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[no.317] 2011年6月7日 宮沢賢治の親友・保阪嘉内の雑司が谷の旧居を探して歩く。夜は国立演芸場で、立川志遊師匠の独演会を楽しんだ・・・・・・。

 

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宮沢賢治の無二の親友・保阪嘉内が1932(昭和7)年3月から亡くなる3ヶ月前の1936(昭和11)年11月まで一家で暮らした雑司が谷1丁目365番地を訪ねてみた。先月、山梨県韮崎市の保阪庸夫さんを訪ねた折に数年前に行ってみたら当時のままで残っていたという話を伺っていたからである。「日本女子大の寮が東側に面していた」という庸夫さんの記憶だけをたよりに行ってみたが、案の定、地番変更が昭和40年代のはじめに行われていて旧住所ではわからなかった。古くからある八百屋さんや魚屋などに聞いてもおおよその所はわかっても特定できない。日本女子大の寮は当時のままなので、守衛さんに聞いて東側に面する所を端から端まで歩くことにした。昭和の初期からあったような建物は4~5軒はあったが、特定はできなかった。

そんな時に自転車のご夫人が通りかかったので、声をかけた。そうしたら私の家かもしれないと案内してくれたのだ。先程、僕が最初に撮影したお宅であった。しかし地番が少しずれていた。たぶん裏のお宅だと思うのでとまた案内をしてくれたのである。それが上の写真。昭和初期から6軒、一戸建ての貸家があつて主に女子大の教授たちが住んでいたという。いまはこの一軒しか残っていない。残念ながら家の方は留守だったので旧住所の確認はできなかったが、ほぼ間違いないと思った。その後、近くの54年前からこの地でせんべい工場をしている女将さんに聞いたりもしてさらに確信を深めたのである・・・・・。

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嘉内が暮らしていた家の近くにある創業54年の鉄板焼きせんべい 小倉屋さん。16種類の味のせんべいは風味があって美味い。炭火焼のおかきやあられも種類が多い。こんな路地の奥まった所で50年以上続けているということに驚いた。こうしたことがまた東京の街の魅力でもあるという再認識をした。下の写真は旧菊池寛邸だった所。記念館があったが最近、ご覧の通りマンションが建ってしまった。今は入り口に小さな建て看板あるだけである・・・・・・。
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雑司が谷の小さな蕎麦屋で軽く腹ごしらえをして国立演芸場に向かった。立川志遊独演会を聴きに行くためである。7月10日に「三福きずな寄席」を主催する世話人会のメンバー2人も来てくれた。居酒屋三福の3代目の正修くんと”志遊応援団長”のOさんだ。この日の番組の師匠の噺は、高校時代に談志師匠のこの噺を聴いて感動して噺家の道にはいったといういわくの「小金餅」と志遊師匠の18番のひとつ「船徳」。前座には、後輩の立川吉幸、中入り後に手品の伊藤夢葉が舞台にたって、客席から受けていた。会終了後は、3人で池袋にでて、琉球料理店ツアーをして盛り上がったのは言うまでもない。

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