その公園にある佐藤助雄氏のブロンズの彫刻像。
その公園にある佐藤助雄氏のブロンズの彫刻像。
奇跡的に残った宮澤賢治の歌碑。この奥にあったみやげ物屋、レストランなどの建物は使用不能なほどに破壊されていた。
僕の津軽の友人であるシャンソン歌手で作家でもある鎌田紳爾さんの最新刊『ふたりの修ちゃ 太宰治と寺山修司』(未知谷刊・定価2000円+税)が贈られて来た。鎌田さんとは2009年に『太宰治と旅する津軽』(新潮社)の取材で津軽に行った時に出会って以来の友人である。彼は日本の音楽大学を卒業後、パリ・エコール・ノルマル音楽院声楽科演奏家課程を修了している本格的なシャンソ歌手であるとともに、津軽弁朗読者として活躍。また太宰、寺山研究もしており著書もある。短歌、俳句もこなすいわゆる津軽を代表する文化人である。
この著作は、「太宰治(本名・津島修治)と寺山修司ともに弘前でうまれ、津軽訛の生涯抜けなかった二大作家を 自身も弘前出身の著者が追いかける同郷人ならではの一冊」と表紙カバーに書いてある通り、津軽で生まれ育ち、いまなおその地に暮らし、深く根を張った作家活動をしている鎌田さんにしか描けない”太宰・寺山ワールド”綴られているのだ。その太宰治の章に、僕のことが登場する 『津軽』の「いま」を読み解く『太宰治と旅する津軽』発行に寄せて という一文があった。鎌田さんとの出会いから写真家の水越武さんと僕の2人で開いた囲む会でのエピソードなどを綴ったものだが、書評の面もその文にはあって著者の僕としては心に沁みた一文であった・・・・・・・・。 感謝したい! 合掌
3月24日、眼の手術をして退院してから4回目の病院の診察を受けた。この日ようやくほぼ完治したと言われた。但し、眼薬は2種類1日4回さすことは続けることと、2週間に1度は通院することとなった。しかしホッとしたのは事実である。1ヶ月間止めていた飲酒はどうでしょうか?と恐る恐る聞くと「まあ~ほどほどなら大丈夫でしょう・・・」と先生はニコニコしながら言ってくれたのだ・・・・。 うれしい~!☆!☆
写真家の烏里烏沙君からキルギスからの留学生で、民族伝統楽器を弾く女子がいるのだけれども、キリギスの文化や音楽を日本に知らしめるためにライブみたいなことができないか、と前から相談されていた。その実現のためこの日は、池袋の琉球料理・みやらびへ行って女将の川田功子(左から2人目)さんと会うことになっていた。そのため病院の診察を終えた足で池袋へ来たのである・・・・・・・。
みやらびの琉球舞踊家・崎山陽子ネエネエ~が仕事を終えて駆けつけて来た。友達の画家・音楽家の美崎太洋さんの奥さんであるが、いつも気を使ってくれるやさしい女性だ・・・・・・・・。
関東地方に春一番が吹いた日、友人のヘア・メイクアーティストの島田文子さんからメールがあった。一緒に仕事をしている写真家の山下裕之君の写真展が新宿で開かれているので行きませんかというお誘いだった。僕の友人の写真家も他に3人来る予定だという。僕は直接は山下君を知らなかったが、写真展の内容が東日本大震災の被害を被った相馬市で撮った家族であるということと、島田さんとも昨年11月以来のご無沙汰だったので出かけた・・・・・・・・。
僕の飲んでいるのは炭酸水だ。この日で禁酒してかれこれ約1ヶ月になる・・・・・・・。
同館に併設されている「麺工房かたくり」で3人で遅い昼食をとった。地元産の自家製粉したうどん、蕎麦、地元朝採り有機野菜をはじめ、地豆腐などもある。僕らは鴨南蛮の付け汁蕎麦と野菜てんぷらをいただいた。美味しかった・・・・・・・。
僕はその足で雨の中、銀座の写真弘社まで行き、来月から台湾で開催される東日本大震災の写真展に出品する作品とその解説文を入稿したのだ・・・・・・・。
3月15日~17日まで僕が育った上州へ行ってきた。第一の目的は、30年来の親しい友人である詩人・「書」表現者の住谷夢幻さんの個展を見に行くためだ。彼について少し紹介しておく。住谷夢幻は筆名で、本名は岡田芳保だ。元群馬県立図書館長、元群馬県立土屋文明記念館館長など務める。第6回NHK関東甲信越地域文化賞受賞。著書に、詩画集『住谷玄無の16の花の詩による版画集』、詩集『光・風・空』など。展覧会は、「夢幻の書展」(東京・神田)など多数。
僕の萩原朔太郎をはじめとした「日本文学風土記シリーズ」では色々な面においてサポートしてもらった。また2006年には、画家で小説家の司修さんと夢幻さんとをネパールヒマラヤに2週間ほど案内したことがある。同じ上州人ということもあって何かと良く会って語らい、飲んだものだ。勿論、年齢は僕よりも一回りほど上だが、気が合うのである・・・・・・・。詩人の伊藤信吉さんとも共通の友人であり、夢幻さんはとりわけ親しかった。その他にも水上勉さんなど作家や詩人、音楽家、出版人など幅広い人脈を持っている文化人である。若き日にパリに留学をしていたので酔うと必ずフランス語でシャンソンを歌う・・・・・・・。
今回の書はいままでの夢幻さんの書を大きく超えていた。魂をゆさぶられ、圧倒されたというのが僕の第一印象だった。「3.11 フクシマ」を書でどう表現するのだろうかということも興味を持っていたのである。夢幻さんは、自分の書について本道から外れていて前衛書でも現代書でないとし、「私の仕事の方向性は、心身で創造する。 生み出すイメージの世界なのです」と言っている。「3.11 フクシマ」の作品は、幅0,94mX60mの超大作だ。会場入口から最後までが一枚の和紙に墨や柿渋によって描かれている。言葉を何遍も重ねても言い表せないので、僕なりに60メートルの作品の一部を写真で切り撮らせてもらった。以下紹介するので、静かに向き合って夢幻さんの突き上げる魂の叫びを聞きとって欲しい・・・・・・・・。
日常を歪んだ 像(イメージ) が襲う
書は瞬間化された文字の形而上学である
書家のAさんと夢幻さんと僕で。「3.11 フクシマ」の前で。
後数ヶ月で満86歳になる母の肖像。実家の庭にはまだ残雪があった・・・・・。「髪もボサボサだし、化粧もしていないのでやだよ~」と言いながらもカメラの前に立った。いつまでも元気でいて欲しいと願うばかりだ・・・・・・合掌
3月13日と14日は、都内の写真展を巡った。まず最初に行ったのは「震災よ!」Ⅲ 花井尊・柿木正人二人展だ。会場は、銀座・ギャラリーアートグラフ。最終日だったので共同通信社の写真部記者だった柿木さんがいたのでいろいろと話をした。花井さんは、朝日新聞社写真部のOBだ。2人とも定年退職はしているが、東日本大震災の被害の実情を見て写真で何か出来ないかと年に6~7回通い毎年写真展を続けてきたのだ・・・・・・。
左からよく「風」の催し物には来てくれる日本写真作家協会理事の今井田さん、武田君、僕、「風」同人で日本写真家ユニオン会員の並木さん、中国語翻訳家の遠藤さん、画家で音楽家の美崎太洋さん。14日に行くと言ったらみな合わせて出席してくれた・・・・・・・。
5人の内、4人はオールフリーか、ジンジャエールという居酒屋にとってはあまりありがたくない冴えない客だ。美崎さんだけが代表してコップ酒の日本酒のお代わりを何杯もしていた・・・・・・・。
(著:岡井耀毅 四六判並製 182ページ 定価1800円+税 2014年2月刊 彩流社)
僕の先輩でもあり、親しい友人の岡井さんが、俳句と写真のコラボレーションによる表現の新境地を拓く可能性を追求した本を出版した。岡井さんはいままでに句集は出しているが、俳句についての評論は初めてだ。出版社の紹介によれば、かって俳句と画は親しい関係にあり、一つになった作品は俳画として認められていた。明治に入って写真機が登場すると写真と俳句のコラボの萌芽が始まった。本書は「写俳の黎明期」から誰でも写真を撮れる現在おける俳句と写真のコラボによる藝術の可能性を歴代写真家の俳句感と具体的な歩みのなかに探る話題作である(本文中の俳句は著者の作)・・・・・・・・。
[目次]
1、)「写俳の黎明期」 1「写俳」的原人一号は尾崎紅葉か 2「俳句不滅論」と「風景採集」の寺田寅彦 3詩人萩原朔太郎の蕪村へのオマージュと写真 4「写真」と「俳句」のクロスオーバー
2、)安井仲治の写真と俳句感
3、)写俳の里の物語ー林忠彦の師、磯部潤一郎と有馬光城
4、)土門拳の俳句
5、)写真家 岩宮武二の俳句
6、)写俳亭 伊丹三樹彦
7、)慎平俳句の時空間ー『二十一世紀最終汽車笛』
8,)「眼の思考」の写真と「風の思考」の俳句との合成の可能性
9、)対談 岡井耀毅VS中谷吉隆 写俳コラボレーションの問題点とゆくえ
10、)対談 岡井耀毅VS小松健一 写真と俳句の間=なぜ写真家は俳句に惹かれるか
著者の岡井耀毅さんは、僕らの俳句同人の会「一滴(しずく)」の代表である。1933年広島県呉生まれ、神戸で育つ。早稲田大学政経学部卒業後、朝日新聞社に入社。社会部、南米移動特派員、東京本社外報部、ソウル支局長、「週刊朝日」副編集長、「アサヒカメラ」編集長など歴任。退社後はジャーナリストとして写真評論の執筆、写真集の編集など手がける。 2001年『評伝 林忠彦』(朝日新聞社)により日本写真協会賞年度賞受賞。2006年『土門拳の格闘』(成甲書房)により日本写真協会賞学芸賞受賞など。主な著書に『昭和写真劇場』(成甲書房)、『現代写真家の仕事術』(彩流社)他、多数がある。
☆申し込み先:彩流社 〒102-0071 千代田区富士見2-2-2 TEL:03-3234-5931FAX:03-3234-5932 e-mail sairyusha@sairyusha.co.jp
2014年2月17日撮影:「共同通信社」ヘリより。 「共同ニュース」から。
今日3月11日は、あの歴史的な未曾有の大惨事を引き起こした東日本大震災が起きてから丸3年となる日だ。日本人として絶対に忘れてはならない日である。お亡くなりなった人、今だ行方不明のままの人、20、000以上の御霊に心から合掌をしたい・・・・・・・・・。
数日前から突然のようにテレビや新聞マスコミは、この大震災の特集記事や番組を流しているが、いまだに僕ら国民にはその実態は何一つ知らされてはいない。あの地震と津波が襲ってきた直後、福島第1原発は炉心溶融などをともなった放射能物質の放出をした原子力事故が発生した(一番上の写真)。それは広島に落とされた原子爆弾の470倍ものセシウム134・137などを含んだものであった。国際原子力事象評価尺度(INES)は、最悪レベル7だ。これは最も深刻な事故に分類されているのである。
しかし、日本政府はわずか事故から9ヶ月もたっていない中、その原因や収束への方向性など何一つ明らかにされていないにも係わらず原発事故の収束宣言をし、再稼動への道を開いた。さらに安倍自民・公明党政権は、将来の日本の基本電源と位置づけて新規に増設することも含めた新エネルギー政策を閣議決定している。また諸外国への原発の輸出も積極的におこなっている・・・・・・・。人間として信じがたい感覚としか思えない様相である。
2枚目、3枚目の写真は、今年2月17日に、毎日新聞、共同通信各社が自社のヘリから撮影したものだが、安倍晋三首相は、リオでの東京オリンピック2020年招致の演説の際、世界に向かって「日本の原発は安全であり、放射能や高濃度汚染水は完全にブロックされ、コントロールされている」と大見得を切った。しかし、現実はどうであろうか、3番目の写真の下側に並んでいるのは、高濃度の放射能に汚染された水を入れたタンク群である。
その数は、2014年2月末日現在、1095基。37万8000トンの高濃度汚染水が収容されている。その料は総容量の90パーセントに達しており、残りは10セントを切っている。深刻なことは毎日毎日400トンの地下水が福島原発の1~4号機の建や内に流れ込んでいて大量の高濃度汚染水が発生しているということだ。さらに昨年8月に起きた300トンの汚染水漏洩事故が判明したが、こうしたことがその後も次々と起こっているということだ。しかし、国民にはほとんど真実は知らされていない・・・・・・。当事者にとってはあまりにも当たり前の状況だからか、東電と官僚たちは完全に感覚がマヒしているようである。
使用後の核燃料のゴミも処理できないばかりか、何処にも管理・保管できる場所がないのに、これからも原発を再稼動させて一体、2000年以上は半減しないという核のゴミをどうしょうと思っているのか。すでに何万トンもの核燃料のゴミは日本の国土にあるのだ。いまの僕らがすき放題な生活を送る事で、未来をこの地球で生きる子どもたちに、こんな厄介な物を残して良いのだろうか。そんな自分本位で、経済優先、利潤追求の無責任な理論がはたして通るのだろうか、僕は絶対にしてはならないことだと思っている。いい加減に人類が眼をさまさなければ、この美しい水の惑星は滅んでしまうと危機感を感じている。この星に生息しているのは人類だけではない。人類は多くの生物たちによって生かされているのである・・・・・・・・。
こんなことを大震災後、3年たった今日、痛烈に思ったのである・・・・・・・・・・。 改めてお亡くなりになった方々へ原発のない日本にするという誓いをこめて・・・・・・・・・ 合掌
「日本文学風土記」より 山形県最上川中流域・大石田の風景
僕も一昨年と昨年、2度にわたり写真展を開いた朝霞市立図書館で3日から開催されている「漂流するフクシマ ドキュメンタリー映画と写真展」に行ってみた。記録映画「立入禁止区域 双葉ーされど我が故郷」の監督は、福島県双葉町出身の佐藤武光さん。写真展「ふるさとの今」は、福島県浪江町出身の高木成幸さん。トークショーは、福島県双葉町出身の詩人・熊川多恵子さん。彼女は現在、朝霞市で避難生活を送っている。今回の企画は地元の市民が実行委員会を作って、この3人を中心にして企画・運営したものだ・・・・・・・。
写真展会場には僕の写真展を開催してくれた市民もたくさんいて、話が弾んだ。家にバイクで戻ったらちょうど夕日が武州野に沈むところだった・・・・・・。こんな美しい星、日本を、地球を、放射能などによって破壊してはならない。生物が住めない星にしてはならないとシャツターを切りながらしみじみと思った・・・・・・。
桑原さんは、今年度の土門拳賞の受賞が決まった。良かった。おめでとう~!☆ こっそり2人で乾杯をした。「小松君、授賞式にはぜひ、来てね・・・・」とニコニコして言われた・・・・・・・。
3月6日の朝。久しぶりの太陽が窓辺から僕の仕事場を射してまぶしい・・・・・・・・。
今日もみなさまにとって穏やかな一日でありますように心からお祈りいたします・・・・・・・・・。 合掌
なお、作者は基本的には毎日会場にいるというので直接本人から話を聞く機会もある。また初日の3月5日午後6時からは、同会場においてオープニングパーティが開かれる。もし、お時間がありましたらお出かけください。もちろん僕も出席します。お待ちしています・・・・・・・・。 合掌
僕が目に異変を感じ始めたのは、いまから10年ほど前のこと。糖尿病が悪化して、ヒマラヤ取材から2ヶ月ぶりに帰国して病院へ行くと右足指を切断しなければならなくなる。すぐに入院しなさいと当時住んでいた練馬区の総合病院へ緊急入院となった。幸いに指は切らずに済んだが、1ヶ月間の入院生活を終えてこの際、目の方は大丈夫かと見てもらった。そしたら「ひどい、手がつけられないので他の病院へ行ってくれ」という。僕は怒った。何のために1ヶ月間も入院していたのかと・・・・・・・。
眼低出血がそうとう進んでいるので、何とかしなければといろいろな病院を紹介をしてもらった。そして何軒か回ってようやく、僕が何とかしましょうと引き受けてくれたのが、この10年間づーと僕の目を診察し、今回の手術をしてくれた警察病院のI先生に紹介状を書いてくれたH先生だった。10年前にH先生の手により、レーザで出血している目の中の毛細血管の部分を焼くという治療を10数回したのだった・・・・・・・。
その頃から1.5だった僕の目は徐々に視界が悪くなり、目が霞んだり、まぶしかったり、暗い場所では物が見えづらくなって行った。何度も転んだり、階段から足を踏み外して落ちたりして怪我もするようになっていった。だから夜の車の運転などは注意してなるべくしないようもにしていた。それが極端にひどくなったのは昨年の秋頃からだった。夕方頃からは本当に見えづらくなっていたし、逆光ではまったく見えなくなっていた。交通事故に合いそうになったり、田舎に帰った時に、道から落下したりして怪我をした。もうこれは限界だと思い今回の手術を受けることとしたのである。その6日間の顛末記を「写真日記」として記録しておこうと撮影したので、以下にアップする・・・・・・・・・。
そして最後は、僕の愛用の仕事机。もう20年以上使用しているものだ。その上はご覧のように物であふれかえっていて最近、原稿用紙を広げるスペースがなくなってきている。でもここで書くのが一番はかどるのである・・・・・・・・・。
長い長い僕の”カメラ日記”に、最後までお付き合いいただいて心から感謝~!☆!☆!☆ 合掌