写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2010年9月アーカイブ

コピー ~ SDIM0529.JPG

(上州・吾妻川に架かるこの長く高い田辺橋をわたると母が暮らす家はもうすぐだ。昨秋、橋の上から撮影した。歌人の土屋文明も疎開していた6年間にはこの橋を渡って家路へ急いだ。田辺橋を詠った短歌もたくさん残している)

今年も「ぐんま山村フォトコンテスト」の季節がやってきた。全国山村振興連盟群馬県支部と群馬県が主催し、群馬県教育委員会、群馬県観光国際協会、上毛新聞社、群馬テレビ、エフエム群馬、フジカラーなどが後援して今年で8回目となる。僕が審査委員長になってから7年目である。まだまだあまり知られていなく、集まる作品も500点余りと少ない。しかし、写真展を来年2月上旬に群馬県庁ロビーでおこなうのをはじめ、銀座の「ぐんまちゃんの家」でも展示するし、県内の巡回もある。表彰式も県庁で写真展に合わせておこなわれる。撮影対象地域は前橋市を除いた群馬県全域だ。問い合わせは、027-226-2371まで。県内のフジカラープロフォトセンターでも受付けている。詳しい要綱や応募票などは、群馬県のサイトからでもプリントできる。「山村で暮らす人々を通して、そこに伝わる生活文化や、残したい自然など魅力あふれる地域の表情」のある作品に出会えることをこころから楽しみにしています。

昨日は「フォトコン」11月号の連載企画「小松健一の写真道場」で、藤森邦晃編集長と対談するために午前中に家を出た。久しぶりの八丁堀である。坂本副編集長と3人で1時間半ほど話した。その内容については、同誌11月のお楽しみであるが、23回目となるこの連載企画の意義と目的について討論したのである。僕はカメラ雑誌が本来もっている魅力とその価値がそこなわれつつあるのではないか。時代に迎合し過ぎて自らの首を絞めてはいないのか。今一度、原点を見つめて考察する必要があるのではないか・・・・・などと語ったのである。遅い昼飯を坂本君と一緒に近くの旨い天ぷら屋さんへ行って食べた。昼からのビールは旨いが酔いが回る。その足で、東銀座まで歩き、9月に移転してきた日本写真家ユニオンの新事務所へ行ってみた。事務局長の唐木理事がいて、珍しく缶ビールを出してくれた。窓からの前のビルの蔦が美しいのでパチリ。29日に臨時総会を開くというので、その事などを話しておじゃました。その事務所から銀座方面へ5分歩いた場所に、8月に急死した友人の宮地くんと板見浩史さんの「ジョフイー・コミュニケーションズ」がある。企画、編集、制作会社だ。5年前に設立したばかりだった。2人とも僕とは30年来の友人で、同年代ということもあってよく飲んだものである。真の仲間を突然失った板見さん、心配していたが思いのほか元気だったので安心した。ここでも宮地くんが好きだったからとビールをすすめられて2人でやっていると写真家の大山謙一郎さんがやって来て、宮地くんもふくめてビールで乾杯をした。その後、また歩いて銀座キヤノンサロン、銀座アートギャラリーと写真展を見てまわった。2つともいい写真展であった。

SDIM2676.JPG

SDIM2683.JPG

SDIM2687.JPG

池袋の沖縄料理の店、みやらびへ寄った。先日、パナマ帽を忘れてしまっていたのと『太宰治と旅する津軽』を注文を受けていたので届けるためである。すぐ帰るつもりであったが、隣の席にいたEDWINのヘッドのKさんと日本経済新聞社のメディア局のS次長と10月から中国の北京駐在となる富士電機のシステム部長のTさんと盛り上がってしまった。3人は釣り仲間で、ネットで知り合ったという。おもしろい出会いだ。Tさんは俳句と写真が趣味で中国通ときているから自然に話は弾んでくる。Kさんの工場は津軽に3つあり、よく行っているらしく津軽に詳しい。僕の太宰の本を買ってくれて、会社の人たちにPRしてくれるという。ありがたいものだ。さらに僕の太ったウエストに合うジーパンを用意してくれ、10月2日の両国国技館でおこなわれる千代大海の引退相撲と断髪式に招待するというのだ。翌日におこなわれる朝青龍の断髪式の方が興味はあるが、とにかく直に見たことがないので行ってみようと思う。3人とも僕よりも一回り以上若いが仕事をバリバリこなしている世代なので元気をもらった。早く帰っても別段することもなかったので、彼らと出会えたことは、楽しかった。この前までは狂気のような暑さの日々であったが突然の冷気で肌寒い夜となった。でも、帰宅してからも今夜の出会いはこころ温まるものがあってじっくりと休めたのある・・・・・・。

SDIM2611.JPG

SDIM2609.JPG

SDIM2626.JPG

SDIM2628.JPG

SDIM2633.JPG

SDIM2641.JPG

SDIM2663.JPG

9月19日、鎮守様の秋祭りにふさわしい晴天だ。昨夜の深酒も多少残っていたが、気分は爽快。犬の五右衛門を散歩に連れて行く。母は足がだいぶ弱くなったので元気に走り回る五右衛門を散歩には連れて行けなくなっているので僕が帰省したときには必ず毎日連れていくことにしているのだ。だから五右衛門はそれを知っていて、僕の姿を見つけるとうれしそうに跳ね回るのである。いつものコースを回ってきたあと、カメラを持って八幡さんへ出かけた。すでにみなそろっていて出店なども大きな声で呼び込みをしていた。一番したの弟夫婦たちも昨日から手伝いに来ていて、朝から焼きそばを焼いていた。後輩が神主になっていておごそかにのりとうをあげ神事を境内ですすめていた。僕はぷらぷらと写真を撮った。僕らが子どもの頃は、この八幡の境内が遊び場で朝から日の暮れるまで遊んだものだった。「ビー玉」、「面子」、「ベーゴマ」、「たまご」、「棒野球」、「駆逐水雷」、「陣取り」、「鬼ごっこ」、「かくれんぼ」、「チャンバラ」・・・・・・・。ありとあらゆる遊びの場がここであった。体を動かし、そからにある棒切れなどを使ってのあそびである。一緒に遊んだ先輩や後輩たちと昨夜、飲みながらそのルールを思い出しながら語った。でもいま、自分でその場所に立って見ると何と狭いことか。すごく高くみえた碑の建つ岩山も低いのだ。従兄弟が作った社務所に上がって飲んでくださいと言うので呼ばれることとした。前の川で捕ってきたという天然の岩魚を焼いて、骨酒をつくった。「ア~下村の健ちゃんかい・・・」と声をかけてくれたのは、子どもの頃ずいぶんと面倒をかけた村のおじさんたち。歳を聞くと88歳だとか82歳だという。考えてみれば僕もまもなく還暦を迎えるのだから、おじさんたちだって歳をとるのは当たり前だ。40~50年ぶりに会った人もいた。

SDIM2636.JPG

さて、昨日約束した、この内出という小さな集落の鎮守さまの祭りに何故、300人を超える人々が参集するのかと言うことについて語ることにしょう。僕らが子どもだった昭和30年代前半までは、八幡の祭りは出店も並び、賑やかであった。しかし高度成長期を迎え、人々は農業から都会へと働きに行くようになると小さな村祭りに来る人は次第にいなくなっていった。僕の記憶によれば昭和40年代頃には、出店もなくなり、踊りなどもしなくなった。お参りに来る人には、菱形の餅をおみごくとして配るためにお年寄りだけが神社の中にいた。そんな時期がしばらくあったが、今から30年ほど前に、僕らのはるか後輩たちが中心になって「祭りを賑わす会」と言うのを発足させたのだ。もちろん最初は年寄りたちの理解を得ることできず、資金も無く苦労したという。弟たちもその輪のなかにいた。自分たちが子どもの頃楽しく思い出にある八幡の賑やかな祭りを復活させ子どもたちに夢を与えたい。嫁にきたり、引っ越してきた若い住民の交流の場をつくろうと立ち上がったのである。提灯を灯して寄付を集めたり、出店でも稼いだ。立派な子ども神輿も寄付を募ってつくった。舞台をつくって歌手やバンドも呼んで人を集めるようにした。子どもたちのために川に岩魚やマスを放流してつかみ取りもやるようにしている。2日間、生ビールも酎ハイも日本酒もすべて無料。何杯飲んでもである。だから人が集まる。家族連れで毎年参加するようになる。村の人でない人たちも多いと言う。しかしみんなは「わざわざ祭りに家族連れできてくれるだけでもありがたいさ~」と笑うのである。僕はこの行事を中心になってやってきた後輩たちと固い握手をしながら「君らはすばらしい歴史をつくりつつある。これからもこの祭りをずーと続けていこう。僕も何か協力をしたい・・・・」と言った。彼らは本当に僕らができなかったことを確実に実現した。こころからの拍手を贈りたいと思う。数年前に僕をこの会の名誉会員として迎えてくれたが、この日「宇佐八幡宮」と文字の入った特製の半被をプレゼントしてくれた。とてもうれしかった。実は今日は寒いのでその半被を羽織ながらこのブログを書いているのである。故郷の後輩たちに、こころからの感謝をしながら・・・・・・・。

SDIM2642.JPG

SDIM2645.JPG

SDIM2648.JPG

SDIM2650.JPG

SDIM2660.JPG

SDIM2666.JPG

SDIM2674.JPG

SDIM2670.JPG

SDIM2667.JPG 

18日から21日まで上州へ出かけていた。いくつかの目的があった。そのひとつは、榛名高原邑の友人を訪ねること、二つめは取材を続けている「上州故里」の撮影のため、僕が子どもの頃からよく遊んだ鎮守様の宇佐八幡宮の秋の大祭に参加すること。最後にお袋とのんびり過し、お彼岸なのでお参りをすることであった・・・・・・。高崎駅に七宝工芸作家の斉藤芳子さんと高原邑の住人でもある翻訳家の和田さんが迎えに出てくれていた。和田さんは前日、東京から戻ったばかりだと言うし、齋藤さんは18日の夜から1週間、万座温泉にある万座プリンスホテルでの展示会だという多忙の最中に、わざわざ僕などのために付き合ってくれたのである。友とはありがたいものだ。3人で遅い昼食を榛名山麓で食べ、目的地の高原邑へ行った。2時間ほどで僕の方の用事は済んだのでこならの大木が庭に繁る和田邸を後にした。今から万座へ行くという齋藤さんの車で僕の実家まで送ってもらった。途中、榛名神社や榛名湖を通っての3~40分の山道のドライブである。家についてから一息いれてすぐ近くの八幡さんへ一人ででかけてみた。後は写真でみてもらえばわかるが、宵祭りが終えた後は、僕の実家に三々五々に祭りの世話役衆が集まり午前様まで盛り上がっていたのである・・・・・・・・。

SDIM2590.JPG

SDIM2564.JPG

SDIM2575.JPG

SDIM2566.JPG

SDIM2570.JPG

SDIM2635.JPG

SDIM2572.JPG

SDIM2620.JPG

SDIM2594.JPG

SDIM2640.JPG

SDIM2603.JPG

SDIM2605.JPGSDIM2606.JPG

宇佐八幡宮の秋の大祭については明日、9月23日のブログで詳しく説明をしたいと思う。僕らが子どもの頃、今から50年ぐらい前は、春も秋の祭りもにぎやかであったが、僕が中学生を過ぎたあたりから、祭りはさびれ、人もでなくなり、かたちだけおみごくの餅を配るだけになっていた。それがどうしてこんなに大勢が集まる祭りへと復活したのか、その秘密については明日のお楽しみ・・・・・・・・。

 

 

 

 

 

SDIM2558.JPG

9月16日、冷たい秋時雨のなか、第45回「志遊の会」を今年6月に国立演芸場でおこなわれた独演会以来、聞きにでかけた。この夏、宮沢賢治の取材で東北へ行っていた取材費の清算と今後の打ち合わせのために新潮社のO編集者と会う目的もあった。彼女が大の落語好きで、志遊の噺をきいてから打ち合わせをしょうと言うことになったのである。この日、同じ日暮里サニーホールでは、三遊亭好楽師匠の会があり、上野広小路亭では桂春雨師匠の会があり、よく知る噺家の会が寄寓にも重なった日であった。この日の前座は、珍しく浪曲の東家一太郎、曲師は佐藤貴美江師匠で、ねずみ小僧次郎吉の少年時代の一席であった。寄席での浪曲は昔は盛んだったが近年は本当に珍しい。僕は若い頃から浪曲が好きでよく聞いていた。いまでも広沢虎造のテープを持っている。死んだ親父が下手な浪曲を唸っていたのが子ども心に影響を受けたのかもしれない。寄席での鳴り物はやはり華やかになっていい。さて、この日の志遊師匠の演目は最初は、「お化け長屋」で中入り後「抜け雀」であった。どちらも力演であったが僕はこの日の出来は「お化け長屋」の方に軍配を上げたい。終了後はいつも師匠を囲んでの打ち上げに繰り出すのだが、この日は俳句仲間の落語通の山本光仙さんと書家の豊田育香さんが来ていたので編集者のOさんと4人で、近くの立川流の噺家がよく集まる飲み屋へ行った。2時間ほどほとんど落語の話ばかりでずいぶんと盛り上がった。とくに今日の「抜け雀」の落ちについて議論は深まった。志遊師匠の「籠の鳥・・・・」という落ちでいいのかという論議だった。まだまだ名人の親を超えられない・・・・・という意味での籠の鳥だから、「身の自由を束縛されている者。特に遊女・・・」を指す言葉だからあの場合はやはり原本の方がいいのではないのか?などと高清水の熱燗をぐびぐびと空けながら熱く語っていた。僕は酎ハイで育香さんは生ビールで少し距離をおいて話をきいていたのである。この夜は、久しぶりにOさんともじっくりと話また飲んだのだった・・・・・・。

SDIM1739.JPG

5月1日から公募を開始していた「第1回児島湾岸写真コンクール」の作品締め切りが今月の30日(当日消印)に迫った。詳しいお問い合わせは086-482-4800です。展覧会は表彰式などとともに10月23日~10月31日まで、岡山県早島町町民総合会館でおこなわれる。僕が審査員をすることになっている。ふるって応募してください。さて、何故瀬戸内海の写真コンクールの審査をやるのか?と疑問に思う人もいるとおもうが、実は僕は生まれは岡山県である。瀬戸内ではなく中国山地の山奥ではあるが・・・・。まあ、それがひとつ。それに写真研究会「風」同人の写真家・高田昭雄さんがこの町いて、僕を紹介したのだ。今までにも数回、写真講座も開いていることもきっかけとなったろう。とにかく中国地方の小さな町がこうした写真活動を通して文化活動をしようとしているのだから協力しようと思う。周りのみなさんにも声をかけていただければうれしい限りだ。児島湾岸は瀬戸内を前にした個性的な美しい地である。もちろん魚も旨い。金比羅様への街道が古くから開けた歴史ある町である・・・・・。家族で出かけていい写真を撮ってどしどし応募してくださいね。

☆写真は、岡山県と香川県をつなぐ瀬戸内大橋を下津井漁港から望む(2009年7月撮影)

 

SDIM2552.JPG

昨日、今日と夕方から夜にかけて雷鳴が轟き大粒の雨が地表を叩いた。雷、はたた神、いかずちなどは、本来は夏の季語であるが、今夜みたいな雷は、いわゆる秋の雷ということだろう。「写真集団 上福岡」の例会が終わって外にでたとたんにこの秋の雷に襲われた。わずか200メートルばかりの焼き鳥までの間にびしょびしょになってしまった。写真集団上福岡は今年で創立28年目。できる前の3年間を加えると30年を越える。その最初の時から僕は講師として教え、集団結成以来、講師であり顧問としてきているからずいぶんと長い付き合いである。例会は年11回、写真展は1度やって来た。ときには合宿や撮影会もしたが基本的には、撮影会などは個人か有志でやっている。みなベテランの域に達してきていて、少し若々しいパワーが不足しがちであるのが最近の悩みだ。しかし、それぞれが個展や作品集の刊行など目標を定めて創作活動をしているので、毎回の例会は活気がある。地域の写真クラブとしての水準は全国レベルといってもいいだろう。実績も実力もあるのだ。その会が終了した後、必ず有志で近くの安い焼き鳥で一杯やるのがこの30年来の伝統になっている。2時間ほど例会の延長で熱い写真論を交わすのである。酒がまったく飲めない人もこれが楽しみで毎回参加する人もいるのだ。僕も余程のことが無い限り参加してきた。みな僕よりも人生経験のある先輩ばかり、この場での話しは僕にとって学習の場となるのだ。健康のことや食事についてなどときどきお叱りを受けることもしばしばである。「写真集団 上福岡」がさらに地域のなかに広く深く根を張って30年、40年そして半世紀と松明を灯しつづけられるよう僕も微力ながら協力していきたいと思っている・・・・・・。

SDIM2554.JPG

2010.5 中国四川省西南地域の旅 2010.7.30-8.9いわて宮沢賢治 530.jpg

9月9日は、都内の御成門の日本アセアンセンターで開催されているBAKU斉藤カンボジア写真展を見に行った。本人もいて1時間ほど写真談議をした。彼の写真集『世界文化遺産 アンコールと生きる』(朝日新聞社刊)を求めた。A4版の大判でモノトーンの美しい写真集である。(協)日本写真家ユニオンが今度、銀座に事務所を移転したのでその事務所開きがあるので一緒に行こうと誘った。彼は現在、日本写真家協会の常務理事をしているが、ユニオン創立にあたっては共にJPSの会員として苦労した仲間である。東銀座のいまだ昔の東京の面影の残る路地に、新事務所はあった。個人周りとしているがいい事務所だと思った。パーティは近くの中華料理屋ですでにみんなでやっているという。若生副理事長が案内してくれた。二コンの人たちや丹野顧問をはじめ理事たちが盛り上がっていた。会は2次会へとなり、宮崎からの芥川理事長や(株)二コンイメージングジャパンの人たちも残って11時過ぎまで盛り上がっていたのだ。ぜひ、ユニオンの活動も盛り上げて欲しいものである。翌日の10日は、歯科、眼科、内科と3つの病院の定期検診に行った。とくに歯科は治療していた歯が長年の間に悪くなっているのでこの際完治させようと思い、長期治療をすることにした。眼科も内科ももう10年通っている病院。前に事務所があった石神井公園にある。2ヶ月に1度の検診なのでだいたいは診療が終わったあとは昔通っていた店に寄る。住んでいた頃には7~8軒にボトルをキープしていたがさすがに今は少ない。それでも3軒まだある。みな沖縄料理の店ばかりだ。練馬区の沖縄県人会は活動が盛んでつながりが強い。僕も友達が多い。開店以来行っている店もあるさ~。中学生や高校生だった娘さんたちも大きくなってみな子どもができている。だから店には4人も5人も赤ん坊や小さな子どもたちがいる不思議な店もある。僕と同級の宮古島出身の主人と越後美人の奥さんでやっている店で、近くにすんでいる烏里烏沙君とこの前四川の旅へ一緒に行った沖縄出身のYさんと待ち合わせをした。店にいたお客さんたちとも一緒に盛り上がって大いに泡盛をやった。Yさんの沖縄土産や烏里君の中国からの土産などもみんなで肴にしながら残暑の宵は更けていった・・・・・・・。

SDIM2532.JPGSDIM2533.JPGSDIM2534.JPG

SDIM2537.JPG

☆一番上の写真は、北上市の「鹿踊り」。2010年8月8日撮影

昨日は9日ぶりに都内に出かけた。昨年12月、中国大陸を5000キロメートルを走破した仲間との”暑気払い”をするためである。メンバーは僕のほかに烏里烏沙君、塩崎亨君と鈴木紀夫さんの4人である。さっそくよく行く四川料理の食堂へ。四川出身の烏里君に料理の注文はまかせて、僕らは中国のビールと白酒(パイカル、コウリャンを主原料とした焼酎)を飲んでいた。四川料理の辛さにはこの酒、「二鍋頭」(アルクオトウ)がぴったりと合うのである。アルコール度数は56パーセントだから600ミリボトル1本空けると4人でも相当いい気分になる。この食堂でボトル1本、1000円だからいかにも民衆の酒という感じがするだろう。中国では労働者や農民がよくポケットにこの酒を入れて好んで飲んでいた。ポケット瓶は約30円だった。最近、名古屋から上京して、スタジオにカメラマンとして入ったHさんが来ることになっていたので、ゆっくりと話ができる店へ移動することにした。いつもの沖縄料理店”みやらび”へ行った。Hさんは残念ながら仕事が遅くなって参加できなくなったが、僕らは新たなチベット取材行の計画など大いに盛り上がったのである。その後3次会まで行ったのだが、僕は白酒と泡盛が効いたのか、よく覚えてないのだ。しかし、電車できちんと家に帰ってきていた。シャツなどもハンガーにかけてあったので、寝てしまったので記憶が消えたのであろう。こんな事は久しぶりであった。実は今日も東京の日本アジアンセンターで友人のBAKU斉藤さんのカンボジア写真展「Devataー女神たちの微笑」のオープニングパーティで皆で会うことになっていたが、僕はドタキャンをしてしまった。こんなことはめずらしいのであるが、酒を飲みたくないと思ったのだ。今日はこれも珍事ではあるが禁酒デーにしたのである・・・・・・。

SDIM2530.JPG

写真は、鈴木、塩崎、烏里君と”みやらび”の女将で琉球舞踊家・川田功子さんと・・・・・・・。

土佐から戻り、もう1週間が過ぎてしまった。家からほとんどでないで篭っていたのだ。2度だけ近くの食堂へ夕飯を食べにでただけで、後は家にいたのである。まったく何もしなかったわけではないが、ときどきこんなことをしていていいのか?と自問自答してしまう。家に篭って人とも会わず、話もしてないと人間は誰しもそんな風に思ってしまうのだろうか。「孤独こそは精神の真の解放・・・」、「芸術家にとって孤独こそ鍛錬の道・・・・」などと普段は言っている割には、僕も実のとこは弱いものだ。一日が暮、外が暗くなると「ああ~また1日が終わってしまった・・・・」と焦る気持ちが湧いてくるのである。くり返すが何もしなかったわけではない。「前衛」という月刊誌の巻頭グラビアに”日本文学風土記ー番外編・三国志の世界”を掲載し、文章も書いた。三国志物語がどう民衆世界のなかで伝えられきたのか。そして日本人との係わりを深めてみた。この7月に四川省を取材したおり、正史『三国志』を3世紀末の西晋時代に書いた陳寿(233~297)の故郷を訪ねたことも、一層興味を持ったのである。その他に「フォトコン」10月号の”小松健一の写真教室”の原稿書き、「サンデー毎日」の10月、11月、12月の”三国志大陸をゆくー古戦場をめぐる”の連載の本文やキャプション、俳句などについても考えた。また、坂本大士君の結婚を祝う会の案内状のあいさつ文などなど何本か原稿を書いたのである。それでも仕事をしている。いま生きているという手ごたえ、充実感が少ないのだ。歳のせいか・・・・。それとも残された時間の足りなさへの焦りか・・・・・。でもこんな時こそ、いつも僕自身が言っている「風のごとく自然体で生きよ・・・」の精神に立たなければね。あ、そうそう今度の「サンデー毎日」は9月7日(火)発売です。諸葛孔明の「南蛮への旅」で舞台は雲南省、貴州省です。ぜひお手に取ってご覧下さい。

09.1上州故里・08.12 029.jpg

写真は、現在注目を浴びている「八場ダム」で湖底に沈む予定となっている群馬県長野原町河原湯全景。僕が育った町はここから車で2~30分足らずの所にある。

暦のうえでは立秋は、8月8日頃であるが、今は9月。本来なら秋めく、秋の気配、新涼、白露などと言われる季節ではあるが、今年は猛暑、炎暑の日が続いていて衰える気配はまるでない。130年ぶりの異常気象などと天気予報士たちはのたまわっているが、何のことは無いただ地球が温暖化しただけで、来年も再来年も今年以上の極暑日が続くだけだろう。さて、「写真家小松健一のオフィシャルサイト」を開設して1年半が過ぎ、ブログも200回目を超えた。早いもので日々の出来事を日記でも書き止めるように綴ってきただけであるが、たくさんのブログを見ていてくださる人たちに押されるように書き続けてきた。とりとめもない文ではあるが写真と同じように、僕にとってはその日その時の記録である。「いつも呑んだくれて食べ歩いている話ばかりではないか・・・・」などとお叱りの声もいただくが、僕は赤裸々に日々を綴っているのであってそれもまた、僕の人生だと思う。確かに自分のこれからの人生を考えると、遣り残している仕事はたくさんある。最低でも後30年あっても足りないと思われる。だからこそ一日一日をいかに大切に生きるかが、問われているのだが・・・・・。しかし己のいのちの在りようは自分自身が一番よく知っているのだ。歌人・若山牧水は「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけれ」と詠ったが彼ほど達観するには程遠いが、やはり酒は人生を豊饒にしてくれる友であり、不老長寿の源でなければならない・・・・・・。そんなことを本来なら窓を開け放ち名月を愛でながら盃を傾けている季節に思ったのであった。それにしても暑い!冷えたビールが呑みたくなるぜよ~。

SDIM1920.JPG

写真は晩夏の隅田川・・・・・・・。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
W I N D S T I M E S 風通信 ♯006
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
 
次回写真研究会「風」例会のお知らせ
 
 日時:8月21日(土)13時~ 
 場所:世田谷区 新町地区会館 
 住所:世田谷区新町2-21-10
 
21日は鈴木紀夫さんの靖国の作品を使ってグラビア8ページを組みます。実際誌面を飾る予定
ですので、実践さながら、というより実践です。主宰が100枚くらいある作品群からどう8ページに
構成していくか楽しみです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主宰小松先生のより21日の研究会の前に皆様で写真展鑑賞をしましょうとのご連絡がありました。
 
 展示:JPS創立60周年記念写真展 おんな
 日時:8月21日(土)10時30分集合
 場所:東京写真美術館1階ミュージアムショツプ前(
http://www.syabi.com/)  
 
 チケットは小松先生が招待券をお持ちですのでそちらを当日お渡しいたします。
 なお、こちらの鑑賞の出欠も前日までにご連絡いただけましたら有難いです。
 
このメールは先日研究会のご欠席ご連絡をいただいた方にも再度お送りしております。
すでにご連絡いただいている方は再度送っていただかなくても大丈夫です。

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
小松健一主宰・写真研究会「風」第2期スタートしました!
 
2010年6月27日、都内において写真研究会「風」の第2期目が11人のメンバーでスタートし
ました。それぞれ今年の目標を設定して撮影に取り組むことを確認しました。来年に個 展を開催
することや写真集を刊行することなど作品を前に話し合いました。また研究会として2年に1度ぐら
いは、写真展を開催しょうかという意見もでました。写真創 作を真摯に追求するメンバーを募って
さらに充実した研究会に発展させていこうと確認をしました。今回は参加した同人、メンバーは5人
と少なかったがたっぷりと 時間を取って内容の濃い例会となりました。
 
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
山崎政幸さん上海で奮闘中
 
今年のはじめ合宿でご一緒しました長崎の山崎さんが、現在上海にて写真を撮りつつ奮闘して
います。何度か主宰にメールがあったそうです。その一部をご紹介させて頂きます。
主宰は「まだ日本でしっかりと上海万博を撮って紹介している人は居ないので、ちゃんと撮ってみ
ては」とのアドバイスをされました。また「写真で食えなければ、他で稼いで写真を撮り続けるのだ。
そして、作品をコツコツと貯めるしかない。」と。上海の情報をお持ちの皆様、山崎さんまでご一報
してあげて下さい。
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
編集後記
 
風通信ですが紙版からメール版に変更させて頂きました。編集作業を効率よくすることで
より早く情報をお届けできると思います。皆様よろしくお願い致します
 
〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
Publisher_Kenichi Komatsu. Editor_Toru Shiozaki. © windstimes 2010

このウェブサイトの写真作品、文章などの著作権は小松健一に帰属します。無断使用は一切禁止します。