2014年8月22日、自宅前の畑より眺めた夕日。 この日は昭和18(1943)年に詩人・小説家の島崎藤村が亡くなった日、藤村忌である・・・・・・・・。 合掌
2014年8月22日、自宅前の畑より眺めた夕日。 この日は昭和18(1943)年に詩人・小説家の島崎藤村が亡くなった日、藤村忌である・・・・・・・・。 合掌
写真家の先輩である高村規さんが13日、心不全で亡くなった。81歳だった。高村さんとはかれこれ30数年前からの知り合いだった。特に、日本写真家協会が社団法人化を巡って混乱していた時期に一緒に役員をしていたということが、お互いを親密にさせた要因だったと思う。
高村さんは、高村光雲の孫であり、工芸家(金工)・人間国宝の高村豊周の長男、詩人で彫刻家の高村光太郎は伯父さんにあたる。公益社団法人日本写真家協会名誉会員、公益社団法人日本広告写真家協会会長、高村光太郎記念会理事長などをしていた。
数年前から車椅子で、酸素吸入をしながらもパーティなどに出席して、お元気ではあったのだが・・・・・。日本のプロ写真家界には大きな貢献をした高村さん。 やすらかにお眠りください・・・・・・。 合掌
まだ外は明るいので、久しぶりに新宿・呑べぃ横丁へ行った。この店も焼酎が一杯90円の頃から通っている。親父さんとも久しぶりに会った。いまは倅が3代目をしっかり継いでいる。奄美大島の「長雲」という黒糖酒を2杯飲んで気分良く帰った。都内でこの酒を飲ます店はほとんどない。僕の大好きな酒だ・・・・。
★こころから感謝申し上げます・・・・・・・・・ありがとうございました★
☆東京 Sさん 薩摩芋焼酎2升 ☆東京 株式会社Gさん アウトドアウエアー、リュックなど10点
合掌 全日本お布施党 党首
最後にまさくんとまみちゃんとでツーショツト~!☆。 小津枝ちゃんに叱れても知らないからね・・・・・・・・・。
上記の写真の撮影は、どれもが自宅から15メートル以内のもの。毎日眼にしている身近な被写体である・・・・・・・・。敗戦、69回目の8月15日という日だからこそ、普段眼もくれないモノたちへ愛着をこめてシャツターを切ってみた・・・・・・・。 (撮影はすべてSIGMA DP1 28ミリレンズ)
この愚かな大戦で命を失ったすべての御霊にたいして。 合掌
空海の言葉に「哀しい哉、 哀しい哉、 復哀しい哉。 悲しい哉、 悲しい哉、 重ねて悲しい哉。」という悲嘆にくれた言葉がある。明日8月15日は、69年前に日本が15年にわたる壮絶な戦争から敗戦によってようやくピリオドを打った日である。ことここに至るまでには、サイパン、硫黄島玉砕、沖縄戦、本土中の空襲、そして広島、長崎への原爆投下と筆述には表せない悲惨な現実があった。日本人310万人以上、アジアの人々は2、000万人以上と言われる戦死者を出した・・・・・・・。空海が哀しいかな、悲しいかなと悲しみを幾数倍にも増幅して己の悲しみを言葉にしたが、それでもこの戦争のあまりにも悲惨な真実は、とても言い表せる言葉ではないであろう・・・・・・・・・・・。 合掌
第49回埼玉平和美術展の会場。埼玉県立近代美術館地下展示室(JR北浦和駅西口徒歩3分・北浦和公園内)
写真展を見た後、駅前の大阪名物・串かつ屋へ入って一杯やりながら写真談義を2時間半ほどした・・・・・・。田頭さんはしばらくの間、第一線の創作活動から遠ざかっていたが、今回の個展の開催で刺激を受けたらしく、「人生の最後にもう一度花をさかせてみようかしら・・・・・・」と眼を輝かせ語っていた・・・・・・・・。
◎写真家 小松健一の公式ウエブサイトの「BOOKS」を約3年ぶりに更新しました。ご覧ください~!☆
★こころから感謝申しあげます。 そしてありがとうございました・・・・・・・★
☆埼玉・Tさん お菓子の箱詰め「ボンドール」 合掌 全日本お布施党 党首
長崎に原子爆弾が広島に続き投下され、多数の犠牲者がでた日、8月9日の長崎忌に写真研究会「風」の今年度第2回目の例会が開かれた。参加者は主宰の僕を入れて4人だった。しかし、内容的には非常に濃いものだった。鈴木渉同人のこの3年間取材を続けてきた3.11以後の復興を願い祈る福島の祀りと人々は、40点にまとめ、順番も決めた。悩んだ写真展のタイトルは最終案は「3.11後の福島の祀り~故郷に生きる人々~」となった。
平元盛親同人の作品の質的な向上は目を見張るものがある。毎回新作品を50点以上は持ってくる。粘りにある取材をしている。”カマキリ物語”からもう一歩脱却して、カマキリたち小動物が生きている環境と生態系を表現するまでに到達しつつあるのでこの方向で作品をまとめることとなった。主役はカマキリという線は崩さないことが大切だ。 並木すみ江同人の作品は昨年突然に亡くなったご主人へ捧げる挽歌である。出会った頃から新婚、子どもの誕生、姑との暮らし、そして見送り、病気の発病、晩年から死を迎えるまで克明に愛する夫をドキュメントした作品である。写真を見ているだけでも胸にこみ上げるものがあり、目頭が熱くなった・・・・・・・。タイトルは「逢いたくて、愛したくて・・・・・」で決まり~! ☆来年3月までに写真集発行と写真展の開催を目指すことになった。
僕が絵付けをした陶器。トンパ文字をアレンジしたものと漢字を組み合わせたものが中心だ。左下端の皿に描いたのはトンパ文字で「鏡」という字だ。その上は「海」。その上は上州らしく「ふたつの稲妻」。その上は「お茶」。右2つ目は「月と風」。その隣は「青」。その他「満天の星」だとか「雨」、「九」、「宝石」などのトンパ文字を描いている。皿の裏面にも全て描いているので面白いと思う。すべて作品は期間中会場で展示・即売される。七宝工芸作品、オリジナルアートプリント写真、書も展示・即売される・・・・・・・・。 お楽しみにね~!☆
★残暑お見い舞い申しあげます。 こころから感謝申しあげます。ありがとうございました★
群馬・Sさん 長期貯蔵 本格麦焼酎「久寿」 合掌 全日本お布施党 党首
今日は、暦の上では立秋。俳人・飯田蛇笏の句に「秋たつや川瀬にまじる風の音」というのがあるが、昨今の立秋の頃は、正に極暑、炎暑、酷暑、猛暑、蒸暑、湿暑、熱暑・・・・・・・。どんな言葉を用いても表現できないような異常気象が日本では続いている。日本古来からの歳時記の概念を変えなければならないような気候である。
昨日、8月6日はヒロシマ忌、明後日の8月9日はナガサキ忌・・・・・・・・。 合掌
(僕が初めて広島を1人で訪れたのは16歳の時だった。上州の山の中から来た少年にとって、原爆病で若くして死んだ詩人・峠三吉の「ちちをかせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながる にんげんをかえせ・・・・・・」と訴えるこの詩との出会いは強烈だった・・・・・・。平和公園内に建つ峠三吉詩碑の前で)
現在、被爆健康手帳を保有している被爆者は全国で192、719人となった。前の年から9060人が亡くなり、初めて20万人を割った。被爆者の平均年齢は78,9歳だという。一刻も早く被爆者の緊急援護はもちろんであるが、あの悲惨な原爆を体験した人がいなくなってしまうという現実を直視して、しっかりとした記録を後世に継承していく手立てを講じる必要があると痛感する。 「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれた原爆慰霊碑の下に収められている広島での原爆死没者の数はこの1年で5507人増え、合計292、325人となった・・・・・・・・。
安倍晋三自民・公明党政権になってから一気にキナ臭くなってきた日本を取り巻く情勢だが、絶対にあななたちの犠牲は無にはしない「戦争をしない平和の祖国」を守ることを一人の日本人として心に誓い・・・・・・。 合掌
ディスカッションが終えた後、喉が渇いたので居酒屋三福へ行ったら地元の若い仲間たちが飲んでいた。李ルセ・真理子夫妻(正面奥)たちは、映画会・ディスカッションにも参加していた。手前右は三福の若大将のまさ君。店を閉めてからも深夜まで呑みながらの談話は盛り上がっていた・・・・・・・。
この海洋画展は、マリナーズ・アイ展を主催している一般社団法人全日本海員福祉センターの主催だ。マリナーズ・アイ展が25回目だから海洋画展の方が4年古い。受付などしてくれている職員を入れて会場を撮る。その後、オープニングパーティに少し顔を出した。この日は今年から念願の出品作家となった太洋さんと2人でまずは65年の歴史がある焼き鳥屋で祝杯をあげた。2軒目には奥さんの陽子ちゃんも合流して沖縄料理の店、3軒目は、水産会社が経営している鮮魚居酒屋に繰り出したのだ・・・・・・・。(本当は僕が奢らなければならないのだけれども、太洋さんが今日はうれしいから全部奢るよ~と言うので素直にご馳走になったのだ~!☆・・・・・・・ 合掌)。
<東上線に文化の灯を!>を合言葉に活動を続けている武蔵野市民学校・映画○学ぶ会(兼岡敏二代表)は、「日本国憲法第25条をよりどころとし」、2009年5月に発足した。以来、参加費は基本時に無料を原則にして今日までに合計420日を越える上映会を開催し続けてきている。毎週土曜日と日曜日の午後1時10分~志木市柳瀬川図書館視聴覚室で開催している。代表の兼岡さんは、「すぐれた映画は”人生の教科書”となります」と語っている・・・・。パンフレット、資料集、会報制作、送料などのために会員は、年会費として1,000円。★連絡先:080-4291-4904(兼岡)メール;musashino-shimin@softbank.ne/jp まで。
この日の参加は10数人と少なかった。上映されたのは、ポーランド映画で監督・脚本:アンジェイ・ムンク作品の「不運」(1960年作 92分)と遺作となった「パサジェルカ」(1963年 61分)だ。この作品は、カンヌ映画祭国際批評家連盟賞を受賞している。僕は2本とも初めて観る映画だったが、全体に貫かれた権力への批評精神、人間が持つ普遍的な愚かさなどを鋭く描いていることに衝撃を覚えた。それに音響の効果的な使い方、キャメラの迫力ある廻し方、リアルな演出、照明の斬新さにも感動を覚えた・・・・・・・。なによりもポーランドの若い映画監督が今から55年も前に、これだけテーマ性のある質の高い作品を制作していたことが何よりの衝撃であった・・・・。ムンク監督は「パサジェルカ」の撮影中、不慮の交通事故で亡くなっている。まだ39歳の若さだった・・・・・・・。
「甍屋」の看板娘として一生懸命手伝う由紀ちゃん。赤ちゃんの頃から見てきているから成長した姿は何か不思議な気がするのだ~!☆
☆群馬・Sさん 坂角総本店 えびせんべい ☆岡山・Hさん 岡山の白桃箱詰め 合掌
全日本お布施党 党首