写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

[no.312] 2011年5月26日 作家・重松清さんと辿る”宮沢賢治のサハリン紀行”ーーユジノサハリンスク(旧豊原)、ドリンスク(旧落合)、スタロドゥブスコィエ(旧栄浜)、ウ”ズモーリエ(旧白浦)・・・・・その(2)

 

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いよいよ3日目にして撮影本番!「やったるぜ~」と張きってカーテンを開けたら雪がちらついていた。天気予報によれば、この日は降水確率5パーセントで晴れ。気温はマイナス2度~5度とはなっていたが、まさか雪模様になるとは・・・・・・。ホテルの朝食があるはずなのにレストランはクローズになっていた。後でわかったことだが、僕らが泊まる前日に、トラブルがあって一人殴り殺されたという。玄関前で。それで料理人たちが誰もいないのである。というわけで駅前のキオスクでピロシキなどを買い込んで宮沢賢治が列車で向かったドリンスク(旧落合)へ。雪は北へ向かうとともに本格的な降りへと変わりつつあった。車窓から流れていく旧樺太の風景に思いを寄せて見つめる重松さん。
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賢治がここドリンスク(旧落合)で、列車を栄浜線に乗り換えた。線路は当時のままの樺太庁鉄道時代のものであるが、プラットホームは少し移動している。
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旧落合尋常小学校跡。奉安殿とコンクリートの残骸だけが当時を忍ばせた・・・・・。
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ドリンスク(旧落合)の旧王子製紙工場跡。現在も街に湯を沸かして送るのに活用されている。ペレストロイカまではここに6~8000人の労働者が働いていていた。ガイドのアルック君によれば当時は、空気が汚れ、ドリンスクに近づくと気持ちが悪くなるくらい環境かひどかったという。第2次世界大戦後、ここサハリンでの製紙工場での生産は、全ソ連邦の紙の35パーセントを占めていたという。「日本が樺太時代に作って残してくれたおかげですよ。鉄道も、桟橋なども・・・・当時のソ連もサハリンの人々も助かりました」とはアレック君の弁・・・・・・・。
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賢治が降り立った終着駅、旧栄浜(スタロドゥブスコエ)駅のホーム跡。僕が14年前に行った時にはまだ線路はそのままに残っていた。シグナルや路線切り替え機や踏み切りなどもあった。何年か前に撤去したという。当時、地元の人たちは「将来また列車を走らせるのが夢、だから鉄路などをみんなで管理しているんだ」と僕に話してくれたのを思い出した。
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賢治の作品に登場する「白鳥湖」。賢治は栄浜から海岸伝いに歩いて訪れたと推測されている。
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旧白浦(ウ”ズモーリエ)駅前広場で地元の漁師たちが蟹を売っていた。毛ガニ、タラバガニ、花咲ガニがあった。4~5ハイが1000ルーブル。日本円で約3100円。さっそくタラバガニの大きいのを2ハイと毛ガニを買った。味見をするドライバーのミィール(33歳)。ロシア人の夫と女の子が1人がいるという。普段は貿易会社に務めているが、僕らの為にアルバイトでドライバーをかってでてくれた。気の良い若いお母さんだ。もちろんこのバイトは見入りもいい。
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旧白浦の海岸は頬を突き刺すような雪まじりの潮風。O編集者の寒そうな表情を見ればわかるでしょう。旧白浦神社の鳥居がいまも村を見守っていた。この海岸でカニを食べようというこだったが、あまりにも寒すぎ。村の中に残る旧日本のディーゼルの火力発電所跡で食べることになった。
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この場所が白浦にあった火力発電所跡。当時としては最新式のもので、戦後もずーと使っていたが、部品の交換などができなくなって最後は廃炉となったいう。建物は確かに立派で大きなもだったことがわかる。村の店で買ってきた40度のウオトカ2本が、寒さのためか、それともカニが美味だったのかあっという間に空いてしまった。写真を見ての通りここだって外、滅茶苦茶寒いのだ~。
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帰りにもう一度旧栄浜の海岸を歩いてみた。賢治が亡くなった妹・トシを偲んで歩いたという海岸である。しかしここも流氷が海岸に打ち寄せられているような寒さ。それでも僕はガイドのアレック君と3~40分浜辺で琥珀を探した。そんなに大きな物は見つからなかったが、1センチ大から小さいものをふくめると20個ぐらいは見つけることができた。一番の記念であり、お土産である・・・・・・。
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昨日も寄ったサハリン州立郷土史博物館に行った。1Fはサハリンの自然と民族。2Fは、旧樺太時代の歴史とソ連邦確立とその後の歴史を展示してある。僕が興味深かったのは、上の小さな石標である。ロシアとの国境に1906年に設置されたものだ。何故、これを確認したかったいえば、実はこの南樺太の国境碑は、函館の立待岬にある石川啄木一族の墓標のモデルとなったものだからだ。もちろん「東海の小島の磯の白砂に・・・・・」の歌が刻まれている啄木の墓の方が5~6倍大きいが。形は同じである。親友の宮崎郁雨の発案だといわれている。さらにここからは僕の推測であるが、上州の前橋の利根川べりの松林に建つ詩人・萩原朔太郎の「帰郷」の詩碑がこれまた、樺太の国境碑に良く似ているのである。僕はあるときにいまは亡き詩人・伊藤信吉さんにそのことを話したことがある。伊藤さんはその話に感化されたのか、88歳の時、1994年発行の最後の詩集となった『私のイヤリング』のなかで長編詩 ”サハリン遠望”を発表した。その文中に、「碑面にカメラの焦点を絞りながら / 同行のK・K君が言う / 『この碑の造型はるかに、樺太国境の名残りが見える。』 」と僕のことが書かれている。伊藤さんはいつも僕と会う度に一緒にサハリンへ行こうと言って遠い目をするのであった・・・・・・。
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お祖父さんが日本人で、お母さんが朝鮮人で、お父さんがロシア人という可愛い娘さんだったが残念!みなピントが合わない。
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気温マイナス4度だが、実際の体感温度はマイナス10度ぐらいのなかの取材はみな疲れ果てた。車の中と外の気温差が大きいので、結露が発生してカメラ機材がびしょびしょになってしまう。うち2台のカメラが調子が悪くなった。1台はシグマDP1。ご覧のようにピントがまったく合わなくなってしまったのだ。もう1台は二コンF3HPである。こちらはシャッターが落ちなくなってしまった。明日からの取材は残りの2台、二コンF3HPPとタムロンのブロニカRF645だ。なんとかがんばってほしいと願うばかりだ・・・・・・。と言う訳で明日からのブログ写真はいままでのようなレポートはできなくなりました。 すみませんですね・・・・・・・・。

 

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