写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

[no.292] 2011年4月12日 第1回"三陸海岸回想記" ー 陸前高田・松原の白浜に建つ啄木歌碑の行方は・・・・。劇団「ひの」舞台公演のことを載せたブログがコミュニティ情報誌に転載された☆!

 

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昨日に引き続き今朝も頻繁におきる余震というには大きすぎる地震に、「東京直下型巨大地震」を考えてしまい不安な気持ちになっている方たちも少なくないであろう。正直、僕も精神的には相当参っている。しかし、そうは言っても実際に今回の巨大地震に被災され、家族をなくし、愛する人がいまも行方不明、家や会社、先祖伝来の田畑や海を奪われた人々のことを思うと、とてもそんな弱気なことは言ってられないのも事実。とにかく背伸びせず、肩肘張らず、できるだけ自然体で日々を生きていくしかない。被災しながらも必死に歯をくいしばって生きている人々に思いを寄せながら・・・・・・・。

今月末で「写真家 小松健一オフィシャルサイト」を立ち上げて丸2年となる。そのまとめについてのリポートは後日にしょうと思うが、ブログなどについて読んでもいないのにあれやこれやとイチャモンをつけてくる輩もいれば、「うれしい、ああ~書いていてよかった」と励まされる反響も多い。つい最近も都下日野市を中心に活動をしている劇団「ひの」という劇団の演出家から電話があり、僕のブログの記事をニュースに転載してもよいかという問い合わせだった。もちろん僕は「写真もふくめてどうぞ」とこころよくOK!をした。後日その「SAKURA NEWS]というA4版、8ページのコミュニティ情報誌がおくられてきた。その2ページ目、全部を使って僕のブログからの抜粋で紙面を構成していた。「”新羅生門”連日満席! 身内のような暖かい感想をいただきました!」、「邪推とは、正義とは何なのかを現代に生きる一人の人間として深く考えさせられた 小松健一さん(写真家)」という見出しで、写真も2点添えられていた。おまけに僕のサイトの紹介までしてくれているのだ。(2011年1月31日付けのブログに掲載)

☆劇団「ひの」の第83回公演予定は、宮沢賢治作「銀河鉄道の夜」。2011年11月下旬から12月上旬です。僕も今秋、新潮社から『恋するナチュラリスト 宮沢賢治』(仮題)を刊行予定だから、いまから芝居が楽しみではある。

 

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さて、「三陸海岸の回想記」の第1回目を書こう。みなさんもテレビの画面から流れてくるニュースのなかでも衝撃をもって見つめた光景に、岩手県陸前高田市の松原にたった1本だけ津波から残った松の木を覚えているでしょうか。その松原と白砂の浜のことから書いていこうと思う。
美しく太平洋岸に続く三陸のリアス式海岸沿いには、50基を超える文学碑がある。それだけ多くの文人たちがこの美しい海岸を愛でて旅したと言う証でもあるだろう。陸前高田にも、松尾芭蕉、高浜虚子、土井晩翠らの文学碑が有名だが、なんと言っても地元の人々には身近な存在として親しまれているのは、岩手県出身の石川啄木の歌碑であろう。
1900(明治33)年の夏、当時盛岡中学3年だった啄木は、担任の教師だった高田小一郎に引率されて級友数名と修学旅行でこの陸前高田を訪れている。北上山系の山懐に抱かれた渋民出身の啄木にとっては、生まれて初めて見る大海原であった。どこまでも続く白い砂浜、緑濃い松原は、感受性の強い少年にとって、どれほど新鮮に映ったことだろうか。同行した同級生の一人、船越金五郎が書いた日記にその旅の感動が記されていたのである。そのことが後年ラジオ等で報道されるや「高田の松原に啄木の歌碑を建立しよう」という機運が盛り上がり、1957年に船越の揮毫で歌碑が建立されたのだ。

「 いのちなき砂のかなしさよ / さらさらと / 握れば指のあひだより落つ   石川啄木 」

しかし、船越の揮毫した碑の歌が啄木の歌とことなっており、彫りなおすべきとの論争がおきていた矢先に三陸地方を襲ったチリ地震津波でこの歌碑は流失したのである。建立後わずか3年だった。「受難の碑」と呼ばれたこの碑は、後に砂浜の中から発見されたが、元の位置には戻ることなく、市内の氷上神社の参道に移されたのだ。その後、高田松原に建立されたのは、啄木の親友・金田一京助が揮毫した歌碑だ。おおきな枕のような巨石の歌碑であったが今回の大津波で果たしてどうなったことだろうか・・・・・。
僕はこの「いのちなき・・・・」の歌をはじめとした歌集『一握の砂』なかでも絶唱といわれる「我を愛する歌」冒頭の10首の舞台は、実はこの啄木の故郷に近い陸前高田の松原の白浜ではないかと一人推測しているのだ。もちろんストレートに啄木がこの浜辺をイメージしたわけではないだろう。漂白の旅のなかで安らぎの場として通った函館の大森浜も重ね合わせたかもしれないし、琉球出身の「明星」の歌人で仲のよかった山城正忠に、南の沖縄の美しい海や浜辺のことを聞いたこともあったろう。でも多感な少年時代に出合った忘れえぬ光景を、啄木はこころの奥底で静かに発酵させていたのではないかと思うのである・・・・・・。

 

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(写真は3点とも歌人・山城正忠の故郷・沖縄島の北部、やんばる地方で。 「 ほこり立つ路のまなかを泡盛のしずかにぬれてあやふくたどる 」 正忠)

 

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