写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

[no.307] 2011年5月11日 宮沢賢治の”無二の心友”保阪嘉内の故郷・甲斐国 韮崎へ。ご子息の庸夫さんにいろいろなお話を伺った・・・・・。

今日は朝から本格的な雨模様。五月雨というには少し寒い。もう少しで入梅の季節・・・・・・。こころも湿っぽくなる季節がやってくる。そして「東日本大震災」が発生してから2ヶ月間が過ぎる・・・・・・。

昨日、甲斐の国の八ヶ岳麓にある韮崎へ行ってきた。昨年からこれで4度目。目的は宮沢賢治に大きな影響を与えた”心の友”保阪嘉内のご子息の保阪庸夫さんに会うためである。嘉内の子どもたちは、次男の庸夫さん(84歳)をはじめ長男の善三さん(85歳)、長女の牧子さんもみな長寿でお元気である。庸夫さんは、東京大学医学部卒の医学博士で、現在も現役のお医者さんである。この日も僕のインタビューのために午前中で診療を切り上げて、ご自宅で待っていてくれた。庸夫さんと最初にお会いしたのは、いまから15年程前のこと。当時、韮崎相互病院の医院長を務めておられたが、僕の突然の電話にも快く出てくれて「もしかしたら岩波新書の『三国志の風景』の著者の小松さんですか、私は家と病院とに本を置いていつも読んでいるファンですよ」と言って、いつでも来てください。ということであった。

数日後、韮崎のご自宅へ伺った。僕がお願いしていたのは、宮沢賢治から保阪嘉内に宛てた手紙などの資料を見せて欲しいと言うことだった。「わたしはまだ仕事の途中でなので、小松さんに預けておきますからどうぞご自由に・・・・」と缶の箱に入った賢治の膨大な手紙や葉書など手渡された。僕はその数に呆然としてしばらくは縁側に座ったまま賢治の自筆の手紙の文を眺めていた記憶がある。その賢治の手紙73通を2年前に、テレビ東京の番組「何でも鑑定団」へ出したら1億8000万円の鑑定結果がでたのである。15年前は僕が一人で確か5時間ほど見ては写真を撮り、また読んでは写真を撮っていたのだった・・・・・。勤務を終えた庸夫さんと韮崎の町の居酒屋へ繰り出して遅くまで飲んだ覚えもあるが、今回「あの店はどこでしたかね」と庸夫さんに訪ねたが「何処でしたかね~」と2人とも思い出せなかった・・・・・。

 

_SDI4389.JPG
_SDI4392.JPG
_SDI4395.JPG

今回のインタビューは、この夏に新潮社から刊行する「宮沢賢治」の本に保阪嘉内のことを入れるためにそこを担当する僕が庸夫さんからいろいろと聞き出したいと思って訪ねたのである。午後1時前からはじめて5時過ぎまでにおよんだ。面白い話はたくさん聞くことができた。さらに僕のリクエストである嘉内の短歌日記やスケッチブックや日誌なども特別に閲覧させてもらった。資料の管理をしている娘さんが手伝ってくれたので手際よく進んだ。可愛がられている「オジョー」という名前のワンちゃんも様子を見に来ていた。伺った内容については、ここでは秘密ですよ~。夏に発行される本を読んでくださいな。「あっ☆!!」と驚く内容がありまっせ~。お楽しみに・・・・・。

すっかり遅くなってしまったのでおじゃましょうと思ったら、「嘉内も大好きで私も子どもの頃、連れて行ってもらった八嶋という鰻屋がありますから一杯いきましょう。話の続きもそこで・・・・」ということになり場所を変えた。娘さんの旦那さんも仕事を終えて駆けつけて来た。昨年車でゆかりの地を案内していただいて以来だ。庸夫さんは芋焼酎をストレートが一番といって美味そうに飲むし、娘さんの彼氏も結構いける・・・・。話もはずんで結局8時前までいる破目になった。でも愉快であった。庸夫さんは僕の母と同年、僕とは親子ほど歳が離れているのにも係わらず、まるで旧知の友と再会したような懐かしく楽しい時間だった・・・・。来る時は特急「あずさ」だったが、帰りは「甲斐路」。近いうちにまた来くることを思いながら車窓に流れる家の灯を見つめていた・・・・・・。

_SDI4414.JPG
_SDI4419.JPG

_SDI4422.JPG
近所のよく行く居酒屋・三福で、こんど初めて催す「三福寄席」の世話役の打ち合わせをした。噺家は、立川志遊師匠にお願いした。地域に根をはった文化の種を撒こうという高い志を持っている。本物の落語をすぐ近くで生で聞いて味わってもらいたいと師匠も快く引き受けてくれた。会場となる三福さんの大将と若。お隣の山本建設のご夫婦。よろしく~たのみまっせ~!!☆ 楽しみながらのんびりとやっていきましょうね。

 

このウェブサイトの写真作品、文章などの著作権は小松健一に帰属します。無断使用は一切禁止します。