写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

[no.319] 2011年6月12日 保阪嘉内が亡くなる3ヶ月前までの約4年間暮らした雑司が谷の家を息子の庸夫さんたちと探し歩いた・・・・・。東日本大震災から3ヶ月間が過ぎた・・・・・ 合掌

昨日でちょうどあの大災害を巻き起こした東日本大震災がおきてから3ヶ月となる。いまだ行方不明の方々が約9000人、避難所で暮らしている方々も90000人を超えているのが現状だ・・・・・・・・。  こころから一日も早い復興への道と行方不明者の発見を祈るばかりである・・・・・・・。  合掌

さて、僕は先週の水曜日から出ずっぱりの日々が続き、心身ともにくたくたに疲れ果ててブログも書けない日が続いていた。今日アップするのは9日のことである。宮澤賢治の無二の親友・保阪嘉内の息子さんの保阪庸夫さんとその娘・美佳さん夫婦と嘉内の8人兄弟の一番末の妹・静枝さんの息子さんの4人が突然、山梨県の韮崎から上京して来たのだ。前日に美佳さんから電話があり、「明日の新宿10時38分着のスーパーあづさでいきます」という事であった。この間、僕が歩き探している嘉内が昭和7年から亡くなる3ヶ月前の昭和11年11月まで暮らしていた「雑司が谷1丁目365番地」の家を確認に来るのだという。いろいろとお世話になっていることもあり、万障繰り合わせて約束の11時に護国寺に出かけたのである。以下は、その日の「写真日記」だ・・・・・・・・。

 

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まず最初に向かったのは護国寺。善三・庸夫兄弟がよく遊び場にしていたという境内にある富士塚。一合目から山頂までの道程はこども心に冒険心をかき立てられたという。
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護国寺の山門をくぐり、本堂への階段の前で。84歳でお元気な庸夫さんと記念写真。
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庸夫さんの記憶によれば、家の隣にあったという日本女史大学の寮の門前。当時と変わらないで現在もある。左端が静枝さんの息子さんのFさん。保阪静枝は嘉内と21歳違いの妹。当時、嘉内の家に住んで伊勢丹に務めていたという。94歳まで生き、一昨年に亡くなったという。僕が「ご存命の時にお母さんとお会いして嘉内のことを聞きたかったです」というとFさんはとても残念がった。
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庸夫さんの「家の東側に寮があった・・・・・」という記憶に基づいて東側一帯を探すが、その一帯は雑司が谷1丁目350番地代。先日お世話になったご夫人を訪ねると今回もまた案内をかってでてくれた。そうしてその後2時間ほど熱い中一緒にさがしてくれたのである。その他にも70代、80代の地元に永年暮らすおばあちゃんたち、町内会長さん、蕎麦屋の2代目、床屋の2代目の青年、郵便局の2人の職員、そして地元の「生き字引」といわれていた八百屋の86歳のおじいさんなど多くの人たちにお世話になった。最後はこの辺り一帯の土地を持つ地主さんを訪ねた。上の森の中にその家はあった。訪問の目的を話すと快く、明治時代からの公図を見せてくれて旧番地を示しながら教えてくれた。探し始めて4時間、ようやく目的地の「雑司が谷1丁目365番地」が判明したのである。
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嘉内の家の左側にあったという作家・三角寛の旧邸。現在は料亭になっていた。
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この地で60年ほど前から八百屋をしているという86歳のおじいさん。嘉内の家の裏の丘の上にあったと言う金山稲荷の場所や菊池寛の家で金平糖をもらって紙芝居を見た話など庸夫さんと盛り上がった。おじいさんの家は雑司が谷1丁目362番地だ。その後、367番地、369番地、368番地、372番地、そして366番地まで見つかったが、どうしても365番地が見つからなかったのである・・・・・。
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昔は地元人びとが大勢信仰してお祭りも賑やかだったという「金山稲荷」の跡。何と5~6年前に売り飛ばされてしまって今は何処に移ったかもわからないという。徳川将軍とも所縁のあったという稲荷神社だったという。現在は歴史を感じさせる巨木が数本残っているだけであった。
しかも、この「金山稲荷」があった場所の地番が目的地の「雑司が谷1丁目365番地」だったのには驚いた。庸夫さんも「僕らが暮らした家が、金山のお稲荷さんと同じ住所だったとは・・・・・・・」としきりに首をかしげていた。
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今だ旧地番の表札が付いてた家の玄関。うれしさのあまりパチリ。この近くであることは地元の人たちの証言や庸夫さんの記憶と合う。煎餅屋さんがあって・・・・、お米屋さんがあって・・・・・。「理化学研究所」という醤油や化粧品など何でも研究していた家があったという記憶と・・・・・・。そして下の更地で現在駐車場になっている場所に当時、貸家が3軒あったことも判明したのだ。地主さん証言もあることだし、総合的に見てどうやらこの土地に保阪嘉内は住んでいたらしいということが判ったのである。梅雨の晴れまで蒸し暑い日であったが、そのときに一陣の爽やかな風が吹き渡った。
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雑司が谷1丁目の路地にある創業54年目の鉄板焼き煎餅の「小倉屋」の前で、従業員たち。
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雑司が谷から鬼子母神堂へ行く弦巻き通りであった研ぎ屋さん。寅さんのような青年だった。
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鬼子母神堂の境内で1781年から店を出している駄菓子屋の「上川口屋」。江戸時代、田沼意次が老中で、天明の大飢饉の前年、いまから230年前のことである。美佳さんは、懐かしそうに大量に駄菓子を買い込んでいた。
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雑司が谷鬼子母神堂の参道前でご夫婦で記念写真。このお堂は安土桃山時代の天正6(1578)年に「稲荷の森」と呼ばれていた現在の地に、村人がお堂を建てたのが始まりで今日にいたっているという。
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知らないカップルもパチリ・・・・・。
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ついでに美佳さんが僕と一緒に一枚というので。ご主人がシャツターを切った。美佳さんは「ラブチューニュ~!」と言ってハートマークを作ったので僕は半分のハートマークを作った・・・・・。美佳さんは愉快な人なんです~ね☆~~
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5時前に新潮社のO編集者が鬼子母神に駆けつけて来た。庸夫さん一家にごあいさつ方々、昨日編集部へ行って構成してきた「週間新潮」のグラビアの組直しをせよと来たのである。重いビュアーとポジフイルムを担いでてきたのだ。2人でみなさんを駅のホームで見送った後、池袋のみやらびへ行って1時間ほど作業をさせてもらった。ページごとにレイアウトをし直して6時半過ぎにようやく終わった。彼女はオリオン生ビ-ルを2杯クビッと干して社に戻って入稿してきま~す。と戻ってしまった。この日は疲れ過ぎて飲まないと決めていたのに・・・・・・。仕方なく少しだけお付き合いをしたのだ。少しだけ・・・・・。仕事をさせてもらったし、飲まないでは帰れないもの。写真は店で会った日暮里のお寺のご住職さんとその俳句仲間の方。着物姿は、功子ママと琉球舞踊の名手・幸代さんでした。この日は結局6時間、万歩計を持っていたFさんよると1万数千歩は歩いたという。雑司が谷は昔は谷間だったのか、坂道が多かった。 とにかく疲れた~~。

 

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