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[no.162] 2010年5月20日 中国四川省西南部の旅-九龍・沙徳・康定・成都-(5月15日~18日帰国)

中国四川省西南部の旅の2回目の報告である。標高1600mの高原の都市・西昌から一路、標高3000mある大雪山脈の山懐にある町・九龍へ。約300キロの道程だ。この町は理事長の烏里烏沙君の生まれた所だ。小学校に上がる前までこの地で暮らしていたという。その後は一家で康定へ出た。康定から九龍へ続く道がようやく開通したのは、つい10数年前、烏里君一家は馬で一週間かけて、新居地・康定へ辿りついた記憶があるという。



九龍までの道路はひどい悪路で、背中の筋肉は激痛をともなった。車の乗り降りにも支障きたす程である。砂利道ならまだいい。アスファルトが欠けた道はどうしょうもない衝撃が車を襲う。重量オーバーの荷物を満載にした大型トラックが引切り無しだから道路も傷むのだろう。それでも10時間程かかって、ようやく九龍に着いた。ホテルですぐに1時間ばかりベットに横になった。しゃべるのも億劫なほど疲れていた。翌朝も早く出発、町の屋台で揚げパンと万頭と温かい豆乳で朝食とした。いままでは朝は麺類が多かった。そしていよいよ大雪山脈、折多山山脈を越えて、烏里君の兄弟をはじめ多くの親戚が今も暮らしている康定へ向かう。僕としては今回の旅でもっとも関心がある町である。それは上州出身の矢島保治郎(今年の2月27日のブログ記事参照)が今から100年前の明治43(1910)年7月から約4ヶ月間いた町である。当時の町の名前は打箭炉で、矢島の日記によれば人口10000人を超える大きな町であった。西蔵の強靭な馬や岩塩と中国の茶などの交易が盛んな町だった。いま僕は、先輩上州人・矢島保治郎が歩いた道程を100年後の今日、なぞってみたいと密かに計画を進行中である。





先ず最初の峠は鶏丑山峠、標高4500mだ。峠を歩いて越えて行くチベットの青年3人と出会った。風が強くタルチョーという5色の祈祷旗が音をたたて紺碧の空にはためいていた。一旦下るとチベットの村々が現れるが、そのどれもがりっぱな大きい寺(ゴンパ)のような作りだ。いわゆる建築ラッシュでどの家も新築に立て替えている。ここ3年~5年ぐらいのできごとであるらしい。部屋数は20部屋をこえ、中には3階、4階建てのまるで城のような家もあった。家の主に尋ねると「冬虫夏草」で儲けたのだという。つまり”冬虫夏草成金御殿”である。現地でも1個50元で売っていた。約10米ドルである。このブームになる前までは、1個5カク(1元の2分の1)でも売れなかったといからここ10年程で50倍の値段に跳ね上がったという事になる。御殿のような家が立ち並ぶはずである。だからみな4月~8月までは必死になって冬虫夏草取りにせいを出す。真面目にコツコツ仕事をやるのが馬鹿らしくなってしまい堕落した生活を送る者も多くなっているという。今回の旅での最高地は4600mの子梅峠だ。日陰ではまだ残雪があった。目の前には、大雪山脈もふくめた横断山脈の最高峰ミニヤ・ゴンガ7556mが聳え立っている。連なる峰峰もみな6000m級はあるがやはりミニヤ・ゴンガは図抜けて高かった。峠には必ずある石のチョルテン(仏塔)に身を任せて、しばらく風の音を聴いていた。



3つ目の峠は折多山峠、4298mだ。自転車で登ってきた漢民族の男女の青年たちと出会う。いま中国ではトレッキングやサイクリング、冒険などが一種のブームとなっているのだ。途中、ギャロン・チベット族の建築物として知られる「ちょう楼」と呼ばれる石を積み上げた5mから20mの建物が村の中に建つ村がいくつかあった。何に使うのか、目的は何なのかまだあまりわかってはいないみたいだ。それでも数百年の歴史はあるという。石楠花も大小様々な種類が咲き誇っていた。新緑の野山はまさに「山笑う」の季節で清流の響きが辺りに木霊してなんとも美しい風景であった。



烏里理事長が小学生から高校生まで暮らした町・康定である。少し郊外に立てば6000m級の連峰が見えるが、町の中は両側に山が迫る峡谷の町で、町のど真ん中に大きな川が急流をなしているのである。ちょうど100年前にこの地に辿り着いた矢島はどんな思いでこの町をながめたのだろうか・・・・・・。



帰国前夜、成都の街で1年ほど伸ばし続けて肩まで届いていた髪を急にバッサリと切った・・・・・(失恋したからでは勿論ない)。切る前と切り終えた後を何となく記録に撮った。腹が出ていて醜いのはご容赦!!また会おう!!

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