今回の写真展は、著作権改正運動をはじめ、写真文化の発展に貢献された故渡辺義雄(文化功労者)先生の写真原版および作品を、ご遺族から「日本写真保存センター」に寄贈されたのを機に、先生の代表作である「伊勢神宮」と戦後一早くイタリアとモスクワを訪問して撮影した作品を再編して展示したものである。プリントはとりわけ美しい・・・・。
ルセ君の奥さんの真理子さんも入ってさらにパチリ~!☆!☆!☆ 愉快な一夕でしたね。僕は、お酒が美味しかったので少々飲み過ぎてしまいました・・・。(ちょつぴり反省~!)
今回の写真展は、著作権改正運動をはじめ、写真文化の発展に貢献された故渡辺義雄(文化功労者)先生の写真原版および作品を、ご遺族から「日本写真保存センター」に寄贈されたのを機に、先生の代表作である「伊勢神宮」と戦後一早くイタリアとモスクワを訪問して撮影した作品を再編して展示したものである。プリントはとりわけ美しい・・・・。
ルセ君の奥さんの真理子さんも入ってさらにパチリ~!☆!☆!☆ 愉快な一夕でしたね。僕は、お酒が美味しかったので少々飲み過ぎてしまいました・・・。(ちょつぴり反省~!)
終了の1時間前に到着した大久保美帆さん(奥の列の右端)の作品をみんなで合評した後、近くの居酒屋で懇親会を開いた。3時間ほど熱い写真談議に花を咲かせてお開きにした。12月例会も渋谷区立勤労福祉会館でやることに決まっている。恒例の「風」忘年会も例会後予定している。会員でない方もぜひ、ご参加くださいね~! 歓迎します~!☆
ハ~イ! チ~ズ~!☆・・・・・。
その後、青海省、甘粛省、内モンゴルの取材から2日前に帰国した烏里君と2人で飯田橋の蕎麦屋で一杯やった。この店は創業100年の老舗、江戸蕎麦を看板にしている尾張屋だ。現在の店舗は、46年前の東京オリンピックの年、1964年に建てたものだという。新そばの盛蕎麦を肴に、そば焼酎の蕎麦湯割りを3杯いただいた後、席を池袋の創業65年という焼き鳥屋へ移し、芋焼酎で飲みなおした。
1時間半ぐらいしてから、近くで仕事が終えたという写真家・眞月美雨さんが合流した。彼女は11月中旬から中国西南地方大涼山への僕と烏里君の取材に同行することになっている。その打ち合わせもあった。そしてこの24日から半月余り、またチベットの東部地方の取材に山岳写真家の川井さんたちと出かける烏里君の歓送会も兼ねての飲み会であった( ^ω^)・・・。
10月16日、浦和駅そばの路地にあるライブハウス「浦和ナルシス」へ、京都の友・あらい舞さんのライブを2年ぶりに聴きに行った。前日15日の下北沢ラウンでの単独ライブに行けなかったのでどうしてもと思い、出かけたのだ。
彼女と初めて会ったのは、確か大阪の難波花月ホールだったと思う。毎年の大晦日に夜通しコンサートをして、初詣に参加者と行っていた亡き河島英吾さんのライブでだった。その当時の舞ちゃんは、「英吾組」のメンバーでキイボードとバックコーラスを担当していて、全国ツアーに参加していた。僕はある雑誌の取材で、ずーと英吾さんを追いかけていた。そんな事がきっかけで話すようになり、お父さん、お母さん、妹の祐子ちゃんと家族ぐるみの付き合いが始まった・・・。
ライブのポスター。
熱唱するあらい舞ちゃん・・・。(撮影はすべてシグマDP1 レンズ19ミリ F:2.8)
舞ちゃんと出逢ってから3年程たった1988年9月に彼女のエッセイとカットと僕の写真でコラボしたフォト&エッセイ集『夜明けまでピアノを弾いて』(あけび書房/1.900円)が出版された。前年1年間は集中して取材した記憶がある。 僕はこの本の中で次のように記している・・・。
「一見、華麗な業界のなかでアイドルやスターとしてでなく、人びとの心のなかに夢を咲かせることができたらと10年間”歌づくり”一筋に生きてきた彼女に、昨今の若い世代に忘れられつつあるひたむきさを感じた。 以来、カメラのファインダーを通して、シンガーソングライター・あらい舞の仕事と生活を追求し、表現してみよう。そのことによって、美しく、強く、しなやかに光ろうと日々葛藤をくり返し、自立をはじめた女性たちへ共感のメッセージを送りたい・・・」。
還暦をとうに過ぎた歳になって読んでみると、気恥ずかしい文章である。
しかし、彼女のライブを聴いて2人でぶつかり合い、文字通り葛藤しながら一冊の本を作り上げていったあの若かった日々が走馬灯のように思い起こされた。それだけ彼女の歌は、僕の魂を、血を震わせてくれたのだ。2年ぶりにライブを聴いたが、年を重ねるごとに彼女の歌声もパフォーマンスも美しく、豊かになっていると感じた。明日は京都の八坂神社の新嘗祭での奉納ライブだという。次に舞ちゃんと会うのが一段と楽しみである・・・。
帰路、一緒にライブへ行った友と一杯飲んだ。煌々とした満月を見上げながら、久々に旨い酒をいただいた・・・・。 合掌
10月8日に土佐より戻ってから5日ぶりに外出した。「不肖・宮嶋」で知られている写真家・宮島茂樹君の東京での個展の最終日だったからだ。彼は公益社団法人日本写真家協会会員であるとともに、経済産業省認可法人の協同組合日本写真家ユニオンの創立会員でもある。今回の写真展は、フランス、イギリス、中国、ロシアなどを取材したスケール感のある”不肖・宮嶋”にふさわしい写真展だった。東京展は昨日で終了したが、12月9日から大阪で巡回展が開催される。ぜひ、ご覧ください。
僕のライワークのひとつに「日本文学風土記」がある。このシリーズに取り組んでからすでに40年以上の歳月が流れている。全国47都道府県すべてを近現代の日本文学を切り口にして、日本の風土、文化、人々の暮らしなどを写真によって、記録・表現しようというアプローチである。
高知も何度か取材をしているが、今まで歌人・吉井勇については取材をしたことがなかった。勇は1931(昭和6)年5月に初めて土佐の地を踏んだ。46歳の時だ。その後、昭和8年8月に再び訪れ、のちに3年4か月余り暮らすことになる在所村猪野々集落(現香美市香北町猪野々)を訪れ、約1か月間滞在している。
昭和12年10月、高知市築屋敷に居を移し、再婚してここで約1年間の生活を送った。勇、52歳のときである。僕は吉井勇が土佐で過ごした4年余りの日々は、自然のなかで己を見つめた「人生再生の日々」として勇のそれから生き方にとっても、文学活動にとっても大きな転機となった重要な時期だったと思っている・・・。
今年8月に高知に来た時には、勇が「渓鬼荘」と名付け、3年余り暮らした庵の残る在所村猪野々を訪ねた。そこには昭和32年に建立された「寂しければ御在所山の山桜咲く日もいとど待たれぬるかな」の歌碑と吉井勇記念館があった・・・。
今回は、高知市内に残る勇のゆかりの地を巡ることとした。最初に訪ねたのは1956(昭和31)年、高知県内には10基ある勇の歌碑のなかでも、一番早く建立された筆山にある歌碑だ。写真は、筆山中腹から見た鏡川と勇が新婚生活を送った築屋敷方面。
筆山山頂にある「つるぎたち土佐に来たりぬふるさとをはじめてここに見たるここちに」の吉井勇歌碑(昭和31年11月23日建立)。
鏡川の川面にまるで筆の先ように映ることから筆山と名付けられたという。
伊野部淳吉邸がある高知市上町4丁目は、いまでも流れる川の上にテントを張って毎週火曜日に市が行なわれている。
香美市土佐山田町逆川の山中にある龍河洞。ここへも吉井勇は来ている。僕が着いたのはすでに午後5時を回っていて入場はできなかった。山々に浮かぶ雲が夕日に色づき始めたので写真を撮っていると、従業員の女性が「もしかしたら県展の写真の審査の先生ですか?私、今回入選したのです。ありがとうございました~」と声をかけてきた。それで勇の歌碑のある場所や資料をもらえたのだ。ラッキーだったのである( ^ω^)・・・。
「絶え間なく石したたりてある程に百千劫いつか経にけむ」(龍河洞出口に建つ勇歌碑。昭和32年12月15日建立)
ホテルの朝の食事は、豪勢でいつも食べきれない( ^ω^)・・・。
審査がすべて終了した翌日の10月4日。午前中早くから高知市内にある歌人・吉井勇のゆかりの地を4か所ほど訪ねて取材をした(これは次回で紹介する)。JR高知駅発14:13 の特急「南風」18号で岡山県の児島へ向かった。瀬戸大橋からの瀬戸内海。
夜は、写真研究会「風」同人の写真家・高田昭雄夫妻と友人の妹尾明子さんがあたたかい歓迎会を開いてくれた・・・・。
亡くなった写真家・中村昭夫さんや奥さんとも何度か来たことがある倉敷の美観地区の古民家でしている酒味処「菜の花」へ行った。僕が行った頃は先代の大将で、現在は娘さんの旦那が二代目を継いでいた。
8月に来た時にも集まった気心知れたメンバーなので、地元の肴で静かに語りながら飲んだ・・・。
瀬戸内穴子の白焼きなどを肴に・・・・。
5日の夜は、台風の影響で急きょ6日の午前中に写真教室が延期となったために、岡山・早島写真同好会の役員たちと懇親会をした。左から大森会長、会計担当者、林事務局長と講師の高田さん。
総勢30名の参加者。9時からみっちり午後1時過ぎまで。1人1人の写真を前に合評の連続。さすがに疲れた・・・・。この教室は、年に1回程度開いて来たので、今や早島写真同好会会員のみならず全県から参加者が集まるようになった。
教室が終わるとその足で、高知へUターン。途中、香川の坂出インターで降りて讃岐うどんの昼食を取ることにした。地元の写真家・寒川真由美さんが、美味しい讃岐うどん店の情報を知らせてきてくれたが、時間がなくて最寄りのうどん店に入ったら大外れ~!!正直うまくなかった・・・・。
高知市内へ入ったら夕空がきれいだった・・・・。
彫刻部門の会場。
7日からオープンする県展の特別内覧会とセレモニーが6日の午後6時から各会場で行われた。僕は写真展会場となった高知市文化プラザへ出席した。680余人の参加者で賑やかだった・・・。
写真部門会場の最初に審査員である僕の作品が2点展示してある。「遥かなる チリ」の中から2作品をオリジナルシルバーアートプリントで展示した。
県展の褒状に入賞したり、新人賞や入選をした高校の写真部の生徒と顧問の教師が出席した。僕と一緒に写真を撮りたいというので作品の前でパチリ~!☆
とにかく土佐の写真愛好家は、イゴッソウとハチキンなのか皆、熱いぜよ~!!
カツオのタタキ。
サバ棒すしと穴子巻すしなど。
2015年11月に撮影。東チベット・情人海。標高4000m近い深い森に包まれたこの湖は、”恋人たちの湖”と呼ばれている。すでに秋の気配が漂っていた・・・・。
帰国翌日の30日、会わなければまた1か月ほど先になってしまうので、僕が烏里君の家の近くに出向いた。奥様と可愛い娘さんと中華料理の店で夕食を取った・・・。
この日は、僕は定期的に通院している眼科と内科の病院へ行ってきた。先日に呼吸器科の病院へ行ったので9月はこれですべて終了した。病院代は薬代も含めて相当な高額となり、貧乏フリー写真家にとっては非常に厳しい。年間で約30万円になるのだ・・・・。
娘さんは、両親の血を受け継いでか、絵も音楽も運動も得意・・・。とにかく元気がいい。「久しぶりのパパだから一緒に食事についてきたよ!小松おじちゃん~」と言った。彼女がまだ、お母さんのお腹の中にいた頃から知っているので、かれこれ10年ほどになるか。奥さんは早稲田大学大学院卒、烏里君よりもはるかに流暢な日本語を操る漢民族出身だ・・・・。
イ族出身の烏里烏沙君とは、面白い縁で巡り合った。以来10数年の付き合いだ。彼が公益社団法人 日本写真家協会へ入会する時の推薦保証人は僕がなった。海外取材も一緒にすでに10回以上は行っている。この日の打ち合わせも11月の中国・四川省大涼山の取材、来年のチベット取材ならびに、今年12月の銀座での写真展、来年秋に計画している新宿での写真展についてだった・・・。
11月の四川省・大涼山取材に参加を予定している写真家・眞月美雨さんも遅れて合流した・・・。