昨日の突然の白雨、暗雲のなかに一条の斜陽が射し込んだとおもったら、東の空に大きな虹が架かった。わずかの時間ではあったが何ともドラマティクであった。その後の異様な夕焼けを見た方も多いだろう。メールでその光景を送って来てくれた友人もいた。夜のニュースをみると九州地方の集中豪雨といい故郷・上州を襲った竜巻といい自然界の人類に対する警告とも思える荒れ方がここ数年続いている。地球温暖化だけではすまない、狂ってしまった自然と人間のあり方を今一度原点に還って、真摯に見つめなおすことは急務ではないだろうか。今朝、家の裏へ行ってみると2本の栗の木の下にたくさんの毬栗が落ちていた。手のひらにのせても痛くないほどまだ、針が若い。かわいらしいので10個ばかり拾ってきて籠にいれ仕事場に飾った。
月刊俳句誌「獐(のろ)」の2000年10月号を開いたらこの毬栗を詠んだ句を載せていた。この年の夏に秩父へ行った時に詠んだものだろう。次の7句である。
鶏頭や荒畑に鍬ひびきをり 山峡の村の夕餉の残暑かな
毬栗に囲まれし落合寅市の墓 決起せし杜しずめをる野分かな
風布郷夕立を連れて走りけり 夕立後の草の息あり荒あらし
志士とあり困民党の墓さやか (小松風写)
9年前の僕の拙い句である。恥ずかしい気もするが、敢えて全句紹介した。当時、先師の高島茂が亡くなった直後で、その後を継いで主宰になったばかりの高島征夫(先日、突然病気で亡くなったことはすでにブログにも書いた通りである)が、この毬栗の句を次のように解釈して同誌11月号に書いてくれている。亡くなった主宰への鎮魂と思いここに紹介したい。 「今から160年前の明治17年(1884)に埼玉県秩父地方の自由党員と、不況に苦しむ農民とが秩父困民党を結成、蜂起した。10日間で鎮圧されたが、参加者は1万人を超したといわれ、農民が大衆的な組織化を行い、経済闘争をこえて明治の維新政府に武装蜂起で対抗した。揺籃期の自由民権運動の礎となったのである。歴史的にみれば日本の民主主義運動の先駆けなのであった。落合寅市はその指導者の一人である。その墓は今、毬栗の林の中に静かにあるのである。」・・・・・・・・あらためてご冥福を祈るばかりである。 合掌
昨日の風雨で落ちてしまった毬栗。これから実を大きくさせるとこだったのに・・・・。我が家でしばし目を楽しませてくれたまえ。トマトと茗荷は、今朝持ってきた近所のおじいさんの100円野菜。歯ごたえがあって旨い。