写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2009年5月31日 亡き親父のあの味がするホルモン焼き

10年ぶりに戻った郊外のこの町も、大きな変貌をとげていたが、30年ほど前から変わらぬ飲み屋が何軒かあった。地元ではほとんどといっていいほど飲まないが、こうゆう店が存在してくれているのはうれしい限りである。あまりにも日進月歩で、店もくるくると変わるのが当たり前の世にあって、小さいけれども、常連客に愛されながら細々ではあるが何十年という歴史を刻んでいる店・・・・・・。そのひとつが駅前にあるホルモン焼き屋である。子どもたちがまだ小さかった頃、たまに金に余裕ができるとよく、ここに連れてきた。在日のおばあちゃんが切り盛りしていた。平屋の木造の店の中も外も、七輪からわき上がる煙とホルモンを焼く匂いが充満していたものだった。店は5階建てのビルの地下へと変わっていたが、場所はやはり前と同じで、駅前の路地にある。

こちらに戻ってから初めて顔を出した時にも、いつも店の真ん中にでーんと座っていたあのおばあちゃんはいなかったが、店員だった二人のおばちゃんは、「や~あ、久しぶり。何処かに行ってたの?」と僕をしっかりと覚えていてくれたのには驚いた。僕は年のほとんどを魚で通すほど、魚党である。だからめったなことでは、焼肉などの店には入らない。しかし、ここのホルモンはちがう。特に絶品なのは、レバの刺身。これだけはどの店にもかなわないと思っている。僕も日本中のほとんどを旅して来たが、いまだこのレバ刺しを凌ぐものには、お目にかかったことはないのだ。まず、レバが寝ていない、立ったままである。土佐で食べる鰹の刺身のごとくである。口にほお張ったとたんの歯ごたえある食感。プチプチと音が聞こえてくるのだ。ホルモン焼きに付けるタレも独特の風味がある。自家製のキムチもいける。ここに来るとどうしてもホッピーが進んでしまうのには、いささか閉口するぐらいである。

手前がレバ刺し、その上がカシラとナンコツ、一番うえが塩のタン。ホルモン焼きとくれば、後はお決まりのホッピーだ。
手前がレバ刺し、その上がカシラとナンコツ、一番うえがタン塩(各一人前)。ホルモン焼きとくれば、後はお決まりのホッピーだ。

昨日、半年ぶりに、ぶらりと顔を出してみた。いまも七輪で炭をおこし、金網で焼いている。時々あがる火の粉や煙を見ていて、遥か昔のことが蘇ったのである。それは、僕がまだ子どもの頃のことだ。当時の片田舎では、肉などという代物は、先ず口にはいることなどはなかった。せいぜい自分が育てたうさぎを正月につぶして、一家そろって食べるぐらいだった。僕がカツ丼というものを始めて口にしたのは、中学一年の秋。3ヶ月間にわたる厳しい駅伝の練習を終え、郡の大会で、10位入賞を果たした後、先生が町の食堂へ連れていって、カツ丼という少年たちにとっては、まるで得体の知れないものを食べさせてくれたのである。そのあまりの旨さが忘れらずに、その後も中学を卒業するまで駅伝の選手としてがんばったのは言うまでもない。これは僕だけでなく、みんなカツ丼のために、ひたすら走りつづけたのである。

話は長くなってしまったが、当時、仕事の関係で家を空けることが多かった親父が、たまに帰ってくると必ず、ホルモン焼きを食わせてくれたのである。隣町の在日朝鮮人の人から譲ってもらっていたらしく、包んでいた新聞は、朝鮮語だった気がする。その豚の内臓を親父が切り分け、味付けして一晩ねかせるのだ。食べる時は、近所中の子どもたちを呼んだ。本家のおじさんやおばさんもよく来ていた。庭で七輪に炭をバタバタとおこすのは、僕の自慢の役目だった。いまでいうミノやロースなどという高級なものではなかったが、子どもの僕たちにとっては、めったに口にできない何よりの馳走であった。みんな生焼けのものも我先にと争って食べた。それを親父たち大人は、焼酎を傾けながらニコニコして見つめていたのだった。・・・・・・・つまり、僕が何ヶ月に一度は、無償にこの店のホルモンを焼きを食べたくなるのは、味付けが、あの遥か昔、死んだ親父が作ってくれたあのホルモン焼きの味と同じだからである。・・・・・・・これでおしまい。長い話に付き合ってくれてありがとう。

このウェブサイトの写真作品、文章などの著作権は小松健一に帰属します。無断使用は一切禁止します。