弟2回目は、チベットの南東部にあたるニンティ地区を中心に報告する。本来はチャムド地区にも入りたかったが、どうしても許可がおりなかった。それだけでなく昨年9月に取材した、康定、理塘、巴塘、丹巴などの四川省に属するカンゼチベット族自治州も一切の外国人の立ち入りを禁止しているのだ。チャムド地区の境界線ぎりぎりまで行き、102年前に矢島が通ったであろう道へ思いを馳せてシャツxターを切った・・・・・・・。
この地区は、中国でも最も美しく、長い国道として知られる川蔵公路のハイライト。標高7782メートル、7000メートル峰では世界で一番高い山、ナムチャパルワ峰をはじめとした6000メートル級山々に囲まれた渓谷である。ヤルッアンポ川をはじめとした幾筋の激流が深い谷間を形成している。チベットの中でも標高は比較的低く平均は約3000メートルだ。ヒマラヤ山脈がとぎれるため、インド側からのモンスーンの影響を受け、降水量は多く、それによって地区の40パーセントが森林地帯である。僕らはこの地に5日間泊まって、小さな村々を訪ねたり、山へ登ったりしてのんびりと過した。
僕はラサでの高度順化がうまくいって2日間ほどで、後は普通に酒も飲んでいたが、同行の山崎君は、高山病と下痢と嘔吐をくり返していて、この後ラサまでその症状は完治しなかった。しかし、昨秋の経験もあり、高山病対策は万全を期していたので、前回みたいに寝たままという状態ではなかった。とにかく無理をしないように、ゆったりと撮影するように心がけたのである・・・・・・・・・。
山桜にた桃の花が、氷河がある山の前で咲いていた・・・・・・・・。
ポミを過ぎた所から公安の署長がパトカーで先導してくれれることになった。何でも前回来たときに烏里君が友達になったのだという。このときばかりは検問はフリーパスであった。
以上の7点の写真は、すべてミティ氷河の麓にあるミティ村で撮影。標高3800メートルの周りを氷河に囲まれた谷間にある村。現在は27世帯、125人がくらしている。1988年の大洪水の被害にあうまでは、70崇世帯あったというが、このときに多くの家々が流されて村を去っていたという。この村から馬で2時間ほどさらに山に入った所がミティ氷河だ。僕らが着いた時に、急に雪が激しく降りだし、雪崩の危険があるのでいけなくなってしまったのである。村は昔ながらの面影が残り、静かであった。おそらく矢島が訪れた102年前もこうした村々が広がっていたのだろう・・・・・・・・・。畑は春耕の準備が整い黒黒とした沃土であった。
ミティ村に向かう道。矢島がラサに向かって歩いた道もこんな道であったのではないかと想像しながらシャツターを切った・・・・・・・・。
ニンティ地区とチャムド地区の境界線。深い渓谷を削って作られた細い道が続いていた。矢島はこの道を四川省から通ってチベットに入ってきたと思われる・・・・・・・・。
国道318号の川蔵公路沿いには、石楠花が色とりどりの花をつけていた。エメラルドブルーのハーロンザンポ川と氷河が間近に迫る・・・・・・・・。
この道も矢島保治郎がラサに向かって歩いた道・・・・・・・・・。
ポーミ県は人口4万人程度。川蔵公路の行く手にはクイチャ山。ニンティ地区の東部を走るカンリンカ山脈に連なる峰々である。
ニンティ地区滞在4日目。朝から晴れ渡った。宿泊先のポミからすぐに140キロほど山道を入ってガロン・ラ峠へ向かった。辺りは5~6000メートル峰々で氷河直ぐ目の前まで迫る。雪崩も何度も見た。その轟音たるや辺りの峰々に木魂して不気味であった。しかしその音が静まるとあたりはまた静寂に戻り、風がタルチョーをはためかす音とせせらぎの音のみでまるで極楽浄土にでも誘われたのではないかと思うほどであった・・・・・・・。
忽然と現れた白いタルチョーは死者を弔うものだという。その前でみんなで記念写真を撮らせてもらう。
約4000メートルの工事中の長いトンネルを抜けるとそこはメイドという小さな村だった。僕がジョークで「トンネルを抜けるとそこは冥土であった・・・・・・・」というとチベット人にはやはりちっとも受けなかった。
僕らの頼もしい足となったトヨタ自動車のラウンドクルザーと同行の仲間たち。
この地方へ来てはじめての朝からの快晴。さっそく泊まっていたポミからガロン・ラ峠に向かった。道は工事などの連続でひどかったが、周りの峰々からは目前まで氷河が迫る光景の連続であった。
ポミ郊外の山の中腹にあるチベット仏教の名刹。庭でラマ僧たちが語らっていた。
いま中国全土で、若者たちのサイクリングが流行っていて、それはチベットも例外でなかった。一人の者もあれば、グループで走っている者たちもいた。とにかく想像を絶する悪路を走る続けるだから、中国の若者たちも根性があると感心した。僕も中学生から高校生の頃は、自転車の旅をずいぶんとしたものであるが、それは日本でのこと。広大な中国大陸やチベットとは訳が違う・・・・・・・・。
煤で真っ黒になったやかんをぶら下げてトボトボと道を歩いてくる老人とあった。歳を尋ねると僕と2歳しかかわらない。彼は山火事などを発見して初期消火する仕事を持ったひだという。だから簡単な消火器を背中に背負っていた。一緒に写真を撮らせてもらった。懐かしい煙の匂いが体中からプーンと漂ってきた・・・・・・・・。
松宗鎮。周りを氷雪の峰々囲まれて、村には山桃や杏の花が咲き乱れてまるで桃源郷のようであった・・・・。
チベットのどんな小さな町に行ってもこのように様々な果物が並んで売られているのには驚きであった。(ポミで)
ポミの町で夕食に入ったレストランで、久々に優しい女の子と会った。カメラを向けるとVサインをしてニッコリと微笑んでくれた・・・・・・・。
夜、宿の部屋の鏡に向かって自写像を撮る。顔は日に焼け、浮腫んでもいる。まだ高山病が完全には治っていないのだろうか・・・・・・・。
4日前に通った標高4700メートルを超える色季拉山峠のタルチョー(祈祷旗)が雪のなかで風に打たれて鳴っていた。天風火水土を表した五色の旗の一つ一つには経典が刷られており、それが風になびくたびに経典を唱えたことになるのである・・・・・・・・・。 合掌