写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

[no.306] 2011年5月9日 「上毛新聞」(5月8日付)オピニオン21・視点のページに”チベットで高い評価・矢島保治郎その(4)”が掲載☆雑誌「前衛」6月号のグラビアに、”日本文学風土記ー花巻・雫石ー”と文章”三陸沖地震と宮沢賢治”が掲載された!!

 

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(写真は、「写真家 小松健一オフィシャルサイト」のギャラリー”雲上の神々・ヒマラヤ古寺巡礼”より)

昨年11月から2ヶ月間に1度程度で連載している「オピニオン21・視点」のページに、4回目となる矢島保治郎のことを書いた。今回は矢島青年が上州の片田舎から大志とロマンを抱いて、独り「世界無銭探検」の旅に日本を発った明治42(1909)年を、同時代を生きた郷土の詩人・萩原朔太郎や歌人・土屋文明はどう生きていたのか。また石川啄木は、宮沢賢治は・・・・・。それを検証してみた。そして日本はおろか郷土・群馬でも、ほとんど知られることのない矢島保治郎のチベットでの評価はどうであろうか、それを探ってみたのだ。この記事はネットでも見れますのでの興味のお持ちの方はぜひ、覗いてください。

5月8日発売となった「前衛」6月号の巻頭グラビアに8ページで、「日本文学風土記」シリーズの5回目となる花巻・雫石編を掲載した。この企画は不定期で年に1度~2度のペースでいままで載せてきている。小樽、上州、盛岡、そして番外編として中国・三国志の世界と続けてきた。この編集部に学生時代からの友人がいて彼が時々声をかけてくれるのである。いまどき珍しいモノクロページだが、それが逆に新鮮な感じがして、ぼくにとっては大切な発表の場となっている。今回は締め切りの関係で、解説の文章を書いていた3月11日のその時に、あの「東日本大震災」が発生したのだった。その流れの中で内容は「三陸沖地震と宮沢賢治」となった。賢治が生まれた年の明治29(1896)年に、死者21、959人の犠牲者を出したM8.3~8.5の三陸沖代地震があり、賢治が亡くなった昭和8(1933)年にもまた死者3、000人を越える三陸沖地震があったのである。この2度の大災害は、賢治の作品や行き方に色濃く影響を及ぼしているのではないか、と推察してこの文を書いたのである・・・・・・。
明日、宮沢賢治の”ただ一人の友・保阪嘉内”の息子さんたちにインタビューをするために、嘉内の故郷・八ヶ岳山麓の韮崎に行ってくる・・・・・・。

 

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