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2010年1月7日 上州岩櫃城主・吾妻太郎行盛の悲話に、故郷の歴史や文化を学ぶ。

元旦の午後、自宅を発って故郷へ向かった。僕が生まれたのは正確に言えば岡山県の中国山地にある湯原という小さな温泉町である。が、その地は父の水力発電ダム建設の仕事の関係で1年余りいただけで、物心付いた頃からは、母の故郷・上州で育った。故に僕が実感として故郷と呼べるのは上州なのである。帰省する時は、僕は各駅停車の列車に乗ってのんびりと帰ることにしている。車窓に流れる様々な風景をボーっと意味もなく眺めているのが好きなのだ。実家に着いたのは6時過ぎであったが、谷間の町はすでに真っ暗であった。しかし、家では恒例の新年会で盛り上がっていた。毎年一番下の弟の地元の友人たちが6~7人集まって元旦の朝から飲み明かすのがいつもの事となっている。僕にとってはみな後輩たちなのだが、歳が離れすぎていて記憶のない者もいる。でもみな同じ町に暮らしているのだから直ぐに打ち解けて宴は遅くまで盛り上がったのは言うまでもない。


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翌日、末弟夫婦と親父たちの墓参りを済ませたあと初湯に出かけた。町内には温泉は10箇所以上はある。言わばどこをボーリングしても温泉が噴出する土地柄なのである。この日は墓地の近くにある「あづま温泉」へ行った。吾妻川の辺にあって、風呂からは目の前に奇勝「岩井洞」を望めるナトリウム―塩化物の湯である。実家の近くには名湯の誉れ高い草津、伊香保、万座、四万、水上などあげれていけば切がないほどの温泉だらけ。高校一年の夏休みに地学の先生が「休み中に郡内の全ての温泉に入ったやつには通信簿に5をやるぞ~」と言われたがとても多すぎて廻り切れるものではなかった。あづま温泉の前では正月らしく子どもたちが凧上げをしていた。


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2日の夜、突然次男の弟夫婦が新鮮な伊勢えびやマグロの中トロなどを持ってやって来た。久しぶりにお袋と次男夫婦とゆっくりと飲んだ。彼は伊香保温泉の老舗旅館の料理長を務めていて僕の写真の生徒たちの合宿などで、何かといつも世話になっている。翌朝、犬の五右衛門を連れてこの辺りの鎮守様の川戸神社へ初詣に行った。川戸一の宮であるこの神社はかっては「首の宮」と言った。「かみの宮」と読む。いまでも神社がある集落を上の宮という。


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子どもの頃、そのいわれをさんざ大人たちから聞かされたものだが、改めて手元にあった『吾妻郡城塁史』(昭和47年刊)を紐解いてみた。この本は実は僕が昔働いていた印刷屋で刷っていた地域新聞社が発行したものであった。この神社の創建は鎌倉時代にさかのぼる。家の目の前に聳える岩櫃山(802m)の中腹にあった岩櫃城主・吾妻太郎行盛が自刃した折、300メートル飛んできた生首を村人たちが祀ったのが始まりだそうだ。これには様々な興味深い物語があるのだが、ここでは書ききれないので後日にしたいと思う。但し一言書くとすれば、新田一族の碓井の豪族、里見義時に不意をつかれ、裏切りもあり無残にも敗れた吾妻太郎行盛が吾妻川の対岸、他立石川原(現在も集落の地名として残っている)で自刃した時刻が詳しく記録されているのには驚いた。「貞和5年(1349)5月25日の深夜子の刻」とある・・・・・・。ちなみに母方の上田家の先祖は後に岩櫃城を配下に治めた信州の武将・真田昌幸の家来で現在、実家のある場所にあった内出城の城代家老を務めた河野家(関が原の戦で敗れた後、姓を上田に改名)だったという。


自宅の庭。丘になっている所が内出城址の二の丸跡と手前が空堀。

実家の庭。丘になっている所が内出城址の二の丸跡と手前が空堀。本丸跡地は今も上田家本家の土地となっている。

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