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[no.658] 2014年1月6日 故郷・上州の実家から150メートル範囲の風景をシグマDP1-Xで撮った。それは僕が子どもの頃に、遊んだ”別天地”だったのだが・・・・・・・。

正月に帰省した時に、僕が子どもの頃に絶好の遊場だった場所が、実家の周りにあった。その場所が懐かしくて50年ぶりぐらいに歩いてみた。歩くと言っても距離にしてわずか150メートル足らずの所なのでゆっくりと見て廻っても2~30分もすれば廻ってしまうのだが・・・・・・・。辺りには僕の家をふくめて3軒しかなかったのが、町営住宅をはじめ100棟は出来ていた。辺りの様相はまったくことなっていたのは言うでもない。それがこの50年間というの時の流れた現実でもある・・・・・・・・・。

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すぐ近くを流れる吾妻川を夕闇が包みはじめる。夜空には星がきらめきはじめた・・・・・・・。夏の水泳はもちろん、魚釣り、冬は竹で筏を組んで川くだり、スケートなどをした。鉄くず拾いや小石を拾う砂利集めなどもして家計を助ける場でもあった・・・・・・・・。
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岩櫃城の出城でもあった内出城の本丸と二の丸と空堀跡。右側の建物は、母方の本家を継いで先年病死した僕と従弟になるMが建立した「城跡神社」。本丸の跡地は本家の上田家がいまも所有している・・・・・・。
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吾妻川を挟んで正面にそびえる岩櫃山。この中腹に武田信玄の配下であった真田昌幸が所領していた岩櫃城があった。武田の三堅城のひとつとしても知られている・・・・・・・・・。
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この崖の森は、子どもたちには絶好の隠れ場。小屋を作って遊んだり、ブランコやハシゴなどを作って忍者の真似事などしていた・・・・・・・・。
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下川原と呼んでいた吾妻川の川原。崖を下りたり登ったり平気でしていたがいま考えると高さは優に30メートル以上はあった。僕は小学生高学年のときに落石で額を割った。その傷跡がいまも額に残っている・・・・・・・。
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岩櫃山よりも低い観音山。この山の中腹には観音さんと呼ばれる社があり、その下には落差30メートル程の不動の瀧がある。山には至る所に数百メートルにわたって洞窟が掘られており、そこがまた子どもたちにとっては絶好の探検の場であxった・・・・・・・・。何でこんな穴を掘ったのか定かではないが、鉱物があったとか、修験者たちが修業の場としていただとか諸説あったがどれも定かではない・・・・・・・。

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実家の庭から見る内出城の二の丸と三の丸と空堀跡。ここも春になるとふきのとうやのびるや蕗などの野草の宝庫だった。僕らはよく摘みに行って、おやつやおかずの材料にしたものである・・・・・・・。
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家の裏の風景。正面に見える白い嶺は日光連山。左側には、谷川岳をはじめとした上越の山々が白く光っている・・・・・・・・・。子ども頃に良く遊んだ「お山の大将」と呼んでいた古墳跡はならされてなくなっていた・・・・。

☆~全日本お布施党 感謝告知板~☆  ★東京 Sさん 鹿児島芋焼酎 白波、吉兆宝山 各1升  こころから感謝申し上げます・・・・・・・・。  合掌     党首

 

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