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[no.294] 2011年4月14日 第3回”三陸海岸回想記” ー 宮古港を望む丘に建つ石川啄木の日記を彫った碑は、東日本大震災の巨大津波から難を逃れただろうか・・・・・。

 

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昨日の第二回「三陸海岸回想記」に続いて、第三回「三陸海岸回想記」を書きつづけたいと思う。

現在は盛岡市と合併してた玉山区渋民字渋民となったが、北上山地の秀峰・姫神山の麓に生まれ育った石川啄木にとっても宮古は浅からぬ関係があった。それはある意味、縁をも感じさせるようでもある。幾人もの宮古衆がちょつぴり生意気で、自信家でもあった啄木を陰ながら支えていたのである。まず、函館で出合った「宮古の松本艦長」こと松本精一が宮古出身だ。函館の大火で焼きだされた啄木を札幌の「北門新報」に誘い、ほどなく創刊したばかりの「小樽日報」へ啄木と移りともに働いた先輩の硬派記者・小国露堂も宮古出身であった。さらに、さいはての町・釧路での啄木の生活を精神的な面で支えた芸者・小奴の姉芸者・小蝶、盛岡中学時代の啄木も参加していたユニオン会のメンバー・伊藤圭一郎も宮古周辺の生まれである・・・・・・。

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啄木が北海道漂白の旅にピリオドを打ち、創作生活に入るべく上京を決意して、釧路港を酒田川丸で出港したのは北の地の春はまだ遠い4月初め。宮古へ寄港したのは、1908(明治41)年4月6日のことだった。上陸後、まず訪ねたのも、盛岡中学の先輩で医師の道又金吾だった。この日の啄木の日記全文を記した碑が宮古港を望む漁協ビルの広場に建っていた。港からみると小高い丘の上に建っていたから、今回の巨大津波の難は逃れることが出来たのだろうか。それともあの高さとて波にのみこまれたのか。ニュースを気をつけて見ていたがいまだ判明はしていない・・・・・・。

「街は古風な、沈んだ黴の生えた様な空気に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。街上を行くものは大抵白粉を厚く塗つた抜衣紋の女である。・・・・・・隣の一間では、十一許りの女の児が三味線を習って居た」

わずか7時間余りの宮古滞在にもかかわらず、当時の宮古の花街・鍬ヶ崎の様子や風俗を記者・啄木の眼でリアルに捉えていると思う。

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いまから20年程前になろうか、僕は取材先の宮古港から石川啄木記念館へ電話をしたことがあった。そうすると当時の館長が「小松さん、今日の晩は職員みんなで八幡平の温泉で泊りがけの忘年会をするのですが、いまから来ませんか~」という。僕は宮古の魚市場で獲れたての真イカなどを氷につめて車を飛ばして八幡平へ行ったのだった。学芸員の山本玲子さんの家の近くの温泉民宿で楽しく一晩過した想い出がある。今回の地震のおきる2週間程前に記念館で山本さんに会った時、「小松さんが宮古から持ってきたイカを腸まで使って料理したの、とても美味しかった。今でも思い出しますよ・・・・」と懐かしそうに微笑んだ・・・・・・・。

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<写真は、すべてサハリン(旧樺太)で。宮沢賢治は1923(大正12)年7月31日に花巻を発ち、8月2日夜に定期便、対馬丸で宗谷海峡を渡ってゴルサコフ(旧大泊)に着いた。その夜は深い霧雨だった・・・・・。一番下の写真は,日本時代の旧樺太農業試験場の宿舎跡で。そこに暮らし取材に協力してくれた主婦と僕と犬と猫ちゃんで~す>

 

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