写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2010年7月アーカイブ

 

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今日は、月に一度の病院の定期健診を受けた後、銀座へ行った。写真弘社へ寄ったあと、台湾の海洋先住民族を12日間取材して帰国したばかりの塩崎亨君と会った。30日から宮沢賢治の本の出版のための取材で、東北地方を巡ってくるのだが、その際、使用する「二コンD3S」の使い方を教えてもらうためだ。もう何回も撮影しているのだが、少し経つと全て忘れてしまう。普段はすべて手動式の旧型カメラだから、あれこれとスイッチやボタンだらけでまったくのちんぷんかんぷん。オーソドックスにフイルムを詰めてシャッターを切るのみというのが何と楽なことかとつくづく思ってしまう。1時間ほど基本的なレクチャーを受け、おおよそは理解できた気がしたが、やはりちょっぴりは不安である。でも、ぶっけ本番で勝負だ!! 

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近くの銀座キヤノンギャラリーで今日から8月4日まで「熊切大輔写真展 ”演じるコトー俳優 石丸幹二の1年”」を開催している。今晩はそのオープニングレセプションだったので、塩崎君と出かけた。大輔君は、熊切圭介日本写真家協会副会長の息子さん。彼自身もJPS会員で、現在、協会のさまざまな行事を先頭に立って引き受けている若手写真家のホープである。大輔君の家族をはじめ、JPS役員、多くの先輩写真家たちも見えていて和やかな会であった。熊切さんのお孫さんが可愛らしかったので、二人で撮った。僕が「まるで恋人同士みたいだね・・・」とゆうとお孫さんが「お似合いでしょ。恋人だもの」と言ったので、熊切さんは、顔を赤らめながら微笑んでいた。熊切さんの写真の先生である写真界の長老・丹野章さんも見えていたので、久しぶりに近くの居酒屋へと会を早めに失礼した。丹野さんの誕生日が近いこともあったが、やはり話しは、戦後の写真史と著作権・肖像権の話が弾んだ。いつもながら丹野さんの話しはどんなに飲んでいても深い。この夜は、一杯190円というギンギンに冷えているニッカウヰスキーのハイボールをぐびぐびとやりながらの談話であった。僕は丹野さんと同年代で、このニッカが大好きだった写真家・故目島計一さんを思い出しながら飲んだのだった。

 

毎日が35度を超える極暑日なので、頭は朦朧、体はふらふら、心はずるずる状態でブログにも手が付かない。人類はもっと深刻に地球環境問題を考え、早期に対策を講じなければ、重大な事態に陥ることは間違いない。郊外の片隅に暮らすしがないフリーの写真家がひとり力説して叫んでみたところで、どうしょうもないとは思うのではあるが・・・・・。この毎日のうだるような暑さに強く警告を発するのである。みなさん水風呂に浸かるとか、ビールをがぶ飲みするとか、いろいろな自己防衛をして、じーとこの猛暑が過ぎ去るのをひたすら待ち続けるしかないようですね。くれぐれもご自愛ください。空気の澄んだ心地よい秋はもうそこまで来ていますぞ~。お互いにがんばりましょう。

 

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「サンデー毎日」にグラビア連載している”三国志大陸をゆくー古戦場をめぐる”は、今回で6回目となる。発売日は、8月3日(火)で8月15日号だ。前回の掲載は、創刊5000号記念号の7月18日号であった。「サンデー毎日」の創刊の歴史は古く1922(大正11)年4月2日。当時の社長が「新聞に載らなかったニュースや写真を再利用するものを」と発案してできたものだ。関東大震災の前年に発売された「サンデー毎日」の5000号に僕の写真と文が5ページ掲載されていると思うと感慨深いものがある。僕にとってもひとつの記念碑的な仕事となった。編集部の計らいで、この連載は今年いっぱいの12月まで続くこととなったこともみなさんにお知らせしておこう。ありがたいことである。 合掌

☆写真は上から武候祠の中にある三絶碑として名高い唐碑。諸葛亮(孔明)のおくり名”忠武候”から付けられた武候祠は6世紀はじめの創建。その中の建つ孔明像。昭烈廟の蜀漢皇帝・劉備玄徳像。劉備の墓・恵陵へつづく参道(全点、四川省成都市内で2010年7月8日にシグマDP1で撮影したもの)

歳時記によれば、本来8月は秋。そろそろ今頃の季節は、夏終わるとか夏の果てだとか、夏の名残だとか、秋隣などが季語であるのであるが、今年のこの毎日の暑さは度を超えて異常だ。「署中お見舞い申し上げます」などと言うのも何かおこがましくなるような異常気象である。三陸海岸の海水が上昇して、鰹が豊漁なのは、「鰹党」にとってはうれしいことではあるが、毎日続くこの暑さ、何とかしてほしい。日本の先人たちもこうした暑い日々を体験したのか、見るからに暑そうな言葉がある。そのいくつかを綴ってみよう。炎天、炎気、炎日、炎風、炎暑、油照り、炎熱、炎塵、熱風、大暑、極暑、酷暑、猛夏、湿暑、蒸暑、風死す、風絶ゆ・・・・・・・。暑気や熱帯夜が何故か涼しそうに感じてしまうのは、僕だけだろうか。 「震度五の揺れに目覚める炎天下  風写」 今朝詠んだ駄句である。

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ところで『広辞苑』によれば、正月15日を上元、10月15日を下元として祝うのに対して、7月15日の佳節を中元という。半年生存の無事を祝い、盂蘭盆の行事をし、亡霊に供養することだそうである。ここからこの時期にする贈り物を「中元」というのだそうだ。いつも何気なしに「御中元」などと使っているが、ちゃんと深い意味があるのである。というわけで「日本お布施党」党首のもとには、この間、各地より「お中元」が寄せられた。深く感謝したい・・・・合掌。宮崎のお医者さんのOさんからは、芋焼酎のセット、埼玉のSさんからは、発泡酒2ダース、鹿児島の写真家・M君からは、霧島黒豚の詰め合わせ、岡山のTさんからは、手延べそうめんと高級のり、埼玉の写真家のSさんからは、炭火で焼いてある干し魚のセット、東京の写真家・Jさんご夫妻からは、高級中国白酒などなど・・・・・・。たくさんの方々からこころ使いをいただき深く感謝しています。ありがとうございました。この夏もとにかく、よく食べて、よく飲んで、そしてよく眠ることをモットーに、この糞暑さを乗り切るぜよ!!みなさんのご自愛をこころより祈りつつ・・・・・・。 合掌

 

「海の日」で休日であった昨日、7月19日から7月25日(日)まで、銀座アートスペース(銀座6-3-2ギャラリーセンタービル4F・TEL03-3573-1271)において、「第16回美崎大洋個展ー伊豆の港と花ばな展」が開かれている。昨日は猛暑のなか、そのオープニングパティーが開かれた。美崎大洋さんとは、もうかれこれ7~8年の付き合いになるが、僕は奥さんの琉球美人の陽子さんの方が付き合いは、はるかに長い。それは池袋にある沖縄料理の店「みやらび」の常連客の僕とそこの従業員という関係での付き合いである。さらに陽子さんは、琉球舞踊の名手であり、その舞台も何度も見ている。この日も「みやらび」の女将であり、舞踊の師匠である川田功子さんも見えられていた。絵心があり、最近グループ展などにもよく出品している「風」同人の鈴木紀夫さんと四川美術大学油科を卒業し、日本の和光大学大学院芸術学科を留学生として卒業している写真家の烏里烏沙君も駆けつけてくれた

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美崎さんは本来音楽家が生業だという。16年前の1994年、新宿の居酒屋で、突然の絵描き宣言をして以来、毎年「海の日」をはさんで、個展をかかさずつづけてきた努力は、すごい。今回の新作は、昨年の作品と比較すると、色彩が一段と透明感が増し、漁村風景に空気感が感じられた。僕らがお土産に持っていったヤクの干し肉やとうがらしのお菓子などをつまみに泡盛の盃は、つぎつぎに干されて芸術談義は花を咲かせていた。宴終了後、鈴木さんと烏里君とで有楽町のガード下の飲み屋に行った。今が旬の秋田の岩がきが美味であった。その後、烏里君と2人でさらに美味しい魚を求めてガード下を彷徨したのである。

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陽子さんの姪にあたる沖縄生まれで沖縄育ちの紗貴子さん。パティーの手伝いに来ていたので、叔父さんの作品「宇宙への調べIZU / F100」の前で記念写真。

 

 

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第21回 人と海のフォトコンテスト「マリナーズ・アイ展」が7月13日(火)から19日(月)まで、池袋にある東京芸術劇場B1展示室において開かれている。この後、神戸第二地方合同庁舎1Fロビーで、7月23日(金)から8月6日(金)まで。北九州市立美術館本館で、9月18日(土)から10月10日(日)まで開催される。北九州では、第11回展~20回展の入賞作品も同時に展示される。今回の写真展は3248点の応募作品の中から117点の入賞作品と佳作作品を展示している。日本で現在おこなわれている海をモチーフにしたコンテストのなかでは、最高峰のレベルであると断言してもいいであろう。そのくらいに、見る価値がある。ぜひ、会場に足を運んで鑑賞してほしい。会場では、入場者にはもれなく、全入賞作品の写真と全佳作作品の題名と氏名が印刷された「作品目録」と僕が書いた総評と作品評がもらえる。5000字以上を費やした評はぜひ見てほしいと思う。日本は古来から豊饒の海、交易の道・文化の道となってきた歴史的な海に囲まれてきた。その海を1000人がそれぞれに捉えた表情をあなたの感性で見つめてほしいと切に思います。  合掌

朝、8時半には成都のホテルを出発。一路、ロウ中へ。途中、德陽にある三国遺跡の鳳統の墓のある鳳統祠に寄った。ここを訪ねるのはこの3年の間に3度目となるが来る度に、整備され観光化の波が押し寄せているのを感じる。清代の建物と金牛古道の石畳の道がなんとも風情があったのだが、これも時代の移り変わりでしかたのない事なのかもしれない。綿陽で昼食をとって、張飛が命がけで守り、愛した町、ロウ中へと車を走らせた。夕暮れのロウ中の町は、嘉陵江のゆったりとした流れに囲まれていて雰囲気があった。夕食は今回初めて食べる「火鍋」にした。しかしあの激辛の出汁でなく、辛さを押さえたスープにして、具材は茸類と野菜、それに張飛牛肉の生もの。これがまた柔らくて旨味がある。みんな青年のようにバクバクと食べた。

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翌日は、一日ロウ中古城のなかをゆっくりと歩いた。午前中は、張飛廟を参拝し、中天楼に昇ったりして古城の概観をつかんでもらった。古城のなかで昼食をとってから自由行動にした。嘉陵江の船に乗るもの、足のマッサージをするもの、お土産を買うものなどそれぞれ散策を楽しんだ。僕は街の真ん中にそびえる張飛像を撮りに行った。そして大きな書店があったので見てまわった。午後7時から夕食に行くことになっていたのでホテルに一度戻り、シャワーで汗を流した。夕食は回族の店で、イスラム料理。昨日一緒に食事した地元の有力者がご馳走してくれたのである。烏里君の弟さんの軍隊での同期だという。四川料理とは違う味付けにみんなで舌鼓を打った。この町は日本人には知られていないが、中国に残る古城のなかでも一番歴史があり、美しいものだと思う。何より観光化されてなく、生活がそのまま古城に溶け込んでいるのがすばらしい。「何で世界文化遺産にならないのか・・・」と参加した人たちが言っていたが、僕は世界遺産になんかならない方がいいと思った。それは、雲南省の麗江古城などの変貌を見ているからである。昨年12月に一緒に来た「風」同人の鈴木紀夫さんから写真を預かってきていたので、モデルになってくれた人たちを探し、写真を渡して歩いた。みな、最初はビックリしていたが自分が写っているとわかるととても喜んでくれた。

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旅の最終日前、一昨日来たコースとは異なる道で成都へと向かった。途中の南充は、歴史書『三国志』の著者である陳寿(233~297)の故里を通った。僕らが一般的によく読んでいるのは、14世紀に羅貫中の小説『三国志演義』である。正史といわれる『三国志』はあまりなじみがないが、僕は陳寿の方が好きである。成都で昼食を食べてからこの旅、最後の見学となる「成都大熊猫飼育研究所」を訪れた。実は僕は成都へもう20年前から通っているのにもかかわらず、一度もパンダを見たことがなかった。広大な深い森のなかにパンダたちは愛くるしい格好で笹をひたすら食べていた。間じかで9頭見ることができたが、何時間見ていても飽きない可愛らしさがある。蒸し風呂みたいな天候であったが、200カットほど撮影をした。この旅のなかで一番集中して撮影したかもしれない。ホテルに戻り、近くはチベット族の店が多いのでみな、またお土産を求めて駆け巡っていた。ホテル内のチベットの土産店の女子が可愛らしい子猫を抱いていたのでパチリ。最後の夕食を済ませた後、疲れが全身にたまっていたのでフロントに頼んでマッサージ師を頼んだ。やって来た子は、まだあどけなさが残る女子。でもさすがにマッサージはうまかった。記念に写真を撮ったら「一路平安  劉清平」と紙にかいて僕にくれた。明日早朝、日本へ帰国すると筆談したのでわかったのだろう。「サイチェン!!」と握手をして別かれた。成都の最後の夜は、思い出をたくさんつめてぐっすりと眠れたのだった・・・・・

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☆写真キャプション☆成都の2日目の夕食と最終日の夕食を共にしてくれたチベット人の美しい母子が写真に登場するが、実はこの親子は、案内役の烏里烏沙君の遠い親戚の人。少数民族の人たちは、家族や親戚などのつながりをとても大切にする。この10月に彼女の故郷で、50年に一度の大きな行事があるという。「ぜひ、写真を撮りにいらしゃいませんか、ご案内します」と誘われた。

今回の旅は、うまく飛行機便の手配が取れて、出発は羽田空港13時50分。北京経由で成都に21時45分に到着予定である。12時に集合だが、家を8時30分には出た。近くのバスターミナル9時出発、羽田には10時半には着いてしまった。珈琲を飲みながらゆっくりと読書をしてみんなが到着するのを待った。今回の旅の参加者は、僕とガイド役の烏里君をふくめて総勢11人。その内訳は昨日のブログに書いた通りで、個性豊かな愉快な仲間が集うかたちとなった。成都は雨であったがほぼ、定刻に到着した。空港には、昨年5000キロメートルを一緒に走ったドライバーの何平君が、新車のマイクロバスで迎えに来てくれていた。僕の定宿となった武候詞前の「蜀峰花園酒店」にチェクインしたのは午後11時をまわっていた。希望者だけで近くの屋台街へ繰り出して遅い夕飯をとった。

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翌7月8日は、成都郊外約50キロメートル程行った大邑県にある三国時代の蜀の名武将・超雲こと「子龍墓」を訪ねた。清代に建てられた碑は、無残にも二つに割れて夏草のなかに放置されていた。あたりは工事の真っ最中で、今度、子龍廟を建設して観光客を誘致するのだという。この手の計画は中国全土で見てきたので、正直へきへきした。金儲けの前に、きちんと三国遺跡は遺跡として守って欲しいと切に思う。大邑県の町で昼食を食べてから3000年前の古蜀王都の遺跡、「金沙遺跡博物館」を見学した。長江上流域に、三星堆文明とともにこうした古代文明があったと思うとロマンが湧いてくる。市内に戻って、劉備の墓と武候詞を巡った。矢島保治郎が1909(明治42)年に寄宿していた当時、文廟街と呼ばれていた場所を探し、矢島仲子さんに佇んでもらった。「101年前に父がこの場所で暮らしていたかと思うと感無量です・・・・・」と仲子さんは言葉少なく語った

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3日目は、アパチベット族・キョウ族自治州理県にあるキョウ族の桃坪村を訪ねる。成都からは往復330キロメートルはある標高1650メートルほどある山岳地帯だ。この付近は2008年に発生した四川大地震の震源地となった地域で、途中通ったブン川もふくめて地震の痕がまだ生なましく残っていた。しかし復興の槌音はいたるところで鳴り響き、明るい町並みが出来上がりつつあった。復興されて開店していた豆腐料理の店で、昼食をとった。ここら当りは豆腐料理が名物だというだけあってどれもが旨かった。桃坪村で56代続く楊さんに村の案内をしてもらった。チョウ楼という石で積み上げた高い建物が村にいくつもあり、圧巻だった。敵への見張りや戦のときの籠城、食物の備蓄などに使われたという。石の家々の中には、川が流れており、家の中も村全体の道も迷路のようにつくられていた。僕が20年間通ったヒマラヤの村々の作りと同じなのに驚いた。キョウ族の神々は、白い石。家の屋上など至る所に、まるで村人たちを見守るように鎮座していた。この村人口は486人。地震の被害はどうだったのかと僕が聞くと楊さんは、「チョウ楼以外は、ご覧のとうり建物の倒壊はひどかった。しかし村人にひとりも犠牲者がでなかった・・・・」と言った。僕が「それは白い石の神々が村を守ってくれたのでしょうね」というと僕の手を握って「そのとうりです」とうれしそうに言った。

 

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書家の豊田育香さんが手書きの漢詩のTシャツを着ていたのを見た楊さんが「ぜひに家の扁額を揮毫して欲しい」という。豊田さんが大きな字は書けないから僕に書けという。小さめな字は彼女がかくことになった。村びとが注視のなか先ず僕が一気に書いた。もちろん僕は書はまったくの素人。小学校の低学年のときに習った覚えがあるだけだ。でも、この村に何かできたらと思って恥を承知でしたためたのである。もちろん豊田さんは、すらすらと美しい書体を書き連ねた。夜、成都に戻って200年以上の歴史をもっている劇団の「川劇」を緑深い公園のなかで茶を飲みながら観劇した。「京劇」とちがい庶民的な演目あり、会場は笑い声に包まれていた。みんなもとても楽しかったと喜んでくれた。明日からは、成都から約350キロメートル離れているロウ中へ行くので、屋台で軽い夕食を取って宿に引き上げた。

 

 

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昨日、中国国際航空167便北京発で、無事成田に到着し、自宅に戻りました。今回の旅は、「三国志巡歴」の取材を兼ねつつ、仲間たちにも中国のおもしろさを知ってもらおうと企画したもの。正式な名称は「写真家 小松健一先生と三国歴史遺跡を探訪しながら蜀国をゆくー四川料理の本場・世界美食之都を訪ねる旅」。写真家をはじめ、陶芸家、書家、俳人、七宝焼き作家など多彩な顔ぶれが集まった。何よりも今からちょうど100年前の1910(明治43)年に成都からチベットのラサに向かい翌年ラサに到達。その後、単独で世界無銭旅行を成し遂げた上州出身の矢島保治郎さんの一子・矢島仲子さんが参加したことがこの旅を有意義なものにした。ガイドには現地出身のイ族の写真家烏里烏沙君に依頼した。明日から2回に分けて、旅のエッセンスを写真を中心に紹介する。美食の旅であるから当然、食事風景はできるだけ記録した。四川料理というものが、いかにみなさんに知られていないかが、この旅を通じてよくわかったし、参加したみなさんは、「四川料理は辛い」という概念を見事に打ち破ってくれた旅でもあった。ご期待ください。

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今日は、僕の57回目の誕生日。だからと言って祝いのケーキなどある訳もなく、何時もどおりの日々を送っている。それでも何人かの人がメールをくれた。とくに讃岐の高校生の二人の女の子が、「何歳になったのですか?」などとメールをくれたのは、ちょぴりうれしかったな。(写真の教え子の娘さんたちではあるが・・・)僕は「37歳になってしまいました・・・・」などと冗談メールを送ってしまったが。ごめんなさいね。7月4日は、アメリカの独立記念日で、あんまりうれしくもないが、かの「独立宣言」自体はすばらしいものであるからまあ、良しとしている。僕はこれからも今までどおり「風の如く自然体であれ」を座右の銘として生きていこうと思っているので、よろしくお願いつかまする。

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一昨年、昨年の12月、それに今年の5月に引き続き、中国の旅に出かける。前の3回の旅で、車で走った距離は合計で、13000キロメートルになる。これらの取材の一部として4月から週刊「サンデー毎日」に連載しているが、新シリーズ「三国志大陸をゆくー古戦場をめぐる」の第1回目は、7月6日(火)発売ですので、本屋さんなどでご覧下さい。今回の旅は、「子龍墓」などいままでいったことのない地を訪ねることにしている。その他、張飛や鳳統などのゆかりの地も訪ねる。そしてそれぞれの土地でしか味わえない食を堪能する旅だ。さらに年内にできればもう一度、取材を敢行して「中国・三国志巡歴」をまとめたいと思っている。

☆上の写真は、この5月に中国へ取材に行った時に、写真家の烏里烏沙君が撮影したもの。下の写真は今年の正月に伊豆の海で、写真家の山崎政幸君が撮ったものです。

このサイトが新バージョンになってから初めての更新である。実は長い記事を書いて何度か更新を試みたのだがアップされない内に全部消えてしまった。原因は僕の操作ミスであるのは、ハッキリしているのだが、自分でよくわからないのでとても不安である。その不安を抱えながらまたチャレンジをしているのである。

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さて、昨日の7月2日、社団法人日本写真家協会創立60周年記念祝賀会がウェスティンホテル東京で、548人が参加して盛大に開催された。この日の参加者は、JPS会員をはじめ、写真業界、出版業界、文芸美術界、マスコミ界など多岐にわたっていた。日本写真家協会は、1950(昭和25)年にプロ写真家の職能団体として、70人の職業写真家で創設されたのである。初代会長には、木村伊兵衛さんを選出した。その後、紆余曲折はあったが、現在は、文化庁所管の社団法人として名誉・正会員あわせて1800人の団体へと発展をとげた。僕も1986年の当時、三木淳3代目会長のときに、理事に選出されてから、藤本四八4代目会長の時まで、3期、約9年間にわたり理事を務めてきた。主には広報担当であった。会場には本当に久しぶりに会う面々がたくさんいて固い握手を交わした。それぞれに懐かしさがこみ上げてくるいい会であった。

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たくさんの人たちと旧交を温めたが、とりわけうれしかったのは僕が写真の師と仰ぐ一人である土門拳先生のお嬢さんの真魚さんと再会できたことだ。長年にわたって助手を務めた写真家の堤勝雄さんもいっしょであった。先生がまだお元気な頃、麹町のご自宅を訪ねたとき以来である。先生の思い出はなし、とくに大の仲良しだった田村茂先生と藤本四八先生とのエピソードを語るととても懐かしそうに「お二人の先生方は真面目でしたが、父は一番の不良でしたでしょ・・・・」と微笑まれた。黒柳徹子さんも数十年前、まだ飯沢匡さんがご存命のときに、お二人一緒に写真を撮らせてもらったことがあった。今回も真正面から撮らせてもらったが、以前と少しも変わらなくお若いのには驚いた。ドキュメンタリー作品を多く残している写真家の伊藤孝司さんとも何十年ぶりだったろう。彼の自宅のある桑名市を訪ねた頃は、まだお互いに若かった。今日から7月30日まで、”ポレポレ東中野”で上映される映画「ヒロシマ・ピョンヤンー棄てられた被爆者」の監督をしている。「写真だけではなかなか食えないので、いままで追いかけてきた朝鮮問題と日本にメスをいれた映画を作ったんです。少しヤケクソ気味ではありますが・・・・」と苦笑いをした。特別鑑賞券は1200円、トークイベントもありますので、ぜひ足を運んでみてください。(問い合わせ 03-3371-0088)

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 田沼武能会長、熊切圭介副会長、松本徳彦専務理事など現役員の人たち一人一人と固い握手を交わして会場を出た。著名なジャーナリストの岡井輝毅さんが「小松ちゃん軽く一杯いこうか?」と声をかけてくれたので、宮崎から参加していた(協)日本写真家ユニオン理事長の芥川仁さんを誘った。3人で近くの恵比寿ガーデンプレイスの中の店に入った。岡井さんさんから戦後日本写真史のさまざまなエピソードを聞いた。聞きながらの酒の肴は、おでんのはんぺん、大根、コンニャクに、カレイの一夜干しに、ホヤの刺身と浅漬け・・・・。みな歳相応の肴ばかりである。岡井さんは今年喜寿を迎えて、ますますお元気ではあるが、酒量はと言えば以前と比較するとずいぶんと落ちた。お体には充分気をつけてもらって、日本の写真界のためにもまだまだたくさんの本を書き続けてほしいと思う。他では聞くことができない貴重で愉快な話を聞くことができて、芥川さんと喜んだ。今夜は大人の酒席だったのでほろ酔い気分となって、それぞれの家路へと別れたのであった。

 

 

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