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[no.313] 2011年5月27日 直木賞作家・重松清さんと辿る ”宮沢賢治サハリン紀行” の旅・・・・(最終回)。コルサコフ(旧大泊)、ユジノサハリンスク(旧豊原)・旧鈴谷平原、旧王子製紙、チェーホフ山麓(旧鈴谷岳)など巡る・・・・・。

旅の4日目は、昨日の荒れた天候が嘘のように晴れ渡った。風は北国、さすがに冷たいが深い青空に白い雲が飛ぶ早春の一日のようである。前回述べた様に、デジタルカメラが故障してしまったために、この日からの写真での現地レポートはできない。以下の写真は、最後の記念写真を除いてすべて、1997年の7月~8月にかけて僕が独りで北海道・稚内からロシアの定期船に乗ってサハリンに入り、10日間ほど巡った時の写真だ。海霧の濃い、冷たい雨が続いた日々であったような記憶がある・・・・・・・。

 

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宮沢賢治が1923(大正12)年8月2日、コルサコフ(旧大泊)へ稚伯航路の定期船、対馬丸(1839トン)で宗谷海峡を渡って降り立った。桟橋はその当時のままで現在も使われていた。僕も同じ季節を旅したいと7月30日の夕刻に大泊に着いた。今回は宗谷海峡がキラキラと太陽に反射して、40数キロ崎の北海道の宗谷岬がうっすらと望めるような天気であった。大桟橋ももう一本完成して、いまではそちらの方が貨物を上げるクレーンなどがたくさん建っていた。
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賢治は旧樺太庁鉄道で、大泊からユジノサハリンスク(旧豊原)へ来た。旧豊原駅は現在の駅舎よりわずかに北側にあったがほぼ同位置である。写真は駅前広場でバスを待つ娘たちと駅舎の待合室の娘たち。日本が樺太時代に朝鮮半島から連れてきた朝鮮族の人々がいまでもたくさんサハリンにはいる。今回の旅のガイドのアルック君の奥さんも、ドライバーのミィールさんも朝鮮族のように・・・・・・・。僕も14年前に、言葉はもちろん、食べる所もない、泊まる所もわからない時に、手をさしのべてくれたのが、金さんという大泊の港で初めて会った朝鮮の人だった。覚えさせられたという片言の日本語が、僕にとってはありがたかった。金さんの家で何回も食事をごちそうになったし、当時、町のレストランなどはほとんど潰れてしまっていたので、食事ができない。毎日、金さんの奥さんが作ってくれたお弁当がどれほどうれしかったか・・・・・・。それを持って取材して歩いたのである。市場でも「何処から来たの?、ニッポン人?」などと片言の日本語で声をかけられて、キムチや鱒の燻製などをもらった。日本が強制的に連れて来て炭鉱や鉄道作りなど厳しい労働に従事させときながら、敗戦になると自分たちだけはさっさと逃げてしまった。連行されてきた朝鮮の人々は戦後も長年にわたりそのままに放置されてきたのが現実なのに・・・・・・・。みなやさしい。懐かしい人にあったような眼を誰れもがするのである。僕は日本人としてこころが無性に痛むのだっだ・・・・・・・。
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賢治の樺太の旅の名目上の目的は、花巻農学校の2人の教え子の就職の斡旋である。王子製紙株式会社に当時務めていた賢治と盛岡中学の同期生、細越健を訪ねた。上の写真は、賢治が訪ねたユジノサハリンスクの旧王子製紙工場。今回も訪ねたがこの建物は壊されてなかった。しかし高い煙突や7階建ての事務所だったビルなどは、当時のままに残されて、現在も使われていた。ちなみに賢治は王子製紙には、わずか1~2時間ほどしか滞在していない。そして何故か落合、栄浜、白鳥湖・・・・・・と、北へ、北へと向かったのである。
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上の娘さんは、ユジノサハリンスクの大学生。路上で使わなくなった小物などを販売していた。ぺロストロイカによって学生たちに国から支給されていた予算がなくなり、食事もままならない生活を送っていると僕にこぼした。青年はシネゴルスク(旧川上炭鉱)のトンネルで。ここも良質な石炭が取れると日本が開発した炭鉱だ。現在は廃坑となり、温泉が湧いていることからサハリンの人々の保養地となっている。

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この写真は、ユジノサハリンスクのレストランで。ガイドのアルック君が、編集者のOさんの携帯電話で撮影したもの。お祖父さんが日本人で、お父さんはロシア人で、お母さんが朝鮮人という可愛い店のウエイトレスをしていた娘さんを囲んで。僕も重松さんも少しニヤケている・・・・・・・・。この他、写真には無いが真っ白に雪をかぶったチェーホフ山や、鈴谷平原、鈴谷川、旭ヶ丘、旧拓殖銀行豊原支店、豊原市役所、王子製紙の貯水池などなど樺太時代の残像を求めて巡ったのである。14年ぶりのサハリンの旅の一番の印象は、やはり麦酒は美味かった・・・・・・・。ちなみに僕がこの旅で覚えたロシア語は、スパシーバ、ハラショー、ダー、ニェツト、トゥアレェット、クラシィーウャ(美しい、美人)だけである。

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