写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2010年6月アーカイブ

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2010年5月16日撮影 中国四川省・大雪山脈最高峰ミニヤコンガ(7556m)

お待たせしました。いよいよ「写真家 小松健一のオフィシャルサイト」の新バージョンが7月1日から公開されます。この間、試行錯誤をしてきましたが、よ うやく公開までにこぎつける事ができました。協力いただいたスタッフのみなさんのおかげです。感謝しています。新バージョンと言っても、あまり変わってい ないじゃないか?と思われる方もいらしゃるかもしれませんが、実は見えないシステムやソフトが大幅に改良されているのです。一例を上げれば、いままでギャ ラリーのページや写真展・イベントのページなどは、操作が難しく僕のところでは、更新することができませんでした。ですからこの間、ブログだけしか更新し てこなかったのが現状でした。それが今度のサイトはギャラリーの写真作品をどしどしとアップできるようになりました。当面、1500点ほどのアップをし て、徐徐に作品を増やして行き、最終的には30.000点ぐらいは、みなさんに見てもらえるようにしたいと考えています。設備等の環境も整えていかなけれ ばなりませんが、がんばりたいと思っています。イベントや出版情報などもホットな話題を提供できるようになると思います。もちろんブログにつきましても一 層内容を豊かにして読み物としても、写真にしても楽しんでいただけるよう努力をしていきます。本格的にこのサイトを稼動させてから丸1年、さらに充実した 「写真家 小松健一のオフィシャルサイト」となりますよう精進いたしますので、みなさんも今後ともご指導ご鞭撻のほど、くれぐれもよろしくお願いいたしま す。  合掌

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昨日、都内において写真研究会「風」の第2期目が11人のメンバーでスタートした。それぞれ今年の目標を設定して撮影に取り組むことを確認した。来年に個 展を開催することや写真集を刊行することなど作品を前に話し合った。また研究会として2年に1度ぐらいは、写真展を開催しょうかという意見もでた。写真創 作を真摯に追求するメンバーを募ってさらに充実した研究会に発展させていこうと確認をした。今回は参加した同人、メンバーは5人と少なかったがたっぷりと 時間を取って内容の濃い例会となった。事務局長の鈴木紀夫さんが今年仕込んだ手作り味噌を持ってきてくれた。彼は毎年信州で友人たちと味噌作りをしている のだ。青梅で農業をしているNさんは自分で作った梅干を持って来てくれた。自宅で体験農場などもしており、蕎麦や梅などを収穫して食べるまでをコースにし ているという。写真もその里山をモチーフにしている。金沢から来たYさんは、両親からと韓国のりと手作りおかきを差し入れてくれた。・・・・・・感謝!

 

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熱い合評終了後は、いつもの店に繰り出した。女将が手作りのきゃらぶきや塩らっきょなど出してくれた。名古屋から来ている平元君の奥さんにお土産に と包んでもくれた。口はうるさいが心優しい女将なのである。名古屋へ帰る平元君が新幹線の時間には、まだ2時間ほど時間があると言うので、渋谷駅前に残る 「のんべぇ横丁」へ案内した。若い時分には、ずいぶんと通ったが、本当に久しぶりであった。馴染みの店も大分変わってしまっていたが、何軒かはまだ僕を覚 えていてくれていて「先生ご無沙汰していましたね・・・・」などと声をかけてくれてうれしかった。兄と妹でそれぞれ店をしている処へ平元君を誘って、江戸 おでんや鮪の頬の刺身などつつきながら写真談議をして駅で別れた。品川から新幹線で名古屋まで行き、そこで名鉄に乗り換えて自宅に到着するのは夜中の0時 をまわるという。それでも彼はこの一年間一度も欠かさず例会に新作を持って参加した。ごくろうさま。その努力は必ずや報われるからね。魂こめて、がんばり や・・・・・・。

★写真研究会「風」についてのお問い合わせは、主宰の僕のメールへか、電話・FAX 048-456-7302までお願いします。

いま、眠たい目をこすりながらこのブログを書いている。今日は日本中、僕みたいな睡眠不足症候群(?)の人がたくさんいるのだろう。それにしても今朝方 の”サッカーワールドカップ2010南アフリカ”での対デンマーク戦の日本チームは、3対1とよくがんばった。先のカメルーン戦も独りで観戦していて、勝 利した瞬間には思わず「よーしゃ!!」と拳を握り締めて叫んだが、今朝もまた「よーしゃ!よしーや!」の連続であった。何か努力してがんばれば、希望が持 てるような勇気を与えてくれる雄姿であった。決勝トーナメントも自然体を忘れず、自分たちのサッカーでぶつかっていって欲しいと思う。”ヤタガラス”がつ いているぜよ!がんばれ!日本チーム!!

 

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という事でそのまま寝ないでたまっていた原稿を一気に仕上げた。来週早々までに後、2本の原稿はあるが、「チーム岡田・japan」に負けないように僕も がんばろう~と。今週は月曜日から久しぶりに、PHP研究所の編集総局・取締役総局長と会ったり、「フォトコン」の副編集長と打ち合わせをしたり、二つの 病院へ通ったりしながら原稿書きをした。火曜日は中原道夫さんが選をする「一滴」句会があり出かけた。20数名が参加して盛り上がった。いつもの懇親会も 3次会まで付き合った。ト・ホ・ホ・・・・。それにしても中原道夫は絵になる被写体だということがよくわかった。2次会へ行った所は、ご夫婦で俳句をして いる「酒房いそむら」。句集を2冊と同人誌を頂いた。烏森口の奥だが、個人周りとしたいい店である。今度近くに行ったら寄りたい店だ。

かたつぶり赤児は空を摑みをり

荒梅雨や各駅停車にて故郷     風写

 

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讃岐から昨年につづき「鎌田醤油」がどっさりと届いた。名古屋の写真家、平元盛親君が送ってきてくれたのだ。彼は僕のアドバイスをほとんど無視し内緒で、 今年の初めに務めていた会社を退職していた。フリー写真家の道を可愛い奥様と二人で豪然と歩み始めていたのだ。僕が主宰する写真研究会「風」のメンバーで もあるので、どこまでやれるかわからないが、ともかく写真作家として育っていってほしいと思っている。厳しい道程ではあるが陰ながら応援をしていきた い。・・・・ところでこの醤油がまた旨いのだ。創業寛政元年だから、1789年、フランス革命がおきた年である。そんな時代にすでに、四国の讃岐で醤油を 作っていたというから泣かせるではないか。僕は和風料理から生野菜にも何にでも使っている。ちょうど後、1パックで終わる所であったので、平元君そして奥 様、ありがとうね・・・・・。

 

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6月16日から19日まで、故郷・上州へ行っていた。16日の朝、9時に「写真集団・上福岡」の会長をはじめ、役員3人が車で迎えに来てくれた。会長のT さんは、生まれ育った西上州をモティーフに作品作りをしているし、Sさんは日本の瀧108景を追い続けていることもあって、僕に同行してくれることになっ たのである。まず向かったのは、関越自動車道の本庄・児玉インターから降りて1時間半ほど走ると着く美しい自然と恐竜のまち・神流(かんな)町だ。この町 の宮前町長とは「群馬山村フォトコンテスト」の審査を6年前から一緒にしている関係で親しくしてもらっている。この日、町長が東京へ出張に行っているとい うことで、総務課の好青年がマイクロバスで町内を案内してくれた。神流七瀧めぐりや1億2000年前の大小の恐竜の足跡の化石が残る「瀬林の漣痕」など興 味深く見た。昼食に、町の食堂で食べたうどんも太くて歯ごたえがあり美味しかった。

 

 

日航機墜落事故で一躍有名になった上野村を抜けて1000m級の峠をいくつも越え、約3時間ほどかけて母の暮らす実家まで辿り着いた。しかし瀧を撮ってい るSさんが我が町の「不動瀧」を撮りたいというので夕暮れが迫っていたが瀧のある観音山へと急いだ。谷あいなので当りは薄暗かったが瀧は轟々と白いしぶき をあげていた。なんとそこに美しい女性が素足になって滝壺に入り、瀧から発生するマイナスイオンを全身で吸収するかのごとく両手をいっぱいに広げて立つて いたのだ。白いブラウスを着ていたので暗い滝壺に佇む聖女かと一瞬、我が目を疑ったのである。仕事を終えてからここに来たのだという。瀧の気を浴びている ととても癒されるので、時間を作っては瀧めぐりをしていると白い歯をみせた。僕が神流で撮ってきた瀧の写真を見せるとすぐに「白水の瀧でしょ。私も好きで 行きましたよ・・・」と微笑みながら答えた。この女性は、これから前橋まで帰るのだという。よほど瀧が好きでなければこういうことは出来ない。僕はこんな 時代閉塞のなかにもまだ、こうした女性がいるのだと思うと無性にうれしくなったのである。

 

 

翌17日は、前橋市在住の七宝焼き作家の斉藤芳子さんの案内で、榛名山麓に広がる「榛名高原邑」を訪ねた。そこに暮らしている翻訳家の和田さんを紹介して いただいた。いろいろと話すとユニークな人で共通の友人も多かった。すっかり意気投合して昼間から黒ビールを飲み、翻訳した著書をいただき、我が家の近く の天狗の湯・温泉で裸の付き合いまでしたのだ。この日、はじめて会った人なのに何故か旧知の友人のような気がした。18日は真ん中の弟の嫁が来てくれたの で、父の墓参りをして、僕の好きな蕎麦を食べに行き、前橋の「ノイエス朝日」まで送ってもらった。母も一緒に来た。この日は、以前にも何度かこのブログに も書いたが、今年でちょうど100年前、外国人としては、四川省からチベットに入った初めての冒険家・矢島保治郎さんの娘さんと会うことになっていた。彼 女も7月7日に出発する四川省の旅に共に行くことになったのである。3時からは陶芸家の高橋芳宣さんと斉藤芳子さんも合流して、旅の打ち合わせをした。夕 方、上州特有の夕立があった。書家の岡田芳保さんもやって来て、一番下の保険の代理店をしている弟の案内で、前橋市内の焼き鳥屋に繰り出して旅の前祝をした。

 


左から県立土屋文明記念文学館前館長の岡田芳保さん、矢島仲子さんと

19日の昼過ぎには一旦家に戻り、すぐに支度をして池袋の東京芸術劇場へと向かった。やはり7月の僕の旅に参加する人たちへの説明会を3時からすることに なっていたからである。現地コーディネートを担当する烏里烏沙君も来て、全部で8人が集まった。打ち合わせの後は、みんなで中国の大衆食堂へ。ここは安く て旨い店で最近頻繁に僕は使うようになった。みんなもとても喜んでくれた。とくに長年、講談社の前で中華料理店をしていたという城夫妻は喜んだ。7月の四川省の旅は、愉快なメンバーで楽しい旅になりそうである。


今年も「マリナーズ・アイ」の季節がやって来た。作日、「第21回マリナーズ・アイ展」の応募作品の審査が都内の六本木でおこなわれた。審査は第1回展か ら担当している日本写真界の長老・丹野章さんと1994年の第4回展から加わった僕が中心となって、後援をしている国土交通省の専門官、主催する(財)全 日本海員福祉センターの役員の方々も加わって厳正におこなわれた。今年も昨年の20周年記念展と匹敵する約3300作品の応募があった。一次審査から始ま り大賞など入賞作品がすべて決まるまでには6時間以上かかった。僕も丹野さんも応募された全作品に目を通すから大変な作業である。近く応募者全員に直接、 審査結果が郵送されるので期待してお待ち下さい。

「第21回マリナーズ・アイ展」は、7月13日~19日、東京芸術劇場を皮切りに、7月23日~8月6日に神戸巡回展、9月18日~10月10日まで北九 州市立美術館でおこなわれる。さらに7月17日~8月1日までの今年長崎で開催される「海のフェスタ」の特別企画として、長崎県立美術館においていままで の入賞作品のなかから100点が展示されることになった(詳しいことは03-3475-5390までお問い合わせ下さい)。今回の作品も見ごたえがある作 品ばかり。ぜひ、展覧会場へ足をお運びください。審査を終えた後の懇親会は、毎年決まって陳建一の「四川飯店」である。5月にも、そして7月初旬にも四川 料理の本場・成都へ行く。今年、ユネスコの世界文化遺産に、「美食の都」としてアジアで初めて成都が正式に登録された。東京で四川料理か・・・、とも思う がさすが「料理の鉄人」といわれるだけあって旨い。丹野さんのリクエストで10年以上成熟させた紹興酒の古酒で乾杯をした。

「uvalere」17号(発行:日立製作所)が、5月31日に発行された。僕の連載第2回目、「中国大陸巡歴ー長江流域」が8ページ掲載されている。次 号の「中国大陸巡歴ー少数民族故里」は7月発行の予定だ。7月22日、23日に有楽町の東京国際フォーラムで開催される「日立uvalueコンベンション 2010」へ参加すれば僕の連載した「uvalere」3冊が置いてあるので自由にもらえるという(参加入場券はネットから申し込みしてくださいhttps://reg.hitachi-uvcon.com/cc/?c_d=29vBHBJZ4sKno-289%26p_e%3D20277)。
「サンデー毎日」の連載第4回目の「三国志大陸をゆく=古戦場をめぐるー官渡の戦いなど」は、7月6日発売(7月18日号)に掲載されます。ご覧いただけ ればうれしいです。

 

昨日は、協同組合日本写真家ユニオン(JPU)第8回通常総会が都内で開かれた。思い返せば2003年8月に正式に経済産業省に認可されるまで、発起人として狂奔し、成立以後は専務理事として第6回総会まで務めてきたのが、遠い彼方のようでもある。JPUが掲げたスローガンは、「連帯と自立」である。連帯は生涯現役へのサポートであり、相互扶助の精神、人間性の尊重と平等な権利である。自立は、自由な創造活動であり、社会的、経済的な自立、既成概念からの自立である。これは創立記念パテーの僕のあいさつのなかの言葉を後で整理して発表したものだ。創立までの苦楽を共にした理事は今総会で一人もいなくなり、JPUができてから加入した理事が三分の一になった。もう僕も、丹野章元理事長も過去の人となった感がある・・・・・・。

 


懇親会で理事、監事たちと。手前が芥川仁理事長、後方左から3人目が若生新副理事長


何はともあれ、芥川仁理事長のもとに清新な体制がスタートする。僕らが築き上げてきた事業をはじめ、先のユニオンの「連帯と自立」への思いを継承、発展さ せてくれることを切に期待するものである。遠方から参加した組合員もいたので、終了後の懇親会にも参加した。やはり、写真家同士がが集い酒を酌み交わすと 写真の話ばかりで実に愉快だ。女性が理事に2人なったのも好ましい。2次会にも繰り出し、また、ここでも大いに論議し合った。それは沖縄料理の店だった。 泡盛も大分飲み、そろそろお開きにしょうとみな帰りはじめたときに「小松さ~ん、風写さ~ん」と呼び止める女性がいた。振り返ると何とその人は、デザイ ナーの佐川盟子さんではないか。「一滴」句会で、僕の好きな句を詠む同人でもある。2人の綺麗な娘さんと旦那さんと家族で食事に来ていたのだ。JPU理事 で、(社)日本広告写真家協会東北支部長の佐藤浩視君を誘って4人で飲みなおすこととなった。またここでも泡盛を1本空けた・・・・・。ちゃんと家までは 電車で帰ってきたが、そのままソファーに寝てしまったので子細なことはよく覚えてはいない。楽しい酒だったことは写真をみればお解りでしょう。(実は写真 を撮ったことも後で知ったのだが・・・・・・)。 ようやく関東地方も本格的な梅雨の季節に入ったようである。ご自愛ください。 合掌

昨日は、「写真家 小松健一オフシャルサイト」のリニューアル版の事で、最終打ち合わせのために都内に出かけた。打ち合わせの前に「コダックフォトサロン」館長の森裕彦さんと銀座で会った。写真のオリジナルプリント販売のことで話が聞きたいと言うことであった。今週の後の4日間は、基本的に家に篭っていた。本を読んだり、資料をあたったりして原稿を2本仕上げた。一度だけバイクで近くの古本屋巡りをした。中国や沖縄関連の本を7冊購入した。みな1冊100円だから安い。通っている歯科医院でちょうどバザールをしていたのでのぞいたら目に飛び込んできた本があった。値段を聞いたらどれも50円というので、申し訳ないと思いつつ買ってきた。若い職員が広島の原爆禁止世界大会へ参加するための資金集めだというので少ないが500円をカンパした。

 

 

中国大陸を貫く大雪山脈。最高峰はミニヤゴンガ(7556m)。2010年5月16日撮影

 

その本は、1970年刊の江口渙の歌集『わけしいのちの歌』(多喜二・百合子賞)である。装丁は画家のまつやま・ふみお、口絵の著者近影は田村茂だ。A4変形で布張りの上製本。タイトルは銀の型押しになっている。化粧箱もりっぱだ。今から40年前で定価が2300円だから豪華本であったことがわかるだろう。実は僕はこの歌集を当時、貧しい生活の中から相当無理をして購入したのだ。確か1ヶ月間の給料が1万円を切っていた時代である。その後に出た文庫本も持っている。その頃の僕は石川啄木や与謝野晶子に憧れて短歌を詠んでいた”文学青年”であった。江口(1887~1975)の父は軍医で東大医学部出身、森鴎外と同期だった。江口の第五高時代は俳句に熱を上げていて、河東碧梧桐に認められていた。東京帝大に入ってからは小説を書き始め、佐藤春夫、広津和郎、宇野浩二らとの交友を深めた。夏目漱石の漱石山房によく出入りするようになり、芥川龍之介とも親交を結んでいる。漱石の葬儀の際は、受付を芥川と2人で務めるくらいに知遇を受けていた。また、作家・小林多喜二の死に際しては、葬儀委員長を務め、その理由だけで検挙されている。大正・昭和時代の日本文壇の生き証人みたいな方だった。僕も晩年に何度かお会いしたが、残念ながら江口さんの写真を撮った記憶はない・・・・・。

あわれわがわけしいのちの消えゆくをすべなく見入る児が枕 べに

白玉のこぶしの花よこの花に埋むべかり妻が柩 は

山陰のひとつみ墓に母と子は相よるものか土と なるとも

(『わけしいのちの歌』より)

6月6日の昨日は、東京三宅坂・国立演芸場で開催された「立川志遊の独演会」を聞きに行った。6月6日は、昨年「立川志遊真打昇進披露落語会」が銀座ブロッサムで開かれた記念すべき日である。師匠の立川談志が長い間、独り落語会を開いてきた国立演芸場は、志遊が談志師匠に弟子入りするために、初めて師匠と会った思い入れのある会場でもある。この記念すべき日の演目は、「高砂や」と「百年目」。仲入り前に広澤菊春の高弟である日本浪曲協会会長の澤孝子の浪花節が入った。久しぶりに生の浪曲に聞き入った。志遊は、談志師匠の芸の精神をさらに学び継承するために、来年以降も国立演芸場での独演会をやり続けると客席に向かって決意をのべた。がんばれ!志遊君。



沖縄のシンガーソングライターの凡子のライブが正式に決まった。「凡子 RIVE IN MODS」は7月31日。場所は北谷町・ライブハウス「mods」(098-936-5708)だ。また、弾ける凡子を間じかに見て、迫力あるステージに酔いしれて欲しいさ~。今回のライブのチラシの写真は僕がこの3月に東京のライブで撮影したものを使用した。凡子が気に入り、「どうしても使わせてくださ~い。黒砂糖おくりますから・・・」と言うから、僕は女性と黒砂糖には弱いので、直ぐに「OK~!!」と言ってしまったのである・・・・・。とにかく梅雨明けして本格的な夏到来の沖縄で、凡子の歌声を聞きながらオリオンの生ビールでも飲みたいぜよ!



今週の後半は、めずしく出歩いた日が続き、たくさんの人たちと会ったので少々疲れ気味だ。そして今日もこれから出かけなければならない。フウ~・・・・・。一昨日は梶原高男写真展「カメラダイレクトプリントdeスクエア」(目黒・ギヤラリーコスモス、13日まで)のパティーに出かけた。梶原さんは、「日本カメラ」の編集長を長く務めた後、現在、大阪芸術大学の教授をしながら創作活動を続けている写真家だ。梶原さんとは、沖縄で一緒に講演をしたり、写真の審査をしてからの友人だからもう10数年前になる。いつも個展の案内をもらいながら都合がつかず失礼していたので、今回は出席したのだ。それにコンパクトデジタルカメラで撮影したデータをそのままダイレクトにプリントしたという作品にも興味があった。その美しいイメージのある再現性には正直驚いた。6X6版のポジフイルムで撮影したのか思ったくらいであった。「デジタルで撮った場合、絶対にデータを後でいじらないで、そのままポジと同じようにプリントすることがポイントだ」と強調する梶原さんの言葉に納得した。「ローデータで撮っておいて、コンピュターの中であれこれ処理を加えるのは邪道。だからデジタル写真は品格がないと批判され、再現性も劣るのだ。撮るときが全て、勝負だ!というのは、フイルムもデジタルも変わらない」ということがよく理解できた。パティーには写真家の木村恵一さんをはじめ、たくさんの人たちが来ていた。



昨日の5日は、僕が創立以来、顧問をしている「第28回 写真集団・上福岡写真展」(アトレ川越・045-226-1111、9日まで)の公開合評会だった。開始の午後3時には、会場は50人程の人でいっぱいであった。展示作品の一つ一つを約2時間かけて講評した。みなメモを取ったりして熱心であった。6時から希望者で讃岐うどんをたべながら懇親会をやった。他の2つの写真の会のメンバーも参加して盛り上がった。家に戻ると長崎の写真家の山崎政幸君から叔父さんが作っているという「長崎びわ」を送って来てくれていた。すこし小粒ではあるが新鮮でとても美味しかった。また沖縄からは、シンガーソングライターの凡子から僕の大好物の「琉菓真帆」の島黒砂糖などを送ってきていた。僕は白砂糖は一切食べないが、この黒砂糖だけは、必ず常備しているのだ。豊富なミネラルはもちろんだが、殺菌性も高いのだ。低血糖の処置などにもいい。彼女はそれを心得ていてくれて、在庫が少なくなる頃には送ってきてくれるのだからありがたい。山崎君、凡子ありがとう・・・・。凡子の沖縄・那覇ライブは超満員で大成功だったという。今度は7月にやはり沖縄の中部で第2弾目のライブを開催するという。ご期待ください!



6月3日から6月15日(火)まで、銀座の「ギャラリー新居」東京店(03-3574-6475)において、日本写真家ユニオン(JPU)第5回オリジナルプリント展が開催される。昨日はそのオープニングパティーだった。それに先立ってギャラリー・アートグラフの津田洋甫写真展「やくすぎ」、キャノンフォトギャラリーの菅井日人写真展「真鶴・貴船まつり」を見た。そして久しぶりに「銀座百点」編集部に寄って今度、暑気払いでもやりましょうと編集長と話をしてきた。パティーは18時から始まった。余り広くない会場は、僕が到着したときにはすでにいっぱいで熱気に溢れていた。今回の出品者は、水越武さん、長野良一さん、杉山晃三さん、橋本文夫さんら6人である。モノトーンの美しいプリントが所狭しと並んでいた。





隣の席で盛り上がっていた若い女性たちと一人のおじさんをパチリ


この展覧会は、僕がJPUの専務理事をしていた時に、当時、理事長だった丹野章さんとギャラリー新居の社長とで何度か話し合い事業活動のひとつとして、はじめたものであった。それを仙台在住の佐藤浩視君が引き継いでくれている。彼は現在JPUの理事であるが、日本広告写真家協会(APA)の東北支部長も務めている。もちろん日本写真家協会会員(JPS)でもある。この日、JPS名誉会員の芳賀日出男さん、丹野章さんの大先輩をはじめ、写真家、メーカー、出版社、写真業界の関係者など大勢かけつけ、遅くまで写真談議がはずんだ。二次会は、日本中国写真芸術研究会会長の佐藤成範さんとJPS,APA会員の山口一彦君と有楽町のガード下の「さつま」へ行った。1年前に、この店で知り合った2人がパティーに顔を出してくれたのがうれしかった。10ヶ月ぶりの再会に乾杯をして旧交を温めた空梅雨の夜であった。

昨日、僕が”上州名物焼きまんじゅう”を食べながら、饅頭の考察などと”アホ”なことをしているときに、日本の政治は大きく揺れ動いていたのだ。内閣総理大臣の鳩山首相と政権与党の民主党小沢幹事長の2人がそろって辞職を表明したのである。その理由は、主に2つだ。一つは沖縄の米軍基地・普天間の問題である。もう一つは、政治と金にまつわる問題だ。しかしこの問題は総理や幹事長の首を切ったからといって、何ら根本的に解決する問題ではないであろう。かえって国際的には信用されなくなり、国内政治の上では混迷を深めるばかりだ。そしてそのつけは全て沖縄県民をはじめ国民へと跳ね返ってくるのである。わずか8ヶ月前に圧倒的な国民が選択した政権交代のあの高揚感は一体何だったのだろうか・・・・・と思ってしまう。




沖縄本島のちゅら海と海人


それにしても昨日から垂れ流され続けているテレビや新聞のステロタイプ化した番組や記事を見るに付け、「お前らメディアは何を取材し、何を見、何を伝えたいのか。そして国民を何処に連れて行こうとしているのか!」と心底怒りが湧いてきた。生まれてまだ8ヶ月間しかたってない政権にあれもこれもと期待し過ぎる日本国民にも呆れる。半世紀以上、日本の政治を任せてきた自民党へは、どれだけ期待したといううのだろうか。よく考えて欲しい。4年間に世界第2位の経済大国の首相が、4人もくるくると代わるというこの国の在り様こそ大問題なのにも係わらず、政治家はもちろんマスコミも、国民もそのことには頬かむりをしている。さらに許せないのは、テレビのコメンティターだか何だか知らないが、偉そうにそしてまったく無責任に、カメラの前でしたり顔でペラペラとしやべりまくっている連中である。




土佐・桂浜に建つ太平洋を見つめる坂本龍馬像。龍馬はいまの日本をどう見ているだろうか。


仕事だから、ギャラをもらっているからサービス精神旺盛にどうでもいいことをしべりまくっているのだろうが、お前らが垂れ流している無責任な言動がどれだけ、真実を見極めようとしている国民の眼を曇らしていることか。自分なりにしっかり取材し、よく学び、深く考察してから己の言葉に責任を持ってしやべりやがれ!!と直接言ってやりたい。世界有数の大国といわれる独立国であって、戦後65年もたった今でも、首都をはじめ全土に他国の軍隊が駐留していて、いまだ100を超える米軍基地があるという国が他にこの地球上に存在するだろうか?、また歴史上こんな国があったであろうか?・・・・・僕は10年前の21世紀の扉が開くまでにと思い、7~8年かけて一人で日本中の米軍基地と地位協定により米軍が自由に使用できる自衛隊基地などを取材した。世界史的にみても歴史上でも非常に珍しい「半占領下のニッポン」の姿を未来の子どもたちに見せてやりたいという思いから、この取材を敢行したのだ。ほとんどのマスメデァは見向きもしなかったが・・・・・。いまこそ祖国・日本をあるべきかたちにしていくのは、民衆の知恵と力しかないと思う。現状に憂いつつも希望は失いたくはないと切に思った一日であった。

「上州名物焼きまんじゅう」が群馬県前橋市在住の七宝焼きの作家・斉藤芳子さんから送られてきた。4月に会った時に、僕が焼きまんじゅうが大好きだと話していたからだろう。親切にも蒸かし蓋まで付いていた。僕ら上州の子どもにとっては、祭りやおめでたいことがあれば、何にがなくても焼きまんじゅうであった。あの香ばしい炭火で焼く匂い・・・・思い出しただけでもよだれがでてくる。子ども時代は、大きい素まんじゅうが五つ竹串に刺さって5円だった。先日、田舎の祭りの屋台で食べたら4個で200円だった。それでもその場で蒸かして焼いているので昔の懐かしい味がして旨かった。上州は古来からあまり稲作に適していなく、麦や蕎麦などの作物作りがさかんであったという。また上州南部地方を中心に二毛作が盛んで冬季は麦作が広くおこなわれていた。僕もよく冷たい空っ風の吹く中、麦踏みをやらされた記憶がある。



まんじゅうの語源は、三国志の英雄・諸葛孔明まで行き着くのだからおもしろい。孔明の「南蛮遠征」の帰途、長江の支流の濾水を渡れず困っていた時に、古来、49人の人頭を刎ねて河に献ずれば風浪は納まるという風習を聞き、羊豚の肉を麺に包み、人頭のごとく河に献じるとみごとに風浪は納まり無事河を渡れたという。それを名付けて「饅頭」と呼び慣わしたという。そのまんじゅうに甘い味噌ダレを付けて焼いた、上州焼きまんじゅうの起源は幕末(19世紀中期)頃といわれている。老舗の焼きまんじゅう屋の資料によれば、前橋の店が1857年、沼田の店が1825年に創めたとなっている。しかし歴史の文献などをみると戦国時代にもすでに上州の武士たちが、この焼きまんじゅうを食していたという記録もある。結婚式でも、お葬式でも、田植え、稲刈りを終えたあとなどにも必ず、煮ぼうとう、お切り込み、うどん、まんじゅうなど粉食品が出された。僕が運動会で一等になった時にも、県の写真コンテストで入賞した時にも本家のおばさんは、うどんを打って「けんちゃんがんばったね」と言って届けてくれたものである。いわば上州人にとっては、忘れることのできない”郷土食”なのであろう。


家の裏に咲き始めた紫陽花。6月1日撮影


「六月の女すわれる荒筵」 という石田破郷の句があるが、いよいよ今日から6月である。本格的な梅雨の季節の到来だ。じめじめした気候がうっとしいこともあるが、僕は案外この季節が好きである。この時期、風ひとつとってもさまざまな呼び方があっておもしろい。「季寄せ」をひらいてみると、まじ、くだり、ひかた、あいの風、だし、ながし、やませ、いなさ、茅花流し、筍流し、麦嵐、黄雀風、土用あい、御祭風、青東風・・・・・まだまだ拾っていけば切がないほどある。「やませ」は比較的知られているが僕がよく使っているコンパクトな「季寄せ」によれば、「5、6月ごろ山越えに日本海沿岸、東北地方に吹く寒い夏風」とある。山瀬風、山背風、梅雨やませなどとも言われる。こうみると日本の気候風土というものは、非常に繊細であり、なおかつ多彩だ。またそれを見事な表現をした日本人の先人たちの感性に感動するものである。僕らも少しはこうした日本人のこころのゆとりを学びたいものだ。



6月1日(火)発売の「サンデー毎日」(6月13日号)に、僕の連載「三国志大陸をゆく-Ⅲ呉之国」が載っている。ぜひ、お近くの書店、キヨスクなどでお手にとってご覧下さい。次回からは、「三国古戦場をめぐる」ということで引き続き連載が10月までは続く予定です。来月は、7月6日(火)発売の7月18日号となります。PRとなってしまいましたが、よろしくお願いいたします。5月に行った四川省西南部や7月にも出かける四川省の旅で撮影した写真もぜひ、使いたいと思っていますのご期待ください。みなさまのご自愛をお祈りいたします。・・・・・・・合掌




青時雨のなかの鎌倉大仏

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