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[no.329] 2011年7月6日 『宮澤賢治 雨ニモ負ケズという祈り』(7月25日発売・新潮社)の本刷り立会い終ったぜよ☆~半七写真印刷の歴史を知る。田中四郎写真集『心のふるさと雲南』完成し、配本始まったさ~☆~

 

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仕事部屋の窓ガラスに可愛い子どものカマキリ君がいた。どんなに小さくても駄目!!僕が一番苦手な生物。見ただけでも鳥肌がたってしまう。恐る恐る撮影してから、長い棒の先に止めて外に逃がしたのだ~。「やった~!!」 ふ~う疲れた・・・・・・・・・。
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(写真左が半七写真印刷工業(株)の創業者・田中松太郎、右が2代目社長の米屋勇)

7月4日、5日の2日間は、7月25日新潮社から発売となる『宮澤賢治 雨ニモ負ケズという祈り』の本刷りの印刷立ち合いで品川の先の青物横丁にある半七写真印刷工業株式会社へ缶詰状態だった。とりわけ2日間の東京は熱射地獄のようなうだるような炎暑。埋立地の芝浦地区は特に熱風がひどい。外に少しいるだけでもフラフラするほどしんどかった。初版は8000部で、版は16面の8版。色見は順調にいったが、けっこう時間がかかった。初日は20時前、2日目は21時を過ぎたが、何とか無事に終えることができた。最初から最後まで付き合ってくれた新潮者の担当編集者Oさん本当にご苦労さまでした。そしてありがとう・・・・・・・。実は7月4日は僕の誕生日だったので、立会いを終えた後、Oさんは青物横丁駅前の小さな居酒屋で、誕生をささやかに祝って乾杯をしてくれた。創業30年というその居酒屋の女将は、お祝いにと豚足にランの花をつけて持たせてくれたのだ。はじめて入った店なのに。僕の誕生を祝ってくれるとは、ありがたいことです・・・・・・。 合掌

いま3つの印刷所を掛け持ちで仕事をしているが、半七印刷は由緒ある歴史をもつ印刷所だった。僕は今回はじめて仕事をしたのだ。大正4(1915)年創業のこの会社は、写真家の田中松太郎が創設した。田中は明治33(1900)年にパリで開催された万国博覧会に日本事務員として参加、終了後、画家の浅井忠の助言により、ウイーンの王立写真学校で、三色印刷技術を学ぶ。(僕は晩年の浅井忠には何度か会う機会があった。若造の僕から見ると画家というよりもいかにもコワそうなおじいさんに見えた)
つまり半七印刷は、日本最初のカラー印刷を導入した会社なのである。

当時のヨーロッパには、浅井忠をはじめ、画家の中村不折(半七印刷の社章のデザインは不折)や夏目漱石、永井荷風らがおり、親しく交流をしている。帰国後も木下杢太郎、北原白秋、高村光太郎らが結成した「パンの会」や永井荷風、巌谷四緑らの「木曜会」などにも参加し、自然主義に反抗する新芸術運動を展開している。社歴をみせてもらって僕とも少なからぬ縁だと思った。昭和10(1935)年、日本で始めて創刊された美術誌「みずゑ」の原色版印刷を担当しているが、この雑誌の編集長は、僕の写真の師匠のひとり藤本四八先生の実兄、先生もずいぶんとこの雑誌の仕事をしていた。さらに岩波書店の岩波写真文庫や岩波新書などを印刷している。初代社長の岩波茂雄とも松太郎は懇意だったという。新人物往来社、山川書店、光文社など僕が仕事をよくしていた出版社の印刷をずいぶんと担当していたこともわかって一気に親しみを持ったのだった・・・・・・・。

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☆配本となって届いた田中四郎写真集『心のふるさと雲南』(光陽出版社)。装丁は塩崎享さん、題字は風写こと僕でした。さっそく今日数人から反応があった。9月に八王子駅ビルでの写真展も決まったそうである・・・・・・。

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