解散後、烏里君とKさんと3人で成都の夜を散策した。四川出版の社長が飲みたいと連絡があったので、ガーデンパーティのようになっている場所へ行った。スチュワーデスをやりながらバーのオーナーをしているという美しいチベットの女性2人と社長。夜の更けるのも忘れて成都最後の夜を楽しんだ・・・・・・。
第2回目のレポートは、標高2600メートルの雅江を早朝7時に出発。理塘を越えて巴塘、金沙江まで行ってまた新都橋まで戻る4日間。この間は一番厳しい道程で、標高4000メートル以上の高所が600キロメートル続く。全行程の距離は約900キロだ。一番若く体力のある写真家のY君は、ひどい高山病に悩まされ、撮影もままならない日々だった・・・・・・・・。
新都橋の食堂。この夜は何度も停電になりローソクの灯の下での夕食となった・・・・・・・・・。
レポートの第1回目は、矢島保治郎が1年間暮らした四川省の成都を出発して、約3ヶ月間滞在したダルッエンド、現在の康定を抜けて雅江までの4日間。写真は撮影順に並べている。
成都を出発して3日目、矢島も泊まっている渓谷の町・雅江に到着。狭い谷間に流れる雅龍河にへばり付くようにある小さな町だ・・・・・・。
9月22日夜、12日間の東チベット(カム地方)取材から無事戻った。全行程の半分以上が標高4000メートルから5000メートル弱という高地の上、2000メートルの差がある深い渓谷を走るという悪路の連続。正直、体中がガタガタになるほど疲れた。もちろんこうしてブログを書いていても背中から腰、膝に時々激痛が走る
(四川省の成都からラサへとつながる国道318号は、川蔵公路と呼ばれている。康定から雅江へ向かう最初のの峠、折多山峠4298メートルは深い霧に包まれていた。自転車で旅をするのがいま、中国の若者の間でブームとなっていて、旅の途中、ずいぶんと出会った)
今回の旅は来年生誕130年を迎える上州出身の明治の探検家・矢島保治郎が101年前に単身辿った道を巡る旅である。その道は、はるか遠く今回はその一部を辿ったにすぎない。しかし100年経って、車を使ってその道程を辿っても非常に厳しい旅であった。同行の5人の内3人は高山病で苦しんだ。
(カズラ山峠4778メートルでであったチベット族の青年。オートバイで遊びに来たという。ここらあたりになると空気は薄く少しでも激しい動きをするとすぐに苦しくなった)
そのレポートを数回にわたって写真を中心に紹介しょうと思っている。ことわっておくが、メインは35ミリフイルムと6X4.5のフイルムカメラで撮影した。50数本撮った。このブログにアップする写真は28ミリレンズ付きのデジタルカメラで撮影したものだ。だから7000メートルを越す山岳などの写真のアップや可憐な高山植物の花のアップなどは残念ながらここでは紹介できない。またの機会を楽しみにしてもらいたい・・・・・・・・。
(チベット自治区との境となる金沙江に近い街・丹塘への最後の峠となる海子山峠を少し下った場所で同行者の記念写真。右端が現地ガイドをかって出てくれた中国の写真家で探検家の烏里烏沙君)
9月8日早朝、まだ眠りの中にいるだろう澤口さん、O編集者には、電話はせずに独りでレンタカーを駆って三陸海岸の街・宮古市へ向かった。距離は市街地までは約100キロメートル。田老町や浄土ヶ浜周辺など廻ると往復260キロメートルほどになろう。但し、北上山地を横断するため、山また山で、トンネルと急カーブの連続の街道である。僕も20年ぶりぐらいに走る道なので、けっこう神経を使った。
今回の東日本大震災が起きた時代に生きている一人の日本人として、その現状を少しでも瞼に焼き付けておこうと思い、出かけたのだ。写真を撮るのが目的でないから日帰りのつもりだった。しかし、僕が見た現状は想像をはるかに超えていた。僕はその現場に立ちすくんで言葉がなかった・・・・・。照りつける炎天下、巻き上がる土埃、鼻をつく異臭のなかをただ歩いた。そしてやはり僕は写真家として、この現実を撮らねばと強く思ったのだ。
皆さんに見てもらう写真はすべて愛用のシグマDP1だ。順番は撮影した順である。それ以外に6X4.5ミリのフイルムカメラ、ブロニカRF645で16本撮った。65ミリ1本のみで。できるだけ被写体に近づくようにして撮影をした。合掌を繰り返し、犠牲者の方々に思いをはせながらシャツターを静かに切った・・・・・・・・。 合掌
9月7日、新潮社のO編集者とこの2年間かけて7月25日ようやく発売となった『宮澤賢治 雨ニモマケズという祈り』の各方面への報告と著者の澤口たまみさんとの打ち上げのために岩手県盛岡市を訪れた。僕にとってはあの東日本大震災前の2月末いらいであった・・・・・・・・・。
Rちゃんと僕の小学校、中学校の同級生のYちゃん。彼女はお孫さんが2人いる”おばあちゃん”なのだが、今は「三福きずな寄席」の世話人兼応援団長をやってくれている。40数年ぶりにこうして同じ町で会って一緒に飲み、語るのは何か不思議な感じがするのだ・・・・・・・。
終了後、有志でいつものように近くの焼き鳥屋で、酒を傾けながら写真談議に花を咲かせた。瀬下さんの写真集の出版を祝って会として、祝う会を催すことになった。やはり写真仲間はいいものだな~とその話を聞いていてつくづくと思った・・・・・・・・。
合唱仲間と熱唱する田中さん(右)。『心のふるさと雲南』に寄せられたたくさんの感想のなかから一部を紹介する。ありがとうございました・・・・・・・・ 合掌
「私も写真から昔の日本にあった光景を思い浮かべながら拝見して、心のふるさとを感じました。」(写真家・石川文洋)
「人間のぬくもりがかんじられ楽しく拝見させていただきました」(写真家・田沼武能)
「人々のしぐさや表情がとてもやさしく和やかで親近感を覚えました。田んぼや畑で農作業に励む人々の姿が大変美しいです。」(写真家・英伸三)
「この写真の中には、生活があり、人間が生きています。美しい光があり、風景があり、人生がある。」(書家 詩人・岡田芳保)
「三福きずな寄席」世話人の会計担当をしているTさんにいただいた茨城県産の梨「ジべ幸水」になんと「放射能測定結果報告書」なるものが付いていたのには驚いた。測定日時は7月28日11時39分。なにを測定しているかと言えば、放射性ヨウ素I-131、放射性セシウムCs-134,Cs-137,Cs-136だ。そのどれもが検出されていなかったが、株式会社化研の水戸研究所というところが検査したらしいが、やたらと仰々しくて、かえって消費者の不安心理をあおるような気がした。僕は皮の固い所が好きなのでそのままかぶりついたのは言うまでももない・・・・・・・・。