写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

[no.276] 2011年2月26日 小岩井農場、春子谷地湿原、網張温泉、渋民・石川啄木記念館、啄木新婚の家、岩手大学農学部、報恩寺、高橋忠弥の装丁展などを巡った旅・・・・・・。

昨日に続き”冬のイーハトーブ紀行”を書く・・・・・。

実は昨日、東京・京王プラザホテルにおいて「細江英公氏の文化功労者顕彰を祝う会」がおこなわれた。もちろん出席する予定でいたのだが、旅の疲れが出たのと花粉症の症状がひどくなり残念だが失礼した。正月に本人にお会いしてお祝いのあいさつはしておいたので多少は安心ではある。

今日は夕方から銀座のギャラリー・アートグラフへ「フォトコン”小松健一の写真道場”修了展」の飾り付けの為に出かける。今朝、毎日新聞社から手紙が届いた。第30回土門拳賞の受賞式の案内であった。本年の受賞は石川直樹君の写真集『CORONA』だ。僕も彼の今までの作品のうち最高の出来と評価していたので、こころから「おめでとう」と祝杯を上げたい・・・・・・。

 

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2月23日も快晴だ。岩手地方の1月は、例年にない大雪で気温も低く厳しい冬だったが、ここ数日は春のような天気が続いている。とは言っても寒暖の差は10度以上ある。日中は5~6度まで上がり、風がなければあまり寒さは感じないが、夜になると一気にマイナス7~8度まで冷え込む。日陰では道路でも残雪が氷ったままで、溶ける気配はまるでないのだ。この日は岩手山周辺を撮影することにした。「みちのくの霊峰」といわれるだけあって美しい山である。それも見る角度によって荒々しくなったり、まるで女性のようにやさしく見えたり同じ山とは思えない山容である。それがまた魅力なのかも知れない。雫石の小岩井農場、滝沢村の姥屋敷、春子谷地、鞍掛山、網張温泉、そして盛岡の渋民から・・・・・・。ここにいくつか紹介するので僕の言う感じを少しでも味わって欲しいと思う。
僕は、賢治も岩手山登山の帰路に入ったという網張温泉が好きだ。和銅年間から湧出するという千年の歴史を誇るこの青みがかった白濁の硫黄泉は、僕の故郷の浅間山麓の万座温泉の湯に似ていて懐かしい思いがするのだ。休火山である岩手山麓には多くの温泉が湧き出しているが、僕の一押しはやはり網張温泉である。背後には八幡平の山々が迫る景色にも魅了される。またここの売店で売っている地場の野菜や手作りの食べ物がまた素朴でいい。僕は湯上がりに、コンニャクやら漬物などいつもいただくのである。

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この日午後4時頃に、石川啄木記念館の学芸員・山本玲子さんと会う約束をしていたので、温泉でさっぱりした後、車を渋民へ走らせた。北上川沿いに北上して行くと右手に円錐型をした姫神山が見えてくる。標高1124メートルのこの山はけして高くは無いが啄木にとってはまさしく故郷の山であった。岩手山と異なり、どこから見ても同じピラミッドの形をしている。すぐに姫神山とわかるのがおもしろいのである。山本さんとは3ヶ月ぶりの再会。2人で企画立案した石川啄木没後100年記念・写真スケッチ集「啄木への旅」が完成したことをまずは喜び合った。これからのピーアールや販売についても話合った。澤口さんやその友達の人たちも協力してくれると言うので、喜んでお願いすることとなった。彼女と話していると約束の1時間はあっと言う間に過ぎてしまい5時を回ってしまった。寒風のなか外に出ると夕空にくっきりと岩手山が裾野を広げていた。渋民から見る岩手山はまるで天女のようにやさしく感じる。山本さんと固い握手を交わして別れて、僕は渋民の村と北上川の流れと岩手山が一望できる高台を目指した。何とか間に合って撮ったのが上の写真。積雪が2メートルほどあり岸辺には近づくことが出来なかった。

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取材最終日の24日は、盛岡市内を巡った。まず啄木が堀合節子と結婚式をあげ、家族5人で暮らした「啄木新婚の家」へ行った。明治38(1905)年6月から両親と妹の光子と新妻・節子との暮らしぶりを綴った随筆「我が四畳半」には、狭いながらもこの部屋から啄木は節子とともに、文筆一本で生計を立てて行こうという明るい青年の決意が溢れている。啄木の盛岡における残されている遺跡は唯一この「新婚の家」だけとなってしまった。次に向かったのは旧盛岡高等農林学校。現在の岩手大学農学部だ。言うまでもなく賢治や保阪嘉内などが学んだ明治35年創立の日本初の高等農林学校である。現在残る本館は大正元年、旧正門と門番所は、明治36年に建てらており、共に国の重要文化財に指定されている。

本館は青森ヒバを用いた明治後期を代表する木造2階建ての欧風建築物。この2階のバルコニーには、先輩啄木を慕う賢治や嘉内も立ったことだろう。朝、ホテルで軽く五穀がゆを食べたきりだから、血糖値が下がったらしく手ガ振るえてカメラの操作が難しくなった。やばいと思いつつもこの取材だけは切りの良いとこまで終わらせたいと思いながらがんばった。何とか終えて車まで行くのが辛かった。歩くのもやっとだ。途中に自販機があったのでジュースをその場に座り込んで飲んだ。少し元気がでたので急いで学生食堂へと飛び込んだ。この日は大学入学試験の日だったので父兄と思われたのか、サービス品のしょうが焼き定食400円を食べさせてもらった。ああ~間一髪で助かった・・・・・・。

落ち着いてきたので、賢治が中学生時代や高等農林時代に、座禅や法話を聴きにいった報恩寺へ行った。この寺は応永元年(1394)の創建というから600年の歴史をもつ古刹である。特に享保16年(1731)から4年余の歳月をかけて造られたという五百羅漢が有名だ。現在でも約500体が現存し、なかにはマルコポーロやフビライの像もみられる。不思議な空間である。賢治はどんな思いでこれらの像を見つめたのだろうか・・・・・・。

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最後に向かったのは「もりおか啄木・賢治青春館」だ。この建物は明治43年竣工の旧第九十銀行(国の重要文化財指定)である。この2階展示ホールで「高橋忠弥装丁展」(3月25日まで)を開いていたからだ。高橋画伯とは、僕の俳句の先師が店の主であり、常連客として30数年間通っている新宿の「ばん焼きぼるが」で何度かお会いしていた。この店のマッチの装丁は高橋忠弥さんがずーとしている。僕が知る限りでは3パターンある。現在のも高橋さんの装丁でしゃれたマッチだ。パリの展覧会で賞を受賞したとも聞いている。このマッチは詩人の寺山修司も好きだったらしく、八王子の寺山の墓地の前に生前愛用した品や著書などを納めたガラスケースがあるがその中に3つほどぼるがのマッチが入っている。

焼き鳥屋の親父ではあったが俳人としても名高い先師・高島茂と高橋画伯は、深い交流があったらしく先師の第1俳句集『軍鶏』の口絵には銅版画の軍鶏の絵が飾っている。昭和38(1963)年発行のこの本は限定350部ということもあってか古本屋をいくら探してもなかなかでてこない。10数年前に一度3万円でカタログで発見して電話をしたが直ぐに売れてしまったそうである。高橋画伯の銅版の価値も高いのだろう。ちなみに展示会場で、マッチに使われている原画を2点発見してなにかとても懐かしい思いがした。高橋さんは母方の故郷が盛岡で10歳から26歳で上京して画家をめざすまで盛岡に暮らしている。知らなかったが高橋さんは賢治とも文学を通じて手紙のやり取りをしており、数々の賢治や啄木関連の本の装丁や絵も描いていた。僕は今回の賢治・啄木の旅の最後に、盛岡で高橋忠弥さんの作品に出会えたことは何か不思議な縁を感じた。とともに思いで深いものとなってうれしかった・・・・・・。  合掌




 

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