北海道の友人Nさんから久しぶりに連絡があった。今度、用事があって東京へ行くが、その頃もし東京にいれば都内を案内してもらえないかということだった。用事の書道の研修日という前後は、ちょうどスケジュールが調整できたので案内を引き受けた。そのNさんとの出合いのは、いまから34~5年前の雪深い札幌の街だった。彼女は20歳頃で僕もまだ24~5歳の若造だった。電話ボックスが雪の中に埋もれていて、まるで氷のかまくらの中に入っているような感覚だった印象が残っている。その後も彼女が結婚して新婚旅行に行く前に東京でご主人と一緒に会ったり、子どもができた時に写真を撮ったりした。北海道へ取材に行ったときなども何度か家に泊めてもらったりもして、家族ぐるみの付き合いでいろいろとお世話になっていた・・・・・・。
そんな事もあって、今回30数年間の付き合いで、はじめて恩返しらしいことをやったのである。まずは北海道大学の学生だった人でお世話になった人に会いたいので連れて行って欲しいと言う、やはり30年ぶりの再会だという。住所を頼りに訪ねたその人は八丁堀に程近い鉄砲洲に暮らしていた。「よしだ屋」という小さな駄菓子屋さんのおじさんとして、地元のこどもたちからは絶大な人気を誇っているようであった。話を聞くと広告代理店を40代で辞めてから寝たきりのご両親の面倒をみながらこの店を引き継いだそうだ。「よしだ屋」は、彼で4代目となる明治の中頃からこの地で乾物屋をしている老舗であった。
彼女とはやはり北海道で青春時代に知り合ったそうで、本当に懐かしそうに語り合っていた。そこうしている間も次々と近所の子どもたちが10円や100円玉を握り締めてやってきては、紙の箱を持ってどれを買おうか考えていた。彼女も2人いるお孫さんへのおみやげにとたくさんのおもちゃを買い込んでいた。僕も10円の「いちご大福マシュマロ」をひとつ買ってもらった。自分の子ども時代のことなどを思い出しながら、東京のど真ん中にこういう駄菓子屋さんが存在していることがうれしいと共に町や子どもたちとっても、とても大事なことなんだと思った。僕は彼女の友人のYさんにぜひ「鉄砲洲・よしだ屋ものがたり」を書いてくださいなとお願いをしたのだった・・・・・・・。
彼女の宿泊するホテルが浅草だというのと彼女自身浅草には、まだ行ったことが無いと言うので、この日は御のぼりさん丸出しで、浅草見物と決め込んだ。そういう僕だって年がら年中浅草に行っているわけではない。天気もいい日曜日だったので、アジアからの観光客をはじめ、たくさんの見物客でごったがえしていた。彼女はおみやげにとやげん掘の七味とうがらしや藤の屋の手ぬぐいなど求めていた。隅田川の船くだりで東京湾見物とも思ったが風が冷たいのでやめ、久しぶりに僕の好きな「神谷バー」へと早めの夕食を兼ねて彼女を誘った。相変わらず店内は混んでいが、どうにか相席で隅の方に座ることができた。
「神谷バー」は、1880(明治13)年に創業した東京でも老舗中の老舗のバー。現在も使っている建物が落成したのは1921(大正10)年だから関東大震災にも太平洋戦争の戦災にもあいながらも現在も浅草に建っていることがすでに歴史の一コマである。大正時代は浅草六区で活動写真を見て、1杯10銭のデンキブランを飲むのが庶民にとってはなよりの贅沢でもあり、楽しみでもあったという。この下町の人情味あふれる酒場を好んだ文人たちも多い。石川啄木、萩原朔太郎、高見順、谷崎潤一郎、坂口安吾、壇一雄などなど・・・・。川端康成の小説や三浦哲郎の芥川賞受賞作『忍ぶ川』にも神谷バーとデンキブランが登場する。
一人にて酒をのみ居れる憐れなる となりの男になにを思ふらん (神谷バァにて)
この歌は萩原朔太郎が大正時代初期のまだ20代の頃の詠んだ歌である。