写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

[no.161] 2010年5月19日 中国四川省南西部の旅-上海・成都・甘洛・西昌-(5月11日~14日まで)

5月11日~18日まで、NPO法人「チベット高原初等教育・建設基金会」の派遣として、3名(烏里烏沙理事長、大岩昭之理事と僕)で出かけた中国四川省南西部の現地視察の旅を写真を中心にドキュメンタリー風に2回に分けて報告する。撮影は”SIGMA-DP1”なので、レンズは28ミリ程度1本のみ。雪山などのアップが欲しいところだがご容赦願いたい。




5月11日朝6時に、いつものタクシーが自宅に迎えに来る。最寄駅前からの高速バスは順調に成田国際空港へ着いた。予定より1時間も早かった。中国東方航空は定時に上海に。しかし万博に沸くこの上海で3時間待たされる破目になった。夕方6時に着くはずだった成都には9時過ぎに着いた。しかし、スイス在住の歌手のチベット人や出版会社の社長、銀行の幹部などが待ち構えていてくれて初日からの宴会となった。




5月12日、早朝に成都を出発。この日330キロ離れている涼山イ族自治州甘洛県まで辿りつかねばならなかった。雨の峨眉山(写真2枚目)を通り、大渡河に沿って南上していくのだが、その大峡谷の山道は凄まじいという言葉でしか表現できない。遥か下に成昆鉄道が走っているが、この鉄道の全長約1100キロの内、3分の1以上がトンネルであり、3分の1が鉄橋だと言われていることからもいかに厳しい環境がわかるだろう。途中、事故に会った。遺体はまだ路上に置かれたままであった。この国を旅していて必ず遭遇するのが交通事故で、いつ自分が会うかわからない不安がいつも付き纏っている。運転手の周君とその愛車・三菱パジェロを信じ、命を託すしかないのである。涼山イ族自治州全体の人口は1950000人、甘洛県は180000人だ。この町から約30キロ山奥に入った所に今回の基金会の事業対象である乃托村小学校がある。2年前に基金会の援助によって建設されたばかりである。到着後さっそく現地スタフッや県教育局幹部らと打ち合わせをおこなった。終了後、イ族料理で持て成しを受け、イ族の娘さんたちの歌声を聞いた。民族衣装も赤、黒、黄色の三色を基調として美しい。家の壁や衣装の文様がどこかアイヌ民族に共通するものを感じた。



5月13日、朝から人口1500人の乃托(ネァト)村へ向かった。つい最近道が開通して村まで車が入るようになった。今日はその記念式典も兼ねて、僕らの歓迎もしてくれるのだという。今までは車が入れる所から2時間以上の山道を歩かねば村には辿り着けず、学校建設の木材などの運搬はもとより、基金会のメンバーが現場視察に来るのも大変だった。道が開通したとはいえ、道路と呼ぶには程遠く、至る所でがけ崩れや湧き水で道路が泥水状態となり、何台もの車が立ち往生していた。ハンドル操作をひとつ誤れば谷底へ真っ逆さまである。今回の耐震補強工事に使用する資材も本格的な雨季に入る前に町から運びこまないと大変なことになることを実感した。最初の写真が村の遠景。左端の大きな建物が小学校。それ以外は、イ族のネァト村での人々のスナップ。ちょうど田植えの季節であった。



ネァト村小学校は先にも述べたが2年前に基金会の援助で建設されたばかり。写真でみて判る通り新しく、イ族の伝統的な建築様式を用いて周りの景観とも融合するように配慮された校舎である。全部で5棟あり広い校庭も子どもたちにとっては魅力的だ。この校舎の耐震補強工事が今回の支援事業の中心なのだ。理事長、建築が専門の大岩さんと現地スタッフと問題点を協議、確認しながら建物を見て回った。生徒は1年から4年生までで148人。来年から5年生、再来年は6年生が誕生することになるが教室は充分対応できる。教員は校長先生をふくめて現在4人だ。若い先生ばかりである。この日は豚をはじめ、牛も一頭絞めて僕たち来賓や村中の人たち、犬たちにまでも振舞った。ビールの量も1000本以上は空けたのではないだろうか。とにかく普段ご飯を食べるときにでもビールを2~3本注文するのではなく、ダースごと注文してダンボール箱をバリバリと破って飲みまくるのである。沖縄の宮古島の「お通り」や熊本、土佐の飲みぶりを思い出したが、イ族の方が上をいくだろう。とにかく教室にうず高く積み上げられているビール箱をみて唖然とした。むろん子どもたちも大人たちに混ざって平然と飲むのである。家でも何処でもだそうだ。烏里理事長の話によれば、3~4歳の子どもがお客さん相手にビールで乾杯する光景を何度もみているそうである。僕らも子どもの頃、お正月やお祭りの時などは、大人たちに「お前らも飲め~」などと言われたものであるが・・・・でも小学校高学年になってからだったような気がする。子どもには苦く、なんでこんな物をおいしそうに大人たちは飲むのか不思議でしょうがなかった。



5月14日、さらに南となる涼山イ族自治州の州都・西昌へ向かった。州の幹部と会うのとイ族の伝統的な建築物を見るのが目的である。甘洛からはまた山、谷の山岳道路で距離は260キロ余りだ。昨日から僕の体は、全身が筋肉痛で悲鳴をあげていた。西昌は標高1600mの高原の街で一年を通じて温暖な気候だという。雲南省の昆明よりも冬は暖かく過し易い。3~4000m級の山々に囲まれた街の中心に大きな湖もあり、確かに風光明媚な土地である。しかし人口は100万を超えるモダンな大都会である。いまも古くから日常的に使われているイ族語は、ナシ族のトンパ文字に似ている象形的なものもあれば、ハングル文字に近い文字もあって不思議だ。写真の二枚目は、北のシルクロードよりもはるかに歴史のある南のシルクロードであった街道の旧宿場町。いまも当時の宿泊客を守ったという城壁が残る村は静まりかえっていた。市内でくちなしの花の首飾りを2元で売り歩いていた少年。いい香りがするので僕は一つ買った。1930年代までイ族社会は奴隷制社会であった。人身売買の値段が定めらていて、19歳の未婚の娘が一番高く、僕などの値段はその60分の1にもならないタダみたいな値段だった。西昌のイ族博物館で、支配者階級の女が着けていた金の装飾品。三星堆文明の装飾品に似ているものを感じて興味を持った。

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