写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2010年4月アーカイブ


4月27日、東京・新橋福祉会館において、第106回「一滴」句会の例会が講師の中原道夫さんを招いて開催された。前にも書いたがこの2年間は、「一滴」選者として中原さんにお願いすることにしたのだ。この日、「一滴・しずく」10号が印刷されて届いた。カラーページ64Pを含めた118ページのボリュームある記念号となった。特集は会の9周年を記念して昨年開催した「一瞬世界の飛翔」展である。会員は、岡井輝毅代表をはじめ35人が出品した他、写真家では、秋山庄太郎、林忠彦、細江英公、石川文洋、大石芳野、川上緑桜、熊切圭介、栗原達男、白旗史朗、白川義員、稲越功一、斉藤康一、前田真三、藤井秀樹、藤森武、土田ヒロミ、木村恵一、浅井慎平、飯島幸永、大西みつぐ、林義勝、星野小麿、吉野信、吉村和敏、中谷吉隆の各氏など。俳人では伊丹三樹彦、池田澄子、正木ゆう子、山元志津香、松井牧歌氏らに協賛出品していただき、その全作品が一人1ページづつ載っているのだから圧巻である。もちろん僕も沖縄で撮影した写真と「原色のちぬ口開けし沖縄忌」の句をヒマラヤの手漉きの紙に揮毫したものを展示した。



この日も2月句会に続いて、中原道夫選の特選5句に70句余りの投句の中から僕の句が選ばれた。入選も1句、選外が1句であった。上から順に紹介しましょう。


    特選  諸葛菜男鰥の部屋に散り     (風写)


    入選  独活匂ふくりやに佇ちし母の背よ


    選外  芹摘むや土屋文明疎開の地


同人が票を入れてくれた一番の高得点句は選外の句だった。実は僕もこの句が好きな句ではあった。句会終了後は、いつものように希望者で懇親会へ。安くて旨い鮮魚を出す店にいった。2次会は僕と中原さんだけでママが一人でやっているスナックへ行って前回同様カラオケを歌った。途中から新橋で古くから代々お店をしているY同人が駆けつけて来てくれて、3人で遅くまで中原さんの美声を肴にウイスキーをあおったのであった。


世の中、今日から一週間の休み、”ゴールデンウイーク”に入った。僕は7年に一度開かれる5月3日の諏訪大社の御柱大祭の取材に行く予定だけである。後はいつもの家篭りとしけこむつもり・・・・・。さて菜種梅雨の昨日、東京地方裁判所の民事10部520法廷において画期的な判決が言い渡された。3年前の2007年の東京簡易家庭裁判所、そして2008年から東京地方裁判所に引き継がれ、足掛け3年かかった裁判の判決であった。ここでは詳しくは述べないが当時、(協)日本写真家ユニオンの理事をしていた原告が、不当な言いがかりとも言える内容で、協同組合日本写真家ユニオンに対して百数十万円という多額の慰謝料等を請求してきた裁判である。れっきとした経済産業省・認可法人の総会で選出された執行部の役員がである。とても納得できるものではなく、それでも同じ職業写真家という立場から何とか円満に解決できないかと務めてきたが相手側がどうしても多額の金額にこだわったため、やもう得ず組合員の財産を守るために闘ってきたのである。その判決であった。結論を言えば「完全勝利」。ユニオン側の弁論が百パーセント認められ、真実が明確となった判決であった。



僕は、すでに2年前にユニオンの専務理事も理事も辞めていたが、この不当な裁判を許すわけには行かないと思い裁判対策委員の一人として係わってきたのである。まだ相手側が高裁へ控訴する可能性もあり、諸手を挙げて勝利宣言とまではいかないが、傍聴に来ていたユニオンの副理事長、専務理事、理事たちと担当弁護士の先生から判決内容の説明を受けながら、まずは長かった裁判の日々を振りかえって互いに労をねぎらったのであった。



その足で、銀座シネパトス(03-3561-4660)で今月30日までやっている映画「『密約』-外務省機密漏洩事件」を観にいった。1978年に制作された映画ではあるがまさに、今回の政権交代で、初めて国民の前に真実が明らかになりつつある沖縄返還にともなう機密をすでにこの映画は予測していた様である。原作は作家の澤地久枝さんで、日本の安全保障と日米関係の本質を鋭く突いた社会派の映画として、非常にリアリティーがあり、全編通じて緊迫感があった。また、報道のあり方と権力の関係についても考えさせられた。席はわずか100席あまりの小さな映画館ではあるが座席はゆったりとして気持ちがよい。5月1日より「クロッシング」という北朝鮮からの脱国者家族を描いた映画が封切られる。5月29日からは冤罪事件として注目されている「BOX 袴田事件 命とは」が同館で封切られる。どちらもぜひ、観たい映画である。その後、銀座二コンサロンで第29回土門拳賞受賞作品展「RYULYSSES」鈴木龍一郎写真展を見に行った。鈴木さんとも作品のことで話した。会場にたまたまユニオン会員のNさんがいたので、久しぶりに銀座で食事をして帰ってきたのだった。

 


昨晩は美しい月夜であったが、今朝はようやく春らしい穏やかな陽射しのなかで目覚める事ができた。庭の4本の金木犀の若葉も生き生きと太陽に向かって伸びている。僕が20代の時に出版した歌集に『春ひそむ冬』というのがあるが、まさに今年は厳しく長い冬であった。その冬をじっと耐えて、いま小さな庭の木々も街路樹たちもいっせいに芽吹きはじめる季節なのだ。こういう風景のなかに身を静かに置いているだけでも、こころが洗われる思いがするのである。



昨日は(協)日本写真家ユニオンの顧問・相談役の「謝恩懇親会」というのが、新宿の土佐料理の店でおこなわれた。相談役を引き受けてからこの2年間で初めてのことなどで出かけたのだ。相談役は、前理事長の丹野章さんと僕。顧問には細江英公、岡井耀毅、水越武、石川文洋、白旗史朗、児島昭雄、藤本俊一、三本和彦の8氏がなっている。皆多忙の人たちであり、昼間ということもあって、残念ながら出席者は少なかったが、宮崎から芥川理事長をはじめ、あがた副理事長、若生専務理事、多くの理事、そして監事が参加した。僕もユニオン誕生までの経緯、その意義と役割、日本写真家協会との関係など新しい理事が多かったので語った。副都心の高層ビルの50階にあるこの店は、いまの龍馬ブームにあやかってか、昼時から流行っていた。



懇親会が終わってからは、新宿、銀座、六本木と10会場の写真展の梯子をして見た。しかし、あまり感心できるものはなかった。その中で銀座二コンサロンで27日まで開催している安島太佳由写真展「時代瞑りー太平洋戦争 激戦の島々ー」が胸を打たれた。この3年間でガダルカナル、レイテ、サイパンなど19の島々を取材しての力作である。決して派手さはないが、こうした作品がもっと脚光を浴びるべきだと強く思った。そして安島の写真家としての気概に心からの拍手を送りたい。最後は六本木の富士フイルムフォトサロンで29日まで開催している森田雅章の「夢幻」へ行った。森田君とはかれこれ30年以上前からの知り合いで、僕としては今回の様な幻想的な花の写真展よりも、彼本来のドキュメンタリーの作品を評価している。近年取材を続けているバングラデシュの作品は特に良い。昨年初めて見せられて感動し、直ぐに雑誌の「デイズジャパン」に紹介をしたものである。写真研究会「風」の同人たちも合流して夜はささやかではあるが、森田君を囲んで祝いの宴を張った。しかしそこでも延々と写真論議が深夜までくり返されたのであった。疲れたぜよ・・・・・。


20日から22日まで上州へ行ってきた。「上州児・矢島保治郎 生誕130年、没後50年記念顕彰企画書(案)」出来上がったので、それを持って群馬県企画部長、副部長、地域政策課課長など県庁の人たち。上毛新聞社、文化・生活部長、朝日印刷工業株式会社社長、前群馬県立土屋文明記念文学館館長をはじめ、上州を拠点に置く芸術家、編集者、企業家の人たちに、この企画書の主旨説明と協力をお願いに廻ったのである。そして作家の渡辺一枝さんに、ご紹介していただいた矢島保治郎のご遺族の方に、ごあいさつに伺ったのである。



初日の夜は、おふくろが暮らす実家へ泊まった。さくらは散り始めていたが、僕はこの散りはじめの頃が一番好きなので故郷のさくらの風景をしみじみと味わうことができた。いつもの様に犬の「五右衛門」は、散歩に連れていってくれる僕のことはご主人様と思っているので、その喜びようは写真の通りだ。4月21日は「原町の安市」の日というので、おふくろと近所のおばさんと出かけてみた。JR原町駅前にある八坂神社辺りが市が開かれる場所で、僕が子どもの頃、よく来ていたときは、春は苗木や金物の店を中心に200軒以上が軒を連ねてにぎやかなものであった。近郊の村々からも大勢の人出で、師走に開かれる市とあわせて数百年の歴史のある市だという。約50年ぶりの「安市」は、店も何軒も出ていなく、人通りも少なく、寂しいものであったが、僕はまだ細々であるが続いていたことが妙にうれしかった。



おふくろとおばさんは、草刈鎌と草かき熊手みたいなものを買い求めていた。僕は無料で配っていたコンニャクの味噌おでんをほうばり、蒸したての味噌焼きまんじゅうを食べた。(大振りの饅頭が4ヶ付いて200円。子どもの時分は5ヶ付いていて5円だった)これは旨いと思った。やはりその場で蒸して焼かないとだめだ。最近は、まんじゅうが硬くパサパサしていてあまり旨いと思ったことがなかったのだ。この焼きまんじゅうなら200円でも絶対に売れると思った。そして焼きまんじゅうは長い竹串を刺したままで食べなくては雰囲気がでない。”木枯らし紋次郎”ではないが、あの長い串を口にくわえて、空っ風のなかにいるのがカッコいい上州の男児なのである・・・・。僕が会社や県庁、新聞社などでの説明を終えて、前橋のギャラリー・ノイエス朝日に戻ると書家の岡田さんに稲葉さん、陶芸家の高橋さん、七宝焼き作家の斉藤さんが待っていてくれて近くの魚の旨い店で一杯やった。話しは多岐にわたって楽しかった。「矢島企画書」についてもみな協力してくれることになった。友とは真にありがたいものだ。この夜は、渋川の一番下の弟の家に泊めてもらった。倫理法人会の役員をしている弟にも矢島保治郎の人と成について話したのだ。お土産の中国の白酒を傾けながら・・・・・。

17日の土曜日は、中国研究家で作家の中村愿さんと四谷三丁目で会う約束をしていたので午後から出かけた。彼との約束は夕方5時半だったのでその前に、今年の木村伊兵衛賞の受賞作品展をコニカ・ミノルタプラザへ見に行った。高木こずえさんの写真展である。じっくりと観たがやはり納得できるものではなかった。この手の手法は1920年代の新興写真運動のなかですでに表現されているし、近年多くの者が多様している類似性を感じた。90年前とは異なり今はデジタルの世界。コンピュータのなかでどうにでも処理できる時代だ。混迷している写真表現の時代だからこそ、革めて写真とは何かが、問われているのだと思う。こうした時代にブレてどうするのだと強く思った。高木さんが悪いのではない。彼女は彼女なりに一生懸命なのである。僕に言わせればはっきり言ってこうした作品を賞に選び、一層写真界を混乱させる者らが悪いのだ。コニカ・ミノルタプラザで同時開催していた他の2つの写真展の方に、僕は好感がもてた。そのひとつ竹田武史君の「茶馬古道」は、表現はオーソドックスではあるが、厳しい環境のなかで、茶を通して生きている民族が丁寧に取材されており胸を打たれた。こうした表現は、やはり時代を越えて僕は写真表現の王道に成っていくのだと思う。「過去のものだとか、ワンパターンだ」とか批判されようとも、写真という芸術ジャンルが持っている特性を最大限に有効的に生かしていくしか、他の芸術ジャンルと対抗していく術はないであろう。



僕は昔から陶芸が好きで、友人、知人も少なくない。その一人に坪島土平さんがいる。「昭和の光悦」とか「東の魯山人、西の半泥子」といわれた川喜多半泥子の唯一の弟子である。この土平さんが半泥子から受け継いだ「広永陶苑」の精神を継いだ3代目、藤村州二君の作陶展が新宿伊勢丹で20日まで開催されているので出かけた。僕は彼の第1回目の作陶展から見ている。今回は、師匠・土平の作品に似た力強さがでてきており、またそれを超えようとする葛藤が作品に見られてうれしかった。10年後、州二君がどんな風に化けているか。楽しみな新進気鋭の作家である。



中村さんと待ち合わせて行った場所は、僕も7~8年前まではよく通っていた路地であるが、まったく気づかないようなさらに奥まった路地裏で、世にも不思議な場所であった。一応、「喫茶茶会記」というらしいが、僕らが通されたのは、まるで忍者屋敷。茶道口というか、人一人がかがみこんでやっと入れるような入り口だ。僕などは這いつくばってようやく入ることができた。靴は手で持って入るのでる。そんな所に、朗読家・櫛部妙有さんも参加した。実は彼女を本格的に売り出す作戦会議なのだそうだ。僕に与えられた役割はいわゆる広報。彼女の写真などを撮影して大いにPRしてほしいとのこと。友人の中村さんのが惚れこんだ人だから間違いないであろう。できる範囲で協力することとした。僕も前に彼女からテープを送ってもらい小泉八雲の「耳なし芳一の話」や幸田露伴、宮沢賢治の作品などの朗読を聞いてみたが確かに不思議な言霊の世界に誘われいくような感じがしたのである。赤ワインを傾けながら中村さんの近著『三国志逍遥』(画・安野光雅/山川出版)の話や、2年後に生誕150年となる森鴎外の企画のコラボレーションなどの話に盛り上がったのは言うまでもない。

 


昨日は、久しぶりに都内にでた。「第35回木村伊兵衛写真賞」の受賞式に行ってみようと思ったからだ。この賞は、朝日新聞社と朝日新聞出版社が主催する歴史のある賞である。僕も十数年前から推薦者の一人として係わってきたが、昨今のこの由緒ある賞の受賞作品が新人写真家が対象とは故、あまりにもその内容に納得できないでいる。今回の受賞者は、高木こずえさんの写真集『MID』、『GROUND』である。僕が久しぶりにこの受賞式に出たのは、選考委員をはじめ、多くの写真家たちに「何故、この作品が受賞したと思うか?、どんな感想をもったのか?」聞いてみたいと思ったからである。興味しんしんで会場の後ろで選考経過を聞いていた。



今年の選考委員は、篠山紀信、土田ヒロミ、都築響一、藤原新也の4氏である。年に一人しか受賞できない日本を代表する賞であり、写真家「木村伊兵衛」の名を冠とした賞であることをまず、認識しておく必要があろう。受賞者は今後、写真家として大きく育っていくと期待されていることは言うまでもない。選考にあたっては当然そうしたことも含めて考慮しているだろう。写真家として日々がんばっている多くの若者たちにとっては、この賞は憧れであり、大きな目標でもあるのだ。選考委員のひとりと20分ほど話をしたが、4人のなかでも意見が割れたという。その委員は断固反対したという。僕が聞いた十数人の著名な写真家や写真評論家のおおよその感想は「よくわからないなあ~?」だった。選考経過を代表して報告したもう一人の選考委員は、「実は僕もよくわからないのですよ。作者の彼女自身も解らないのではないの・・・・」と半ば開き直りにもとれる発言をしていた。「みんなが解らない作品なら何故受賞したんだ!」と僕は率直に問いたいと思った。「みなさんこの4名の選考委員の先生方のお名前は、しっかりと覚えておきましょうね」と呼びかけたい心境である。



受賞者の高木さんはというと小柄で、まだあどけない少女のような笑顔で、僕のカメラに向かってブロンズ像の正賞を持ったままVサインをした。いろんな人たちと久しぶりに話しをした。とくに細江英公さんと桑原史成さんとはたっぷりと。史成さんと飲むのは1年ぶりぐらいになるので、パーティの終了後、有楽町駅のガード下の行きつけの焼き鳥屋へ行った。今年、日本写真家協会会員となった烏里烏沙君も一昨日飲みすぎて調子が悪いと飲まなかったが途中まで付き合った。この店は薩摩料理に泡盛もおいてある個人周りとしているがいい店である。桑原さんは今年の8月に日韓併合条約締結100年を期して「激動の韓国」という写真展を銀座で開催すること。今月の23日からは沖縄の普天間米軍基地の取材に行き、その足で、彼のライフワークである水俣の取材へ行くんだと昔と変わらない例の早口で、熱く熱く語るのであった。森鴎外と同じ島根県津和野出身の桑原さんと今度、鴎外のことで対談でもやろうかとも話し合った。外は氷雨から季節はずれの春の雪にかわっていた。全身真っ白になったが、どうにか無事帰還することが出来た。


明日、4月13日(火)発売の「サンデー毎日」(4月25日号)に、”「三国志大陸」をゆく”の連載第1回目の蜀之国編が掲載されます。ぜひ書店や売店でお手に取っていただければ幸いです。2回目は5月11日(火)発売の5月23日号に。3回目は、6月1日(火)発売の6月13日号に掲載される予定です。7月以降は毎月第1火曜日発売の号に掲載され、9月まで続きますので楽しみにしてください。いま、その原稿書きに追われています。「三国志」は熱烈なファンの方々が多いので、キャプションにも神経を使い年代など確認しながら書いています。今年もまた、5月と7月に中国へ取材に行きます。「三国志」の舞台となった土地を巡ることで、現代中国の深層部がどこまで見えてくるか!?ここが僕のこの仕事の勝負どこ、分かれ目となります。20年間追いかけてきた「三国志巡歴」の仕事が結実できるかどうか、今年は節目の年となるでしょう。自然体で真向かいたいと思っています。(株)日立製作所発行の「uvalere」という季刊誌にも3回連載で「中国大陸巡礼」という連載を8ページで始めました。でもこの素敵な雑誌は、残念ながら販売はしておりませんので、みなさんにはご覧いただくことはできないと思います。機会があれば、このサイトでご紹介したいと思います。朝から冷たい雨が降りつづく今日は何か、宣伝ばかりになってしまいましたが、お許しください。ご自愛のほど・・・・・合掌




僕が6年間暮らした石神井の春の三宝寺池です。倒れた辛夷の古木が今年も花をつけていました。


日本人は、古来からぱっと咲いて、ぱっと潔く散っていく桜が好きだという。季語にも落花、花吹雪、飛花、花屑、花の塵・・・などたくさんの美しい言葉がある。川面や池の水面に散ったさくらが流れるさまを花筏ともいう。俳人の高屋窓秋に「ちるさくら海あをければ海へちる」という美しい句があったのを思い出した。久しぶりの友人が訪ねてきたので、近くの黒目川の辺に花見にいってみた。川岸のさくらはいっせいに散りはじめ、菜の花も黄色い絨毯を敷き詰めていた。日本の春たけなわの風景がそこにはあった。



池袋の路地裏に「知音食堂」という中国本土の食堂に入ってるような雰囲気の店があり、最近よくここへ行く。たまたま席を隣にした四国・松山から来たというカップルと知り合った。最初は中国人と思ったが、れっきとした日本人だった。だいたい四国から遊びに来た人がこんな店に入ることが、信じられなかったからである。その後、いつも行く沖縄の店の「みやらび」にも2人は寄ってくれた。初めて会ったのにもかかわらず人生のことなどいろんな話をしたのだった。昨日は突然、京都の知恩院の平安養育院施設長をしている友人のOさんから「東京にいるから今から会えませんか」と電話があった。自らも浄土宗のお寺の住職をしながら、写真作家としても知られた人である。『知恩院の風光』というすばらしい写真集を出版し、第6回飯田市藤本四八写真文化賞も受賞している。1月の熱海以来の再会でもあり、長い付き合いの友人でもあるので出かけた。中国の写真家の烏里君も用事があったので声をかけたら駆けつけてきてくれた。



京都、四川出身の2人とも食通なのでやはり、料理が旨い店に行くことにしたが、案の定、土曜日の新宿はどこもかしこも人でごった返していて店は満杯。それでも昔から通っている穴場の店を三軒回ることができた。「京都もんでは、はいらへん店ばかり連れていってもろうて感謝してますわ」とOさんは喜んでくれ、烏里君も満足してくれた。最初の店は「樽一」。創業40年の鯨料理と三陸の食材と宮城の酒にこだわった店だ。先代がやっていた頃からよく通っていて、とくに僕は池袋と高田馬場の店が好きだった。いまは若き2代目が先代の遺志を継いで、新宿の店のみでがんばっている。この店で沖縄の泡盛付き合いの友人たちとばったりと出会った。田崎聡さんだ。あの有名なソムリエの従兄弟である。



続いて向かったのは、絶対に一見客は入れない店だ。この「三日月」という7~8人で満席となる店は、創業が昭和26年だからもう60年になる。現在の2代目の主人は、僕と同じ年で、体型も柔道部出身という太めだから昔から馬が合った。この店には作家の田中小実昌さんや吉行淳之介さんたちもよく通っていた。鮮魚がメインではあるが、肉料理も実は味がある。なんと言っても特製オムレツが名物だ。この日は新島の青むろのくさやをOさんが食べたいというので焼いてもらった。最後は台湾料理屋。これもまさしく歌舞伎町の隠れ家的な店であり、まず探せないだろう。ここで8年ものの紹興酒の熱燗で一日を締めて、お流れにしたのであ~る。あ~あ、歳のせいか疲れたなぁ・・・・・。

今日、4月8日は花祭。お釈迦様の降誕を祝う法会の日だ。仏生会とか釈迦降誕祭とか、お潅仏などさまざまな呼び方がある。今朝も4時頃には目が覚めてしまいなかなか寝付けなかった。あきらめて5時には起き出し、モーニング珈琲を飲みながら読書をした。最近、歳のせいか午後11時頃床に就くといつもこうである。でも「早起きは三文の徳」と言うが確かに原稿書きなどははかどる。いつもならもうそろそろお昼かな、と思って時計を見るとまだ8時前だったりするのだ。とにかく今朝は早く起きたのである。NHK広島放送局の記者が午前中から来ることにもなっていた。昨夜、都内に泊まって今朝早く出てきたという。10時半には大きなバックを引いてやってきた。何しに来たかといえば、原爆に関する写真や資料を見に来たのである。現在、HNKと広島市と研究者たちと共同で原爆の被害を解明するプロジェクト進めているという。その研究の柱が最新の技術を用いたキノコ雲の写真解析で、原爆投下から65年たってもまだ、未解明の原爆被害に光をあて、核兵器の恐ろしさ、悲惨さを後世に伝える番組だというので協力することにした。



話しは後先になったが、「で!、何故あんたの所へ・・・?」という疑問に答えよう。それは僕が「反核・写真運動」の事務局を担当しているからだ。1986年に日本のジャンルを超えた写真家550人が呼びかけ人となって発足したのが「反核・写真運動」。代表委員には、渡辺義雄、秋山庄太郎、春木栄、田中雅夫の各氏など。写真業界、写真評論家までもふくめたそうそうたるメンバーであった。運営委員には、東松照明、細江英公、丹野章、松本栄一さんたち。そして若かった僕もいたのだ。会の活動のひとつとして収集・保存しきたものに、被爆直後に31人が撮影した写真803点がある。ネガ、プリントのアーカイブだけでなく、数年前には、全ての写真のデータ化もした。その他、原爆に関する写真集や文献などを閲覧に来たのである。僕はもちろんた手弁当ではあるが、若いH記者の熱意ある取材に対して6時間も付き合ってしまった。彼が「今から広島まで帰りま~す」というので、タクシーを呼んでやった時には、もうすっかり空は西日となっていた。あわてて洗濯物を取り込んだが、後のまつりで冷たくなっていた・・・・・・。



昨日は、写真研究会「風」の4月例会が、練馬区にある桜の名所・石神井公園でおこなわれた。研究会初の撮影会を兼ねての例会だ。あいにく参加者は少なかったが、僕が3年前まで暮らしていた町でもあり、近くの三宝寺池をはじめ、三宝寺、氷川神社、道成寺などを案内した。また野外ステージでは沖縄県人会主催の恒例の「琉球・春祭り」がおこなわれていて、エイサーやカチャシーなど三線、太鼓、指笛に合わせて次々に披露され、観客も一緒にになっての踊りの輪ができていた。「風」のメンバーのKさんのお嬢さんが参加してくれて家族ぐるみでの会への参加もいいものだと思った。また、金沢の実家から戻ったばかりというYさんが僕の好物の「加賀車麩」を土産に持ってきてくれた。この麩は大きくて歯応えがあり、色んな料理にも使える優れものなのだ。





研究会は、ステージの琉球踊りなどみながら食事を取って、3時過ぎに終了した。久しぶりにいつも散歩していた道を歩きながらこの町で暮らした6年間に思い馳せていた。三宝寺池の中にある厳島神社では、ちょうど獅子舞をしていた。実はこの境内に「穴弁天」という洞穴がある。以前に僕も入ったことがあるが、この近くにいまも住んでいる女優の壇ふみさんも子どものころよくこの穴で遊んだと語っていた。この穴弁天であるが創建の子細は不明だ。しかし社伝によれば、この地にあった石神井城の城主豊島氏全盛期の頃ではないかとされている。「厳島神社境内南に洞祠ありて、池底より発見された蛇体の女神弁天を安置す」と記されている。これは厳島神社の御祭神・狭依姫命(きよりひめのみこと)の配下神として祀られる宇賀神を示しているという。この宇賀神社の御利益は、芸術・学問全般の向上と五穀豊穣及び財産をもたらすといわれているので、僕としては、しっかりとお参りして蛇体に女顔を書いた木札守を求めたのはいうまでもない。久しぶりに会った友人たちと泡盛で一杯やって夕刻には、桜並木の道をとぼとぼと帰ってきたのである。


昨日、恒例の”手打ち蕎麦を食べる花見会”が我が家で開かれた。今年は前の晩から台風並みの強風が吹き荒れるという天候となって、残念ながら川岸の桜の樹の下での宴はやめて狭い家のなかですることにした。あいにくの天候にもかかわらず、「ユーウ”ァレール」編集部の鑓田浩章さん、写真家の烏里烏沙君と塩崎亨君。それに蕎麦打ち名人の松村さんをはじめとした写真集団・上福岡の役員メンバー4人が集まってくれた。いつもそれぞれが竹の子ご飯など手作りの旬の料理やいろいろな酒を持ち寄ってくれるのが楽しみではある。ちょうど沖縄のシンガーソングライターの凡子から先日のライブ撮影のお礼にと海ぶどうやサァーターアンダギー、島ラッキョなど送ってきてくれたので、みんなに振舞ることができた。



何といってもメインイベントは、地粉で打ち立ての蕎麦を肴に酒をいただくことである。のんびり写真談議などしながら5時間ほど愉快な時を過ごした。みんなが帰った後、烏里君と話があったので、駅まで送りついでに僕が常連の赤提灯で一杯やった。大分産の岩牡蠣が入っていたので、季節は少し早いと思ったが食べてみた。やはりまだ身は小さく味も浅かった。烏里君が理事長を務めているNPO法人「チベット高原初等教育建設基金会」に協力しているが、この5月にイ族の村に建てた学校へ視察に行くので、僕にも一緒に来てほしいというのである。10日間ぐらいなので引き受けることにした。店の女将さんが僕の写真を部屋に飾りたいので2点買いたいという。うれしいではないか・・・・。昨日は花見ができなかったので、今日散歩がてらに行ってみた。愛機「シグマDP1」で激写!した。そうして、たこ焼きをほう張りながら残り鴨の淋しそうな姿に自らを重ね合わせていたのである。


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