写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2011年2月アーカイブ

昨日に続き”冬のイーハトーブ紀行”を書く・・・・・。

実は昨日、東京・京王プラザホテルにおいて「細江英公氏の文化功労者顕彰を祝う会」がおこなわれた。もちろん出席する予定でいたのだが、旅の疲れが出たのと花粉症の症状がひどくなり残念だが失礼した。正月に本人にお会いしてお祝いのあいさつはしておいたので多少は安心ではある。

今日は夕方から銀座のギャラリー・アートグラフへ「フォトコン”小松健一の写真道場”修了展」の飾り付けの為に出かける。今朝、毎日新聞社から手紙が届いた。第30回土門拳賞の受賞式の案内であった。本年の受賞は石川直樹君の写真集『CORONA』だ。僕も彼の今までの作品のうち最高の出来と評価していたので、こころから「おめでとう」と祝杯を上げたい・・・・・・。

 

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2月23日も快晴だ。岩手地方の1月は、例年にない大雪で気温も低く厳しい冬だったが、ここ数日は春のような天気が続いている。とは言っても寒暖の差は10度以上ある。日中は5~6度まで上がり、風がなければあまり寒さは感じないが、夜になると一気にマイナス7~8度まで冷え込む。日陰では道路でも残雪が氷ったままで、溶ける気配はまるでないのだ。この日は岩手山周辺を撮影することにした。「みちのくの霊峰」といわれるだけあって美しい山である。それも見る角度によって荒々しくなったり、まるで女性のようにやさしく見えたり同じ山とは思えない山容である。それがまた魅力なのかも知れない。雫石の小岩井農場、滝沢村の姥屋敷、春子谷地、鞍掛山、網張温泉、そして盛岡の渋民から・・・・・・。ここにいくつか紹介するので僕の言う感じを少しでも味わって欲しいと思う。
僕は、賢治も岩手山登山の帰路に入ったという網張温泉が好きだ。和銅年間から湧出するという千年の歴史を誇るこの青みがかった白濁の硫黄泉は、僕の故郷の浅間山麓の万座温泉の湯に似ていて懐かしい思いがするのだ。休火山である岩手山麓には多くの温泉が湧き出しているが、僕の一押しはやはり網張温泉である。背後には八幡平の山々が迫る景色にも魅了される。またここの売店で売っている地場の野菜や手作りの食べ物がまた素朴でいい。僕は湯上がりに、コンニャクやら漬物などいつもいただくのである。

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この日午後4時頃に、石川啄木記念館の学芸員・山本玲子さんと会う約束をしていたので、温泉でさっぱりした後、車を渋民へ走らせた。北上川沿いに北上して行くと右手に円錐型をした姫神山が見えてくる。標高1124メートルのこの山はけして高くは無いが啄木にとってはまさしく故郷の山であった。岩手山と異なり、どこから見ても同じピラミッドの形をしている。すぐに姫神山とわかるのがおもしろいのである。山本さんとは3ヶ月ぶりの再会。2人で企画立案した石川啄木没後100年記念・写真スケッチ集「啄木への旅」が完成したことをまずは喜び合った。これからのピーアールや販売についても話合った。澤口さんやその友達の人たちも協力してくれると言うので、喜んでお願いすることとなった。彼女と話していると約束の1時間はあっと言う間に過ぎてしまい5時を回ってしまった。寒風のなか外に出ると夕空にくっきりと岩手山が裾野を広げていた。渋民から見る岩手山はまるで天女のようにやさしく感じる。山本さんと固い握手を交わして別れて、僕は渋民の村と北上川の流れと岩手山が一望できる高台を目指した。何とか間に合って撮ったのが上の写真。積雪が2メートルほどあり岸辺には近づくことが出来なかった。

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取材最終日の24日は、盛岡市内を巡った。まず啄木が堀合節子と結婚式をあげ、家族5人で暮らした「啄木新婚の家」へ行った。明治38(1905)年6月から両親と妹の光子と新妻・節子との暮らしぶりを綴った随筆「我が四畳半」には、狭いながらもこの部屋から啄木は節子とともに、文筆一本で生計を立てて行こうという明るい青年の決意が溢れている。啄木の盛岡における残されている遺跡は唯一この「新婚の家」だけとなってしまった。次に向かったのは旧盛岡高等農林学校。現在の岩手大学農学部だ。言うまでもなく賢治や保阪嘉内などが学んだ明治35年創立の日本初の高等農林学校である。現在残る本館は大正元年、旧正門と門番所は、明治36年に建てらており、共に国の重要文化財に指定されている。

本館は青森ヒバを用いた明治後期を代表する木造2階建ての欧風建築物。この2階のバルコニーには、先輩啄木を慕う賢治や嘉内も立ったことだろう。朝、ホテルで軽く五穀がゆを食べたきりだから、血糖値が下がったらしく手ガ振るえてカメラの操作が難しくなった。やばいと思いつつもこの取材だけは切りの良いとこまで終わらせたいと思いながらがんばった。何とか終えて車まで行くのが辛かった。歩くのもやっとだ。途中に自販機があったのでジュースをその場に座り込んで飲んだ。少し元気がでたので急いで学生食堂へと飛び込んだ。この日は大学入学試験の日だったので父兄と思われたのか、サービス品のしょうが焼き定食400円を食べさせてもらった。ああ~間一髪で助かった・・・・・・。

落ち着いてきたので、賢治が中学生時代や高等農林時代に、座禅や法話を聴きにいった報恩寺へ行った。この寺は応永元年(1394)の創建というから600年の歴史をもつ古刹である。特に享保16年(1731)から4年余の歳月をかけて造られたという五百羅漢が有名だ。現在でも約500体が現存し、なかにはマルコポーロやフビライの像もみられる。不思議な空間である。賢治はどんな思いでこれらの像を見つめたのだろうか・・・・・・。

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最後に向かったのは「もりおか啄木・賢治青春館」だ。この建物は明治43年竣工の旧第九十銀行(国の重要文化財指定)である。この2階展示ホールで「高橋忠弥装丁展」(3月25日まで)を開いていたからだ。高橋画伯とは、僕の俳句の先師が店の主であり、常連客として30数年間通っている新宿の「ばん焼きぼるが」で何度かお会いしていた。この店のマッチの装丁は高橋忠弥さんがずーとしている。僕が知る限りでは3パターンある。現在のも高橋さんの装丁でしゃれたマッチだ。パリの展覧会で賞を受賞したとも聞いている。このマッチは詩人の寺山修司も好きだったらしく、八王子の寺山の墓地の前に生前愛用した品や著書などを納めたガラスケースがあるがその中に3つほどぼるがのマッチが入っている。

焼き鳥屋の親父ではあったが俳人としても名高い先師・高島茂と高橋画伯は、深い交流があったらしく先師の第1俳句集『軍鶏』の口絵には銅版画の軍鶏の絵が飾っている。昭和38(1963)年発行のこの本は限定350部ということもあってか古本屋をいくら探してもなかなかでてこない。10数年前に一度3万円でカタログで発見して電話をしたが直ぐに売れてしまったそうである。高橋画伯の銅版の価値も高いのだろう。ちなみに展示会場で、マッチに使われている原画を2点発見してなにかとても懐かしい思いがした。高橋さんは母方の故郷が盛岡で10歳から26歳で上京して画家をめざすまで盛岡に暮らしている。知らなかったが高橋さんは賢治とも文学を通じて手紙のやり取りをしており、数々の賢治や啄木関連の本の装丁や絵も描いていた。僕は今回の賢治・啄木の旅の最後に、盛岡で高橋忠弥さんの作品に出会えたことは何か不思議な縁を感じた。とともに思いで深いものとなってうれしかった・・・・・・。  合掌




 

2月21日から24日までこの夏、新潮社から刊行予定の宮沢賢治の本の最終的な取材のために、岩手県花巻、盛岡、遠野周辺を巡ってきた。例年にない深雪のなかのイーハトーブではあったが、数点は撮れたと思う。今日、明日と2回に分けて、啄木の故郷・盛岡と賢治の故郷・花巻からのレポートを写真を中心に掲載する・・・・・・。

 

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新花巻駅でレンタカーを借りて先ず向かったのは、宮沢賢治記念館である。副館長の牛崎さんを訪ねるも、休暇中で、他の学芸員が現在の企画展示中の「賢治と遠野」について説明をしてくれた。胡四王山の山頂近くにある記念館からの花巻の街の眺めは格別で北上川の流れも一望できる。雪景色の花巻をまずは1カットカメラに納めた。遅い昼食に地元の手打ち蕎麦を食べてから遠野市にある通称めがね橋に向かった。JR釜石線に架かるこの橋は、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』をイメージさせると近年夜はライトアップし、恋人たちには「愛情スポット」して人気が高いという。猿ヶ石川の辺に下りれるように公園の整備工事が急ピッチで進められいた。「3月中には完成するので、また来てください」と現場監督は言った。僕は20年以上前に何度か訪れて撮影をしているが、周りにも大きなスパーなどが出来て以前のイメージとはまったく違っていた。ここめがね橋でしか販売していないという地ビールや焼酎を求めて今晩の宿である大沢温泉へ車を走らせた。

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北上高地麓の遠野市方面と比べると奥羽山脈山麓となる大沢温泉や鉛温泉は、はるかに雪が深くなるのが実感としてわかる。昨年の晩秋は、賢治とは遠戚にあたり、童話「なめとこ山の熊」にも登場する鉛温泉に泊まったが、大沢温泉が僕の常宿である。かれこれ30年程前から利用しているのだ。夕飯前に冷えた体をゆったりと温泉に浸かった。豊沢川の岸辺にある露天風呂は昔から混浴で、この日も恋人たちが入浴していた。但し、この湯では誰であろうとも水着はもちろん、バスタオルなどを体に巻いてはいることも厳禁である。この当たり前のことをきちんと貫いているところがいい。やたらと温泉ブームだとかで、若い女性が水着やタオルをぐるぐる巻きにして入浴してくるのは、山の湯の気分を害する。清潔さにも欠ける。つまり嫌いなのだ。堂々と入ればいいではないか。地元のおばちゃんみたいにね・・・・・・。

部屋に来てくれた女中さんがあけみちゃんという隣町の北上産で、モーグル選手の上村愛子似の可愛い子だったので乾杯をして記念写真をパチリ。まだ恋人がいないと言うので、昨年夏に通った北上市の若い兄弟がやっている肴の旨い店を紹介した。お酒も好きだと言う彼女にはお似合いの真面目な兄弟たちだと思った。場所を教えると大方はわかったようであった。僕の名前を言って訪ねるようにと付け加えた。夕食の後、外に出て夜の大沢温泉の撮影を試みた。月はまだ出ていなく深い谷間にあるので暗かったが、雪の明かりで何とか撮れたと思う。氷ついた橋の欄干を利用して両膝をついての撮影だった・・・・・・。

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翌、22日は大沢温泉、鉛温泉を撮影してから花巻市内へ。地元の宮沢賢治研究家の佐伯研二さんの家でお昼をごちそうになった。いつもそうなのだが、彼は手料理を人に食べさせるのが好きで毎回ごちそうになっている。この日は、三陸の刺身丼にホタテのスープがメイン、それに煮物と漬物が付いていた。ひとしきり近況を話した後、佐伯さんの案内で市内の賢治ゆかりの地を回った。イギリス海岸や賢治の水彩画「日輪」のモチーフとなったと言われている山など・・・・・。そして何よりもこの日僕が撮りたかったのは、北上高地の最高峰・早池峰山である。いろんな場所から撮影を試みたが直ぐに全容が手前の山などで隠れてしまいなかなかうまくいかなかった。早池峰山は昨年の夏に5回ほどと秋に2回撮影を試みたがそのどのときにも姿を見せてくれなかったのである。僕がブログ用に使っている「SIGMA-DP1」の装着レンズは28ミリだ。だから残念ながら白銀の早池峰は極めて小さい。上記写真のイギリス海岸のはるか向こうに白く光っているのが早池峰山である。

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夕方に花巻で協力してくれた佐伯さんと別れて、東北自動車道で一路、盛岡へ。この夜、宮沢賢治の本の文章を担当するエッセイストの澤口たまみさんと打ち合わせをすることになっていた。6時半に落ち合って、賢治大好き大将の店「モーリオの田舎料理・どん兵衛」へ行った。この店には昨年の8月以来、盛岡に行けば必ず寄る店だ。三陸の魚の鮮度もさることながら、茸や野菜、地の豚や鶏を使った料理も旨いのだ。何よりも賢治に通じているし、登山家としても岩手山に200回以上登っているから半端ではない。「賢治さんに唯一勝てるのは岩手山に登っている回数ぐらいかな~」が彼の口癖だ。若々しい奥さんも一緒に登っている山仲間である。つまり”賢治ワールド”のある居酒屋。賢治の取材で寄らないわけにはいかないだろう。

澤口さんとの話は多岐にわたったが、そのどれもが愉快で楽しかった。彼女は原稿の最後の追い込みで多忙な時であったが、わざわざ遠くから出てきてもらったので僕としては恐縮の至りだった。話の中で賢治が行っている伊豆の大島へ取材に行こうということになった。4月中旬に実行のための計画をたてることとなった。僕も何十年ぶりかの大島、楽しみではある・・・・・・。

どん兵衛の大将に僕が「何で200回も岩手山に登ったのかね」と問うと彼は「山で酒を飲むためです。飲み終ったらすぐに降りてきちまいますよ」と言った。僕は「無無・・・・」と唸るばかりだった。深い哲学的な返答に正直驚いた。「酒を飲むために山へ登る・・・・・」想像を超えた言葉であり、簡単に言える言葉でもない。酒飲むなら何も2000メートルを超す山へ苦労して登り飲むことは無いだろう。歩くことなく街で飲めばいいのだから・・・・。僕は「今夜はとても為になる話を聞いてうれしいよ」と言っては、また盃を空けたのだった・・・・・・。


 

 

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写真月間誌「フォトコン」の連載企画で、2009年1月から現在まで続く”小松健一の写真道場”の門下生、青木竹次郎さんと出川雅庸さんの2人がそれぞれにこの2年間追い続けてきたテーマを写真展にまとめたもの。青木さんは「人間都市ーHuman space in megalopolis」。現在の巨大化する都市空間に生きる人間模様を追った。出川さんは「水島ーMIZUSHIMA」。自らが暮らすコンビナートの街・岡山県水島、変わりゆく環境のなかでも、したたかに生きる人々をドキュメントしたものだ。僕の2年3ヶ月にわたる誌上での厳しい指導にもめげずに、2人は自分のテーマと真摯に向き合い、作品を深めてきた集大成である。ぜひ、会場に足を運んで批評をして欲しいと思っている。よろしくお願いします。また時間があれば、オープニングパーティや写真家たちのトークショーにもお出かけください。お待ちしています。

☆2月28日(月)~3月5日(土) 10:00~19:00

☆ギャラリー・アートグラフ 中央区銀座2-9-14 TEL03-3561-6109

☆オープニングパーティ 2月28日(月) 18:00~19:00

☆トークショー 3月5日(土) 14:00~15:00 出演:小松健一・青木竹次郎・出川雅庸

 

 

 

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日本を代表する詩人・石川啄木が生まれたのは、明治19(1886)年2月20日。明後日がちょうど生誕125年となる。(実は生誕100年の時に、まだフリーになって4~5年しかたってない僕が、写真スケッチ集「啄木への旅ー青春・愛・故郷を求めて」を刊行している) 啄木の第1歌集『一握の砂』が刊行されたのが明治43(1910)年12月だから昨年の暮が100年目だった。そして啄木が短すぎる生涯を終えたのが明治45(1912)年4月13日。また、この年の6月に第2歌集『悲しき玩具』が刊行されている。今年が99年目で、100周忌となるのだ。

そういうことなども含めて、啄木の人間性、啄木の歌の魅力などあらためて知ってもらいたいという熱い思いからこの企画は生まれている。短歌は石川啄木、文章と歌の選は石川啄木記念館学芸員の山本玲子さんが担当し、写真は僕が。40年間にわたる啄木を取材した作品のなかから16点を厳選して使った。

ケースの表紙裏には、山本さんと僕の啄木への思いを短いエッセイにして掲載した。なかの絵葉書は10点で、啄木が暮らした渋民、盛岡、函館、札幌、小樽、釧路、そして終焉の地となった東京のすべてが入っている。定価は税込みで600円。発行は、「ぶどうぱん社」である。

今回の作品は、啄木と山本さんと僕の3人のコラボレーション。ぜひ一人でも多くの人に手にとっていただき、親しい人への便りやプレゼントに使っていただければうれしい限りだ。

 

☆販売・注文先 石川啄木記念館 〒028-4132 盛岡市玉山区渋民字渋民9番地

TEL019-683-2315  FAX019-683-3119 (担当・山本)

 

 

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2月15日、写真集団・上福岡は今年はじめての月例会を開いた。本年は集団創立30周年となる記念すべき年である。この日は昨年暮れに入会した4人の新メンバーの歓迎会を作品合評会に先立っておこなった。田中会長の歓迎のあいさつの後に、事務局担当の山本さんの手作りのお祝いの御赤飯ともずくスープに、、広報担当の島貫さんが一日遅れではあるが、おいしい生チョコレートを参加者に振舞ってくれた。今年は創立30周年記念写真展の他に、2代目会長だった86歳になる柴田さんが、「写真集団・上福岡の30年あゆみ」という記念誌も制作していて、この秋に発行予定である。

また、会員のなかには、今年個展や作品集をまとめて刊行する人もあり、30年という一つの節目を迎えて一層この会は飛躍をはかることを創立当初から顧問の僕としては期待するものである。後20年続ければ半世紀となる。そんな息の長い地域に根をはった写真集団になることが僕の夢だ。長生きしてがんばらねばな~と思った。

 

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北海道の友人Nさんから久しぶりに連絡があった。今度、用事があって東京へ行くが、その頃もし東京にいれば都内を案内してもらえないかということだった。用事の書道の研修日という前後は、ちょうどスケジュールが調整できたので案内を引き受けた。そのNさんとの出合いのは、いまから34~5年前の雪深い札幌の街だった。彼女は20歳頃で僕もまだ24~5歳の若造だった。電話ボックスが雪の中に埋もれていて、まるで氷のかまくらの中に入っているような感覚だった印象が残っている。その後も彼女が結婚して新婚旅行に行く前に東京でご主人と一緒に会ったり、子どもができた時に写真を撮ったりした。北海道へ取材に行ったときなども何度か家に泊めてもらったりもして、家族ぐるみの付き合いでいろいろとお世話になっていた・・・・・・。

 

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そんな事もあって、今回30数年間の付き合いで、はじめて恩返しらしいことをやったのである。まずは北海道大学の学生だった人でお世話になった人に会いたいので連れて行って欲しいと言う、やはり30年ぶりの再会だという。住所を頼りに訪ねたその人は八丁堀に程近い鉄砲洲に暮らしていた。「よしだ屋」という小さな駄菓子屋さんのおじさんとして、地元のこどもたちからは絶大な人気を誇っているようであった。話を聞くと広告代理店を40代で辞めてから寝たきりのご両親の面倒をみながらこの店を引き継いだそうだ。「よしだ屋」は、彼で4代目となる明治の中頃からこの地で乾物屋をしている老舗であった。

彼女とはやはり北海道で青春時代に知り合ったそうで、本当に懐かしそうに語り合っていた。そこうしている間も次々と近所の子どもたちが10円や100円玉を握り締めてやってきては、紙の箱を持ってどれを買おうか考えていた。彼女も2人いるお孫さんへのおみやげにとたくさんのおもちゃを買い込んでいた。僕も10円の「いちご大福マシュマロ」をひとつ買ってもらった。自分の子ども時代のことなどを思い出しながら、東京のど真ん中にこういう駄菓子屋さんが存在していることがうれしいと共に町や子どもたちとっても、とても大事なことなんだと思った。僕は彼女の友人のYさんにぜひ「鉄砲洲・よしだ屋ものがたり」を書いてくださいなとお願いをしたのだった・・・・・・・。

 

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彼女の宿泊するホテルが浅草だというのと彼女自身浅草には、まだ行ったことが無いと言うので、この日は御のぼりさん丸出しで、浅草見物と決め込んだ。そういう僕だって年がら年中浅草に行っているわけではない。天気もいい日曜日だったので、アジアからの観光客をはじめ、たくさんの見物客でごったがえしていた。彼女はおみやげにとやげん掘の七味とうがらしや藤の屋の手ぬぐいなど求めていた。隅田川の船くだりで東京湾見物とも思ったが風が冷たいのでやめ、久しぶりに僕の好きな「神谷バー」へと早めの夕食を兼ねて彼女を誘った。相変わらず店内は混んでいが、どうにか相席で隅の方に座ることができた。

「神谷バー」は、1880(明治13)年に創業した東京でも老舗中の老舗のバー。現在も使っている建物が落成したのは1921(大正10)年だから関東大震災にも太平洋戦争の戦災にもあいながらも現在も浅草に建っていることがすでに歴史の一コマである。大正時代は浅草六区で活動写真を見て、1杯10銭のデンキブランを飲むのが庶民にとってはなよりの贅沢でもあり、楽しみでもあったという。この下町の人情味あふれる酒場を好んだ文人たちも多い。石川啄木、萩原朔太郎、高見順、谷崎潤一郎、坂口安吾、壇一雄などなど・・・・。川端康成の小説や三浦哲郎の芥川賞受賞作『忍ぶ川』にも神谷バーとデンキブランが登場する。

一人にて酒をのみ居れる憐れなる  となりの男になにを思ふらん   (神谷バァにて)

この歌は萩原朔太郎が大正時代初期のまだ20代の頃の詠んだ歌である。

 

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さて、その相席になった面々が写真の人々だ。最初の方は、銀座で長年お店をやっていたが数年前に閉めてハワイ暮らしをしていたという。最近初めて神谷バーへ入ってやはり相席になられた方と意気投合して今日待ち合わせたのだという。その人は70代後半ぐらいの紳士だったという。彼女は、外人に間違われたので今日は着物を着て、手作りのちらし寿司まで用意してきていた。しかし約束の時間を1時間以上過ぎても会うことはできなかった。僕らも何度も入り口をのぞき、店内を探す彼女を見ていて気がきではなかった。僕の机の前のデンキブランのグラスもつぎつぎと空いていく。一杯260円だがすでに4杯目を空けていた。2時間を過ぎて諦めたのか、「今日は飲みましょう」と彼女は、ぐいぐいとグラスを空けはじめた。その人へのおみやげだったお寿司も僕らがごちそうになった。

彼女が生まれのが北海道の女満別だとわかり、Nさんが紋別生まれだからお互いに近いということでさらに盛り上がった。ついでに彼女が育った地が新潟で、僕の祖父が新潟出身だなどと、もうどうでもいいことまでふくめて今日はきっとお互いに縁があったのだといいながらデンキブランを次々と飲み干した。Nさんは半ば呆れながらもやさしく僕らに付き合ってくれた。彼女の築地の家で毎月1回催しているというホームパーティにも誘われてしまった。彼女と楽しい時を過した後に相席になったのは、これまた変な男組み。学習塾の塾長とその教え子で現在は教師をしているという青年であった・・・・。


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たまたま机の上に置いていた拙書『太宰治と旅する津軽』を突然、手に取りその塾長は文学論をし始めたのだ。太宰論をひとくされした後、今度は「啄木への旅」をみて猛然と啄木の歌について薀蓄を述べ始めた。確かに半端な知識ではない。啄木の『一握の砂』のなかのあまり知られていないような歌をすらすらと諳んじれる。例えば「やや長きキスを交わして別れ来し/深夜の街の/遠き火事かな」とか「葡萄色の/古き手帳にのこりたる/かの会合の時と処かな」などの歌である。これらをすらすらと言える人にはそうは会ったことはない。国語が専任というその塾長さんは、僕よりもどうも隣に座っている北海道のN女史に、これらの歌の薀蓄を聞かせたかったようである。

さらに与謝野晶子と鉄幹と山川登美子の三角関係とその情念の歌の薀蓄に至るや、いくら文学好きな僕でも黙ってデンキブランを飲んでろ!と言いたくなった。お付きの青年教師も毎度聞かされているらしく、づーと苦笑いをしていた。山川登美子の鉄幹にたいする想いを詠んだ歌がなかなか思いだせないとなるとトイレに入り出てこない。しばらくして思い出したらしく出てくると「それとなく紅き花みな友にゆづりそむきて泣きて忘れ草つむ・・・・・・」この歌にこめられた女ごころは切ないね~などと言って、ひとり悦にいっては盃を干していた。そして「あなたは美しい。われわれのアイドルである・・・・」などとNさんに向かって言うのだ。飽きることのない相席の御仁ではあったが、僕としては30数年ぶりに初めて2人でゆっくりと話せる思ったのにちっとも話すことができず、誠に残念な夜ではあった・・・・・・。

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Nさんが北海道へ帰る日、少し時間があるというので上野公園とその周辺を案内した。国立近代博物館や西洋美術館などとも思ったが時間がないため、まず行ったのがアメヤ横丁。ここでもNさんは、高校生の息子さんたちへのおみやげや書道教室の子どもたちへのおみやげをたくさん買った。上野末広町で江戸前鮨をごちそうになってから忍ばずの池を巡り、弁天様や上野観音様や東照宮などを参拝した。考えてみると何か”年寄りのじいさんコース”見たいな気がしたが、しかたない。これが現実だ。忍ばずの池に自由に浮かぶ鴨たちが実にうらやましく覚えたのだった・・・・。僕は結局のところ彼女の近況を別れ間際に聞くことになった。4人のお子さんに恵まれて、上の2人は結婚してそれぞれ子どもが誕生し、いま家には高校生の息子さんが2人。ご両親は母親は73歳で病気で亡くなり、100歳まで生きた父親は昨年亡くなったそうだ。末っ子の彼女が両親を夫の協力もあって最後まで看取ったのだという。僕はただ 、「えらいね。娘として、妻として、母親として、がんばったんだね。そして今度はおばあちゃんか・・・・・・。」と言った。
ただし、自分の人生はこれからは大切にして、北の石狩の大地で生きていって欲しいと言う願いをこめて・・・・・・・。  北の友・Nよ。」楽しかったさ~。ありがとうね☆☆☆

 

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朝方の5時過ぎに寒さで目覚めたら、この冬初めての雪が降っていた・・・・・。日本海側や東北地方は記録的な大雪が続いているニュースが連日テレビで放映されているが、太平洋側では異常な乾燥した日々が続いていた。昨年は雪の積もる日がいく日もあったので、僕の家の周辺の雪景色の写真をブログで何枚か紹介した。その写真には、辺りにはまだ武蔵野の面影が所々に残っていたのだが、この1年間で次々と畑や空き地は、住宅開発がおこなわれた。僕の家の前が7棟、横が6棟、少し離れた家に来る道路の入り口に6棟の工事が一斉に始まっている。

30年間近く馴れ親しんできた光景が激変したのだ。僕らは地域住民ととに「宮戸3丁目の暮らしを考える会」を立ち上げて、市議会や市の建築課、マスコミそして建築業者などと話し合いを続けてきた。一部業者の開発が、市の開発条例違反の疑いがあるということで、1年間建設等が凍結となったものの全体の開発そのものはなんら関係なく進んでいるのだ。僕の家のベランダには今も「この土地は終の住みか、一生もぐらのような暮らしはごめん!!」などの看板が付いたままだ。隣近所の家々にもそれぞれの思いや願いを書いた看板を掲げたままだ。長い間、この地で暮らしてきた住民の最低限の声を聞いて欲しいと思わずにはいられない・・・・・・。

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2月9日、午後6時半から東京丸の内の東京會舘・ローズルームで「奥田明久さんを偲ぶ会」がしめやかにおこなわれた。田沼武能さんや池澤夏樹さん、三村淳さんらが発起人となって開かれたこの会には、写真、出版界をはじめ各界の人々4~500人ぐらいが参列していたろうか。僕も彼が「アサヒカメラ」編集長になる前からの知り合いだったので出かけた。奥田君は誰もが知る酒好きで、僕よりもはるかに深酒の日々を送っていただろう。だから彼とは自然と飲む機会も多かったし、パティーなどにも欠かさず出席する律儀な面もあったから余計に酒量は増していったのだろう。数年前からは、奥田君と会う度に体のことを心配するようになっていた。この僕でさえ・・・・・。

花々と遺影が飾られた祭壇前には、奥田君が好きだった様々な酒が置かれていた。また会場でも彼が好んでのんでいたという酒が来場者に振るまわれていて、いかにも彼が愛した宴のような趣向であった。僕は好きな日本酒はもうかれこれ10年以上は断っているのだが、この日は奥田君がめっぽう愛して、近所のひとたちと「高鍋を飲む会」と言う会を催していたという日本酒「高鍋」を一口飲んでみた。切れ味がいいフルーティーさの残る酒で、何か奥田君のイメージにはちょと合わないような上品な酒だった。でも彼には、真面目さをはにかむ様なシャイところが確かにあったと思う。一見つっぱりボーイであるが憎めない人間的な愛嬌をたたえていた。そして”洒落男”でもあった・・・・・。

1年数ヶ月ぶりに写真家の水越武さんと会場で会ったので、いろいろと話した。水越さんは奥田君が亡くなる数時間前まで2人でこれからの企画や写真ことなどについて話し、飲んでいたそうである。タクシーで宿まで送ってくれて別れた。その後に亡くなったから、ショックだったらしい。水越さんは、以来この日までほとんど人とは会わなかったという。別れた翌日から一週間ほど山に取材に入り、彼が亡くなったことを直ぐに知ることができなかったことが、責任感の強い水越さんには、感じることが一層深まったのだろう。田沼武能さんも水越さんと彼が2人になる直前まで、奥田君もふくめてみんなと講演会の打ち上げで一緒にいたそうだ。編集者としての奥田君との想い出をしんみりと語っていた。僕の写真家協会の推薦人の一人である山口勝広さんも一緒に入ってもらって写真を撮らしてもらった。山口さんは現在、日本写真家協会常務理事で日本旅行写真家協会会長を務めているが、若い頃からの長い付き合いのある先輩である。この日は久しぶりに会った写真家も多く懐かしかった。水中写真家の中村征夫さんや動物写真家の宮崎学さんらとは近況を話した。

奥田君、それにしても君の奥さんの別れの言葉は笑いあり、涙ありで会場を沸かせていたぜよ。 やすらかに・・・・・。 そしてあの世ですきな酒を思いのままに飲んでいればいいさ~。 そのうちに呑みにいくよ~。  合掌

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2月5日、6日の2日間にわたり毎年おこなわれている写真研究会「風」の2010年度合宿が群馬県伊香保温泉で開催された。今年も例年並みの18名の参加者だが、若手の写真家の参加が多かったのが特徴だろう。

遠くは長崎、岡山から2名、大阪、名古屋と地方から同人・会員以外の参加もあった。地元群馬の写真家も参加してくれた。また中国・四川省出身の写真家・烏里烏沙君が奥さんとお子さんの家族連れで参加してくれた。昨年の熱海の合宿にも参加したが、JPS会員の彼が参加してくれたのはうれしかった。他にもJPU会員が2名参加してくれたことはこの合宿の質的なアップににも貢献してくれたにちがいない。

5日午後2時過ぎからさっそく第一回目の作品合評が始まった。だれもが1年間撮り貯めた作品を持ってくるので、多い人は数百枚、何テーマも持ってくるので、講評する主宰の僕はけっこうハードだ。5時半までで一旦休息となり、夕食と懇親会。9時から11時までが第二回目の作品合評、その後交流会が深夜の2時半まで続いた。翌、6日は9時から第三回目の作品合評と全体講評が12時までという超過密スケジュールになっている。これは紛れも無く正真正銘の写真研究会の合宿である。

せっかく作家・林芙美子の名作『浮雲』のなかに実名で登場する伊香保温泉の老舗旅館「金太夫」の黄金の湯、白銀の湯にのんびりと浸かることすら出来ないような真面目一本やりの写真漬けの日程なのだ・・・・。

 

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作品合評の具体的な内容については、近く発行される「風メールマガジンNO・10」をご期待下さい。

最後のまとめのなかで鈴木紀夫事務局長から、「風」結成3周年記念・写真展開催の提案があり、協議の結果全員一致で承認された。期日は2011年10月18日(火)~10月30日(日)まで。場所は東京都目黒区にある「ギャラリーコスモス」と決まった。詳しいことについてはこれから詰めていくことになるだろう。

「風」の本来の主旨は、個展開催であり、作品集の発行と個々の写真家としての技量やテーマや作品を深めていくことに重きを置いているが、3年に一度ぐらいは写真界や社会にアピールして、「風」の存在を知らしめるのも意義があるのではないか、と言うことになったのである。真剣に写真を探求したいと思う若手に門戸を広く開いておくことも大切なことではある。

 

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6日昼に2日間にわたっておこなわれてきた「風」の合宿は来年の再会を誓って解散した。車で名古屋から来た平元君や岡山から参加した高田夫妻、青梅から来た並木さん、用事のある加藤さんらは高速バスや電車などでそれぞれ帰路に着いた。希望者で雨のそぼふる石段の町・伊香保温泉を撮影した。そして渋川市へバスで出て、恒例の”ご苦労さん交流会”に参加した。渋川在住の写真愛好家のKさんが娘さんと、弟の勝三夫妻も駆けつけてくれた。友人がしている店を2時から開けてくれて、上州名物料理でもてなしてくれた。特に女将さんの手打ちそばと弟さんが射止めた猪の牡丹鍋は評判がよかった。きのこや野菜がたっぷり入ってほんとうに美味だった。酒飲みたちに受けたのは地酒「船尾瀧」。2升も空けたのには僕も驚いた。当然、その呑み助たちの帰りは大変だったのは言うまでもない。面倒を見たみなさん、本当にご苦労さまでした。そして準備をしてくれた女将さんとマスター、参加してくれたすべてのみなさん。 ありがとう・・・・・・。

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2月4日の朝は母を守ってくれている犬、3代目五右衛門の散歩を昨日に続きおこなった。とてもうれしそうな気持ちが五右衛門の体中から伝わってくる。午前中に列車でもよりの駅から新前橋に向かった。上毛新聞の社長と会って矢島保治郎顕彰記念事業について説明をするためである。社長が急用が出来たため会えず、役員室長兼経営企画委員会事務局長の都丸晃さんと論説委員の小林忍さんと会った。約2時間近く話をした。矢島の生まれ育った村の近くに生まれ育った都丸さんは矢島についても強い興味を」持っていた。彼はこの企画については出来る限りの協力をしたいと約束をしてくれた。

論説委員の小林さんと群馬県立文書館へ行った。ここで矢島保治郎の娘さんの仲子さんと待ち合わせをしていた。文書館には事前に小林さんの方から館長に明治42年1月から5月までの上毛新聞を閲覧させて欲しいと依頼をしてもらっていたのでスムーズに調査は進んだ。上毛新聞の創刊は明治20(1887)年だ。詩人の萩原朔太郎が上州・前橋で生を受けてから1年後に創刊したことになる。今年で創刊124年になる、地方紙としては歴史のある新聞といってもいいであろう。しかしこの明治期の上毛新聞が実はあまり存在していないのには驚いた。

まず上毛新聞社には、昭和40年代以降の新聞しか保管されていないことがわかった。次に前橋市立図書館には大正2年以降の上毛新聞がマイクロフィルムで保存されていた。県立図書館には明治43年以降の紙面がやはりマイクロフィルムで保管されていた。しかし僕が見たい肝心の明治42年の新聞がない。明治42年は矢島保治郎が単身で”世界一周の無銭旅行”へと旅たった年である。この年の2月3日、横浜港から讃岐丸に乗船して一路、中国の上海へ向かって出港したのであった。矢島の郷土の新聞がこの地元の青年のロマンある行動をどう報道していたか興味があったのである。

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その明治42年の上毛新聞が県立文書館に存在していることが判明したのでさっそく閲覧の許可申請を出したのであった。来館して実物をみて驚いたことは何と個人の所蔵であった。月夜野町後閑の「櫛渕達男家文書」となっていた。個人で明治期からの上毛新聞をほぼ全てにわたって保存していたということに驚嘆した。文書館ではそれをすべて複写して持っていたのだ。「すごい人がいるな~」と言うのが正直な感想であった。感謝したい気持ちでいっぱいであった。目的の矢島に関する記事は2月5日付けの出発の報道と矢島自身のレポート第一弾、横浜港から上海までの体験記が3月11日付けの3面トップに掲載されていた。

しかし、矢島の5月2日付けの日記に、「漢口から北京までの第一報をおくった記事が載った上毛新聞が届いた・・・・」と書いてある紙面が発見できなかった。仲子さんと3回にわたり明治42年1月~5月までを丹念に見たがどうしてもない。当時北京に滞在していた矢島の元に届いたのが5月2日だとすると上毛新聞の紙面に載ったのは、3月下旬から4月中旬頃が一番その可能性が高いのだが・・・・・。その時期、3月22日、4月5日、4月20日の新聞が欠損していることが判明したので、職員に頼んで個人で上毛新聞を保存していた他の人の分も調べてもらったが、残念ながら該当する新聞は見つからなかった。とりあえず2月5日付けと3月11日付けの紙面全てを複写してもらった。当時の広告や紙面の記事を読んでいるだけでも楽しい。詳しくは3月に掲載する上毛新聞の紙面に書きたいと思っている・・・・・。夕方からギヤラリー・ノイエス朝日に行き、友人の岡田さんに会ってこの間の矢島保治郎のことについて報告した。彼はこの企画のよき理解者で、前県立図書館長、県立土屋文明記念文学館館長も務めていた人なので、さまざまなアドバイスを受けているのである・・・・・・。

 

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夜は渋川に戻り、この街に住んでいる弟の勝三夫妻とその友人夫婦と夜遅くまで飲んだ。この2組の夫婦は本当に歌が好きでいつもカラオケで歌いまくる。僕もこんな時にはとことん付き合うことにしているのだ。それにしてもみな僕より若いのでタフだ。やはり午前2時をまわると僕などは睡魔が襲ってきてどうしょうもなく眠くなるのだ。こういうときに寂しいかな、自分にしのびよる歳をひしひしと感じるのだ・・・・・・。

 

2月に入って初めてのブログ更新である。2月1日は、久しぶりに朝日新聞の友人たちと津田塾大の教授をしている友人とで遅い新年会をした。20数年前からの付き合いだからみな50歳代になった。論説委員や編集委員という肩書きが名刺につくようになったのをみると時代の流れを感じる。社会や政治について熱く論じていた若き時代が懐かしかった。それでも3年ぶりの再会は、楽しかった。それぞれ異なる道を歩んではいるが、こうして友と会って酒を飲み交わしながら語るのは良いものである。これからは年に2~3度は集まろうと約束して別れた・・・・・・・。

 

翌2日から6日まで、上州へ行っていた。今日から3回に分けてレポートする。まず2日は「平成22年度ぐんま山村フォトコンテスト」の表彰式と入賞・入選作品の写真展の作品講評をするために、群馬県庁1階の県民ホールへ行った。県庁の32階にあるバングラデシュの料理人が作る石焼カレーの店で、食事をしながら白銀の浅間山、谷川岳をはじめとした上越国境の雪山を堪能した。僕はこの風景を見る度に、ヒマラヤの町を思い出すのである。表彰式には県内外から受賞者約30人が参列し、その後の合評会にも多数の人が参加してくれた。終了後、「写真集団・上福岡」のメンバーたちと伊香保温泉へ行った。毎年、この写真展に合わせて写真の勉強会と撮影会をしているのだ。弟の修二が板長をしている老舗旅館でのんびりと名湯に浸かり、新鮮な魚料理などを満喫した夜であった。

 

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翌、3日は冬晴れで宿の部屋からパノラマに朝焼けの白銀の山々が見渡せた。黄金の湯の露天風呂に浸かりながらのこの眺めは最高である。この日は近くの榛名湖と最近開運の運気スポットとして人気が高まっている榛名神社へ撮影に行った。昨年12月に母と85歳になる伯母を伴って参拝したばかりであったが。はじめての人もいたし、瀧をモチーフとして撮影している人もいたのでここにしたのだ。案の定この冬の寒さで、榛名湖は数年ぶりに湖面が全面凍結し、わかさぎ釣りが解禁となっていた。平日なのに2~300人の太公望が氷上で釣り糸を垂れていた。榛名神社へ上がる参道脇を流れる榛名川も凍結し、瀧も全面的に氷結していてフォトジェニックであった。みな無言で時のたつのも忘れて、思い思いにシャッターを切りまくっていた。
この日は実家へ泊まった。実に40数年ぶりに母と豆まきをした。お不動さんから頂いてきた枡に入った大豆を母と2人で「鬼は外、福は内」と言いながらぶつけあった。子どもが小さかった頃までは僕の家でも必ず節分をしたものだが、ここ数十年はご無沙汰していたのでずいぶんと懐かしかった・・・・・・。酒のつまみにしながら炒った豆を歳の数だけきっちりと僕は食べたが、さすがに母は歳の数は食べれなかった・・・・・・。

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