますのでふるってご参加ください。希望者は終了後、交流会を予定しています。上の写真は、個展を同時に開いている松村敏興さん。作品の前で記念写真を撮った。松村さんが写真集団・上福岡の門を叩いてから、かれこれ10年程たつが、この間の彼の努力は目を見張る物があった。花一点に絞り、ひたすらその表現を追求してきたのだ。その集大成が今回の作品。はなの持つエロスをイメージした作品は、いままでの日本の作品でも例が少ない。作品から漂う生命への直向きな姿をぜひ、会場でご覧下さい。作者の熱い思いも聞けるでしょう。

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4月5月に一緒にチベットを取材した写真家の烏里君が、わざわざ初日に見に来てくれた。彼はチベットから帰国した後も2度四川省、雲南省へ行っており1週間前に戻ったばかり、そして3日後にはまたチベット国境の大雪山脈へ取材に入ると言う超多忙な写真家だ。チベット以来の再会だったので一杯飲んだ。8月の四川省西南地方の取材の打ち合わせも兼ねてだ。今月一杯で法律で規制されるレバ刺しを食べに行こうということになった。この日も3皿食べたがこの間食べまくっている感がある。大体5~60年にわたり日本人が食の一つとして食べ続けてきたレバ刺しを一方的に強制手段を使い法律で規制するとは、腹立たしいにも程がある。食の自由を奪うのか。それは何千万人もが食すれば、中には具合いが悪くなる人もいるだろう。それは何もレバ刺しに限ったことではない。命を落とすほどの猛毒のある河豚だってきちんと調理することで、美味しくいただけるのだ。それぞれの自己責任で食せれば良いことで、何かお上が刑罰をちらつかせながら法律で規制するやりかたは馴染まないであろう。

などと2人で文句を垂れながらもしみじみと「旨いね~」と食べたのである。もちろん芋焼酎をやりながらだ。この日はもう少し廻ろうかと魚を食べに行き、そして酒屋の立ち飲みで飲んで、最後にまた魚の旨い店でお開き。もちろん最後の2軒ではつまみは無しである。烏里君も久しぶりに旨い酒をたらふく飲んだと喜んでいた。薄暗い路地で彼の旅の無事を祈り、固い握手を交わして別れたのである・・・・・・・・・。 

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昨日、6月26日は弟131回目を迎えた「一滴」会の句会が新橋でおこなわれた。選者は3年目となる俳人・中原道夫さん。彼は「銀化」の主宰者でもある人気の俳人である。遠くは山口県から参加した同人をふくめて17人が参加した。記録として僕の駄句を記しておこう。しかし、僕の句がこの句会の最高得点句となった。11人の同人が選句してくれたのだ。でも選者の中原先生選は入選。準特選でも特選でもなかった。おうおうにこうしたことはあるものである。

深酒の面を鏡に桜桃忌  (11点・入選)      原発の稼動を嗤ふ青葉木菟  (3点・準特選)

夏断かな汚染の消えぬ町の僧  (0点・予選落ち)

皮肉な物で僕が一番よくないと思っていた太宰の亡くなった日のことを詠んだ桜桃忌の句が人気があって、一番推敲し、悩んだ句が全然だめという結果だった。「夏断」という言葉がなじみがなく、中七の汚染の消えぬが強すぎた感があったのだろう。やはり17文字のなかに季語を入れて森羅万象と己の想いを表現するのは難しいものである。僕としては、いまだ放射能汚染が癒えぬ土地の僧侶が梅雨の時期、酒や肉食を断って自らを律し、精進している姿に自分もかくありたいもであるという思いを重ねたのだが・・・・・・・。伝わらなかった。僕の力不足の何物でもない。

句会に参加する前に、銀座キャノンギャラリーで27日まで開催している芳賀日向写真展「東日本大震災ー被災地の夏祭り」を見た。作家の芳賀さんもいて、いろいろと話した。初日のオープニングパーティにでれなかったので、どうしても見ておこうと寄ったのだ。作品は青森、岩手、宮城、福島の夏祭りを震災以降撮影したもので、この後7月12日から24日まで仙台のキャノンギャラリーで巡回される。世界の祭りを撮っている写真家・芳賀日出男さんは、彼の父親である。僕はどちらかというと親父さんである日出男さんとの付き合いが長く、日本各地の祭りでまだ元気だった奥様と2人で取材している所に出くわし、よく飲んだものである。その後、藤本四八写真文化賞が創設されその弟1回受賞者に芳賀日出男さんが選ばれ、弟2回の受賞者が僕だったこともあり、一層親しくなったのだ。父親が歩んできた道をその息子が継いで行くのは羨ましく思えた。そして日向さんのさらなる飛躍を期待したいと思った・・・・・・・・。  

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一年で昼の長さが一番長い日、夏至は6月21日頃。句会が終わってみんなで交流会を2時間ばかりして外に出たがまだまだ日は沈んでいなかった。大陸の夕日みたいな日差しが大都会のど真ん中で出会えるとは・・・・・・・・中原さんと同人たち。俳句仲間が経営している居酒屋で一杯した後、何度か行ったことがあるホテルオークラ東京のオーキッドバーへ行った。このバー何時来てもゆったりした時間が流れているような雰囲気がある。ホテルが創立して50周年となることを記念して作った50年記念ボトルのブランデーとウイスキーをごちそうになった。いつも俳友の宝海さん、ありがとうございます・・・・・・・・。合掌

 原色のちぬ口開けし沖縄忌    風写

6月23日の今日は、67回目を迎える沖縄の「慰霊の日」だ。沖縄の人々はこの日をもって沖縄戦の敗戦の日と位置づけている。今日、各地で戦没者に対して祈りが捧げられたが、沖縄戦の最後の激戦地となった南部の糸満市摩文仁の平和公園では「沖縄全戦没者慰霊祭」がおこなわれた。戦後67年も過ぎ、日本へ復帰してから40年もたっているのにもかかわらず、沖縄の実態はなんらかわっていないのが実情だ。在日米軍基地の74パーセントはいまだ沖縄にあり、世界一危険な基地と言われている普天間基地は返還しないばかりか、珊瑚やジュゴンが棲むちゅら海を埋め立てて新基地を作ろうとしている。加えて今秋にはその危険な普天間基地に、何度も墜落事故をおこしている垂直離着輸送機MV22オスプレイの配備を強行しようとしているのである。

野田首相の白々しいあいさつは聞いていて腹がたった。一言も上記のことについては触れなかったのは言うまでも無い。しかし、さすがに仲井真沖縄知事は、普天間基地の県外移設を強く訴えたし、県議会の高嶺議長は、オスプレイの配備反対を明確にしたあいさつをした。いつも思うのだが、日本の首相は一体何処の国の総理なのか。何処の国民に顔を向けているのかと思う。これは今までの自民党政権からずーと同じことである。1945(昭和20)年3月26日から6月23日まで続いた沖縄戦では、「鉄の雨」や「鉄の暴風」と言われるほどの艦砲射撃がおこなわれ、その凄まじさは沖縄の地形が変わるほどであった。日米両軍と民間人を合わせて25万以上の人が亡くなっている。その内、沖縄の人は15万人以上が死んでいるといわれる。沖縄の人4人に1人が亡くなったことになる。

朝鮮から連れてこられていた人たちも1万人以上が亡くなっていると言われるが、その実態は正確につかめず、上のデータには入っていない・・・・・・・・。  こうした事をみれば、子どもたちでさえ沖縄にもうこれ以上の他国の軍事基地を押し付けてはならいと思うはずであるが、残念ながら我が国の歴代首相たちは誰一人、そうは思わないのが不思議でならない。あっそうそう一人だけ一時「普天間基地の移転先は最低でも県外・・・・・」と言った首相がいたっけ・・・・・・・・。

僕も毎年のようにこの慰霊の日には沖縄に取材に行っていた時期があったが、ここ数年はいっていない。今日届いた手紙のなかに沖縄の友人からのものがあった。彼は「沖縄タイムス」の写真部長など務め、退職後はフリーの写真家として活躍している。その一節に「沖縄は去る5月15日で復帰40周年を迎えました。この節目に小松さんと沖縄の写真仲間との交流会等が開催できないものかと常々考えてます・・・・・・」とあった。うれしいことである。僕も一人の日本人として、そして一人の写真家として何ができるのか、何をしなければならないのかを自らに問いながらこれからの命を生きて行きたいと思っている・・・・・・・・・。 

はるか1700キロメートル離れた地からではあるが、こころから戦没者のみなさんの御霊にたいしてお祈り申し上げます。  合掌

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(写真は上から 摩文仁の平和公園の「平和の火」、やんばる地方・東村のマングローブ、糸満市・ひめゆり隊の記念資料館、沖縄島・残波岬  全て2008年12月撮影)   

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今朝は台風一過の天下晴れ。台風4号は疾風のように日本列島を駆け抜けていきましたが、みなさんの所は大丈夫でしたか?・・・・・・・。僕も朝6時には起きて家の回りを見たが心配していた金木犀と山茶花の木は大丈夫だった。猫の額のような庭にそれぞれ4本づつあり、いま若葉がたわわに繁っているので倒れぬか心配していたのだ。独り暮らしの母にも電話してみたが、庭の木が一本折れただけで済んだと言っていた。一安心。しかし、この梅雨時に台風が上陸するのは、珍しい。6月の台風上陸は8年ぶりで、気象庁がデータを取り始めてからわずか10回ということだそうだ。北海道や東北地方はまだ、台風の影響は残ると思うので、くれぐれも注意してください。 家の周りにも紫陽花がたくさんあるが、いまは盛りと咲き誇っていた・・・・・・・。

沖縄は「うりずん」の季節が終わり、そろそろ本格的な夏到来みたいだ。沖縄各地でおこなわれる海人の祭りハーリーがおこなわれると沖縄は夏本番の季節を迎えるのだ。ハーリーは今から600年前の琉球王朝時代から永永と引き継がれてきた行事。糸満市のハーリーが有名だが小さな村村でもおこなわれている。僕は観光客がいない村びとだけでのんびりとおこなっている小さなハーリーが好きで、一日中村びとたちと島酒をやりながら過すのはなんとも心が洗われるのである・・・・・・・・・。あ~あ、沖縄へ行きたくなったさ~!!☆ 

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僕は基本的に朝食は食べない。昼頃に昼食と合わせて取ることが多い。だいたい上の写真のようなメニューだ。野菜を大きな鉢一杯。レタス、胡瓜、ピーマン、トマト、ゴマにオリーブオイルと黒胡椒と出汁醤油のオリジナルドレッシングだ。それに青汁に豆乳を混ぜて飲む。コーヒーも必ず。この日は珍しく豆パン。玄米、はと麦、玉蜀黍、大麦、黒豆などブレンドしたご飯が多い。夏になってようやく野菜が安くなってきたのでホッとしている。先日、近所の農家のおじいさんが新じゃがと新玉葱を売りにきたので200円で買った。この2種類の野菜をメインに家にあったどんこと呼ばれる干椎茸と木耳を入れて煮物を鍋一杯作った。3日間はこの煮物ばかり、しかしジャガイモも玉葱もおいしかったなあ~。男鰥夫に蛆が湧くといわれるが、そうでもないのだ・・・・・・・。

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最近、家に篭もっていることの多い僕は、よく映画を見ている。地上デジタル放送の番組はあまり見たい番組ががなくて、BSとかCAなどを見る機会がおおくなった。特に時代劇専門チャンネルだとか日本映画専門チャンネルなどというのがあって、昔見落とした番組や映画をやっていておもしろい(有料だが・・・・・)。昨夜、伊丹十三監督映画劇場とか言う彼の全作品を放映している番組があった。そこで映画「大病人」を放映していたのだ。この映画は1993年に公開され、評判を呼んだもの。主演の三国連太郎はこの年の日本アカデミー賞で主演男優賞を受章し、録音賞もこの映画が取った。日本映画初のデジタル合成を製作に使った作品としても注目を集めた。またラストのクライマックスシーンでは、黛敏郎作曲の「般若心経」の大合唱と演奏がおこなわれて圧巻であった。出演は三国の他に津川雅彦、伊丹監督の奥さんの宮本信子などである。

この映画の制作が始まって間もない頃、伊丹十三監督の映画のほとんどのプロデューサーをしている細越省吾さんから突然電話が入った。この映画のシーンに僕の作品を使わせて欲しいということであった。僕の自宅までわざわざ訪ねてくれ、2~3時間ヒマラヤの写真を見て5~6点セレクトした。細越さんによれば、伊丹監督が雑誌で僕の写真を見て、「これからの短い間ではこんな風景は撮れない。病人の三国さんがあの世に行く途中に見るさまざまの風景に使いたい」ということだった。使用料や氏名表示、それに原画でなくデュープをして使用することなど取り決めて承諾したのである。もう20年程前のことであるから僕も40歳前の若造だったが、細越さんは全て了解して受け止めてくれた。その後、伊丹監督があのような不慮の死をする前に、細越さんは病気で亡くなってしまったがいまでもあの時のことはよく覚えている・・・・・・・・。

僕はこの映画の撮影現場にも細越さんの手配で自由に出入りし撮影もさせてもらった。伊丹監督にも紹介してもらい、昼飯もスタジオの食堂で一緒にごちそうになった。この時に撮影した写真はいくつかの雑誌のグラビアにも使わせてもらった。僕の著書『小松健一の写真教室 シャッターはこころで切れ』にも伊丹監督の肖像写真を掲載させてもらった。その後、伊丹監督の妹さんの夫である作家の大江健三郎さんの息子さん、大江光さんのコンサートにも招待され、僕の目の前の席が、伊丹監督夫妻、その隣が大江健三郎夫妻だったのでびっくりしたことがあった。その時にもニッコリ笑って「この前はありがとうございました」と頭をさげられた伊丹監督。僕は今もって監督のあの死に方には疑問を持っている。右翼や暴力団などの嫌がらせで、頬を十数センチに渡って斬られたり、映画の上映前にスクリーンを切られたりしたことが続いていた時期と重なるからだ。何故、あんな卑劣な妨害にも屈しなかった監督が若い女性との関係などの噂程度で、ビルから飛び降りて自らの命を断つのだろうかと今でも不思議でならない・・・・・・・・・。 

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作品中に使用されたのは、上の2作品。農民の手と山いちごの写真は、停まっているハエを動かしていた。下の赤い蕎麦畑の写真は、山霧が村々や蕎麦畑の上を流れていた・・・・・・・・。それぞれネパールヒマラヤのドルパ地方とムスタン地方で1990年に撮影したものである。映画の最後のスタッフの名前の後、写真提供として僕の名前もきちんと記入されていたのを昨夜も確認した・・・・・・・・・。 

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 6月15日、東京で2012年度協同組合日本写真家ユニオン第10回通常総会が開かれた。僕は2年ぶりの参加であった。設立してから10年目となると思うとやはり感慨深いものがある。今期限りで創立から理事を僕とともに務めてきた理事長の芥川仁さんと副理事長の若生靖夫さんが退任するので、いわゆるユニオンの歴史を本当に知っている人はいなくなった。ユニオンが出来てから入会してきた人たちが理事の大半を占める。これも時代の流れなのだろう。創立に向けた約20年、そして経済産業省の認可を取って設立してからの5年間、苦労の連続だったことが走馬灯のように思い出された・・・・・・・・。

新しい三役は、理事長は、佐藤浩視組合員、副理事長は唐木孝治組合員、そして専務理事は岩尾克治組合員が選出された。かれらを軸に新たに選出された理事9人でしっかり団結して2年間がんばって欲しいと期待する。懇親会には写真業界で賛助会員になっている二コンイメージングジャパンの人たちや日本写真家協会、日本広告写真家協会のメンバーたちも参加して2次会、3次会と遅くまで続いた。

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総会が終わった後、この日からオープンした弟7回日本写真家ユニオンオリジナルプリント展のオープニングパーティーにみんなで参加した。出品者をはじめ、ユニオンの新入会員など大勢の人たちが参加してくれた。この写真展も僕が専務理事をしていたときに一つの事業としてはじめたものであるがあれから7年の月日がたったかと思うとやはりうれしい限りである。「東京写真月間」に合わせて毎年6月に開催してきたが、これからもさらに発展してほしいと願うばかりである。  ☆会場のギャラリー新居東京は 銀座1-13-4銀座片桐ビル5F 電話03-6228-7872 11時から19時まで(土曜日のみ18時) 日曜日は休み。僕は昨年に引き続き小品ではあるが1点買い求めた・・・・・・・・。出品者は7人の組合員である。

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 今月27日から始まる弟30回記念写真展「写真集団・上福岡」に向けて、最後の例会が昨日開かれた。参加者全員の出品作品も決まり、DMも各方面へ配布するなど成功へむけて急ピッチに準備がおこなわれている。昨年から今年にかけて8人の新入会員が増えたこともあり、記念展にふさわしい力作が展示される。18人それぞれの個性が表現されていて幅広い内容となっている。会期中の6月30日(土)午後3時からは僕の作品合評がおこなわれる。無料で自由参加ですので、ぜひお越し下さい。終了後懇親会も予定しています。もちろん僕も特別出品として展示します~よ。

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写真集団・上福岡の有志たちと懇親を深めた後、久しぶりに地元の居酒屋「三福」に寄った。東日本大震災以後、地元の人たちの絆を広め、被災者の人たちと連帯しようと始めた「きずな寄席」の世話人をし、会場も提供してもらっている居酒屋さんだ。第三回目となる次回の寄席の日程などについて相談をしたのである。上の写真が「三福」の大将と女将さん。下がやはり世話人をしてもらっている地元の山本建設の社長ご夫妻だ。山本さんとも久しぶりに飲んだ。この後、僕独りで2軒回り12時頃に再び、山本夫妻たちと飲んだのである・・・・・・・・・。1週間ぶりの外出だったので少し飲みすぎたかな~!

6月9日に関東地方と東北地方の南部をふくめて入梅した。これで日本列島のほとんどが本格的な入梅をしたことになる。毎日毎日がじめじめしたうっとおしい日々がしばらく続きそうだ。この間、僕は家に篭もって「弟23回マリナーズ・アイ」展の総評と入賞作品の作品評を書いていた。今日書き上げたが字数は8000字を超えているからけっこうな文字数である。これをすでに十数年続けているのだから自分ながらちょつとはえらいなあ~と思ったりもするのだ。

一昨日、イタリアのローマとミラノにいる友人と知人からメールが入った。昨年イタリア国民が国民投票をして「原発NO!」を表明したが、日本人としてイタリアに滞在している彼女もその運動の一翼を担ったのだという。それで一周年を迎える今月の12日に、記者会見を開き、イタリアだけでは不十分なので、日本の原発を中止して欲しいという要請文を日本政府に出すことをイタリアの科学者たちが呼びかけて、署名活動をはじめたことを広くアピールしたいのだと言う。そのために日本のジャーナリズム、マスメディアなどに僕からも呼びかけて、イタリアでの記者会見に参加するように働きかけて欲しいとのことだった。 

しかし、現在は直接の友人はイタリアにいない。朝日新聞のローマ支局長をしていた知人は数年前に日本に帰っている。大手新聞やテレビ局は必ず支局を置いているだろうし、特派員もいるのだが・・・・・・。とりあえず僕の方の状況を知らせた。そしてネットや電話帳などで調べることは出来ないのか訪ねてみた。 しかし、金融危機などで騒がれているユーロ圏のイタリアで、日本の将来を心配して、原発の危険性を日本の政府に提言する運動をしている人々がいると思うとありがたいと思う反面、日本人として恥かしくなる。世界を震撼させたあの福島原発事故がおきてからまだ1年3ヶ月しかたってないのに、まだその原因や放射能漏れの収束の方向性すら見えていないのに、さらに祖先伝来の故郷に帰れないで避難している人々が16万人以上いるのにもかかわらず、あのドジョウ首相は平然と「国民生活を守るために、原発の再稼働は不可欠だと私の責任で決める・・・・・」とノタマッワタのである。 

僕はこの記者会見を聞いて、この男許せないと真に腹がたった。本当に責任がお前に持てるのか!と問いたい。もし、その気が少しでもあるのならば、まずは福島原発事故現場の最前線で日夜命をかけて復旧作業をしている人たちを激励して欲しいと思う。それくらい責任を持って大飯原発を再稼働にふみきるのならば、覚悟を見せて欲しい。国民の生活と命を守るといううのならば・・・・・・・。僕ら日本人はもっと真剣に怒らなければならい時だとつくづくと思う・・・・・・・・。   

 

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四川省の成都からチベットのラサをつなぐ川蔵公路は、ラサへの巡礼者の道でもある。何ヶ月もかけて家族や親戚一族でラサを目指している・・・・・・・・。

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川蔵公路沿いに聳えるクイチャ山。みな6000メートル以上ある山だが無名峰が多い。まるで川蔵公路を塞ぐように聳えている。道路から撮影。 

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この家族も後幾日歩いたらラサに到着するのだろうか。途中には氷雪の5000メートルを超える峠も幾つかある。 ひたすら無事を祈って・・・・・・・・・。  合掌

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昨日、6日弟23回人と海のフォトコンテスト「マリナーズ・アイ」の審査会が六本木の全日本海員福祉センターのビル内でおこなわれた。このコンテストは1990年に「弟50回 海の記念日」の記念行事としてスタートしたもの。主催は財団法人全日本海員福祉センター、後援は国土交通省、公益社団法人横浜市芸術文化振興財団である。

今年も約3000点の応募作品の中から、大賞、推薦、特選、優秀賞の15点に佳作作品105点、海事関係者の応募作品の中から全日本海員福祉センター会長賞と特別賞が選ばれた。審査委員の丹野章(日本写真家協会名誉会員、日本写真家ユニオン顧問)さんと僕で延々6時間30分かけての審査だった。写真は第二次審査風景だが、とにかく2人で全作品を見る。つまり各自3000点の作品に目を通すということだ。終了した午後8時には、2人とも精も根も使い果たした。口をきくのも億劫ぐらいに疲れ果てた。発表は7月上旬に各応募者に直接知らせが行くことになっている。

写真展は7月3日~9日まで、横浜赤レンガ倉庫2階スペースCで本展が開催され、続いて神戸弟2地方庁舎1階ロビー、北九州市立美術館と巡回展が予定されている。海に関する写真では、どこにも引けをとらない内容の作品群だ。120点をこえる海の写真をぜひ、見に行って欲しいと思っている・・・・・・・・。

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せっかく六本木に出でかけるのだから今、六本木で開催している3つの写真展を見るために家を早めに出かけた。まずは2012年度「日本写真協会賞受章作品展」だ。作品賞の高梨豊、石川梵、新人賞の公文健太郎、齋藤麻子の各氏の作品はよかった。同じフジフイルムスクエアにある写真歴史博物館で8月31日まで開催している終生モダニズムを貫いた写真家・植田正治さんの世界展を見た。鳥取砂丘を舞台に撮影したオリジナル作品だ。植田さんの代表作である。1980年代初めに、ニューヨークの街で植田さんとバッタリ2度も会ったことがあった。植田さんから「小松さ~ん、何しているの?」と声をかけられてビックリした。2人で記念写真を撮って別れたが、その後また日本料理屋で会ってお互いに笑いあったことがあった。植田さんは短パン姿だった。 僕には遥か青春の日々だったような気がする・・・・・・・・・。 

最後は熊切圭介さんの写真展だ。ホテルアイビスミニギャラリーで7月9日まで行われている。会場にちょうど熊切さんの息子さんで写真家の熊切大輔君がいたので、彼と現代の写真表現のことなど話し合った。42歳だという大輔君はいま、一番油が乗っている写真家。お父さんに負けないような写真家となるよう期待している・・・・・・・・・・。 

海員福祉センターの役員の人たちと丹野さんとご苦労さん会を兼ねた夕食を六本木で済ませた後、新宿で写真家の塩崎亨君と会った。先日取材に行ってきたチベットの作品のことで打ち合わせをした。デジタル音痴の僕のために何かと協力をしてもらっているのだ。0時半頃まで飲みながら写真のことについて話し合った。彼もまた期待している日本の新鋭写真家の一人である・・・・・・・・。

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( チベットのラサにあるジョカン(大昭寺)で一心にお経をあげる娘さん。この古刹は2000年にユネスコの世界文化遺産に認定されている)   

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本格的な入梅を前に家の前の建設工事も急ピッチで進んでいる。今朝は大型クレーン車が入り家の外壁などを積み上げていた。梅雨のうっとおしさにプラスして騒音等に悩まされる日々である。ここ数年来、僕は必要ない限り都内に出ないようにしている。用事も必ず幾つか一度に済ますようにしている。ということで家に居ることが多い。だからこの騒音や地響きなどは相当堪えるのだ。一昨年からすでに5棟建った。しかし、肝心のぼくの家の真前の土地にまだ建っていない。この工事が始まると本当に悲劇だ。工事期間中だけでもどこかに避難したい心境である・・・・・・・・。 

俳句同人誌の「一滴」11号に、「2011.3.11」と題した俳句の他に、「故郷・上州人気質とチベット」と題した1600字程度の文章を寄せた。上州が生んだ思想家・内村鑑三が書いた漢詩を紐解きながら、探検家・矢島保治郎の生涯を重ね合わせた内容である。この夏に刊行予定なので一読していただければ幸いです。(僕の「上州故里」の写真も3点載せています)

 6月1日は「写真の日」である。数年ぶりに日本写真協会賞の受章式・ならびに受章祝賀レセプションに出席した。僕も2005年に同賞の年度賞を受賞していることもあるが、今年度は僕が推選した作者が受章したこともあった。加えて受賞者に多くの親しい人たちがいたからである。受章レセプションの前に、今年度受賞者でもある石川梵君の写真展と現在、都内の4ヶ所のギャラリーで開催している「アジアの写真家たち2012フィリピン」二参加している3人の写真家たちの作品も見た。石川君の写真展「人の惑星」(キャノンギャラリーS・品川 6月13日まで)は彼の代表作で1990年フリーになって以来、追い続けてきたテーマ「自然と人間そして祈り」の集大成であり、見ごたえがある。僕と同じような土地を取材しているので、石川君の視点に興味があった・・・・・・・・・。ばったり中国を舞台に映画の仕事をしている写真家のO君に会ったのでフィリピンの写真家たちの作品は一緒に見た。

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2012年度日本写真協会賞の受賞した人たち。僕と親しい、もしくは知り合いの人たちを紹介すれば、左から大島洋(故多木浩二氏の代理)、国際賞の山岸享子氏、一人おいて新人賞の公文健太郎君、作家賞の高梨豊氏、石川梵君、左から2人目、功労賞の熊切圭介氏と前列功労賞の福島辰夫氏らである。

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中央の旭日双光章を授与された日本写真文化協会会長の大石直臣氏ら。

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会場は午後6時30分過ぎには満員となった・・・・・・・・。

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大石会長に頼まれて記念写真を撮ったがご覧の通り。田沼武能日本写真家協会会長をはじめお偉方の面々がづら~りと並んだので、恥ずかしながら手振れをしてしまった・・・・・・・。ごめんなさい!!

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続いて丹野章日本写真家協会名誉会員が僕を福島辰夫夫妻に「僕の親友で~す」などと紹介して、この貴重な写真を撮っておいてくれというのだ。左端の丹野さんの隣は、「グループVIVO」のメンバーでやはりJPS名誉会員となった川田喜久治さん。右端の熊切さんは、丹野さんの助手をしていたので、若かりし頃、福島さんや川田さんたちともみな出会っている・・・・・・・・・。 

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2年ほど前から車椅子での移動となっている写真家の木村恵一さんは、熊切さんと日大時代の同期、現在も2人で事務所を運営している大の仲良しだ・・・・・・・。車椅子から立ち上がって記念写真に応えていた。

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田沼会長が真剣に評論家の福島辰夫さんを撮影していたので、撮ろうと思ったが、間に合わず。このカメラシャツタースピードが遅いため、どうしても暗い場所や早い動きの被写体はこうなってしまう。丹野さんが田沼会長に声をかけたのを回りの人たちが見ていて拍手~☆!!

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福島、丹野、田沼のこの日本写真界の伝説的となった三巨頭が一緒のショツトはそうは撮れないであろう。それで被写体ぶれの写真でも記念にアップしておくこととしたのだ・・・・・・・・。

会が終了後、僕は独りで友人がしているスナックで少し飲んだ。そこでばったり会った友と近くのバーに行ってゆったりと話しながらまた、飲みなおして家路へと向かったのだ。 久しぶりに愉快な酒であった・・・・・・・・。

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