旅の4日目となる4月5日は、長江の上流・金沙江の岸壁に広がる金陽県を朝9時に出発した。昨夜は午後8時過ぎに着いたのでどんな地形の街かわからなかったが、夜が明けてるとその全貌が見えてきた。深い渓谷の両側にへばりつく様にある町であった。この日は、昨日来た道を戻り、かって涼山イ族自治州の州都だった昭覚を通って現在の州都・西昌へ。標高3000メートル級の峠をいくつか越え、約310キロメートルの道程を走破した・・・・・・・・。
翌5日目は、清清しい朝のなかを1400mの高原の街・西昌を出発し、会東を通り、紀元前111年には、すで会理県として存在していたという資料が残る歴史の古い街・会理まで360キロメートル走った。中国の奥地にもかかわらず、明、清時代の建物などが残っており中国歴史文化名城として登録されている。現在残る古城の北門城楼は、1398年創建のものである。
6日目となる4月7日は、四川省最南端、雲南省との境町・大女兆。南シルクロードの経由地点としても知られている古くから栄えた町だ。早くから漢族文化やインド仏教文化などを取りれた歴史ある町である。北京にある故宮と同時代に創建された寺院・徳豊寺がある。また近郊の村には、1368年創建の孔子廟があった。途中、金沙江が増水していたために、フェリーで渡れず、山道を遠回りするルートを通ったために、400キロメートルを超える道程となった。ちなみにフェリーの足止めはこの日で、5日目だとダンプカーの若い運転手はヤケクソ気味に語っていた・・・・・・。
昭覚で遅い昼食を取り、3000メートル近い峠を越えて西昌の街が一望できる所まで来たときにはすでに、夕暮れ時であった。三国時代に蜀に反旗をひるがえした少数民族の孟獲は、現在の西昌周辺を治めていた豪族だった。「南征」に出た諸葛孔明は、「深く不毛の地に入れり・・・・・」と感慨を記しているが、彼もこの風景を見ていたかもしれない・・・・・・・。
小銭を賭けたビリヤードゲームに夢中なる子どもたち。参加していない小さなこどもの瞳も真剣だった・・・・。
長江上流の金沙江の豊かな流れ。両岸には町や耕作地が広がる。山の斜面の至る所には桑の木が植えられていた。シルクが高く売れるので政府は養蚕を奨励しているらしい。
脱穀を終えた藁束に写った僕の影。2014年4月7日の旅の自写像。