写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2011年5月アーカイブ

 

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台風一過のような青空が広がり、強風が吹き荒れた昨日、8月刊行の鈴木孝雄写真集『我がここの山嶺』の中に収録するインタビューがおこなわれた。インタビューをお願いしたのはフォトエデターの堀瑞穂さん。「アサヒカメラ」副編集長時代から名編集者として定評がある。堀さんとは30年来の付き合いで、俳句をはじめ、文学にも造詣が深く、また酒、料理が好きなので何だかんだと会う機会が多いのだ。そう言う意味では仕事を抜きにした友人である。写真の撮影は、いまや新進気鋭の写真家・塩崎享君。翌日早朝から山形へ撮影に行くことになっているが、遅くまで付き合ってくれた。
作者の鈴木孝雄さんが、6月14日から半月間程どうしてもぺルー・アンデスへ撮影に入って、1点でも2点でもアンデス山脈の良い写真を撮りたいと言うので、それでまた工程を急がなければならなくなったのである。この日、インタビューを終えた後で、鈴木さんの地元で、地元産の芋焼酎をしたたかに飲んだ。蔵元は伊豆七島の八丈島だが、泡盛に似た独特な風味があって4合瓶2本をぺロッと空けてしまったのである・・・・・。
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見出しに書いてある通り、その他に『我がこころの山嶺』と同じA4版最大サイズの写真集『瀧 巡礼』とA4版変形の『心のふるさと雲南』、それに僕自身の『宮澤賢治ー雨ニモ負ケズという祈り』を抱えて同時進行をしている。宮澤賢治の本を除いては、編集・構成をはじめ印刷関係もふくめて任せられているので、正直ちくっと忙しい。

サハリンから戻ってすぐに家に篭もり、僕が担当して出筆する「保阪嘉内と宮澤賢治について」は、一気に書き上げた。写真も全て入稿して全ページのレイアウトもほぼ出来上がっている。『心のふるさと雲南』は、印刷工場との最終的な詰めの段階まで来ているのでもう少しだ。『瀧 巡礼』については、テスト製版が出ており、これから印刷工場と打ち合わせに入るとこ。寄稿文を瀧の写真の第一人者である写真家・北中康文さんにお願いして、すでに原稿はいただいている。2月に写真スケッチ集「啄木への旅」を出してから出版が続いているので落ち着いてじっくりと自分の作品の企画などが考えられないが、人の作品であっても、やはりすばらしい作品に出会うと協力したくなってしまう。もちろん僕自身の勉強にもなるのは言うまでもない・・・・・・。今年の夏はご期待ください☆!!

旅の4日目は、昨日の荒れた天候が嘘のように晴れ渡った。風は北国、さすがに冷たいが深い青空に白い雲が飛ぶ早春の一日のようである。前回述べた様に、デジタルカメラが故障してしまったために、この日からの写真での現地レポートはできない。以下の写真は、最後の記念写真を除いてすべて、1997年の7月~8月にかけて僕が独りで北海道・稚内からロシアの定期船に乗ってサハリンに入り、10日間ほど巡った時の写真だ。海霧の濃い、冷たい雨が続いた日々であったような記憶がある・・・・・・・。

 

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宮沢賢治が1923(大正12)年8月2日、コルサコフ(旧大泊)へ稚伯航路の定期船、対馬丸(1839トン)で宗谷海峡を渡って降り立った。桟橋はその当時のままで現在も使われていた。僕も同じ季節を旅したいと7月30日の夕刻に大泊に着いた。今回は宗谷海峡がキラキラと太陽に反射して、40数キロ崎の北海道の宗谷岬がうっすらと望めるような天気であった。大桟橋ももう一本完成して、いまではそちらの方が貨物を上げるクレーンなどがたくさん建っていた。
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賢治は旧樺太庁鉄道で、大泊からユジノサハリンスク(旧豊原)へ来た。旧豊原駅は現在の駅舎よりわずかに北側にあったがほぼ同位置である。写真は駅前広場でバスを待つ娘たちと駅舎の待合室の娘たち。日本が樺太時代に朝鮮半島から連れてきた朝鮮族の人々がいまでもたくさんサハリンにはいる。今回の旅のガイドのアルック君の奥さんも、ドライバーのミィールさんも朝鮮族のように・・・・・・・。僕も14年前に、言葉はもちろん、食べる所もない、泊まる所もわからない時に、手をさしのべてくれたのが、金さんという大泊の港で初めて会った朝鮮の人だった。覚えさせられたという片言の日本語が、僕にとってはありがたかった。金さんの家で何回も食事をごちそうになったし、当時、町のレストランなどはほとんど潰れてしまっていたので、食事ができない。毎日、金さんの奥さんが作ってくれたお弁当がどれほどうれしかったか・・・・・・。それを持って取材して歩いたのである。市場でも「何処から来たの?、ニッポン人?」などと片言の日本語で声をかけられて、キムチや鱒の燻製などをもらった。日本が強制的に連れて来て炭鉱や鉄道作りなど厳しい労働に従事させときながら、敗戦になると自分たちだけはさっさと逃げてしまった。連行されてきた朝鮮の人々は戦後も長年にわたりそのままに放置されてきたのが現実なのに・・・・・・・。みなやさしい。懐かしい人にあったような眼を誰れもがするのである。僕は日本人としてこころが無性に痛むのだっだ・・・・・・・。
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賢治の樺太の旅の名目上の目的は、花巻農学校の2人の教え子の就職の斡旋である。王子製紙株式会社に当時務めていた賢治と盛岡中学の同期生、細越健を訪ねた。上の写真は、賢治が訪ねたユジノサハリンスクの旧王子製紙工場。今回も訪ねたがこの建物は壊されてなかった。しかし高い煙突や7階建ての事務所だったビルなどは、当時のままに残されて、現在も使われていた。ちなみに賢治は王子製紙には、わずか1~2時間ほどしか滞在していない。そして何故か落合、栄浜、白鳥湖・・・・・・と、北へ、北へと向かったのである。
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上の娘さんは、ユジノサハリンスクの大学生。路上で使わなくなった小物などを販売していた。ぺロストロイカによって学生たちに国から支給されていた予算がなくなり、食事もままならない生活を送っていると僕にこぼした。青年はシネゴルスク(旧川上炭鉱)のトンネルで。ここも良質な石炭が取れると日本が開発した炭鉱だ。現在は廃坑となり、温泉が湧いていることからサハリンの人々の保養地となっている。

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この写真は、ユジノサハリンスクのレストランで。ガイドのアルック君が、編集者のOさんの携帯電話で撮影したもの。お祖父さんが日本人で、お父さんはロシア人で、お母さんが朝鮮人という可愛い店のウエイトレスをしていた娘さんを囲んで。僕も重松さんも少しニヤケている・・・・・・・・。この他、写真には無いが真っ白に雪をかぶったチェーホフ山や、鈴谷平原、鈴谷川、旭ヶ丘、旧拓殖銀行豊原支店、豊原市役所、王子製紙の貯水池などなど樺太時代の残像を求めて巡ったのである。14年ぶりのサハリンの旅の一番の印象は、やはり麦酒は美味かった・・・・・・・。ちなみに僕がこの旅で覚えたロシア語は、スパシーバ、ハラショー、ダー、ニェツト、トゥアレェット、クラシィーウャ(美しい、美人)だけである。

 

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いよいよ3日目にして撮影本番!「やったるぜ~」と張きってカーテンを開けたら雪がちらついていた。天気予報によれば、この日は降水確率5パーセントで晴れ。気温はマイナス2度~5度とはなっていたが、まさか雪模様になるとは・・・・・・。ホテルの朝食があるはずなのにレストランはクローズになっていた。後でわかったことだが、僕らが泊まる前日に、トラブルがあって一人殴り殺されたという。玄関前で。それで料理人たちが誰もいないのである。というわけで駅前のキオスクでピロシキなどを買い込んで宮沢賢治が列車で向かったドリンスク(旧落合)へ。雪は北へ向かうとともに本格的な降りへと変わりつつあった。車窓から流れていく旧樺太の風景に思いを寄せて見つめる重松さん。
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賢治がここドリンスク(旧落合)で、列車を栄浜線に乗り換えた。線路は当時のままの樺太庁鉄道時代のものであるが、プラットホームは少し移動している。
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旧落合尋常小学校跡。奉安殿とコンクリートの残骸だけが当時を忍ばせた・・・・・。
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ドリンスク(旧落合)の旧王子製紙工場跡。現在も街に湯を沸かして送るのに活用されている。ペレストロイカまではここに6~8000人の労働者が働いていていた。ガイドのアルック君によれば当時は、空気が汚れ、ドリンスクに近づくと気持ちが悪くなるくらい環境かひどかったという。第2次世界大戦後、ここサハリンでの製紙工場での生産は、全ソ連邦の紙の35パーセントを占めていたという。「日本が樺太時代に作って残してくれたおかげですよ。鉄道も、桟橋なども・・・・当時のソ連もサハリンの人々も助かりました」とはアレック君の弁・・・・・・・。
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賢治が降り立った終着駅、旧栄浜(スタロドゥブスコエ)駅のホーム跡。僕が14年前に行った時にはまだ線路はそのままに残っていた。シグナルや路線切り替え機や踏み切りなどもあった。何年か前に撤去したという。当時、地元の人たちは「将来また列車を走らせるのが夢、だから鉄路などをみんなで管理しているんだ」と僕に話してくれたのを思い出した。
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賢治の作品に登場する「白鳥湖」。賢治は栄浜から海岸伝いに歩いて訪れたと推測されている。
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旧白浦(ウ”ズモーリエ)駅前広場で地元の漁師たちが蟹を売っていた。毛ガニ、タラバガニ、花咲ガニがあった。4~5ハイが1000ルーブル。日本円で約3100円。さっそくタラバガニの大きいのを2ハイと毛ガニを買った。味見をするドライバーのミィール(33歳)。ロシア人の夫と女の子が1人がいるという。普段は貿易会社に務めているが、僕らの為にアルバイトでドライバーをかってでてくれた。気の良い若いお母さんだ。もちろんこのバイトは見入りもいい。
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旧白浦の海岸は頬を突き刺すような雪まじりの潮風。O編集者の寒そうな表情を見ればわかるでしょう。旧白浦神社の鳥居がいまも村を見守っていた。この海岸でカニを食べようというこだったが、あまりにも寒すぎ。村の中に残る旧日本のディーゼルの火力発電所跡で食べることになった。
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この場所が白浦にあった火力発電所跡。当時としては最新式のもので、戦後もずーと使っていたが、部品の交換などができなくなって最後は廃炉となったいう。建物は確かに立派で大きなもだったことがわかる。村の店で買ってきた40度のウオトカ2本が、寒さのためか、それともカニが美味だったのかあっという間に空いてしまった。写真を見ての通りここだって外、滅茶苦茶寒いのだ~。
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帰りにもう一度旧栄浜の海岸を歩いてみた。賢治が亡くなった妹・トシを偲んで歩いたという海岸である。しかしここも流氷が海岸に打ち寄せられているような寒さ。それでも僕はガイドのアレック君と3~40分浜辺で琥珀を探した。そんなに大きな物は見つからなかったが、1センチ大から小さいものをふくめると20個ぐらいは見つけることができた。一番の記念であり、お土産である・・・・・・。
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昨日も寄ったサハリン州立郷土史博物館に行った。1Fはサハリンの自然と民族。2Fは、旧樺太時代の歴史とソ連邦確立とその後の歴史を展示してある。僕が興味深かったのは、上の小さな石標である。ロシアとの国境に1906年に設置されたものだ。何故、これを確認したかったいえば、実はこの南樺太の国境碑は、函館の立待岬にある石川啄木一族の墓標のモデルとなったものだからだ。もちろん「東海の小島の磯の白砂に・・・・・」の歌が刻まれている啄木の墓の方が5~6倍大きいが。形は同じである。親友の宮崎郁雨の発案だといわれている。さらにここからは僕の推測であるが、上州の前橋の利根川べりの松林に建つ詩人・萩原朔太郎の「帰郷」の詩碑がこれまた、樺太の国境碑に良く似ているのである。僕はあるときにいまは亡き詩人・伊藤信吉さんにそのことを話したことがある。伊藤さんはその話に感化されたのか、88歳の時、1994年発行の最後の詩集となった『私のイヤリング』のなかで長編詩 ”サハリン遠望”を発表した。その文中に、「碑面にカメラの焦点を絞りながら / 同行のK・K君が言う / 『この碑の造型はるかに、樺太国境の名残りが見える。』 」と僕のことが書かれている。伊藤さんはいつも僕と会う度に一緒にサハリンへ行こうと言って遠い目をするのであった・・・・・・。
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お祖父さんが日本人で、お母さんが朝鮮人で、お父さんがロシア人という可愛い娘さんだったが残念!みなピントが合わない。
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気温マイナス4度だが、実際の体感温度はマイナス10度ぐらいのなかの取材はみな疲れ果てた。車の中と外の気温差が大きいので、結露が発生してカメラ機材がびしょびしょになってしまう。うち2台のカメラが調子が悪くなった。1台はシグマDP1。ご覧のようにピントがまったく合わなくなってしまったのだ。もう1台は二コンF3HPである。こちらはシャッターが落ちなくなってしまった。明日からの取材は残りの2台、二コンF3HPPとタムロンのブロニカRF645だ。なんとかがんばってほしいと願うばかりだ・・・・・・。と言う訳で明日からのブログ写真はいままでのようなレポートはできなくなりました。 すみませんですね・・・・・・・・。

 

5月20日、家を午前9時に出発、成田空港へ向かった。14時35分発ハバロフスク行き、ウラジオストック航空8830便に乗るためだ。この旅を一緒にするのは、作家の重松清さんと新潮社のO編集者だ。7月刊行のとんぼの本の新シリーズ『宮沢賢治 雨ニモ負ケズという祈り』の取材のためだ。この本の巻頭に直木賞作家の重松清さんのサハリン紀行を載せるという企画である。僕はもちろん名前は存じていたが直接会うのは初めだった。生まれが同じ岡山県ということで何となく親しみは持っていた。XF8830便は定刻に成田空港を離陸した・・・・・・・。

 

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ハバロフスクは、21年ぶりだった。以前来た時は、ソビエト連邦崩壊の序曲ともいうべき時代で、2月の真冬だったこともあり、暗くて寒く何か殺伐とした雰囲気が街に漂っていた記憶がある。しかし、21年ぶりのハバロフスクは、19時40分を過ぎているのにまだ明るかった。街路樹は芽吹きはじめて、街は萌黄色にけぶっていた。時々さくらの花が咲いていて、日本の早春という感じがした。市内の個人周りとしたホテルに運転手に案内されて入った。3人ともロシア語は出来ないので、英語で話すが、相手になかなか英語が通じない。身振り手振りでどうにかチェクインができた。写真はハバロフスク空港とホテルの前の光景。一昔前のホテルのような感じの良いフロント。可愛いフロント係りをロシア女性の初撮り~!!
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僕らの席の後ろで独りで飲んでいた女性がメチャ可愛かったので、店の子と一緒にパチリ。
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タクシーを呼んで街のレストランへ。先程の可愛いフロントの子のお薦めのウクライナ料理の店へ行ってみた。ここでもやはりオーダーをめぐって四苦八苦。まあ、これが旅の醍醐味ではあるが、O編集者とすれば、直木賞作家に失礼があっては大変と神経をすり減らしていた。英語のメニューがあるのに、英語がわからないときているから麦酒ひとつ頼むのにも大変。ロシア語のメニューでは僕らがちんぷんかんぷんである。僕が下手な絵を描いたりして説明するも無駄。周りのロシア人たちはあんまり料理は食べず、麦酒ばかりを飲みながら語り合っているだけだから、「あれ!」と指差すわけにもいかない。そうこうしている内に、黒麦酒は黒い机を指差し、普通の麦酒は白い紙のメニューを指差すことで、お互いに通じ合ってようやく麦酒にありつけたのである・・・・・。店員に9年前に日本に行ったことがあるという女性(上の写真の左の子)が一人いることがわかり、どうにか料理もオーダーできた。しかし、重松さんが食べたかった料理の半分も注文できなかったようで、初日のロシアの晩餐としては寂しかったかもしれない・・・・・・。でも麦酒とウオトカだけは初日からしたたかに飲んだのであった。
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寝る前に、自らの肖像写真をロシアでパチリ・・・・・・。
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ハバロフスク空港を15時発のユジノサハリンスク行きXF435便なので、少しの時間、市内を巡ってみた。運転手もロシア語しか通じないがこちらは身振り手振りがけっこう解るので、少し安心。まずアムール河の岸辺へ。冷たい雨が朝から降っていて本降りになっていた。丘の上に建つ極東最大というロシア正教の教会を見て空港に向かった。
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5月21日、16時20分。日本を発って約30時間、ようやく目的地のサハリン島に到着した。辺りの山々は真っ白で雪が降っている。北からの烈風が冷たくハバロフスクとは10数度の差がある。空港に出迎えてくれたのは、本業は日本で言うと海上保安庁の緊急事態要員のような仕事をしていて、今回はアルバイトで通訳兼ガイドを務めてくれるアルック君(44歳)。朝鮮民族の奥さんとに2人の女子があるという。旧樺太時代の歴史やロシア・日本文学にも造詣が深く、ガイドとしては優秀だ。酒の飲みすぎがたまに傷ではあるが、それはこちらのメンバーだって負けてはいないからお互いさまではある。この日の夕食は昨夜のうっぷんもあってかご覧の通り。店員さんも目を丸くして驚いていたので~る。地元サハリン料理、ロシア料理、韓国料理と来たもんだ~☆☆☆

 

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来年、創立30周年を迎える「写真集団・上福岡」が、明日発売の写真月刊誌「フォトコン」6月号にその活動が紹介され、カラー2ページで掲載される。編集者が同クラブの例会に参観して、その感想や会員に取材した内容などを記事と写真で紹介したもの。合わせて会員の作品を1人1作品づつ載せている。
僕は創立時からこの会の顧問という立場で講師を務めてきているが、現在、在籍しているメンバーで一番のベテランは、2期生が2人と3期生が1人だけで、後の会員はみなここ10年以内に入会した人ばかりだ。振り返ってみれば、僕のフリー写真家としての人生は、この会と共に歩んできたようなものである。いままでに亡くなった会員も少なくない。会員同士で結婚した人たちも。また僕が会員の仲人を務めたこともあった・・・・・・。

その「写真集団・上福岡」が6月8日(水)~12日(日)まで、川越駅東口前アトレ6Fで開催する「第29回 写真集団・上福岡写真展」へ向けての最後の例会が、5月17日に上福岡西公民館で開かれた。会員一人3~4点の出品で、今年の個展は関根民夫さん。この5年間、秩父の34箇所の札所を巡り撮影した作品だ。「秩父・観音巡礼」というタイトルだが、現在の秩父の風土性が色濃く作品のなかに滲み出ていて興味深い写真展となるだろう。その他の会員作品もそれぞれ力作だ。今年入会した4人も3点づつ出品しており、新鮮な視点の写真を期待している。僕も顧問であるから1~2点は出品するが、こちらはあんまり期待はできません。あしからず・・・・・・・。
☆☆会期中の11日(土)午後3時から会場において僕の作品合評会があります。参加費は無料ですので、友人、知人、彼女をお誘いの上、ぜひ・・・・・。おまんらの参加をこころ待ちしているぜよ☆☆

 

 

「東日本大震災」後の3月20日以降、思うところがあって基本的に家で独りでは酒を飲まないと心に誓った。「おまえが守れるはずがないだろう・・・・」というみなさんの”疑惑の眼差し”を感じますが・・・・・。どっこい昨日までに26日間一滴も酒をのんでいないのだぞ~。何かブログでは毎日のように外で飲みまくっているような誤解を招くが、僕はこの誓いは最低数年は実行しょうと思っている。なかなか体重は減ってくれないが・・・・・・。
この間、東北の友人7人へ手紙を書いた。また今度、ぶどうぱん社で刊行する瀬下太刀男写真集『瀧巡礼』に文章を寄せてもらった写真家の北中康文さんにお礼の手紙、九州の湯布院在住の写真家・高見剛さんが20年間にわたり湯布院、九重、阿蘇を撮り続けた『天地聖彩』を送って来てくれたので、感想と礼状を書いて出した。単なる風景写真でもネイチャー写真でもない、そこには彼が愛してやまない九州の風土が的確に捉えられている。見ごたえのある写真集に仕上がっている。発行は花乱社(定価3800円+税)である。その他にもこの間、不義理をしている友人たちへ手紙をしたためたのである・・・・・・・。

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昨日、第1回”三福 きずな寄席”の世話人会が、出演してくれる立川志遊師匠を囲んで和やかに会場となる居酒屋・三福で開かれた。参加してくれたのは、三福の大将と女将、3代目の息子さんと料理人のヒロくん。企画から係わってくれた山本建設の奥さん。そして志遊師匠の大ファンであり、この近所で暮らしている僕の上州の片田舎の小・中学校の同級生のOさんだ。第1回目は7月10日(日)。開場15時40分、開演16時と決まった。席料は、前売り1000円、当日1500円となった。詳しくはチラシ等もできたらまたご案内しますね。
☆ちなみに師匠は、6月6日6時からこれで3度目となる国立演芸場で独演会を行う。前売り3000円、当日3500円。問い合わせ・予約は03-3838-1225(立川志遊)まで。
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少し遅れて参加した山本建設の社長さんとその娘さん。寄席の当日の司会・進行を若くて美しい娘さんが務めてくれることになり、うれしい限りだ。記念に家族でパチリ。そして娘さんのRさんも・・・・・・・。
当日、彼女を目当てに来てもゆるすぜよ~。
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そしてこの日、志遊師匠に「応援団長」をかってでてくれた同級生のOさん。彼女はいま、寄席の会場となる三福の近所で、娘さん夫婦とそのお孫さん2人、まだ結婚していない息子さんとでしあわせに暮らしているという。僕も近所とはいえ、めったに会うことはないので、この日は久しぶりに積もる話に花が咲いた。中学時代の大方の恩師はすでに亡くなり、同級生のなかでも行方不明をふくめると10パーセントぐらいになる。若いと思っていても寄せる歳の波は確実にきているのだとしみじみと感じるのだった・・・・・・。僕の愛機シグマDP1で初めて彼女を撮った。”三福 きずな寄席”の応援団長さん、これからもくれぐれもよろしくね☆!!

 

 

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5月13日は、チベット山岳写真協会監事の鈴木孝雄さんが今度出版する大型写真集『我が心の山嶺』の編集の打ち合わせのために、フォトエディターで「アサヒカメラ」元副編集長の堀瑞穂さんと著者の鈴木さんとで会った。堀さんには、鈴木さんへのインタビューをお願いした。待ち合わせ場所の池袋の喫茶店で1時間半余り紹介と合わせて話し合った。写真も100点ほど見てもらった。その後、席をよく通っている四川料理の民衆食堂、そして沖縄料理のみやらびへと移して話は弾んだ。この日のみやらびは、若い客が多く満員状態で琉球舞踊もあり、大いに盛り上がっていた。岩波書店の人たちも10人ほど見え、知り合いも多くあいさつをした。堀さんとゆっくりと飲むのは久しぶりで、写真から俳句に至るまで話し合った。インタビューは鈴木さんが6月中旬からペルーアンデスの山へ行くので、その前にやることとなった・・・・・・・。このインタビューが入ることで、より良い内容の本になること必定だと思う。編集する者としてはうれしい限りである。

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練馬区役所本庁舎の19階からの夕日。やけに赤く染まっていた・・・・・・。
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翌日の14日は、NPO法人「チベット高原初等教育・建設基金会」2011年度総会と「チベット山岳写真協会」総会が練馬区役所で行われるので出かけた。原稿の締め切り等で追い込まれていたので欠席を連絡したのだが、理事長の烏里烏沙君がどうしても参加して欲しいというので、この日は朝早く起きて仕事をかたずけたのだ。合わせて新潮社のO編集者には、練馬駅まで来てもらい、近くの喫茶店で打ち合わせや写真原稿などを渡したのである。総会はそれぞれ1時間ほどで終わり、18時からは烏里くんのスライド講演会があった。「チベットの生態環境と遊牧民の暮らし」という題名の話であったが、たくさんの写真を見せながら現地報告なので迫力があるとともに、説得力があった。会員以外の一般の人も見えてよかった。この日、わざわざ大阪から参加し、基金会と山岳写真協会に入会された日本風景写真協会監事の人もいた。
懇親会には、20名近くの会員が参加、今年10月に四川省から2人のイ族写真家を招請して、日本人写真家たちと一緒に、イ族の文化や暮らしぶりなどを紹介する写真展を練馬美術館で開催する話や12月の四谷ポートレートギャラリーでの第3回チベット山岳写真協会展の話などが話題となっていた。同基金会の事務局長の紀田幸男さんが僕が23年前に出版した『シャツターはこころで切れー小松健一の写真教室』(日本機関紙協会刊)という本を2冊持ってきてサインをして欲しいという。懐かしい本に出合えた気分でうれしかった。紀田さんは、1冊を理事長の烏里君に贈呈した。2次会は烏里君と鈴木さんとでお隣のクラブとやらに行って若い女性たちと何だか盛り上がって話し込んでいたような気がするのですが・・・・・・。写真は、酔いがまわったのか手振れが酷い・・・・・・。

 

今日は朝から本格的な雨模様。五月雨というには少し寒い。もう少しで入梅の季節・・・・・・。こころも湿っぽくなる季節がやってくる。そして「東日本大震災」が発生してから2ヶ月間が過ぎる・・・・・・。

昨日、甲斐の国の八ヶ岳麓にある韮崎へ行ってきた。昨年からこれで4度目。目的は宮沢賢治に大きな影響を与えた”心の友”保阪嘉内のご子息の保阪庸夫さんに会うためである。嘉内の子どもたちは、次男の庸夫さん(84歳)をはじめ長男の善三さん(85歳)、長女の牧子さんもみな長寿でお元気である。庸夫さんは、東京大学医学部卒の医学博士で、現在も現役のお医者さんである。この日も僕のインタビューのために午前中で診療を切り上げて、ご自宅で待っていてくれた。庸夫さんと最初にお会いしたのは、いまから15年程前のこと。当時、韮崎相互病院の医院長を務めておられたが、僕の突然の電話にも快く出てくれて「もしかしたら岩波新書の『三国志の風景』の著者の小松さんですか、私は家と病院とに本を置いていつも読んでいるファンですよ」と言って、いつでも来てください。ということであった。

数日後、韮崎のご自宅へ伺った。僕がお願いしていたのは、宮沢賢治から保阪嘉内に宛てた手紙などの資料を見せて欲しいと言うことだった。「わたしはまだ仕事の途中でなので、小松さんに預けておきますからどうぞご自由に・・・・」と缶の箱に入った賢治の膨大な手紙や葉書など手渡された。僕はその数に呆然としてしばらくは縁側に座ったまま賢治の自筆の手紙の文を眺めていた記憶がある。その賢治の手紙73通を2年前に、テレビ東京の番組「何でも鑑定団」へ出したら1億8000万円の鑑定結果がでたのである。15年前は僕が一人で確か5時間ほど見ては写真を撮り、また読んでは写真を撮っていたのだった・・・・・。勤務を終えた庸夫さんと韮崎の町の居酒屋へ繰り出して遅くまで飲んだ覚えもあるが、今回「あの店はどこでしたかね」と庸夫さんに訪ねたが「何処でしたかね~」と2人とも思い出せなかった・・・・・。

 

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今回のインタビューは、この夏に新潮社から刊行する「宮沢賢治」の本に保阪嘉内のことを入れるためにそこを担当する僕が庸夫さんからいろいろと聞き出したいと思って訪ねたのである。午後1時前からはじめて5時過ぎまでにおよんだ。面白い話はたくさん聞くことができた。さらに僕のリクエストである嘉内の短歌日記やスケッチブックや日誌なども特別に閲覧させてもらった。資料の管理をしている娘さんが手伝ってくれたので手際よく進んだ。可愛がられている「オジョー」という名前のワンちゃんも様子を見に来ていた。伺った内容については、ここでは秘密ですよ~。夏に発行される本を読んでくださいな。「あっ☆!!」と驚く内容がありまっせ~。お楽しみに・・・・・。

すっかり遅くなってしまったのでおじゃましょうと思ったら、「嘉内も大好きで私も子どもの頃、連れて行ってもらった八嶋という鰻屋がありますから一杯いきましょう。話の続きもそこで・・・・」ということになり場所を変えた。娘さんの旦那さんも仕事を終えて駆けつけて来た。昨年車でゆかりの地を案内していただいて以来だ。庸夫さんは芋焼酎をストレートが一番といって美味そうに飲むし、娘さんの彼氏も結構いける・・・・。話もはずんで結局8時前までいる破目になった。でも愉快であった。庸夫さんは僕の母と同年、僕とは親子ほど歳が離れているのにも係わらず、まるで旧知の友と再会したような懐かしく楽しい時間だった・・・・。来る時は特急「あずさ」だったが、帰りは「甲斐路」。近いうちにまた来くることを思いながら車窓に流れる家の灯を見つめていた・・・・・・。

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近所のよく行く居酒屋・三福で、こんど初めて催す「三福寄席」の世話役の打ち合わせをした。噺家は、立川志遊師匠にお願いした。地域に根をはった文化の種を撒こうという高い志を持っている。本物の落語をすぐ近くで生で聞いて味わってもらいたいと師匠も快く引き受けてくれた。会場となる三福さんの大将と若。お隣の山本建設のご夫婦。よろしく~たのみまっせ~!!☆ 楽しみながらのんびりとやっていきましょうね。

 

 

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(写真は、「写真家 小松健一オフィシャルサイト」のギャラリー”雲上の神々・ヒマラヤ古寺巡礼”より)

昨年11月から2ヶ月間に1度程度で連載している「オピニオン21・視点」のページに、4回目となる矢島保治郎のことを書いた。今回は矢島青年が上州の片田舎から大志とロマンを抱いて、独り「世界無銭探検」の旅に日本を発った明治42(1909)年を、同時代を生きた郷土の詩人・萩原朔太郎や歌人・土屋文明はどう生きていたのか。また石川啄木は、宮沢賢治は・・・・・。それを検証してみた。そして日本はおろか郷土・群馬でも、ほとんど知られることのない矢島保治郎のチベットでの評価はどうであろうか、それを探ってみたのだ。この記事はネットでも見れますのでの興味のお持ちの方はぜひ、覗いてください。

5月8日発売となった「前衛」6月号の巻頭グラビアに8ページで、「日本文学風土記」シリーズの5回目となる花巻・雫石編を掲載した。この企画は不定期で年に1度~2度のペースでいままで載せてきている。小樽、上州、盛岡、そして番外編として中国・三国志の世界と続けてきた。この編集部に学生時代からの友人がいて彼が時々声をかけてくれるのである。いまどき珍しいモノクロページだが、それが逆に新鮮な感じがして、ぼくにとっては大切な発表の場となっている。今回は締め切りの関係で、解説の文章を書いていた3月11日のその時に、あの「東日本大震災」が発生したのだった。その流れの中で内容は「三陸沖地震と宮沢賢治」となった。賢治が生まれた年の明治29(1896)年に、死者21、959人の犠牲者を出したM8.3~8.5の三陸沖代地震があり、賢治が亡くなった昭和8(1933)年にもまた死者3、000人を越える三陸沖地震があったのである。この2度の大災害は、賢治の作品や行き方に色濃く影響を及ぼしているのではないか、と推察してこの文を書いたのである・・・・・・。
明日、宮沢賢治の”ただ一人の友・保阪嘉内”の息子さんたちにインタビューをするために、嘉内の故郷・八ヶ岳山麓の韮崎に行ってくる・・・・・・。

 

 

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昨日の5月7日、都内において写真研究会「風」の2010年度の最後の例会がおこなわれた。参加者は主宰の僕を含めて8人。ゲスト参加として、東京藝術大学大学院生の水越まゆみさんが写真作品を持って参加した。名古屋から前回体調が悪くて参加できなかった平元くんが、追い続けている大都会に残る干潟と沼のモチーフの新作を大量に抱えて元気にやって来たのはうれしかった。それぞれが個展をめざしているので、その作品を持ち寄っての合評だ。青梅の並木さんは自宅周辺に息づく小さな命と自然を、上尾の森さんは食べられる植物の花シリーズの第2弾を、加藤さんは6年間追い続けている在日朝鮮学校の生徒たちの成長の様を、塩崎君はダンサーの肖像を、そして6月に初のグループ展をひかえている吉田さんは、グループ展「空 KUU」-beyond the border- に出品する作品についてみんなで討論をした。この展覧会には、彼女の他に石山貴美子、野沢文子、マルレーヌ・マリーノが参加している。詳しくは「風」メールマガジンNO.11をご覧下さい。最後にゲストで参加したまゆみさんの作品「台湾」を見た。日めくりカレンダーとして造本されている作品であるが、台湾の海岸線の自然が織り成した造形美を巧みな感性で表現した力作であった。岩や巨石に何万年もかけて描かれた紋様は、時代やイデオロギーに翻弄され続けた台湾の民衆の苦悩のようにも見えるし、作者自身のこころの中の葛藤のようにも感じられた・・・・・・・。

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終了後は、会場を移し、平元君の快復祝いと、吉田さんの写真展開催の祝いと、ゲスト参加してくれたMさんへのお礼を兼ねて、最長老の同人・森武司さんの音頭で乾杯をした。僕からは「2010年度の1年間ご苦労さまでした。そして今期もまた新たな気持ちでがんばろう!」と一言あいさつ。とくに10月には第2回「風」展も控えているのでそれぞれの個展開催をめざすとともに、この写真展も成功させようと話した。後はおのおの自由に写真談議や人生談議などなど・・・・・・。名古屋の平元君の最終便に間に合う時間まで盛り上がっていた。

この店で数十年ぶりに、坪内祐三さんにばったりと会った。彼が雑誌「東京人」の編集者をしていた頃だから本当に久しぶりだ。結婚式にも出席している。しかし、いまや「文芸評論家・坪内祐三」として名をはせていて、よく雑誌等で名前を目にするようになった。よく飲み歩いていた若い頃以来であったが少し痩せた程度で、ほとんど風貌は昔と変わっていなかった。坪内君は、数人の人たちと飲んでいたので、あいさつをし、握手をして別れたが、なつかしい積もる話もたくさんあった。だが・・・・、またの機会にしょう。とにかく元気そうだったのでよかった・・・・・・。
懇親会を終えてから有志でお茶をしながらさらに3時間ほど写真談議をした。ゲスト参加のまゆみさんも。みな若いから元気だが、さすがに僕は疲れました・・・・・。

家の近くの酒屋で立ち飲みをしている「みのる酒店」というのがあるが、ここは休日前の日は、午前1時まで営業している。今年になってから寄るようになった。津軽美人の奥さんと力持ちの主人の若い2人で切り盛りしている小さな酒屋だが、地元の若い世代に人気があって夜中なのにいつも混んでいる。僕はここでは「お疲れ様サワー」というクエン酸がいっぱい入っている1杯350円のサワーと韓国海苔でチーズをはさんだものが、10枚で200円というつまみが定番。この日はシッタカ貝の茹でたのが自由に食べれた。0時を過ぎたころに突然、「徳間ジャパンの演歌歌手・新藤ひろし」というひとが店に来て生で持ち歌「まつりぶね」を歌い始めた。デビューして苦節26年、こうして全国の夜の町を歩いていると言う。みんな酔いも手伝ってかおひねりが随分と飛んでいた。しかし、フリーの写真家も大変だが、売れない歌手も大変だな~とつくづく思って家路を急いだのであった・・・・・・。(下の写真、手に持つのはマイクのつもりのハンカチです)

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(実家の前にある真田昌幸領の岩櫃城の平時の時の城として使われていた内出城本丸跡からの故郷の風景)

今日、5月6日は二十四節気の一である立夏である。午前中から7月末刊行予定の瀬下太刀男写真集『瀧巡礼』の入稿と製版の打ち合わせのために、東京印書館印刷へ行っていた・・・・・・・。
実は5月2日~5日まで、83歳の母が一人で暮らす上州へ帰省していた。2月に帰った以来だから3ヶ月振りである。この間には東日本大震災、福島原発事故など僕ら現代人が体験したことがない事が立て続けに起きた。久しぶりの車窓からの故郷は、大陸からの黄砂で赤城山も榛名山も上越の山並みまったく見えなかった。『瀧巡礼』の編集作業と来週取材に行く、甲斐の国・韮崎の保阪嘉内関連資料等を持ち込んだので、実家に居る時間はほとんどそれらに費やした日々であった・・・・・。
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我が家の飲み水として汲んで来る山清水は、国定忠治が何度か子分らを引き連れて通い、最後には関所破りのとがで処刑された地・大戸関所跡から信州へとつながる旧街道から山に分け入っていくのだ。父たちが眠る小松家の墓と母方の本家の墓に参いってから弟夫婦と水汲みに寄ったのである・・・・・。
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実家から車で15分以内の町内には、11の温泉がある。古くからある浅間隠温泉郷や吾妻渓谷温泉郷などもあるが、ここ20年ぐらいにつぎつぎと誕生した。母と家から最も近い2箇所の温泉に行った。帰路ぶらぶらと歩きながら上州牛の農協焼肉店と母の友だちが女将をしている鮨屋によってゆっくりと2人で飲んだのである。上記の写真は、吾妻峡温泉・天狗の湯、鉄分が多く温たたまる湯だ。
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釣り好きと故郷の川の環境を守ろうと活動をしている仲間たちの清流倶楽部の飲み会に誘われた。毎年夏の会には参加していたが、春は初参加。メンバーが釣ってきた山女やマス焼き。中には樺太マスも入っていて美味であった。山菜は、こごみ、山椒、たらの芽、ふきのとう、行者大蒜などのてんぷらや胡麻和えなどの手作り料理が並んだ。今年は、こしあぶらだけはまだ季節が早かった・・・・・・。
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参加した清流倶楽部の面々。話題は環境問題から政治の話、特に原発事故の話などに熱が入っていた。僕は何も知らなかったが、原発事故直後から町内4箇所で、南相馬市の被災者を420人受け入れていて、現在でも2箇所に約290人の家族が避難しているのだそうだ。母と行った温泉施設にも200人がまだ滞在しているという。僕は話を聞きたいと思い職員に聞くと、ボランティアなどに正式に登録しないと面会も駄目だと断わられてしまった。何か閉鎖的な感じがした。もっと地元住民とのオープンな交流があってもいいのではと思った。僕が今年3月に作った写真スケッチ集「啄木への旅」を清流倶楽部のみんなに渡したら”東北支援カンパ”としてその場で、21000円が集まったことも報告しておく。感謝☆!!
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最後の5日は、二つの板に揮毫を頼まれた。以前にも倫理法人会渋川支部の役員が持つ名刺に「感謝」「愛」などを頼まれて書いたが、今回は大きな板。失敗は許されないので、正直やだった。弟の勝三は自分の会社に掛けたいと「日日是好日」。もう一人は弟の友人でやはり200人からの従業員がいるという会社の常務取締役の人。こちらは「一生勉強 一生青春」。これから二スを何度か重ね塗りをして完成させるのだと言う。もちろん僕はボランティアだがクタビレタ申したのでした・・・・・・・・。

 

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W I N D S T I M E S 風通信 ♯011 2011.5.1
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次回写真研究会「風」例会のお知らせ

 日時:5月7日(土)13時~17時
 
 場所:世田谷区新町地区会館 
 住所:世田谷区新町2-21-10  

✿欠席の方は事務局までお知らせ下さい。
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志ある者、来たれ!小松健一主宰写真研究会「風」3期生(2011年度)募集中
 
個展をやりたい、写真集を出したい、プロ写真家になりたい・・・・・・。真摯に創作
に向き合う写真家を目指す人ならば、経験、年齢、民族等は一切問いません。
特に既成概念にとらわれない個性的な人を歓迎します。
 
主宰が真剣勝負で指導する「写真道場」です。本年10月18日(火)~30日(日)
東京目黒・ギャラリーコスモスで第2回「風」展を開催します。
 
「フォトコン」5月号に上記内容が掲載されています。
✿問い合わせ 事務局TEL/FAX03-3424-1987(鈴木)
 
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写真研究会「風」3月例会報告
 
今回の例会は、参加者は主宰を含めて5人と少なめでした。いつも名古屋から一番先に
参加していた平元さんは、入会以来初めての欠席でした。個展の最後の仕上げ段階にき
ている加藤さんと事務局長の鈴木さん、以前取り組んでいた米軍横田基地周辺の街のモ
ノクロ作品を持ってきた並木さん。つい数日前にブータンから帰国して、撮ってきたばかり
のホヤホヤの作品を70~80点持って張り切って参加した吉田さん。時間もたっぷりあっ
たのでそれぞれじっくりと批評をしていただきました。また会の運営や会員を拡大すること、
4月17日に横浜の新聞博物館で開催されている大城弘明写真展「沖縄・終わらない戦後」
を見に行くこと、10月に開催する第2回「風」展のことなどを話し合いました。

5時過ぎから会場をいつもの居酒屋「味とめ」に移して有志で懇親会をしました。ここには
写真学校の授業を終えて駆けつけた塩崎、中国の写真家・烏里さん、銀座二コンサロン
29日まで「ガンガー巡礼」という写真展を開いている石川武志さんと元「風」メンバーだ
った写真家の菱山君も駆けつけてくれて大いに写真談議に盛り上がりました。2次会は
崎と烏里さんと主宰とで俳句仲間がママをしている店に行って久しぶりにカラオケなど
2~3曲歌いました。
 
主宰ホームページより。風通信用に一部修正してあります。シオザキ)
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今回参加した方たちにお互いの講評、感想をいただきました。
 
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横田基地街(並木すみ江さん作品) 鈴木紀夫
 
地元に住んでいて基地の街の様子を写しまとめて、ニコンギャラリーに申し込んだ作品を
持ってきた。今日の基地の様子、基地開放日など、新しい作品を入れてもう一度気見直し
応募してみたらどうか!
国道16号線沿いに金網で仕切られた米軍基地。向い側には基地の街が続いている。戦
後の昭和30年代米兵相手の酒場、飲食店、住宅、大きなアメリカ車などで賑わった街が
今では寂れてしまった、街の様子を写してきている。他の街にはない不思議な光景が写
されている作品がある。
 
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ブータン逍遥・・・吉田加代さんの旅 加藤陽子

今回はインド、ミャンマーに続く、旅する巡礼が捉えた写真だ。金沢の寺に出自を
持つ彼女
にとっての旅は仏教の伝播 が今その国の暮らしと習慣にどう存在するのかを、カメラの眼
を通し求める事に有る。今年3月13日成田を発ちタイ経由でブータンを目指した。伝統の
りに参加する人の華やぎ、タルチョに飾られた木々と早朝の闇に垣間見せた高山と祈りの
光景を素直に捉え、その目は一層の広がりと深みを増して来ているようだ。
 
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鈴木紀夫さんの写真 並木すみ江

青春18キップを手に握りしめ、日本全国を一人旅した心象写真をまとめている鈴
木さんで
すが、本日持参した写真の中に愛妻と出かけた沖縄がありましたが、愛妻をモデルにした
写真が一枚もないのです。撮っていても公表しないだけなの?そのうち紹介してね。
常にマイペースで笑顔の鈴木さんから想像しにくい青春18キップの写真は鈴木さ
んの知ら
れざる心の内だとすれば、チョッと淋しい感じもしてきます。
 
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写真展のおしらせ
 
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6月に吉田さんが参加されるグループ展のご案内です。グループ展とはいえとても広いギャラリー
での展示です。少し早い案内となりますが、今から楽しみです。
 
「空 KUU」 Beyond the border
石山貴美子、野沢文子、吉田加代、マルレーヌ・マリーノ
 
世界を旅する4 人の女性写真家たちの目の前に広がる視界、本来全く異なる作品がいつ
しかひとつの調べを奏で出し、このグループ展が生まれました。この展覧会のキーワード
は「空 KUU」、温かな感情を湛えた言葉の本来の意味は「Relationship」、決して虚無で
ありません。
 
永年にわたり世界各地で、"今という時間"と誠実に向き合ってきた石山貴美子。アジアの
国を旅することで自分のルーツにある通じ合う心を求めた吉田加代。パリの街に点在する
"空き家? For Rent"の潜む過去の余韻と未来の予感を写し取った野沢文子。亡命者とし
ての家族の歴史を背負い、故郷ハヴァナの時間を描写するマルレーヌ・マリーノ。
それぞれの作品が秘めていた"ある意志"が、「KUU」というテーマの下、世界をつなぐスト
ーリーとして同じ写真空間の中で語られます。
 
 日時:2011年6月29日(水)~7月18日(月) 10:00~20:00
 会場:ギャラリー21  
 住所:東京都港区台場2-6-1 ホテルグランパシフィック LE DAIBA 3F 
 電話:03-5500-6711
 
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編集後記
 
甚大な被害を生んだ「東日本大震災」が起きたのは、3月4日に風通信10号を出したちょう
ど1週間後の出来事でした。流れてくる映像の凄まじに思考が麻痺し、現実のこととして
受け取ることができませんでした。いつもとちがう雰囲気を感じ取っていた4歳の娘を見て、
ただただ無事に成長して欲しいと思いました。
  
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Publisher_Kenichi Komatsu. Editor_Toru Shiozaki. © windstimes 2011

 

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5月1日はメーデー、労働者の祭日だ。かってはどんなに田舎町でも駅前広場などに、赤旗やプラカードを持った働く人たちが集い、アコーディオンやギターに合わせて「晴れた五月の青空に歌声高く響かせて・・・・・・」などと大きな声で歌っていたものである・・・・・・・。いまとなっては懐かしい光景となってしまった。

 

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「写真家小松健一のオフィシャルサイト」を立ち上げてからこの4月末でちょうど2周年となった。立ち上げに関しては、コンピュター学校の学生だった伊馬流さんにはとりわけお世話になった。心から感謝したい。それに現在も管理者をしてくれているプログラマーの藪下博文さん、アドバイザー的存在の写真家の塩崎享君の2人にもお礼を申し上げたい・・・・・・。 この3人の若い仲間がいなければ、このサイトはいまだ立ち上がっていなかっただろう。

なかでもブログは、4月29日で通算300回を達成し、自分でもちょつと驚いている。2年間で730日であるから約2.9日に1回はブログを書いて来たことになる。写真の掲載点数に至っては、1500点を優に超えているだろう。僕のどうでもいい独り言の類が多かったと思うが、やはり継続していくと貴重なドキュメントとなる。平成21年4月から平成23年4月までの社会の一段面ではあるが、一人の写真家が見つめた記録であることには違いない。

この2年間のアクセス回数は、世界全大陸の39カ国から26、064回である。アメリカ140回、中国136回など結構な頻度で外国の人々も見ていてくれていると思うと元気が出てくる。これからもがんばって書き続けたいと思う。写真についても魅力的なカットをアップしていきたい。ギャラリーについてはヒマラヤの写真を417作品をアップさせたが、こちらも引き続いてコツコツと紹介していく所存である。 今後とも自然体ではありますが、末永く努力をして参りますので、皆さまにおかれましては、くれぐれも温かく見守ってやってください。よろしくお願いします。

それでは皆さん、サイト立ち上げ2周年とブログ記事300回達成を祝いまして、乾杯~☆☆☆!!!

 

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☆写真は全てサイトギャラリーの「雲上の神々・ヒマラヤ古寺巡礼」より。

 

このウェブサイトの写真作品、文章などの著作権は小松健一に帰属します。無断使用は一切禁止します。