僕が写真に興味を持ち始めたころ。父・幸太郎、母・あや子、弟の修二と。上州の実家で(1963年)。父は68歳で病死、母は現在92歳で施設に入居し元気に暮らしている。
日本リアリズム写真集団(JRP)の新宿区四谷三丁目の事務所開きに、当時日本写真家協会会長をしていた渡辺義雄さんが来賓で見えた。出迎えをする田村茂JRP理事長(左)。2人は戦前からの親しく何度も共同の暗室や事務所を銀座などに構えている。(撮影:1974年)
当時JRPの事務局長をし、写真家協会の理事も務めていた丹野章さんと歓談をする渡辺さん。丹野さんが若い~!♡☆ まだ当時21歳だった僕に「小松君が今日の記録を撮りなさい~!」と突然、写真評論家の伊藤知己先生から言われ、頭が真っ白になったが、チャンスと思い引き受けた。
土門拳先生を真正面から撮ろうとしてカメラを構えたら突然、不自由な腕を上げて僕に何か叫んだ。僕は何か失礼なことをしたかと一瞬氷ついた。先生の指先がカメラの方だったのでよく見てみたら、なんとレンズキャツプが付いたままであった。僕が慌ててキャツプを外してペコっと頭を下げて、再びカメラを向けると優しい眼で笑ってくれた・・・。後に土門先生の名言に「名作を撮るにはまず、レンズキャップを外せ」というのがあることを知った。以来僕はレンズキャプをしたことがない。
来賓のあいさつをする渡辺JPS会長。左から写真家・土門拳さん、アートディレクターの太田英茂さんと。太田さんは戦前から知る人ぞ知る人。資生堂の広報担当していた時には、まだ無名だった木村伊兵衛さんの写真をポスターに使い一世を風靡した立役者でもある。晩年は信州で静かに暮らし、お亡くなりなった時には、小さな教会で厳かに野辺送りをしたと奥様から手紙をもらった・・・・。
右から2人目が本の泉社の編集担当の田近裕之さん。新日本印刷の工場のスタッフと共に。
表紙、表紙カバー、帯の刷り出し。
本文と表紙周りをまとめたもの。上製本なので束は23mmになる。サイズは縦220mm、横160mmのA5判。写真は48点、僕が詠んだ俳句、短歌も散りばめられている。 装幀:宗利淳一
◆「1984~2020 孤高の写真家、37年間の軌跡」が正しく、配布したチラシの記述が誤りでした。このチラシは訂正したもの。