僕が主宰する写真研究会「風」の第4回例会が世田谷区の桜新町区民館で、昨日おこなわれた。会場に行く途中の道には一面に狂い咲きの里さくらが満開だった。(例会の内容については、近く発行される「風通信」第4号に載せますのでお楽しみに)。 僕はこの朝、写真仲間の郷司正巳君の悲報を知らされて、そのあまりの突然の死に、しばらくは呆然として胸の高鳴りを押さえることができなかったのである。重い足取りで研究会へと向かったのだが、思いもよらない薄い小さな花弁をつけた里さくらに迎えられて少しはこころが救われた気がしたのだった。
郷司君とは、現代写真研究所の創設時の頃からの付き合いだから随分と長い。僕は1期生で、彼は3期生だった。大阪芸大を卒業して上京してきて、開校したばかりの現研でフォトドキュメンタリーを学ぶのだと意気揚々としていた。講師陣もみな若く、ともによく飲み、よく語り、そしてごろ寝したものだった。当時、愛知県の岡崎市から夜行列車で通っていた竹内敏信さんや樋口健二さん、英伸三さんらがカウンセラーで、土門拳、田中雅夫、伊藤逸平、田村茂、藤本四八、伊藤知巳、丹野章、目島恵一、川島浩先生たちを中心に講義がおこなわれていた。さらに杉村恒、脇リギオ、重森弘淹さんら外部講師たち。他に詩人、役者、音楽家、彫刻家など他のジャンルの芸術家たちからもゲスト講師として多くを学んだ。
その後、郷司君とは企画展「戦後40年 戦争を知らない写真家たちの記録」を取り組み、原宿の歩行者天国、明治大学、渋谷・山手教会など様々な所で、出前・出張写真展などをおこない、当時マスコミをにぎあわせたものだった。僕がJRPの事務局長をやるはめになった時にも、事務局次長として4年間、小倉隆人さんと共に支えてくれた。彼が重い病気なって肝臓移植をしてからも折に触れて会った。今年2月に開いた僕らの写真展にも来てくれた。先月も電話があり、最後に話したのは10月31日だった。腹水がたまり調子があまり良くなく、入院していたとのこと。声は少しでにくい感じではあったが、それでも近じか会って仕事の話でもしようよと10分余り話して電話を切った。その4日後にまさか亡くなるとは・・・・・思いもよらなかった。彼が残した仕事はたくさんあるが『半世紀の肖像ー戦災障害者の記録』、『ベトナムの海の民』は残る仕事であると思う。郷司君は飲むといつも「一寸法師はベトナムから日本へ来たんだ。俺はその海の道を辿るんだ」といって事実、何度もアジアの海洋民族の取材に挑戦していたのである。
もうひとり僕にとってはとても親しかった写真家が先月の3日に急死した。それは沖縄の平敷兼七さんだ。写真をはじめてからこの40年、沖縄だけを撮り、「人間とは、沖縄人とは・・・・・」を探求しつづけた真のウチナー写真家である。一昨年、写真集『山羊の肺 1968-2005年』を刊行し、昨年5月銀座二コンサロンで同名の写真展を開催して、それが第33回伊奈信男賞受賞となったのだ。その銀座二コンサロンへも行ったが、沖縄から大量の泡盛と、とうふよう(泡盛に島豆腐を漬けて醗酵させたもの)を持ち込み昼間から会場で飲んでいた。もちろん僕も御相伴にあずかったが、二コンの担当者はサロン始まって以来の珍事ですと苦笑していた。彼はまったく気にする風でもなく「小松さん飲もうさ~」とニコニコと勧めるのだった。最後に会ったのは昨年の師走も押し迫った12月28日。沖縄に行っていた僕を訪ねてきてくれて、写真家小橋川共男さんと一緒に夜中の2時過ぎまで那覇の街をハシゴしたのだった。郷司君(享年56歳)も平敷さん(享年61歳)も僕と同世代。これから本当にやりたい仕事を追求していこうと思っていただろうに・・・・・・無念の極みという他はない。 ただ、ただ合掌するのみである。