写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

[no.271]  2011年2月16日 北海道の友人と鉄砲洲・よしだ屋、浅草・神谷バー、浅草寺、忍ばずの池、上野東照宮などなどを巡った・・・・・。

北海道の友人Nさんから久しぶりに連絡があった。今度、用事があって東京へ行くが、その頃もし東京にいれば都内を案内してもらえないかということだった。用事の書道の研修日という前後は、ちょうどスケジュールが調整できたので案内を引き受けた。そのNさんとの出合いのは、いまから34~5年前の雪深い札幌の街だった。彼女は20歳頃で僕もまだ24~5歳の若造だった。電話ボックスが雪の中に埋もれていて、まるで氷のかまくらの中に入っているような感覚だった印象が残っている。その後も彼女が結婚して新婚旅行に行く前に東京でご主人と一緒に会ったり、子どもができた時に写真を撮ったりした。北海道へ取材に行ったときなども何度か家に泊めてもらったりもして、家族ぐるみの付き合いでいろいろとお世話になっていた・・・・・・。

 

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そんな事もあって、今回30数年間の付き合いで、はじめて恩返しらしいことをやったのである。まずは北海道大学の学生だった人でお世話になった人に会いたいので連れて行って欲しいと言う、やはり30年ぶりの再会だという。住所を頼りに訪ねたその人は八丁堀に程近い鉄砲洲に暮らしていた。「よしだ屋」という小さな駄菓子屋さんのおじさんとして、地元のこどもたちからは絶大な人気を誇っているようであった。話を聞くと広告代理店を40代で辞めてから寝たきりのご両親の面倒をみながらこの店を引き継いだそうだ。「よしだ屋」は、彼で4代目となる明治の中頃からこの地で乾物屋をしている老舗であった。

彼女とはやはり北海道で青春時代に知り合ったそうで、本当に懐かしそうに語り合っていた。そこうしている間も次々と近所の子どもたちが10円や100円玉を握り締めてやってきては、紙の箱を持ってどれを買おうか考えていた。彼女も2人いるお孫さんへのおみやげにとたくさんのおもちゃを買い込んでいた。僕も10円の「いちご大福マシュマロ」をひとつ買ってもらった。自分の子ども時代のことなどを思い出しながら、東京のど真ん中にこういう駄菓子屋さんが存在していることがうれしいと共に町や子どもたちとっても、とても大事なことなんだと思った。僕は彼女の友人のYさんにぜひ「鉄砲洲・よしだ屋ものがたり」を書いてくださいなとお願いをしたのだった・・・・・・・。

 

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彼女の宿泊するホテルが浅草だというのと彼女自身浅草には、まだ行ったことが無いと言うので、この日は御のぼりさん丸出しで、浅草見物と決め込んだ。そういう僕だって年がら年中浅草に行っているわけではない。天気もいい日曜日だったので、アジアからの観光客をはじめ、たくさんの見物客でごったがえしていた。彼女はおみやげにとやげん掘の七味とうがらしや藤の屋の手ぬぐいなど求めていた。隅田川の船くだりで東京湾見物とも思ったが風が冷たいのでやめ、久しぶりに僕の好きな「神谷バー」へと早めの夕食を兼ねて彼女を誘った。相変わらず店内は混んでいが、どうにか相席で隅の方に座ることができた。

「神谷バー」は、1880(明治13)年に創業した東京でも老舗中の老舗のバー。現在も使っている建物が落成したのは1921(大正10)年だから関東大震災にも太平洋戦争の戦災にもあいながらも現在も浅草に建っていることがすでに歴史の一コマである。大正時代は浅草六区で活動写真を見て、1杯10銭のデンキブランを飲むのが庶民にとってはなよりの贅沢でもあり、楽しみでもあったという。この下町の人情味あふれる酒場を好んだ文人たちも多い。石川啄木、萩原朔太郎、高見順、谷崎潤一郎、坂口安吾、壇一雄などなど・・・・。川端康成の小説や三浦哲郎の芥川賞受賞作『忍ぶ川』にも神谷バーとデンキブランが登場する。

一人にて酒をのみ居れる憐れなる  となりの男になにを思ふらん   (神谷バァにて)

この歌は萩原朔太郎が大正時代初期のまだ20代の頃の詠んだ歌である。

 

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さて、その相席になった面々が写真の人々だ。最初の方は、銀座で長年お店をやっていたが数年前に閉めてハワイ暮らしをしていたという。最近初めて神谷バーへ入ってやはり相席になられた方と意気投合して今日待ち合わせたのだという。その人は70代後半ぐらいの紳士だったという。彼女は、外人に間違われたので今日は着物を着て、手作りのちらし寿司まで用意してきていた。しかし約束の時間を1時間以上過ぎても会うことはできなかった。僕らも何度も入り口をのぞき、店内を探す彼女を見ていて気がきではなかった。僕の机の前のデンキブランのグラスもつぎつぎと空いていく。一杯260円だがすでに4杯目を空けていた。2時間を過ぎて諦めたのか、「今日は飲みましょう」と彼女は、ぐいぐいとグラスを空けはじめた。その人へのおみやげだったお寿司も僕らがごちそうになった。

彼女が生まれのが北海道の女満別だとわかり、Nさんが紋別生まれだからお互いに近いということでさらに盛り上がった。ついでに彼女が育った地が新潟で、僕の祖父が新潟出身だなどと、もうどうでもいいことまでふくめて今日はきっとお互いに縁があったのだといいながらデンキブランを次々と飲み干した。Nさんは半ば呆れながらもやさしく僕らに付き合ってくれた。彼女の築地の家で毎月1回催しているというホームパーティにも誘われてしまった。彼女と楽しい時を過した後に相席になったのは、これまた変な男組み。学習塾の塾長とその教え子で現在は教師をしているという青年であった・・・・。


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たまたま机の上に置いていた拙書『太宰治と旅する津軽』を突然、手に取りその塾長は文学論をし始めたのだ。太宰論をひとくされした後、今度は「啄木への旅」をみて猛然と啄木の歌について薀蓄を述べ始めた。確かに半端な知識ではない。啄木の『一握の砂』のなかのあまり知られていないような歌をすらすらと諳んじれる。例えば「やや長きキスを交わして別れ来し/深夜の街の/遠き火事かな」とか「葡萄色の/古き手帳にのこりたる/かの会合の時と処かな」などの歌である。これらをすらすらと言える人にはそうは会ったことはない。国語が専任というその塾長さんは、僕よりもどうも隣に座っている北海道のN女史に、これらの歌の薀蓄を聞かせたかったようである。

さらに与謝野晶子と鉄幹と山川登美子の三角関係とその情念の歌の薀蓄に至るや、いくら文学好きな僕でも黙ってデンキブランを飲んでろ!と言いたくなった。お付きの青年教師も毎度聞かされているらしく、づーと苦笑いをしていた。山川登美子の鉄幹にたいする想いを詠んだ歌がなかなか思いだせないとなるとトイレに入り出てこない。しばらくして思い出したらしく出てくると「それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ・・・・・・」この歌にこめられた女ごころは切ないね~などと言って、ひとり悦にいっては盃を干していた。そして「あなたは美しい。われわれのアイドルである・・・・」などとNさんに向かって言うのだ。飽きることのない相席の御仁ではあったが、僕としては30数年ぶりに初めて2人でゆっくりと話せる思ったのにちっとも話すことができず、誠に残念な夜ではあった・・・・・・。

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Nさんが北海道へ帰る日、少し時間があるというので上野公園とその周辺を案内した。国立近代博物館や西洋美術館などとも思ったが時間がないため、まず行ったのがアメヤ横丁。ここでもNさんは、高校生の息子さんたちへのおみやげや書道教室の子どもたちへのおみやげをたくさん買った。上野末広町で江戸前鮨をごちそうになってから忍ばずの池を巡り、弁天様や上野観音様や東照宮などを参拝した。考えてみると何か”年寄りのじいさんコース”見たいな気がしたが、しかたない。これが現実だ。忍ばずの池に自由に浮かぶ鴨たちが実にうらやましく覚えたのだった・・・・。僕は結局のところ彼女の近況を別れ間際に聞くことになった。4人のお子さんに恵まれて、上の2人は結婚してそれぞれ子どもが誕生し、いま家には高校生の息子さんが2人。ご両親は母親は73歳で病気で亡くなり、100歳まで生きた父親は昨年亡くなったそうだ。末っ子の彼女が両親を夫の協力もあって最後まで看取ったのだという。僕はただ 、「えらいね。娘として、妻として、母親として、がんばったんだね。そして今度はおばあちゃんか・・・・・・。」と言った。
ただし、自分の人生はこれからは大切にして、北の石狩の大地で生きていって欲しいと言う願いをこめて・・・・・・・。  北の友・Nよ。」楽しかったさ~。ありがとうね☆☆☆

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