写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2011年4月アーカイブ

今日は4月30日、弥生の季節が終わる。季語で言えば暮の春、行く春、惜春、夏隣、そして四月尽・・・・。沖縄で言えば「うりずん」の季節である。

岩手県の三陸海岸にある田野畑村も今回の巨大津波によって、甚大な被害を受けた村であるが、この村にある三陸鉄道北リアス線・島越駅の駅舎も、辺りの人家もすべて津波によって流され、破壊された。しかし唯一、駅前にあった宮沢賢治の詩碑だけがわずかに損傷したのみで、残ったと言う。「津波ニモ負ケナカッタ・・・・賢治の碑」として話題になっているようだ。碑は平成9年に村が建立したもの。碑には賢治の「発動汽船」が彫られている。賢治作品の「グスコーブドリの伝説」に出てくる島の名前にちなみ、この駅の愛称が「カレボナード島越駅」と呼ばれていたことから碑の建立に至ったそうである・・・・・。それにしても心が和むニュースではある。今、僕のなかで、東北の被災地に行くか、行くまいか葛藤がある・・・・・・。

 

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4月28日は、午後から新宿区矢来町にある新潮社へ。神楽坂の坂道を行くのがいつものコースだ。この日は、宮沢賢治の亡くなった9月に毎年おこなわれる賢治祭までに、刊行するという「とんぼの本シリーズの宮沢賢治」の写真の入稿のためである。前回すでに約2000点渡してあるが、今回は、昨年夏以降取材したものからセレクトしたものである。岩手地方3回、保阪嘉内の故郷・韮崎に3回(5月上旬に再度行く)。そして東京の本郷、根岸界隈を取材したものからである。さらにこれから、賢治の「オホーツク挽歌」を辿って、ハバロフスクからサハリンも取材を予定しているのだ。そんな作業が6時頃までには終わったので、この4月から変わった新編集長にあいさつをしてから新潮社をおじゃました。

今回の本の企画の時から担当のO編集者を誘って、第36回木村伊兵衛写真賞受賞式とパーティに向かった。タクシーの車窓からの東京の街の夕暮れは美しかった。Oさんとは22年前からの付き合いで、森鴎外の雑誌の取材で小倉や津和野を旅したこともあった。今回本格的な仕事を一緒にするのは初めてで、僕はとてもうれしいのだ。彼女の夫もよく知っている写真家で、会場では、彼の父親と毎日新聞時代同期だった江成常夫さんや前編集長だったKさんがいま作っているインドの写真集の著者、野町和嘉さん、「アサヒカメラ」新編集長の早坂元興さんたちと一緒に記念写真を撮った。ここしばらくのこの賞の受賞式はまるで場ちがいの所に来たようで落ち着かない。一応、受賞した下園詠子さんをパチリとやってオジャマ虫・・・・・・・。

有楽町駅近くの房総の漁師の小さな店で、Oさんと静かに、宮沢賢治の本について語り合った・・・・・・。彼女は日本酒の温燗で、僕は芋焼酎のロックをやりながら・・・・・・・旨い酒であった。

 

 

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今日であの東日本大震災がおきてから四十九日を迎える。あらためてお亡くなりになった方、行方不明の方方に心からの哀悼の誠を捧げるものである・・・・・・・・合掌
さて今日29日から5月5日(木)まで、東京六本木のミッドタウンにある富士フイルムフォトサロンで「東日本大震災 被災者支援 チャリティー写真展」(日本写真家協会主催)が開催されている。僕も「ヒマラヤの姉妹」(カラー)と「琉球舞踊家・川田功子」(モノクロ)の2作品を出品している。この展覧会は緊急に開催が決まったが、木村伊兵衛、土門拳、東松照明さんらの特別出品をはじめ、JPS会員248名が600点以上の作品を出している。主な写真家は、田沼武能、芳賀日出男、丹野章、田中光常、竹内敏信、本橋成一、白旗史朗、中村征夫、水越武、桑原史成、長倉洋海、野町和嘉さんなどなど。作品が売れた金額は全て被災者への義援金となりますので、ぜひゴールデンウイークに足を運んでください。価格も全品1万円~5万円と破格の値段となっています。

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26日は俳句同人会「一滴」の第117回目の句会だった。昨年の12月以来参加していなかったので、会場となる新橋福祉会館へと出かけた。1時間ほど早く着きすぎたので、近くの神社の境内で、簡単な昼飯を食べて俳句を捻っていた。すると俳人の中原道夫さんがいつもの着物の姿で「いゃ~」と手を振って颯爽と現れた。この句会のために新潟から来てまた翌日新潟に戻るのだと言う。ほんとうに多忙な人である。僕は今回の震災のことを詠んでおこうと思い10句ばかり作っていた。しかし、まだ推敲過程ではあるが、ここに記しておこうと思う。

小女子の目に春愁のありにけり (特選)       荒地野となりたる町よ流し雛 (準特選)
列島に余震のつづく四月尽               泥水にハートのマーク花筏
のたりかな放射能もれ春岬               卒業歌瓦礫の町に流れをり
荒地野に雛人形は誰を待つ              朧月震災日より酒断ちぬ
一本の松原となり春の雨                余震の夜眼ははるか春北斗    風写

☆特選、準特選は、句会での中原道夫選で選ばれたもの。
写真は句会終了後、東北へ思いをこめて青森の店「ねぶた」へ。中原講師、岡井輝生代表たち同人と乾杯。2次会は、喫茶店組みと酒処「いそむら」組みとにわかれた。「いそむら」は前にも書いたが店主も女将も俳人の店だから自然と俳人が集まってくるのだ。

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27日は、6月刊予定の田中四郎著『心のふるさと雲南』(光陽出版)の編集・構成など造本をすべて受けているので、その入稿のために印刷所へ出かけた。今朝も5時に起きて最終的な作業をしていたのだ。印刷所に行く前に、表紙カバーや表紙、扉などのデザインを担当してくれている塩崎享君と打ち合わせをし、表紙カバーのデザインの見本案を受け取った。この日、テスト製版のために10点の写真原稿を選んだ。その色校が5月の中旬には出る予定だ。

この日午後6時半に、北海道在住の写真家・水越武さんと会うことになっていた。前夜に突然電話があり、話したいことがあるということであった。時間があったので公園で1時間半ほど読書をしてから少し早めに待ち合わせの沖縄料理の店、みやらびへ行った。水越さんとじっくりと話すのは約1年半ぶりである。積もる話もあるが、この日はいつも寡黙な水越さんがめずらしくよく話し、よく泡盛を飲んた。途中、東京芸大の大学院でさらに深く学びたいと再入学をした娘さんが合流した。彼女とも一昨年秋の僕と水越さんの出版を祝う会以来だ。写真家の塩崎君も来て大いに盛り上がった。みやらびの琉球舞踊があり、女将の功子さんの三線もあり、僕も竹でできている沖縄の楽器サンバを叩いた。お客さんもカチャシーを踊るなど昔のみやらびを彷彿されような夜であった・・・・・。もう一軒、水越さん親子を案内したいところがあった。それは四川料理の民衆食堂だ。ここでは15年物の紹興酒で乾杯した。辛い四川料理を2人は、美味しそうに食べてくれたのでうれしかった。先輩である水越さんと飲む酒はいつも愉快である。そして多くのことを学ばされるのだ。・・・・・・・・ 合掌

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☆震災の日より、今だ僕の近所のスーパーなどでは、納豆が買えない。それを知った埼玉のTさん、Sさんが大量の納豆を届けてくれた。我が家の冷蔵庫の冷凍室は、いま大好きな納豆の山です。ありがとう。

☆あのまぼろしの土佐の「夜須のフルーツトマト」が、高知で農業をしている福永夫婦より届いた。さっそく東京農業大学に行っていた水越さんにも食べてもらったら「このトマトは特に皮が美味しい。これならPRすれば、すごく売れるのでは・・・・」という評価だった。若い娘さんや写真家の塩崎君、みらびのおかみさんや板前さんたちにもすこぶる好評だったですよ。福永さんありがとう・・・・・・。合掌

25日(月)から4日間は、珍しく都内に出っ張りの日が続いて、くたびれ申した。酒も震災以後、一滴も飲まない日が20日間もあったのに、この4日間は、呑みっ放し・・・・・すみませんね。草臥れました。遊び呆けていたわけではなく仕事等は、きちんとやっていたし、東北への思いは常に考えてもいたのです・・・・・・・。

25日は、久ぶりに友人と銀座であった。まずフイルム現像を出しに写真弘社へ。そこで銀座アートギャラリーを見る。次はキャノンギャラリーの公文健太郎写真展「ゴマの洋品店ーネパール・バネパの街から」へ。力作である。しかし上手過ぎる。ちょうど公文君がいたので、「若いのだからもう少し破綻があってもいいのでは・・・・。あまりにもきっちりと決まりすぎるきらいがあるね」と感想をのべた。「師匠の本橋からも同じことを言われています」と彼は言った。近くまたネパールへ行くとのこと。握手をして別れた。その足で銀座・二コンサロンへ。そうしてようやく銀座ライオンで遅いランチを生麦酒をのみながら・・・・。続いて、ギャラリー新居の藍染の展覧会を覗く。ちょうど大阪から社長も来ていてしばらくぶりに話をした。吉野川流域の阿波藍を世に知らしめるために活動をしていると云う女流作家の作品が並んでいて、僕も気に入ったのがあったので思い切って買い求めた。値段はそれなりのものではあったが、新居さんが少しサービスをしてくれたのだ。次にライカ銀座店サロンの「ロバート・キャパ写真展」へ。残念ながらここは休館日だった。

 

今日はなかばヤケクソ気味にギャラリーめぐりをしょうと決めてメトロに乗って中野坂上へ。向かったのは東京工芸大のキャンパス内にある写大ギャラリー。ここで5月29日まで開催されている文化功労者顕彰記念・細江英公写真絵巻「ガウディの宇宙」を見に行ったのである。今までに何度か見ている作品ではあるが、今回のは全長約26メートルの写真絵巻全3巻、圧巻の作品であった。場所が場所だけに鑑賞者は一人しかいなかったが、しずかな空間のなかでガウディの建築作品と細江英公の写真作品との激突の息ずかいを感じ緊張感が溢れていた。今度は戻って新宿。柿傳ギャラリーでの若手陶芸家の「今泉毅陶展」。そして最後にコニカミノルタギャラリー。3つの写真展を開催中だったが第36回木村伊兵」衛写真賞受賞作品展「下園詠子・きずな」を見た。それらしく上手く写してはいるが、木村伊兵衛賞には、このパターンが多すぎるのが気になった・・・・・・・・。

 

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あ~あ、疲れ果てて喉も渇いたな・・・・・。見上げるとようやく新宿・歌舞伎町の空が茜色に染まり始めていた・・・・・。30年ほど通っている歌舞伎町の隠れ家的存在の店「三日月」。知る人ぞ知る泣かせる店である。まだ早い時間なのにもうすでにお客はいっぱいだった。

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先代の女将さん。84歳になるがいまも元気に調理場に立つこともある。可愛がっていた猫ちゃんが亡くなって、ちょぴりと淋しそうだった・・・・・。

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上の写真は2代目大将の小・中学校の同級生とその友だち。下は調理場に立つ現大将と女将さん。お似合いのご夫婦である。ちなみに女将さんは岩手の北上市の産。鬼剣舞や鹿踊りなど民俗芸能が盛んな土地として知られている。僕の好きな土地のひとつだ。美人も多いし・・・・・・。

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上の写真のポートレイトは、2代目の同級生の友人、シャンソンを歌っているという。もちろん僕は初対面だったし、お名前も知らないが、何故かその場の雰囲気で写真を愛機「シグマDP1」で撮ることになったのだ。その内の3点を見ていただくことにする。モデルはとても魅力的なのに写真家の腕が悪いとこうなるという見本。ごめんなさ~い☆!

下の写真は、「食は理屈ではない 人間の存在そのものである そしてその民族の文化である」をもっとうにしている「樽一」2代目店主と少し呑みすぎた友人のMさん。先代からの付き合いだが数年前に病気で亡くなり、今は若い彼がすべてを切り盛りしているのだ。以前は本店が高田馬場にあり、僕が一番通っていたのが池袋の店だった。いまは2店とも閉めて新宿・歌舞伎町の店だけとなっている。鯨料理とみちのくの料理、酒は宮城の「浦霞」がメインというメニューだ。東日本大震災で「浦霞」も被災し、海水に2メートル程浸かったという。若き店主の慎太郎君は、「浦霞」をはじめ被災した人たちに送る義援金を集めて直接届けたり、積極的に東北の食材を使うなど店ぐるみで支援をしているのである。僕はそういう慎太郎君を偉い!と思うので、たまには呑みに行かなければと思った次第なのだ・・・・・・・。がんっばってね!!

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あの1000年に一度と言われている「東日本大震災」がおきてから1ヶ月と2週間になろうとしている。被災地のみちのくも最初の頃は、冷たい雪に見舞われていたが、今はさくらの花が満開の季節を迎えている・・・・・・。日本列島はユーラシア大陸と太平洋に挟まれ、南北3000キロメートルに連なっている。気候も亜熱帯から亜寒帯まであり、変化に富んだ多種多様な生態系が古来より育まれてきた。世界的にも稀な火山国の日本の自然もまた麗しい。そこに出現した山河、湿原、湖、渓谷、海岸、島・・・・・・。みな美しく見事に調和のとれた景観を生み出しているのだ。その典型的な美しさが集中しているのが東北地方である。リアス式海岸の人をも寄せ付けない自然の美しさは、魚介類の宝庫でもあった。しかし、その三陸海岸一帯が今回の地震後の巨大津波によって壊滅的な被害を受けたのだった・・・・・・・。

 

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日本人は古来より幾多の困難な自然災害に見舞われながらも、大自然に対して畏敬の念をもち、寄り添いながら自然の恩恵を受けて生きてきた歴史がある。あれほどの被害に見舞われても、海水や泥水に浸かっても、梅や桜は今年もみちのくに春を告げたのである。大地は、大海は・・・・自然の回復力は逞しいほどに強靭なのだ。僕が一番不安なのは、この自然界にない人間が作り出したプルトニウムという元素によって稼働している原子力発電所の事故である。これはある意味、人間の利便性と富を生み出すために、約6億年をかけて創造されてきた自然界の法則を破壊してしまったことである。人間が自らの責任で、生命をかけて今回の事故には対処しなければならないのは、当然過ぎるほど当然だ。僕もその人間の一人であるのだから覚悟はしておくべきであろう。地球という星に生息する人間以外のすべての生命体に対しての重い責任があるのだが・・・・・・・。でもいまの僕らはあまりにも無力だ。

 

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僕の写真仲間に仙台在住で今回の地震で被災した佐藤浩視さんがいる。彼は(社)日本写真家協会の会員であるとともに、現在、(協)日本写真家ユニオン理事、(社)日本広告写真家協会東北支部長という要職を務めている写真家である。仙台と東京に会社を持つ経営者でもある。その彼が今回の大震災の日から、本来の広告写真の仕事をストップさせて、被災した各地を回り取材を始めた。「こんな写真を撮ったのですが、どこか載せてくれる雑誌を紹介してください・・・・」と何度か写真をメールで送ってきた。そのつど僕は出来る限り、写真についての感想や意見と出版社を紹介した。彼の努力もあってか、「週刊現代」、「週刊金曜日」などいろいろな雑誌、フランスの雑誌にも掲載が決まったという。よかった・・・・。ひとりでも多くの人たちに、被災した写真家が撮った写真と向き合って欲しいと思っていたから・・・・・。写真展は4月15日~27日、東京・六本木の「zenfotogellery」で開催中。中国・北京の「ZENFOTO」でも出品がきまったという。佐藤君の主な作品は次のサイトでスライドで見れます。被災した街のパノラマ写真は圧巻です。ぜひご覧ください。そして被災された人々とこころをつなぎましょう。  http://www.flickr.com/photos/sato-hiroshi/

☆写真は3点とも小説家、太宰治の故郷・津軽地方を2009年春に撮影したもの。詳しくは『太宰治と旅する津軽』(新潮社)をご参照ください。

 

 

 

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昨日、4月21日は「写真集団・上福岡」の例会が開かれた。6月8日(火)~12日(日)まで、埼玉・川越駅前のデパート・アトレ6階で行われる第29回「写真集団・上福岡」写真展の作品選びやDMに使う写真を決めるなどの作業を合わせておこなった。また、この日は、写真月刊誌「フォトコン」編集部から「おじゃまします! クラブ例会参観記」の取材に、吉永編集部員が取材に訪れた。出席できなかった4人の会員を除いて11人の出品作品が確定。毎年一人の会員が20点の作品を展示する個展を併設しているが、その会員のタイトル、作品も決まった。今年の個展は関根民夫さんの「秩父・観音巡礼」である。5年ほどかけて秩父札所、34箇所を巡りながら取材を重ねた力作である。

「フォトコン」の取材は、創立メンバーのベテランや今年入会した新入会員などからもいろいろな声を聞いていた。「写真集団・上福岡」は、今年で創立29年目で、来年30周年を迎える。この間の歴史をまとめた記録集の制作も最終段階にきており、この作業は2代目会長を務めた柴田格一さんを中心におこなわれている。A4版30数ページにわたる堂々たる写真集団の地域における文化活動の歴史の記録集となるであろう。4時間の中味の濃い例会を終えたあと、希望者でいつもの居酒屋で、吉永編集部員を囲んで交流会をおこなった。9人が参加して楽しい会となった。さらに田中会長が車で家の近くまで送ってくれたので、吉永編集部員と地元の会員とで、もう一杯やってお開きとした。「写真集団・上福岡」の記事が掲載される「フォトコン」は、5月20日発売の6月号。会員の作品も掲載されますので、ぜひお買い求めください。よろしくお願いしま~す☆!

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★よく”寒流スター”に見間違えられるという「フォトコン」の吉永編集部員なのだ~

 

 

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昨日の4月17日は、横浜にある日本新聞博物館(TEL045-661-2040)で、5月8日(日)まで開催している大城弘明写真展「沖縄・終わらない戦後」を見に行った。大城さんは、昨年定年退職するまで「沖縄タイムス」の写真部長を務めていた報道写真家である。タイムスに入社する以前、本土復帰する前から撮り始めてきた沖縄の写真、約250点の作品を中心にした、「沖縄のいま」を改めて問う写真展だ。彼とは十数年前に「名護市写真フェステバル」において僕と基調講演をしたことがあった。以来の付き合いで、僕が沖縄へ行く時はよく泡盛を飲む間柄だ。先輩の写真家・石川文洋さんとも親しく、16日にも長野からわざわざ見に来て、久しぶりに一緒に飲んだと言う。

午後2時からの写真家によるギャラリートークにも参加して大城さんの問題意識と沖縄に対する熱い思いをを聞いた。この写真展の中核になっているのは昨年、未来社から出版した大城弘明写真集『地図にない村』である。沖縄写真家シリーズ[琉球烈像]のなかの一巻だが、地図から消えてしまった自身の生まれ故郷の”記憶の地図”を追い続けた写真群に胸を衝かれる思いがした。写真が本来持っている特性を充分に生かした表現の骨太の展覧会であった・・・・・・。まだ、1ヶ月間近くあるので、ぜひ足を運んで、沖縄の現実を見て、考えて欲しい写真展だ。
大城さんは「この写真展の展示・飾り付けの最中に、あの東日本大震災があったのです。その後の入場者も余震や停電の影響でかなり少ないですが、僕にとっては生涯忘れられない写真展になりますね~」と、白い歯をこぼした。

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この日、「写真集団・上福岡」の田中会長はじめメンバー5人が午前中から横浜埠頭大桟橋などを撮影に来ていた。そして写真研究会「風」の鈴木事務局長も来ていたのでみんなで、午後からのギャラリートークに合流したのだった。トーク終了後、大城さんとは「また沖縄で泡盛でもゆっくりとやろうさ~」と握手をして別れた。その足でみんなで山下公園方面へ撮影をしながら歩いた。日曜日なので本来ならば人人でごった返しているのだが、やはり地震の影響でか、人出は少なかった。僕も久しぶりの横浜だった。その昔、こどもたちが小さかった頃に何度か来たことのあったこの界隈を懐かしく思い出しながらシャツターを切っていたら、突然2年ぶりに沖縄の写真家・小橋川共男さんから電話があった。つい先ほど大城さんと小橋川さんの話をしていたばかりなので、そのタイミングのよさに驚いた。僕が沖縄に来ていると思って電話をしたとのこと。不思議なこともあるもんさ~・・・・・・・・。

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日も傾きかけてきたので横浜中華街に行き、食事でもして帰ろうということになった。この中華街の歴史は古く、明治初年にはすでに横浜には1000人を超す華僑が暮らしていたと言う。安政の大獄があった1859年に横浜が開港されると欧米の商人たちは日本人と筆談ができる中国人を仲介役として伴って来浜したのが始まりだと言う。まずは「三国志」の主役のひとり、関羽雲長を祀ってある関帝廟へ詣でた。関聖帝君は財神、すなわち商売繁盛の神として中国では圧倒的な人気を誇る。劉備や孔明、曹操たちと比べても廟の数の多さは群を抜いている。横浜の関帝廟は今年で鎮座150周年を迎えるので、幕末の頃からあったことになる。一説によれば1862年に、一人の中国人が関羽の木像を現在の地に祀ってささやかな廟を建てたというのがどうやら始まりらしい。僕はちっとも商売が繁盛したことがないので、関羽が刺繍されている黄色の商売繁盛お守り袋を求めたのだ。ご利益がありますようにと・・・・・・・合掌。

さて、お楽しみの中華料理は、地元の協同組合に加盟しているだけでも143店と、ありすぎて迷った。本当は四川料理の店に入りたかったが、きれいなお姉さんが「紹興酒1本サービスするよ~」などとやたらと奨めるので根負けした形で上海料理の店に入った。案の定、料理は甘ったるく正直美味くはなかった。サービスという紹興酒も1本360円ぐらいで買える安物。そして店の看板で掲げていた定価表よりも3割ほど高く、気分が悪かったが入ってしまったのだから仕方なしと諦めるしかなかった。後で調べるとやはり「横浜中華街発展会協同組合」には加盟していない店であった。関帝廟のお守りも、直ぐにはご利益があるわけではないのだなあ~と、あらためて思った次第である・・・・・・・・。

 

 

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今日も大きな地震があった。埼玉県北部地方は震度5弱、南部地方は震度4だったので、我が家もしばらく強い揺れが続いた。現在の家は自分で設計したものを友人の1級建築士の夫婦に見てもらいアドバイスをしてもらって建てた家だ。この場所では2度目の建築だった。窓などを大きく取ったり、2階の天井が無かったり、柱を少なくしたことなどもあって耐震性が弱いと思い、阪神淡路大震災以降に、全面的に耐震性の補強工事を」したのだが、もう築20年はたっているので、震度4ともなると結構揺れるのである。
この3日間はロシア・サハリンの写真を少し見ていただいたが、この取材も決して楽なものではなかった。取材をした1997年当時は、ソ連邦のぺロストロイカによって急激な社会改革が行われて、国営工場は全て倒産、街には失業者が溢れていた。年金暮らしのお年寄りや学生たちも国からの援助がなくなり、生活苦にあえぐ社会不安の時代だった。街の食堂はほとんど潰れるか閉店状態で、僕は取材しながらも食事にいつも事欠くありさまだった。たまたま知り合った旧日本軍に強制的に連れてこられた朝鮮人の金さんという人に、家で食事をごちそうになり、車で島を案内してもらう事ができた。また釧路から昆布や蟹や雲丹の買い付けに来ていた人の用心棒(学生時代に剣道や柔道をしていたことを売り込んだ)をさせてもらって、寝るところと朝夕の食事が確保できたのだった・・・・・・。

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この時に詠んだ句をここに記録として遺しておこうと思う。 題は「サハリン回想」とでもしておこうか・・・・・。

サハリンの黒き浜辺よ荒布船            霧の海墓標のごとく老漁師
ウォトカのグラスに伝ふ霧笛かな          計り売りの麦酒は温し花野道
秋湿りラジオ短波の演歌かな            霧月夜隣は銃を枕辺に
温かきピロシキを買ひ海霧かな           浜ばらや耳底を衝く朝鮮語
停電に燻製の鱒喰みてをり              一片の黒パン咥えし霧の犬
霧の道露西亜女の足白し               朝鮮の言葉ゆきかふ霧市場
秋岬アイヌ居住区静かなり              (小松風写・1997)

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社団法人日本写真家協会の会員として「東日本大震災被災者支援 チャリティー写真展」に2作品出品した。会期は4月29日(金)~5月5日(木)まで。東京・冨士フイルムフォトサロン。出品作品のサイズは6ツ切り額装。土門拳、木村伊兵衛、細江英公、川田喜久治の各氏をはじめ約200人の写真家が500点出品予定だ。販売価格はチャリティーということもあって、通常価格からすれば破格の値段だ。すべて10000円~50000円の設定である。詳しくは後日にまた紹介したいと思う。(当然僕の作品も安いですよ~)
もうひとつプロ写真家たちがアジアの恵まれない子どもたちの教育支援を目的に設立された「フォトボランティアジャパン基金」が呼びかけた東日本大震災の被災者の人たちに、写真を見て元気になって心を少しでも癒してもらおうとネット上で自由に見ることができる「元気になって!!写真力」(htto://www.stbears.com/pvi-jishin/)に、中心メンバーの熊谷正さんから呼びかけられたので、「ヒマラヤの子どもたち」を2点出品した。現在、南川三治郎さん、榎並悦子さん、BAKU斉藤さんら65人の写真家が参加している。小さなことでも写真家として少しでも役に立つことで協力したいと思っている。この会も今年の12月16日~18日まで東京・冨士フォトサロン(六本木ミッドタウン)で、写真作品を即売する「第15回写真家によるチャリティー展」を予定している。


 

 

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昨日の第二回「三陸海岸回想記」に続いて、第三回「三陸海岸回想記」を書きつづけたいと思う。

現在は盛岡市と合併してた玉山区渋民字渋民となったが、北上山地の秀峰・姫神山の麓に生まれ育った石川啄木にとっても宮古は浅からぬ関係があった。それはある意味、縁をも感じさせるようでもある。幾人もの宮古衆がちょつぴり生意気で、自信家でもあった啄木を陰ながら支えていたのである。まず、函館で出合った「宮古の松本艦長」こと松本精一が宮古出身だ。函館の大火で焼きだされた啄木を札幌の「北門新報」に誘い、ほどなく創刊したばかりの「小樽日報」へ啄木と移りともに働いた先輩の硬派記者・小国露堂も宮古出身であった。さらに、さいはての町・釧路での啄木の生活を精神的な面で支えた芸者・小奴の姉芸者・小蝶、盛岡中学時代の啄木も参加していたユニオン会のメンバー・伊藤圭一郎も宮古周辺の生まれである・・・・・・。

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啄木が北海道漂白の旅にピリオドを打ち、創作生活に入るべく上京を決意して、釧路港を酒田川丸で出港したのは北の地の春はまだ遠い4月初め。宮古へ寄港したのは、1908(明治41)年4月6日のことだった。上陸後、まず訪ねたのも、盛岡中学の先輩で医師の道又金吾だった。この日の啄木の日記全文を記した碑が宮古港を望む漁協ビルの広場に建っていた。港からみると小高い丘の上に建っていたから、今回の巨大津波の難は逃れることが出来たのだろうか。それともあの高さとて波にのみこまれたのか。ニュースを気をつけて見ていたがいまだ判明はしていない・・・・・・。

「街は古風な、沈んだ黴の生えた様な空気に充ちて、料理屋と遊女屋が軒を並べて居る。街上を行くものは大抵白粉を厚く塗つた抜衣紋の女である。・・・・・・隣の一間では、十一許りの女の児が三味線を習って居た」

わずか7時間余りの宮古滞在にもかかわらず、当時の宮古の花街・鍬ヶ崎の様子や風俗を記者・啄木の眼でリアルに捉えていると思う。

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いまから20年程前になろうか、僕は取材先の宮古港から石川啄木記念館へ電話をしたことがあった。そうすると当時の館長が「小松さん、今日の晩は職員みんなで八幡平の温泉で泊りがけの忘年会をするのですが、いまから来ませんか~」という。僕は宮古の魚市場で獲れたての真イカなどを氷につめて車を飛ばして八幡平へ行ったのだった。学芸員の山本玲子さんの家の近くの温泉民宿で楽しく一晩過した想い出がある。今回の地震のおきる2週間程前に記念館で山本さんに会った時、「小松さんが宮古から持ってきたイカを腸まで使って料理したの、とても美味しかった。今でも思い出しますよ・・・・」と懐かしそうに微笑んだ・・・・・・・。

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<写真は、すべてサハリン(旧樺太)で。宮沢賢治は1923(大正12)年7月31日に花巻を発ち、8月2日夜に定期便、対馬丸で宗谷海峡を渡ってゴルサコフ(旧大泊)に着いた。その夜は深い霧雨だった・・・・・。一番下の写真は,日本時代の旧樺太農業試験場の宿舎跡で。そこに暮らし取材に協力してくれた主婦と僕と犬と猫ちゃんで~す>

 

「三陸海岸回想記」の第一回目の陸前高田編の続きをいま少し書いておこう。昔からこの地方の男たちは、気仙沼大工、左官として宮大工をはじめとした技術者集団として、あるいは腕のいい遠洋漁業の漁師として各地に出稼ぎにでていたという。留守を切り盛していたのは、南部女衆たちである。魚介類の旨さは知られているところだが、冬の牡蠣、夏の雲丹をはじめとして、本来なら今頃から初夏にかけて旬な肴は、4月の白魚の踊り食い、5月のホヤ、6月には真イカ、アイナメをはじめ鮑、ホタテ、ホッキ貝などが旬で旨いのだ。また今回の津波で蔵ごとすべて流されてしまったが、こうした三陸の魚介類にぴったりと合う酒蔵があった。

日本画家の佐藤華岳が「酔うて仙境に入るが如し」と命名した「酔仙」である。銘に劣らぬ骨のある酒だった。南部杜氏が酒仕込みの時に歌うという酒屋歌を蔵のなかで聞かせてくれた。 「酒屋ぐらしは大名ぐらし五尺六尺たったまま飲むよ・・・・」 この歌の一節がいまも僕の耳底に聴こえてくる・・・・・・・・。

 

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さて「三陸海岸回想記」の第二回目、今回は陸前高田から北上した「鉄と漁業の町」釜石市とさらに北上した宮古市のことについて書いてみたい。釜石にも林芙美子の小説『波濤』の文学碑をはじめ多くの碑がある。市の北方に位置する常楽寺境内にある柳田国男文学碑に興味があったので行ってみた。柳田の代表作『遠野物語』のなかに収められている釜石の民話は20数編ある。柳田が釜石を訪れたのは大正9(1920)年。彼の取材ノートには次のようなくだりがあった。

「鵜住居の浄(常)楽寺は陰鬱なる口碑に富んだ寺ださうだが、自分は偶然その本堂の前に立つて、しをらしいこの土地の風習をみた」

300年以上の歴史を待つ曹洞宗・常楽寺の裏山の麓にひっそりと柳田の碑はあった。碑文は柳田らしく、みちのくを美しい文章で綴った「北の野の緑」の一節である。碑の周りはブナと躑躅に囲まれて、東北の遅い春の季節は、さぞや柳田好みの風景だろうと思った・・・・・・・。

 

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宮古もたくさんの文学者が訪れているがここでは、宮沢賢治と石川啄木の二人に絞って書くことにしたい。賢治は、大正6(1917)年、大正14(1925)年の2回、宮古を訪れている。ともに発動汽船での上陸だった。最初のときは、盛岡高等農林学校時代の21歳の時。花巻ー石巻間が軽便鉄道で結ばれたのを機に、花巻実業家有志「東海岸視察団」の一員として父親の代理として参加した。しかし、宮古では宴会ばかりに明け暮れる視察団と離れて単独行をとり、帰りも一人で船に乗らず、早池峰山麓の小国峠を越え、遠野を巡って花巻まで歩いて戻っている。 また賢治は宮古山常安寺七世・霊鏡竜湖和尚が、「さながら極楽浄土の如し」と感嘆したことから名付けられたという宮古の名勝地・浄土ヶ浜が好きで、ここで夜を明かし、詩心を触発されて明け方まで次々と短歌をものにしている。

「 うるわしの海のビロード昆布らは寂光のはまに敷かれひかりぬ  宮沢賢治 」

この歌碑は、賢治の生誕100年を記念して1996年に浄土ヶ浜に建立されたが、果たして今回の巨大津波に果たして持ちこたえたろうか・・・・・。石川啄木の宮古にまつわるエピソードについては次回に書くことにする。

 

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<写真はすべて宮沢賢治が1923(大正12)年7月末~8月にかけて旅したサハリン(旧樺太)で。一番上と下の写真は、スタロードゥブスコィエ(旧栄浜)で。真ん中の写真は島の中心街、ユージノサハリンスク(旧豊原)で出合った女性。賢治が巡った土地を今から14年前の同じ7月末~8月に、僕も独り海霧なかを辿った・・・・>

 

 

 

 

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昨日に引き続き今朝も頻繁におきる余震というには大きすぎる地震に、「東京直下型巨大地震」を考えてしまい不安な気持ちになっている方たちも少なくないであろう。正直、僕も精神的には相当参っている。しかし、そうは言っても実際に今回の巨大地震に被災され、家族をなくし、愛する人がいまも行方不明、家や会社、先祖伝来の田畑や海を奪われた人々のことを思うと、とてもそんな弱気なことは言ってられないのも事実。とにかく背伸びせず、肩肘張らず、できるだけ自然体で日々を生きていくしかない。被災しながらも必死に歯をくいしばって生きている人々に思いを寄せながら・・・・・・・。

今月末で「写真家 小松健一オフィシャルサイト」を立ち上げて丸2年となる。そのまとめについてのリポートは後日にしょうと思うが、ブログなどについて読んでもいないのにあれやこれやとイチャモンをつけてくる輩もいれば、「うれしい、ああ~書いていてよかった」と励まされる反響も多い。つい最近も都下日野市を中心に活動をしている劇団「ひの」という劇団の演出家から電話があり、僕のブログの記事をニュースに転載してもよいかという問い合わせだった。もちろん僕は「写真もふくめてどうぞ」とこころよくOK!をした。後日その「SAKURA NEWS]というA4版、8ページのコミュニティ情報誌がおくられてきた。その2ページ目、全部を使って僕のブログからの抜粋で紙面を構成していた。「”新羅生門”連日満席! 身内のような暖かい感想をいただきました!」、「邪推とは、正義とは何なのかを現代に生きる一人の人間として深く考えさせられた 小松健一さん(写真家)」という見出しで、写真も2点添えられていた。おまけに僕のサイトの紹介までしてくれているのだ。(2011年1月31日付けのブログに掲載)

☆劇団「ひの」の第83回公演予定は、宮沢賢治作「銀河鉄道の夜」。2011年11月下旬から12月上旬です。僕も今秋、新潮社から『恋するナチュラリスト 宮沢賢治』(仮題)を刊行予定だから、いまから芝居が楽しみではある。

 

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さて、「三陸海岸の回想記」の第1回目を書こう。みなさんもテレビの画面から流れてくるニュースのなかでも衝撃をもって見つめた光景に、岩手県陸前高田市の松原にたった1本だけ津波から残った松の木を覚えているでしょうか。その松原と白砂の浜のことから書いていこうと思う。
美しく太平洋岸に続く三陸のリアス式海岸沿いには、50基を超える文学碑がある。それだけ多くの文人たちがこの美しい海岸を愛でて旅したと言う証でもあるだろう。陸前高田にも、松尾芭蕉、高浜虚子、土井晩翠らの文学碑が有名だが、なんと言っても地元の人々には身近な存在として親しまれているのは、岩手県出身の石川啄木の歌碑であろう。
1900(明治33)年の夏、当時盛岡中学3年だった啄木は、担任の教師だった高田小一郎に引率されて級友数名と修学旅行でこの陸前高田を訪れている。北上山系の山懐に抱かれた渋民出身の啄木にとっては、生まれて初めて見る大海原であった。どこまでも続く白い砂浜、緑濃い松原は、感受性の強い少年にとって、どれほど新鮮に映ったことだろうか。同行した同級生の一人、船越金五郎が書いた日記にその旅の感動が記されていたのである。そのことが後年ラジオ等で報道されるや「高田の松原に啄木の歌碑を建立しよう」という機運が盛り上がり、1957年に船越の揮毫で歌碑が建立されたのだ。

「 いのちなき砂のかなしさよ / さらさらと / 握れば指のあひだより落つ   石川啄木 」

しかし、船越の揮毫した碑の歌が啄木の歌とことなっており、彫りなおすべきとの論争がおきていた矢先に三陸地方を襲ったチリ地震津波でこの歌碑は流失したのである。建立後わずか3年だった。「受難の碑」と呼ばれたこの碑は、後に砂浜の中から発見されたが、元の位置には戻ることなく、市内の氷上神社の参道に移されたのだ。その後、高田松原に建立されたのは、啄木の親友・金田一京助が揮毫した歌碑だ。おおきな枕のような巨石の歌碑であったが今回の大津波で果たしてどうなったことだろうか・・・・・。
僕はこの「いのちなき・・・・」の歌をはじめとした歌集『一握の砂』なかでも絶唱といわれる「我を愛する歌」冒頭の10首の舞台は、実はこの啄木の故郷に近い陸前高田の松原の白浜ではないかと一人推測しているのだ。もちろんストレートに啄木がこの浜辺をイメージしたわけではないだろう。漂白の旅のなかで安らぎの場として通った函館の大森浜も重ね合わせたかもしれないし、琉球出身の「明星」の歌人で仲のよかった山城正忠に、南の沖縄の美しい海や浜辺のことを聞いたこともあったろう。でも多感な少年時代に出合った忘れえぬ光景を、啄木はこころの奥底で静かに発酵させていたのではないかと思うのである・・・・・・。

 

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(写真は3点とも歌人・山城正忠の故郷・沖縄島の北部、やんばる地方で。 「 ほこり立つ路のまなかを泡盛のしずかにぬれてあやふくたどる 」 正忠)

 

 

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今日であの「東日本大震災」が東北・関東地方を襲ってから1ヶ月となる。 あらためて犠牲者となられた方々の御霊に、こころからの合掌をしたい・・・・・・。
みなさんにお約束した今回の被災地である「三陸海岸の回想」を書かねばと思いつつも、いまだ書けていないことを気にしている。書きたいことはいっぱいあるのだが・・・・・。いましばらくお待ちくだされ!。
この日、取材に向かったのは、宮沢賢治が大正10(1921)年1月~8月まで東京で暮らした時の主なゆかりの地・本郷界隈と根岸界隈だ。大震災でボーッとしている間に、宮沢賢治の本の発行準備が遅れて尻に火が付いたのだ。賢治の東京暮らしの場所だけでも見ておきたいと思った。賢治の東京でのゆかりの場所は主だった所だけでも10箇所ばかりあるが、妹・トシ関連の地はさておき、賢治が下宿した旧本郷菊坂町の稲垣家、謄写版印刷や校正係として務めた東大・赤門前にあった文信社跡、それに鶯谷の桜木町1番地にあった国柱会会館(本部)はどうしても見ておきたかった。

まずは東大の赤門をめざして行った。入学がきまった学生とその家族たちが次々と門の前で記念写真を撮っていた。この門は旧加賀屋敷御守殿門で由緒あるもの。賢治が勤めた軽印刷の文信社は現在、眼鏡屋さんとなっていたが、赤門前にいまも確かにあった。その直ぐ近くには明治の文豪・樋口一葉が5年間暮らした地がある。作品『ゆく雲』にも登場するが、浄土宗法真寺の境内に隣接する家だった。一葉が晩年の病床で、書いた雑記の中にもその頃を回想して「桜木の宿」と命名している。次に向かったのは本郷菊坂町の賢治が下宿した稲垣家。途中で地元の肉屋さんで特製「菊坂コロッケ」を食べた。お茶まで出してくれて地元に生まれ育った親父さんは、この地に係わった一葉や賢治、石川啄木や徳田秋声のこと、谷崎潤一郎、佐藤春夫、芥川龍之介、竹下夢二をはじめ、多くの作家たちが逗留していた菊冨士ホテルのことなど自慢げに語ってくれた。賢治の下宿跡は数年前まで当時のままで現存していたそうだが今は新しく改築されていた。賢治はこの2階の6畳間で、多くは馬鈴薯と水だけの食事で、印刷屋の仕事に、国柱会の布教活動をして帰った後に、1日300枚のペースで童話の原稿を書いたという。代表作の「注文の多い料理店」、「どんぐりと山猫」などはこの当時に書かれた物だ。

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賢治が下宿していた稲垣家のすぐ近くには、樋口一葉が貧しい生活をやりくりするために、よく通ったという伊勢屋質店がある。万延元年(1865)創業で昭和57(1982)年に廃業という老舗だった。僕も以前に何度か来ているがその時にはまだ営業していた。一葉が亡くなったときには、伊勢屋の主人が香典を持って焼香に行ったというから一葉とは長い付き合いが続いていたのだろう。啄木一家が暮らしていた「喜の床」という床屋さんもこの界隈ではあるが、時間がないので今回は寄らなかった。春日町から大江戸線に乗って上野御徒町まで行き、JRに乗り換えて鶯谷へ行ってみた。賢治が本郷の下宿先から通ってきて街頭の布教活動などしていたのは、旧桜木町1番地にあった国柱会館。現在、国柱会本部は江戸川区の一之江へ移転している。調べてみると桜木町の現在の住所は根岸1丁目となっていた。戦後60数年、根岸一丁目で鞄店を営む女将さんに話を伺って、ようやく場所が特定できた。鶯谷駅南口から線路を越えてすぐの所だった。言問い通りと線路の間の右側の一角に国柱会本部があったという。賢治はここに来て近くの上野公園などでよく街頭の布教活動をしていたのだ。鶯谷駅周辺の光景は昔とあまり変わってはいない。僕が30数年前から寄る蕎麦屋が駅前にいまもある。「御手打天下御免ー貸席 公望荘」と看板を立てている小さな店だ。僕は蕎麦湯割りで、せいろを肴にいつもやっている。この日は、花見客で賑やかだった・・・・。

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最後に向かったのは、目黒にあるギャラリーコスモス。この日が「東日本大震災支援・臨時写真展」の最終日で、午後5時過ぎから出品者たちによる打ち上げパーティがあったからだ。呼びかけ人の一人である(株)コスモス・インターナショナル社長の新山さんは「わずか2週間足らずの短期間に125人という写真家が賛同して作品を出してくれました・・・・」と顔をほころばせた。集まった金額は義援金として被災者へ送られることになるそうだ。僕も中国・洛陽の龍門石窟の作品を出品したが、他にハービー・山口さん、梶原高男さん、立木寛彦さんたちをはじめ、特に若い写真家たちが大勢出品していたのがうれしかった・・・・・・。
会場は早めに失礼して、駆けつけてくれた写真研究会「風」の鈴木事務局長と目黒駅傍にあるネパールとチベット料理の店「カトマンズ ガングリ」へ寄ってみた。鈴木さんも僕と2度ネパールへ行っているのでなつかしいらしく、モモやチグサカレーなどを肴にネパールの酒、ククリ・ラムをロックでやった。また来年あたりヒマラヤに行こうかなどと2人で話しながら・・・・・・。店員のラム君は、カトマンズ出身のネワール族。僕のよく知っているネパールの友人たちとも顔馴染みのことがわかり話は一層盛り上がった・・・・・・。


 

4月4日以降、めずらしく4日間連続で用事があり忙しい日々だった。都内にも3日間出かけ、いま抱えている本の出版のための編集者との打ち合せや著者との打ち合わせ、デザイナーとの打ち合わせなどが続いた。写真原稿のプリントのチェツクや数千点の写真の中からのセレクト、サハリンの写真のデータ化などもした。自分の本もふくめ4冊を9月刊行めざして同時平行に進めているのだから結構大変なのだ。

 

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一昨日の深夜の大きな余震で目が覚めてから体調を崩し、明け方まで眠れなくて苦労した。そして昨日の恒例の「ぶどうぱん社の花見の会」。こちらに戻ってから毎年しているので今年で4度目。今回は東北地方の友人たちにこころを寄せての花見とした。午後2時に集合して近くの川岸の桜堤へ。数人当日これなくなったが昼の部には8人が参加。写真集団・上福岡のメンバーを中心に、チベット山岳写真協会会員とフリーの写真家だ。料理も酒もそれぞれが持ち寄る形式なので、普段食べられない家庭の味を味わえるのでいつも楽しみにしている。曇り日であったが気温は温かく気持ちの良い花見であった。その後、ぶどうぱん社へ席を移した。毎回準備してくれている松ちゃんの手打ちそばがみな心待ちで、写真も上手いがそば打ちは名人肌ときている松ちゃん。打った10人前の蕎麦はあっという間に平らげてしまった。僕は日頃のお礼にと土佐風かつおの刺身を大皿に盛り付けた。これも好評でみなさんが平らげてくれた。「来年も元気にまた花見をやりましょう!」最後は一本締めで昼の部は終了した。

 

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夜の部は仕事を終えた若い写真仲間たちが4人と昼からの居残り部隊が3人でいつもの居酒屋「三福」で午後7時過ぎからはじまった。最後の11時過ぎまで残ったのは6人だったが、こちらはもっぱらの写真談議。いかに写真家として生きていくか、どう生活と結びつけながら作品作りをしていくのかなど直面している課題や悩みについてそれぞれの立場からの意見が相次いだ。僕も自身の経験から若い写真家たちに語った。そして酒もまたみんな良く飲んだ。生ビールや日本酒などの他に、焼酎一升が軽く空いたのだった。夜桜にほろ酔い気分はなんとも気持ちがよいが、はたして写真創作への精進はいかに・・・・・・。

 

 



 

「東日本大震災」の大被害を受けながらも地元・東北地方の人々は復興に向けて動き始めているが、一向に先が見えないのが福島原子力発電所の事故処理である。高濃度の放射能物質が大量に海に流出しているのに、それを止められない。流れ出している亀裂に生コンを注入したが効果がないので、東電や政府が切り札として試みたのが、赤ちゃんの紙おむつに使われている水分吸収剤と新聞紙と木材を切るときにで出る大鋸屑だという。残念ながら、これもまったくの効果がなかったという。僕は不謹慎ながらこのニュースを聞きながら思わず苦笑してしまった・・・・・。高い放射能が測定されている現場で命がけで作業している人たちには大変申し訳ないが、指示されているその作業が、新聞紙と大鋸屑を積める事かと思うと原子力と言う人類の英知を集めた科学の最先端であるべきものの対応としては、あまりにもお粗末ではないかと・・・・・・。素人ながら不安を通り超して笑いになってしまったのである。

毎日、テレビで流されている「ニッポンは強い国、ニッポンはひとつ、いまこそ団結しよう。信じている・・・・・・」などのステロタイプ化された言葉には、ヘきへきする。ある種の洗脳で怖い気さえおきてくる。それぞれが、それぞれの立場で、出来る事を背伸びせずに、長期的展望を持ちながらやればいいのであって、誰かにとやかく扇動される覚えはない。僕ら写真家は仲間の多くが現地へいち早く入って取材を続けている。阪神・淡路大震災の時もそうであったが、現地で自らが被災しながらも被災状況を撮影している仲間もいる。僕も彼らが撮影したものをできるだけメディアに発表できるように、出版社や編集者を紹介している。また、コスモスインターナショナルの呼びかけで、「東北関東大震災支援・コスモス臨時写真展」をやることになり、その呼びかけに80人の写真家が出品したという。僕ももちろん出品している。出品料のすべては義援金として送られる。

日程☆4月5日(火)~4月10日(日) 11時~17時まで

場所☆ギャラリーコスモス TEL03-3494-8621 (目黒駅徒歩約8分)

★明日から陸前高田、宮古、石巻など三陸海岸の思い出を少し書いていきたいと思う。僕の眼裏に焼き付けられている美しい海岸の町で出合った人々と光景を・・・・・・・。

 

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昨日、3日は2年ほど前から中国史研究家で作家の中村さんの紹介で知り合いになった櫛部妙有さんの「第57回 櫛部妙有朗読会 森鴎外『高瀬舟』」に出かけた。途中、地下鉄に乗車中突然に停止。「大きな地震が発生したため緊急停車しました」と車内放送が流れた。一瞬やな気分がしたがやがて電車は走り出した。こう毎日毎日余震が続くとマジに気が滅入ってくる。ともかく会場には開演前に無事着くことができた。彼女からは何枚も朗読のCDが送られてきており、聴いてはいたが実はライブで朗読を聴いたことはなかった。来年、生誕150年を迎える森鴎外の作品を今年は朗読するのだという。6月に「山椒大夫」、9月は「即興詩人」12月は「舞姫」と続く。興味がある方は(オフィス貴香:TEL・FAX042-973-6966)まで。

「知恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに・・・・・・」ではじまる鴎外の小説『高瀬舟』は、95年前に書かれているがその元となった文章は約240年前の江戸中期に書かれた『翁草』のなかにある。その原文まで今回は朗読をしてくれた。短文である。当時、それを読んだ鴎外が内容をさらに膨らませて人間の持つ心根の有様を今日的なテーマへと深めたのである。現代にも通じる主題で、戦後最大の危機とも言うべきいまだからこそ、あらためて考えさせられた。わずか2~30人しか入れない会場であったが朗読中の1時間半はまるで江戸時代の世界へ誘われたような不思議な体験を味わった・・・・・・。

会終了後、櫛部さんファンの人たちと食事に行った。中村さんが「女性ばかりだから一緒に付き合ってよ」というからだ。僕が彼女と出会うようになったのは、「朗読をしている彼女を撮って欲しい」という中村さんの強い依頼からであった。しかし今まで1度も撮影しなかったが、今回はじめて6カットだけトライXフィルムで撮ってみた。鴎外が4年間のドイツ留学から戻った年から100年目の1989年に鴎外の取材に東西ドイツへ行った時に求めたライカM4で・・・・・・・。食事会は「成都」という四川料理の店だった。タロット占い師の人や東京医科歯科大学の講師でミジンコ研究をしている人などユニークな女性たちばかりで酒もみな強く、元気の素をたくさんもらえた楽しい会であった・・・・・・・。

 

 

妹の嫁ぎて四月永かりき    妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る   (中村草田男)

今日はすでに4月2日。「東日本大震災」がおきてからすでに3週間が過ぎようとしている。昨日は4月馬鹿、万愚節であるが、世の中、いたずらに嘘をついているような雰囲気ではない。東北の被災者を思っての自粛がブームのようになって暗い雰囲気が社会に漂っている。かって昭和天皇が崩御された前後にも1年間ぐらいは、自粛自粛の時があった。東北の被災者を励まし、被災していない僕らが、がんばらなければいけないのだから明るく元気に普段の生活をしていかなければ、経済的な復興も活力も生まれないだろう。もちろん節電をはじめ、いままであまりにも贅沢過ぎた部分は大いに改善していくべきではあるが・・・・・。下を向いて落ち込んでいても始まらない。ということで、僕もささやかな弁当を持って、独り家の周りの花見をしてみた。1時間ほどの・・・・・・・。

 

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我が家から200メートル以内の場所でどれも撮ったものだが、僕が落ち込んで家に篭もっている間に、もうすっかりと自然は春を迎えていた。僕の処女歌集『春ひそむ冬』を思い出したが、どんなに厳しい冬であっても必ずや春がやって来るのだ・・・・・。上記の俳句は石田波郷、加藤楸邨とともに人間探求派と呼ばれた中村草田男の句。1946年に俳誌「万緑」を創刊主宰した。僕に俳句作りをすすめた人は、中村草田男門下。僕の俳号を「風写」と命名したのは、加藤楸邨の弟子。そして僕の先師・高島茂は、石田波郷と中村草田男とも親交が深かった・・・・・・。

 

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