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[no.293] 2011年4月13日 第2回”三陸海岸回想記” ー 釜石市・柳田国男『遠野物語』の舞台の常楽寺。 宮古市・浄土ヶ浜の宮沢賢治の歌碑はどうなったろうか・・・・・。

「三陸海岸回想記」の第一回目の陸前高田編の続きをいま少し書いておこう。昔からこの地方の男たちは、気仙沼大工、左官として宮大工をはじめとした技術者集団として、あるいは腕のいい遠洋漁業の漁師として各地に出稼ぎにでていたという。留守を切り盛していたのは、南部女衆たちである。魚介類の旨さは知られているところだが、冬の牡蠣、夏の雲丹をはじめとして、本来なら今頃から初夏にかけて旬な肴は、4月の白魚の踊り食い、5月のホヤ、6月には真イカ、アイナメをはじめ鮑、ホタテ、ホッキ貝などが旬で旨いのだ。また今回の津波で蔵ごとすべて流されてしまったが、こうした三陸の魚介類にぴったりと合う酒蔵があった。

日本画家の佐藤華岳が「酔うて仙境に入るが如し」と命名した「酔仙」である。銘に劣らぬ骨のある酒だった。南部杜氏が酒仕込みの時に歌うという酒屋歌を蔵のなかで聞かせてくれた。 「酒屋ぐらしは大名ぐらし五尺六尺たったまま飲むよ・・・・」 この歌の一節がいまも僕の耳底に聴こえてくる・・・・・・・・。

 

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さて「三陸海岸回想記」の第二回目、今回は陸前高田から北上した「鉄と漁業の町」釜石市とさらに北上した宮古市のことについて書いてみたい。釜石にも林芙美子の小説『波濤』の文学碑をはじめ多くの碑がある。市の北方に位置する常楽寺境内にある柳田国男文学碑に興味があったので行ってみた。柳田の代表作『遠野物語』のなかに収められている釜石の民話は20数編ある。柳田が釜石を訪れたのは大正9(1920)年。彼の取材ノートには次のようなくだりがあった。

「鵜住居の浄(常)楽寺は陰鬱なる口碑に富んだ寺ださうだが、自分は偶然その本堂の前に立つて、しをらしいこの土地の風習をみた」

300年以上の歴史を待つ曹洞宗・常楽寺の裏山の麓にひっそりと柳田の碑はあった。碑文は柳田らしく、みちのくを美しい文章で綴った「北の野の緑」の一節である。碑の周りはブナと躑躅に囲まれて、東北の遅い春の季節は、さぞや柳田好みの風景だろうと思った・・・・・・・。

 

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宮古もたくさんの文学者が訪れているがここでは、宮沢賢治と石川啄木の二人に絞って書くことにしたい。賢治は、大正6(1917)年、大正14(1925)年の2回、宮古を訪れている。ともに発動汽船での上陸だった。最初のときは、盛岡高等農林学校時代の21歳の時。花巻ー石巻間が軽便鉄道で結ばれたのを機に、花巻実業家有志「東海岸視察団」の一員として父親の代理として参加した。しかし、宮古では宴会ばかりに明け暮れる視察団と離れて単独行をとり、帰りも一人で船に乗らず、早池峰山麓の小国峠を越え、遠野を巡って花巻まで歩いて戻っている。 また賢治は宮古山常安寺七世・霊鏡竜湖和尚が、「さながら極楽浄土の如し」と感嘆したことから名付けられたという宮古の名勝地・浄土ヶ浜が好きで、ここで夜を明かし、詩心を触発されて明け方まで次々と短歌をものにしている。

「 うるわしの海のビロード昆布らは寂光のはまに敷かれひかりぬ  宮沢賢治 」

この歌碑は、賢治の生誕100年を記念して1996年に浄土ヶ浜に建立されたが、果たして今回の巨大津波に果たして持ちこたえたろうか・・・・・。石川啄木の宮古にまつわるエピソードについては次回に書くことにする。

 

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<写真はすべて宮沢賢治が1923(大正12)年7月末~8月にかけて旅したサハリン(旧樺太)で。一番上と下の写真は、スタロードゥブスコィエ(旧栄浜)で。真ん中の写真は島の中心街、ユージノサハリンスク(旧豊原)で出合った女性。賢治が巡った土地を今から14年前の同じ7月末~8月に、僕も独り海霧なかを辿った・・・・>

 

 

 

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