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[no.281] 2011年3月10日 上毛新聞(3月13日付)の”オピニオン21・視点”の欄に「矢島保治郎その3」が掲載☆!ネットでも見れますのでご覧下さい。

 

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上の写真は、ある朝の僕の食卓兼仕事机にもなるちゃぶ台。僕の元に来てからもう7~8年は経っている年代ものである。ある雑誌の編集室へ行った時に、「このちゃぶ台いいね。懐かしい、子どもの頃を思い出すね。欲しいな~」などと冗談に言ったら、1年後に編集長から「小松さんが使いたいと言っていたのでどうぞ」と送られてきたのだ。編集部で古道具屋で探して特集記事の撮影につかったらしい。それでもう使わないからとやはり明治期頃の皿5枚と一緒にちゃぶ台が送られて来たと言うわけである。いまではご覧の通り、すっかりと我が家に馴染んで、無くてはならない存在としてその位置を確保している・・・・・・・・。
今日3月10日は、66年前にアメリカの無差別爆撃によって、東京が火の海となり、一夜にして10万人以上が亡くなった「東京大空襲」の日だ。戦争の悲惨さを改めて胸に刻むとともに、犠牲者となられた方々のご冥福をこころから祈る日である・・・・・・・。 合掌

昨年11月に、上毛新聞社からオピニオン委員に委嘱されてから3回目となる原稿が3月13日(日)付けの同紙に掲載される。前回に続き郷土が生んだ希代の探検家・矢島保治郎のことを書いた。3度目となる今回は、矢島の探検を地元メディアの上毛新聞が積極的に報道して、後押ししたことを102年前の上毛新聞の紙面を探し、裏付けを取りながら書いていった。群馬県立図書館、前橋市立図書館、上毛新聞社、群馬県立文書館、国立国会図書館などあたったが該当する紙面は所蔵していなかった。唯一、県立文書館が個人所蔵の当時の上毛新聞の複写を持っていた。それを閲覧させてもらったのである・・・・・・・。記事の子細については、13日付けの新聞を読んでくだされたし。

僕が驚いたのは、本来持っているだろうと思われる団体や組織でなく、100年以上前の上毛新聞をきちんと揃えて保管していたのは、上州の片田舎のまったくの個人の方である。僕が閲覧させてもらったのは明治42(1909)年1月1日~5月31日までの紙面だ。この年に矢島は独り「世界無銭探検旅行」へと旅立ち、中国大陸を横断して、翌年に世界で初めて外国人として四川省からチベットの都・ラサへと入国したのだ・・・・・。
明治42年といえば、いま僕が取材している宮沢賢治は当時13歳で、盛岡中学へ入学した年だし、石川啄木だって23歳、北海道漂白の旅にようやく終止符を打ち、東京朝日新聞の校閲係として就職が決まった年であった。その当時の一地方紙をすべて保存していたこの櫛渕家の先祖とそれを守ってきた子孫の方々には、こころから頭が下がる思いがするし、こころからのお礼も述べたい・・・・・・・。僕などがこんなことを言える柄でもないのは重々承知ではあるが、とにかく言わずにはいられないのである。「ありがとうございます!」と。ただそれだけ・・・・。矢島保治郎の一人娘、仲子さんに13日の上毛新聞に載りますと連絡すると「13日は父の月命日です。なにかのご縁ですわね」と静かに語った・・・・・・・。






 

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