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[no.461] 2012年6月17日 伊丹十三監督、細越省吾プロデュース映画「大病人」(1993年公開)を観た。この映画に使用された僕のヒマラヤの写真を見ながら当時のことが思い返された・・・・・・。

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最近、家に篭もっていることの多い僕は、よく映画を見ている。地上デジタル放送の番組はあまり見たい番組ががなくて、BSとかCAなどを見る機会がおおくなった。特に時代劇専門チャンネルだとか日本映画専門チャンネルなどというのがあって、昔見落とした番組や映画をやっていておもしろい(有料だが・・・・・)。昨夜、伊丹十三監督映画劇場とか言う彼の全作品を放映している番組があった。そこで映画「大病人」を放映していたのだ。この映画は1993年に公開され、評判を呼んだもの。主演の三国連太郎はこの年の日本アカデミー賞で主演男優賞を受章し、録音賞もこの映画が取った。日本映画初のデジタル合成を製作に使った作品としても注目を集めた。またラストのクライマックスシーンでは、黛敏郎作曲の「般若心経」の大合唱と演奏がおこなわれて圧巻であった。出演は三国の他に津川雅彦、伊丹監督の奥さんの宮本信子などである。

この映画の制作が始まって間もない頃、伊丹十三監督の映画のほとんどのプロデューサーをしている細越省吾さんから突然電話が入った。この映画のシーンに僕の作品を使わせて欲しいということであった。僕の自宅までわざわざ訪ねてくれ、2~3時間ヒマラヤの写真を見て5~6点セレクトした。細越さんによれば、伊丹監督が雑誌で僕の写真を見て、「これからの短い間ではこんな風景は撮れない。病人の三国さんがあの世に行く途中に見るさまざまの風景に使いたい」ということだった。使用料や氏名表示、それに原画でなくデュープをして使用することなど取り決めて承諾したのである。もう20年程前のことであるから僕も40歳前の若造だったが、細越さんは全て了解して受け止めてくれた。その後、伊丹監督があのような不慮の死をする前に、細越さんは病気で亡くなってしまったがいまでもあの時のことはよく覚えている・・・・・・・・。

僕はこの映画の撮影現場にも細越さんの手配で自由に出入りし撮影もさせてもらった。伊丹監督にも紹介してもらい、昼飯もスタジオの食堂で一緒にごちそうになった。この時に撮影した写真はいくつかの雑誌のグラビアにも使わせてもらった。僕の著書『小松健一の写真教室 シャッターはこころで切れ』にも伊丹監督の肖像写真を掲載させてもらった。その後、伊丹監督の妹さんの夫である作家の大江健三郎さんの息子さん、大江光さんのコンサートにも招待され、僕の目の前の席が、伊丹監督夫妻、その隣が大江健三郎夫妻だったのでびっくりしたことがあった。その時にもニッコリ笑って「この前はありがとうございました」と頭をさげられた伊丹監督。僕は今もって監督のあの死に方には疑問を持っている。右翼や暴力団などの嫌がらせで、頬を十数センチに渡って斬られたり、映画の上映前にスクリーンを切られたりしたことが続いていた時期と重なるからだ。何故、あんな卑劣な妨害にも屈しなかった監督が若い女性との関係などの噂程度で、ビルから飛び降りて自らの命を断つのだろうかと今でも不思議でならない・・・・・・・・・。 

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作品中に使用されたのは、上の2作品。農民の手と山いちごの写真は、停まっているハエを動かしていた。下の赤い蕎麦畑の写真は、山霧が村々や蕎麦畑の上を流れていた・・・・・・・・。それぞれネパールヒマラヤのドルパ地方とムスタン地方で1990年に撮影したものである。映画の最後のスタッフの名前の後、写真提供として僕の名前もきちんと記入されていたのを昨夜も確認した・・・・・・・・・。 

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