写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2011年1月アーカイブ

 

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2月29日、冬晴れの土曜日の午後、都下の日野市に向かった。劇団「ひの」の第82回目となる公演「新羅生門」を観劇するためである。この劇団は、「日野にルネッサンスを!」をスローガンに1973年に日野市に誕生したアマチュア劇団である。第1回講演は木下順二作の「獅子」、第2回はチェホフ作の「悪党」と創立から高い志を掲げて本格的な芝居に取り組んできている。こうして地域のなかに40年近くもしっかりと演劇という文化を根付かせ発展させてきたのは、驚くべきことである。劇団員の努力はもとより、それをサポートしてきた市民のみなさん、おそらくは行政も支援してきたのだろう。そうした人々の熱情によって、この地域アマチュア劇団は発展してきたのだ。2年半まえには自前の稽古場まで多くの人たちの募金で完成させた。それはまた、劇団代表で演出家の佐藤利勝さんの魅力と人柄による所も大であると僕は思う。

その新稽古場で今回の講演はおこなわれた。今後の講演は、2月5日(土)午後と夜、6日(日)午後の3回がこれからおこなわれる。入場券は一般1500円(当日1800円)、学生1000円(当日1300円)、申し込み(042-584-3436)。高校生から70代の人までが出演している芝居だが、見出しにも書いたが一見の価値がある。台本の奇抜さ、斬新さには驚かされた。また役者さんたちの演技も素朴でいい。リアリティがあるのだ。それを生み出したのは演出の力があってだろうが・・・・。

実は僕とこの劇団の付き合いは、11年程前にさかのぼる。2000年の第64回講演、アリエリ・ドーフマン作「谷間の女たち」のときに、僕の撮影した南米チリの写真を舞台の背景に10数点使ったことからである。この芝居はチリの軍事独裁政権下のなかでもひたむきに生きる女たちを描いた作品だった。僕が当時ピノチェト軍事政権下で取材してきたチリの女性たちの姿を芝居のなかに演出としてとり入れたのだった。以来、欠かさず案内をいただくので、その折々に観に来ていたが、今回は久しぶりであった。友人の芝居好きの沖縄出身の保育園の先生をしているYさんを誘ってきた。彼女も「自分自身の生き方に突きつけられたようなメッセージ性を感じた。ぜひより多くの人々に観てほしい芝居だ」と興奮気味に感想を語っていた。

劇団「ひの」のさらなる発展を願わずにはいられない・・・・・・。 がんばれ☆☆☆!!

 

昨日というよりも今朝方というか、サッカーのアジアカップ決勝のオーストラリア戦を一人興奮してテレビ観戦をしていた。先日の準決勝の韓国戦もそうであったが、やはり寝不足ぎみである。その寝不足頭でこのブログを書いているのだ・・・・・・。28日朝9時から江戸川橋にある印刷工場で、写真スケッチ集「啄木への旅」の印刷立会いのために家を7時半過ぎは出た。前の晩早く寝すぎたために、夜中の3時30分に目覚めて寝付けなくなってしまった。しかし遅れると現場の職人さんたちに迷惑がかかるので、とにかくそのまま寝ずに出かけたのだ。
立会いは順調に進み、ケースの印刷もふくめて午後1時半頃には終了した。デザインを担当してくれた塩崎君も駆けつけてくれた。彼は正午から撮影の仕事が入っているために昼前まで付き合ってくれた。印刷の上がりは思っていたよりも良い出来で満足だった。ミラーコートプラチナと言う紙に印刷したケースに傷が付きづらくさせるために、ニスを表面に塗ることにした。納品は2月10日の予定だ。盛岡の石川啄木記念館の山本玲子学芸員へ印刷がうまくいった旨、電話をした。喜びを伝えたかったのである・・・・・・。

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中途半端な時間に解放されたので、どうしようかと思ったかが写真展を見ることにした。最初に行ったのは、藤井英男写真展「風にふかれて モロッコ王国編ー郷愁の大地」。秋葉原のコダックフォトサロンで2月4日まで開催している。6X6版カメラでモノクロフイルム撮影した作品でプリントの仕上げも美しかった。藤井さんが会場にいたのでしばらくオリジナルプリントのことなどについて話した。次に秋葉原から神田小川町にあるオリンパスギャラリーまで歩いて行く事にした。はじめての道なので通り過ぎて、また戻ったりしたので、かれこれ1時間は歩いた。久しぶりに良い散歩をした気分だった。オリンパスギャラリーでは、後藤佳子写真展「サハリンの四季」というやはりモノクロフイルムで撮影した写真展をやっていた。まったく知らない作家であったが北井一夫さんに学んでいる人だった。僕も1997年の夏に稚内から船でサハリンのコルサコフへ上陸したことがある。ちょうどソビエト連邦崩壊直後で大変な時期であった。宮沢賢治の足跡を訪ねる旅であつた。今年5月にもまた取材に行く計画があるので、最近の状況を聞くことができればと思ったのである。彼女はこの4年間サハリンにかよい作品をまとめたというから交通手段の事もふくめていろいろ聞くことが出来た。

最後に向かったのは広尾にあるエモンフォトギャラリーの公文健太郎写真展「BANEPA」だ。2月5日までの開催。実は僕はこのギャラリーも作者の公文健太郎君も知らなかった。公文君の名前と作品の数点はどこかで見た記憶がある程度であった。先日、以前研究会に来ていたニューヨーク帰りの写真家・早川愛子がメールで「同じネパールを撮っているので覗いてみたら・・・・」と知らせてきたのだ。正直あんまり興味は湧かなかったが来て見たらなかなか良かったのである。モノクロ作品でプリントの仕上げも丁寧だった。僕も何度も行ったことがあるバネパという交通と物流の要所の町で、いつも騒がしく埃っぽいイメージだった。僕はカメラを向けたことがなかったし、いつも通り抜ける町でしかなかった。それを彼は、知り合った一人の少女を中心に追いかけることによって町の展開を変えた。その少女が成長し大人になって、バネパの洋服屋さんへ嫁いで行き、そこにしっかりと根をはって生き抜いていく姿を通して町を見つめているのである。僕の知らなかったバネパの町を切り取って見せてくれた。公文君はバネパに部屋を借りて長期滞在することによってこれらの作品をしあげたという。まだ29歳という若さがまぶしくも見えた。

友人の写真家・本橋成一の作品世界に似ているところがあるな~と思っていたら本橋さんのところで助手を4年間して、プリントなど徹底して学んできたという。彼がはじめてネパールの地を踏んだのは10年前の高校生の時だった。写真もなにもよくわからなかった時に、僕の写真集『雲上の神々 ムスタン・ドルパ』と出会いすごく学んだと笑顔で僕に言った。僕はちょと驚くとともにうれしかった・・・・・・。帰り間際に「荷物になりますが・・・・」と言って彼の近著『BANEPA ネパール邂逅の街』(青弓社)と『ゴマの洋品店 ネパール・バネパの街から』(偕成社)の2冊を袋に入れて差し出した。僕はありがとうと言って受け取った。そして「今度『ヒマラヤ古寺巡礼』送るよ」と言ってギャラリーの玄関まで見送ってくれた公文君と固い握手をして別れたのだった。久しぶりの正統派の若手写真家の出現がとてもうれしく思えた・・・・・・。

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朝早かった上に印刷立会い、そして珍しく都内を歩きまわったこともあって疲れ果てた。恵比寿駅前の以前には良く通っていた「日本一の焼き鳥」が看板の店に寄ってみた。ここにはネパール人がたくさん働いていて、帰国したいまでも僕がネパールへ行くと必ず会う友達も多い。軽く一杯やって地元に戻り、駅前の常連の居酒屋「三福」へ寄って夕飯を食べた。あんまり僕が疲れた顔をしていたらしく、看板娘の直ちゃんが心配してくれた。大将も女将も僕の傍らに来てくれて「先生早く帰ってゆっくりとこれでも飲んで休んでくださいな・・・」と三福オリジナル芋焼酎を持たせてくれた。人のやさしさはありがたいものですね・・・・・・。 合掌

 

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☆写真は妙義山遠景と近景。上州には古くから「上毛三山」と呼ばれる名峰がある。赤城山、榛名山それにこの妙義山(1102m)である。標高差は三山では一番低いがその奇岩、怪岩の連なりは、何と言っても個性的だ。中国・安徽省の黄山を思い浮かべる奇峰である。

 

2月2日(水)から6日(日)の9時から22時まで前橋市の群馬県庁1階にある県民ホールで、平成22年度「ぐんま山村」フォトコンテスト入賞・入選作品展が開催される。初日の2日13時30分からは表彰式がおこなわれる。審査委員長の僕も出席し、講評をしてその後、作品合評もおこなうことになっている。今年の応募作品は、昨年同様の約500点だったが、その質的内容は非常にレベルの高いものであった。今までならば当然入賞してもおかしくないような作品であっても今回はさらにすばらしい作品があったため、入選どまりという作品は何点もあった。審査には苦労したが、写真内容の濃い展覧会となっていると思うのでぜひ、近くにお越しの際はご覧下さい。僕が書いた写真入りの入賞作品評が会場に置いてあるのでそれもご参照ください。今後、東京・銀座にある「ぐんまちゃんの家」をはじめ、県内各地において巡回展がおこなわれる予定です。

僕が顧問を務めている写真集団「上福岡」のメンバーの有志で毎年この写真展に合わせて、上州の撮影会をしている。名湯・伊香保温泉にゆっくりと浸かり懇親を深めるというパターンである。これには僕も毎回楽しみに、参加しているのである。

 

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☆北海道・小樽運河の夜明け。運河で唯一埋め立てられる前の面影を残す場所。左の4階建ての建物は、作家・小林多喜二の小説『工場細胞』のモデルとなった北海道製缶工場の第三倉庫だ。歌人・石川啄木は、当時4歳で秋田から家族と共に小樽に引越してきた多喜二とわずか20日間余りではあるが、同じ小樽の空気を吸っている。啄木は「かなしきは小樽の町よ/歌ふことなき人人の/声の荒さよ」と開拓精神にあふるるエネルギシュな小樽の町の印象を詠んだ。(石川啄木没後100年記念・写真スケッチ集「啄木への旅」より)

 

先週末は内科、眼科、歯科と3つの病院を廻った。そして明日、呼吸器科へ行く。内科と眼科は2ヶ月に1度。呼吸器科は毎月、歯科と耳鼻科は具合が悪いので治療に行っていた。この治療代が大きい。薬代もあわせるとは45000円を超える。今回はインフルエンザの予防接種の注射と花粉症アレルギー予防の薬が入っているので10000円ほど高くなっているが、毎回の通院でも30000円程にはなる。僕はフリーの写真家だからいわゆる国民健康保険、3割負担だ。正直言って、還暦前の僕にとっても、相当生活面では大きな負担となる。高齢者にとっては、病気になってもおちおちと病院へも行けないのが実態だろう。その上、いま政府は、僕らみたいな貧しい者ほどその負担感が増す消費税の10%の引き上げを本格的に論議するという。つい2~3年前、自民・公明政権のときに、保険の改正をしてこれで100年間は安心と言っていたのはどうしたのだ。民主党へと政権交代したからと言って、国民に約束したことを反故にしていいと思っているのか!と本当に腹が立つ日々である。例え消費税を上げるにせよヨーロッパみたいに食料品や一般の生活品には消費税をかけるな!!プリ!プリ!・・・・・。

 

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☆石川啄木一家が120数日間すごした函館の青柳町。その直ぐ近くを走る路面電車の「青柳町電停」、背後は雪にけぶる函館山。 (写真スケッチ集「啄木への旅」より)

 

今日、1月20日は大寒の日。二十四節気の一つ。小寒から数えて15日目、たいてい1月20日頃にあたり、冬のなかでも最も寒い日とされる。それでもここ数日は少しづつ寒さがゆるんできたような気がする。

大寒を詠んだ句はたくさんあるが、いくつか拾い出してみよう。

大寒の埃の如く人死ぬる   虚子       大寒と敵のごとく対ひたり   風生

大寒の火の気を断ちし写経かな   あき   大寒の一戸もかくれなき故郷   龍太

大寒や転びて諸手つく悲しさ   三鬼     大寒の胸こそ熱き血の器   駿吉

それぞれの時代は違えど置かれている立場から「大寒」を詠んでいるが、はたしてどの俳人の句が現世を生きている我々に実感として受け止められるか・・・・・・・。これまた各人によって異なることであろう。

 

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☆啄木がさいはての町と詠んだ釧路。「さいはての駅に下り立ち/雪あかり/さびしき町にあゆみ入りにき」は実感できる冬の光景である。暮れなずむ漁港。(写真スケッチ集「啄木への旅」より)

さて、この間は17日に友人が「美味しい焼肉をおごるから出かけない」という誘いにのって銀座へ出かけついでに写真展をのぞいた。栃木牛の肉はどれもあんまり食べたことがない美味なものばかりではあったが、なにせお互いに寄る歳には勝てず、思うようにはハシは進まなかった。19日は日本全国の瀧を巡っている写真家が写真集を刊行し、写真展も同時に開催したいので相談したいと言うので彼の家まで出かけた。ご夫婦で信州・佐久出身ということで、奥様が鯉のうま煮を用意していてくれた。3日間煮込んだというそのうま煮はとても美味であった。僕は2切れも頂く始末であった。長野新幹線が開通以来、浅間山麓の湧水を利用した鯉を育てる池や沼がみな枯れてしまって、佐久の鯉があまり食べれなくなっていたので、久しぶりに出会えてうれしかった。むろん酒も進んだのは言うまでもないことである。

今日は朝から印刷所の営業の人が2人来て、「啄木への旅」の色校と文字校正を返した。これで24日には、本番の紙と印刷機で刷った本紙校正が出て、27日、28日が本番の印刷となる。印刷のときには現場へ僕とデザインを担当してくれた塩崎亨君が立ち会うことになっている。2月20日の石川啄木生誕125年の日には充分に間に合うこととなった。地元の「岩手日報」や「盛岡日日」などのメディアをはじめ、いかにPRができるかがひとつのカギとなろう。しかしこの件については、地元の啄木記念館の方に全面的にお任せするしかない・・・・・・・。時間ができれば僕も2月に盛岡の石川啄木記念館へ行こうかとも考えている。

 

 

今日、1月16日付の「上毛新聞」の”視点”のページに僕が執筆した1200字程の「異郷の地でしのぶ故郷ー矢島保治郎その(2)」が掲載されている。これは昨年の11月16日付の「100年前に世界無銭旅行ー矢島保治郎その(1)」につづくものである。「上毛新聞」から今年1年間”オピニオン21委員”に委嘱されたが、その主な仕事は、この”視点”のページに7回ほどの原稿を寄せることである。昨年末12月29日付の同紙の1面コラムの「三山春秋」にも僕が書いた矢島の顕彰記念事業のことが取り上げられて話題になっているという。また、年始初めの上毛新聞社社長のあいさつのなかで、矢島保治郎のことに触れられて、「矢島のような夢とロマンと気概を持ってジャーナリストとして仕事をしよう・・・・」と全社員に呼びかけたと言う。うれしい事ではある。今後も生誕130年・没後50年記念の矢島保治郎の顕彰企画事業を実現させるためにも「上毛新聞」に書くことによって、上州にこうしたすばらしい先人がいた事を群馬県民のみなさんに知らせていきたいと思っている・・・・・・。

「上毛新聞」の電子版「雷神」 http://www.raijin.comでも見れますのでぜひ、興味がある方は見てください。

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☆写真はチベットに近い中国西南部の四川省、貴州省、雲南省で撮影したもの。一番上の秦嶺山脈は、1800年前に諸葛孔明の蜀軍が何度も越え、そして矢島保治郎が馬と徒歩で100年前に越えていった山並みである・・・・・。

 

1月11日、銀座キャノンギャラリーで開かれていた渡辺幸雄写真展「Mountain Harmonyー光の協奏曲」を見にいった。この展覧会は12日までだったが、これから福岡、大阪、名古屋、仙台、札幌と5月までかけて巡回される。また、品川のキヤノンSタワー2Fでは、渡辺幸雄写真展「山稜光景」が2月4日まで開催されている。渡辺さんは信州・松本に移り住んで撮影をしている本格的な山岳写真家である。日本写真家協会と日本写真家ユニオンの仲間でもある。数年前に銀座・新居ギャラリーで、水越武さんや石川文洋さんたちと一緒に、「JPUオリジナルプリント展」をした仲でもある。

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その足で目黒にあるギャラリーコスモスへ行った。新山清の世界ービンテージプリント写真展

『石・水』のオープニングをかねてギャラリーの新春パーティが開かれるからだ。社長の新山洋一さんから案内状をいただいていたので、「風」のメンバー数人にも呼びかけていた。写真展のプリントはすばらしい出来栄えで感嘆した。同時発売となっていた新山清写真集『ソルントン時代』も購入した。鈴木「風」事務局長と新山社長でこの秋に写真研究会「風」展をコスモスギャラリーで開催する方向で検討することを話し合っていた。ちなみに新山清は、洋一さんの父親である。写真展は1月23日まで。一見の価値大いにあり。

 

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昨日の夕方、突然に息子から数年ぶりに電話があって、これから行ってもいいかと言う。3年程前にこれまた突然に、8~9年ぶりに家に彼女とともに訪れて以来だった。6時過ぎにみやげにと果物を持って来て、3時間ほど居た。夕飯を有り合わせの物で僕が作って一緒に食べた。息子は今年、34歳になるという。もうすっかり壮年である。体重も僕がよく知っていた頃と比べると倍近くになっていた。いろいろと積もる話を重ねた。こんなにじっくりと話したのは、息子がまだ12歳のときに2人で奥ヒマラヤの3000~4000メートルの山中を2ヶ月半テント暮らしをしながら歩いた時以来だろう。20代の頃は、沖縄や新潟などを巡っていたようだが詳しいことはよく知らなかった。

訪ねた目的を聞くと「お父さんが元気なうちに孫を抱かせてやりたいんだ。僕、こんど結婚するよ・・・・・」とぼそりと言った。「お母さんも喜ぶと思うし」。・・・・・・・ しばらく声が出なかった。黙って成長し髭面になった倅の顔を見続けることしかできなかった・・・・・。うれしかったのである。こんな時が訪れようとは・・・・・・。しかし話を聞くといくつかクリアしなければならない事があったが、それについては最大限協力をすることを約束した。たいして力にはなれない駄目な父ではあるが・・・・・・。いままでに何もしてやれなかった父親としては、ここは踏ん張らなければと思った・・・・・・。倅にブログをやっているので、「おまえの写真を載せるぞ~」というと「えっ!お父さんがブログを」とビックリしていた。僕のサイトのギャラリーを見て、一緒にヒマラヤを歩いたときの写真がたくさんアップされているのでなつかしそうに見つめていた。「あっこのシェルパの人、いい人だったんだよね」などと言いながら。しかし僕が「彼は数年前に、エベレストで雪崩で死んだよ」というと押し黙ってしまった・・・・・・・。

親子で秘境といわれていた西ネーパルの最奥地・ドルパ地方とムスタン地方を約80日間かけて歩いた日々がなければ、僕の写真人生は、はるかにつまらないものになっていたのは明らかである。そう言う意味では こころからありがとうと息子にいいたい。 ・・・・・・・・・・・あの日々からすでに22年の歳月が流れている。    合掌


 

 

 

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昨年は石川啄木の歌集『一握の砂』が刊行されて100年目であった。本年は啄木が亡くなってから100周忌にあたる。啄木が生まれたのは明治19(1886)年2月20日。その生誕125年にもあわせて記念の写真スケッチ集「啄木への旅」を発行することにした。実は僕は、26年前の啄木生誕100年記念のときにも「啄木への旅ー青春・愛・故郷を求めて」という写真スケッチ集を発行している。これは好評をはくして10、000部売れた。今回は、短歌・石川啄木、写真・小松健一、文・山本玲子の3人のコラボレーションである。デザインは塩崎亨君に担当してもらった。題字は小松風写。初版は5000部で、2月20日の啄木の誕生日に合わせて発売予定だ。ご期待下さい。

上の写真はデザインの最終的なものではないが、こんなイメージのものが出来上がる。中のはがきは10枚セットで、渋民、盛岡、函館、札幌、小樽、釧路、東京と啄木が生活したすべての街の写真に、啄木の短歌と石川啄木記念館・学芸員の山本玲子さんの文章が添えられている。表紙の裏には、山本さんと僕の啄木への思いを綴った短いエッセイも載せた。販売しているのは、盛岡市渋民の石川啄木記念館と発行所のアトリエぶどうぱん社だけである。ご希望の方はご注文くださればお送りする。
昨日、印刷工場に塩崎君と2人で出向いて、技術者など3人と最終的な打ち合わせをして入稿が終わった。その後、二人で小さな居酒屋でささやかな祝杯をあげた。塩崎君は明日から香港・マカオへ5日間、歌手のエグザエルの撮影に出かけるので、その送別会も兼ねて、大いに飲んだのである・・・・・・・。
(写真は聖ロシア教会から望む函館港)

 

今日、10日は「成人の日」だ。2000年から1月の第2月曜日に制定されたが、その前までは「成人の日」は、1月15日と決まっていた。「よそほひて成人の日の眉にほふ」という猿山木魂の句があるが、誰もが晴れがましく着飾った若き日の想い出があることだろう。僕らの成人式は榛名湖の辺でおこなった。式のはじめに「君が代」斉唱と号令があったとたん、新成人みんなで突然「君の行く道は希望へとつづく・・・・・」と「若者たち」の歌の大合唱となった。町長や教育長をはじめ、来賓を驚かせた記憶がある。式が終わったら榛名湖へカッターを乗り出し二手に分かれて競争した。僕らは中学時代から高原学校などでさんざカッターの漕ぎ方を仕込まれていたのだ。だから多少の波など諸共せずにぐいぐいと進んだものである。「櫂立て~」とか「櫂流せ~」などの合図があるのだが、本当に湖に櫂を流してしまったやつがいて大目玉食った想い出も今となっては愉快なものではある・・・・・・。

 

この数日間は、家に篭って仕事をしていた。昨年末から気になっていた右耳の調子が良くないので耳鼻科へ行き、それに左右の奥歯の治療にも行った。情けないが体中に、ガタがきているのが実感としてわかる年齢になってきたのだ。本年6月と9月に出版予定の写真集の打ち合わせにそれそれの作者と出版社の担当者にきてもらった。いい本に仕上がりそうである。後は「写真家 小松健一のオフィシャル・サイト」のギャラリーに作品をアップロードすることに専念していた。ネパール・ヒマラヤシリーズの『雲上の神々』、『ヒマラヤ古寺巡礼』の初期の未発表作品を中心に300点以上をギャラリーに載せることができた。両写真集には掲載されてない写真が大量にアップされてますのでぜひ、ご覧下さい。これからもボチボチとアップしていきま~す。ご期待してください。今回アップしたなかから数点紹介しましようね。

 

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☆上の6点の写真の撮影地は、すべてネパールの都、カトマンドュウ周辺で。

上州から戻った翌日の5日は、友人たちの写真展を巡った。午後5時からは四谷ポートレートギャラリーで熊切圭介さんのオープニングパーティが開かれるので、その前に2つの写真展を見ようと出かけたのだが、時間の都合で、渡辺幸雄写真展「Mountain Harmonyー光の協奏曲」が見れなかった。今年のキャノンカレンダーになっている作品を中心にした写真展だ。銀座では12日まで。その後、全国を巡回する。まず、見たのは新宿・ペンタックスフォーラムで17日まで開催している竹内トキ子写真展「富士山」である。初日だったので本人がいたので、しばらく富士山について話した。彼女は日本写真家協会の会員であるとともに日本写真家ユニオンのメンバーでもある。写真の師匠は竹内敏信さんだ。僕が「富士では先生を越えたね」と言うと「先生は日本中、世界中を撮っているけど私は富士だけだから・・・・・」と苦笑いをしながら答えた。一昨年、太宰治の取材で富士山を何度か撮りに行ったが本当に気象条件が難しく、行ったら直ぐに撮れるものではないことをつくづくと思い知ったのだ。

 

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少し遅れて熊切さんの写真展会場に行くとエレベータでばったりと野町和嘉・榎並悦子夫妻と一緒になった。会場はすでに満員で写真をゆっくりと見れる状態ではない。しかし、熊切さんがこの10余年間、東京にある運河40余りを八ッセルの6x6版のモノクロフィルムで撮ったものなので、何とか見て廻った。会場には熊切さんが副会長を務める日本写真家協会の面々をはじめ、写真業界の方々もたくさん見られていた。田沼武能JPS会長、昨年文化功労賞を受賞した細江英公さん、白川議員さん、立木義浩さんをはじめ高名な写真家が大勢来ていた。ポートレートギャラリーを運営している(社)日本写真文化協会の大石会長が「小松さん熊切さんと一緒に撮りますよ~」と言うので1発撮ってもらったのが上の写真。それにしても2人とも少し笑い過ぎではないだろうか・・・・・・・・。

2月に発行する石川啄木没後100年記念・写真スケッチ集「啄木への旅」のデザインを担当する塩崎亨君と新宿中村屋で6時半から打ち合わせをすることになっていたので会は早めに失礼をした。この企画は、昨秋盛岡市渋民の、石川啄木記念館を訪ねた時に、学芸員の山本玲子さんと話をしていて突然に決まったことである。僕は26年前の啄木生誕100年の時にも実は記念写真スケッチ集を作っている。今回は短歌・石川啄木、文・山本玲子、写真・小松健一の3人でのコラボレーションだ。彼女が記念館に勤めはじめの頃からの付き合いだからもうずいぶんとなる。2人で考え、制作、販売までやろうと言うのだから愉快なわけがないはずがない。5000冊売り切れたら温泉でも行ってゆっくりと飲もうね・・・・などと捕らぬ狸の皮算用をしているのだ。・・・・・・話を元に戻すが写真家となる前までは、流行3Dデザイナーとしてバリバリに活躍していた塩崎君に彼の感性を見込んで依頼したのだが、快く引き受けてくれた。打ち合わせを終えた後、2人で新年会をやろうと久しぶりに「ぼるが」へ行って飲んだ。呑べぇ横丁の岐阜屋にもちょくら寄ってから帰宅の徒についたのだった。 塩崎君もふくめた4人組みのコラボに乞うご期待あれ!!☆!!

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2011年元旦の朝も清々しく明けた。2度配達された年賀状を持って、お袋と一番下の弟夫婦が待つ実家へ向かった。僕はのんびりといつも各駅停車で帰ることにしている。缶チューハイ2個と柿の種を買って、4時間余りの列車の旅は楽しいものだ。読書はできるし、1時間程は眠ることもできる。富士山、浅間山、赤城山、榛名山、谷川岳をはじめとして、上越国境の白銀の山並みの風景も車窓から望める。この日は短い原稿も1本仕上げた。高崎駅の待ち時間を利用して上州そばも食べたのであ~る。何と有意義で愉快な各駅停車の旅なのだろうか。大体、車内はガラガラに空いているので足を自由に投げ出せるのもとても気持ちがいいもんさ~。

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夕方、駅に着くと弟の嫁が車で迎えに来ていてくれた。元旦は午前9時くらいからみんなが家に集まってきて飲み始めるのが恒例となっていたので「どうしたの・・・?」と思わず聞いたほどであった。今日はまだ集まっておらず、先程3人が飲み始めたばかりだという。例年は10人以上は来ていたのに、今年は弟たちを入れて7人だった。それでもビールの他に、日本酒2升、焼酎2升5合、僕が持っていった52度の中国の白酒を1本空けているから相当なペースである。 いつもは午前様まで飲んでいるが、この日は珍しく9時過ぎにはみな引き上げていった。年々みな歳を取ってきたということだろう。還暦を迎えた僕の先輩が一番年上で次に僕、後は後輩といっても弟が47歳で一番若く、後はみな50歳を越えている。世間的にはもういいオジサン連中なのだ。

翌日、翌々日と犬の「五右衛門」を連れて、近隣の村々の鎮守様である川戸神社と内出神社へ初詣に行った。3日はお袋も元旦に続き散歩がてらにと一緒に来た。昨夏に転んで肋骨を折って、秋には頭を五針縫う怪我をしたのだが、もうすっかり回復したらしくて背筋もピンと伸ばして歩いていたので安心した。年賀状の返事も書いてポストへ投函。 料理人をしているすぐしたの弟が珍しい渡り蟹の脱皮したばかりの柔らかい蟹とお袋の好物の数の子を差し入れてくれた。こんな渡り蟹は、僕もはじめてで足から甲羅まですべて食べれて何とも美味であった。蟹が脱皮する瞬間を漁師たちが獲るらしく、あんまり数は獲れない珍味なのだという。

実家では、犬の散歩以外やることがないので、1月16日付けの「上毛新聞」のオピニオンのページに掲載する「視点」の第2回目の原稿の執筆にかかった。明治42年の「上毛新聞」の記事を調べたいので、前橋市立図書館、群馬県立図書館へ行こうと思って電話をかけたが休館日だった。しかし当番の職員がきちんと対応してくれた。市立図書館には大正5年からのマイクロフィルムがあった。県立図書館の方は明治43年以降のものがマイクロフィルムで保存されていたが、僕が調べたかったのは明治42年、1909年の2月から4月の新聞記事である。上毛新聞社には残念ながらきちんと保存されていなかった。 いくつかの文献に明治42年の「上毛新聞」の記事の内容が書いてあるので無いはずはないと粘ったら、県立図書館にスクラップ帳になっているが矢島保治郎関連の記事の切り抜きが保管されていることがわかった。そこにめざす明治42年の記事があったのである。うれしかった。それを知らせてくれた職員の人も喜んでくれて、すぐにコピーをして送ってくれることになった。新春早々ありがたいことと心から思った・・・・・・。 合掌

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☆2010年5月16日、ミニヤゴンガ(7556m)を背景に。大雪山脈・子梅峠(4600m)で。 撮影/烏里烏沙

 

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