写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2010年5月アーカイブ


昨日、5月29日はいくつかの展覧会を見るために都内に出た。先ず最初に向かったのは恵比寿にある東京都写真美術館。ここで5月22日(土)~6月6日(日)まで第35回日本写真家協会展が開かれている。この展覧会に併設してJPS会員作品「プロフェショナルの世界」展を開催している。そこに僕も「遥かなるチリ」(モノクロ・5点)を出品しているのだ。僕の他に木之下晃、熊切圭介、桑原史成、管洋志、田沼武能、芳賀日出男、星野小麿さんらJPS会員50人がそれぞれ5点の組写真で250点、見ごたえのある作品を出品していた。この後、同展覧会は、愛知県美術館(7月6日~11日)、京都市美術館(7月27日~8月1日)、広島県立美術館(8月31日~9月5日)と巡回する。お近くの方はのぞいて観て下さい。



次に向かったのは、柴田秀一郎写真展「バス停留所ー47都道府県巡礼の旅編」である。目黒のギャラリーコスモスで今日までやっている。柴田君はサラリーマンをしながら写真創作活動をしているユニークな写真家である。20年以上前になるが現代写真研究所で、僕が特別講義を待っていた頃の生徒だった。2005年に「標ーバス停にて」で第11回酒田市土門拳文化賞・奨励賞を受賞してから、雑誌の連載など大活躍である。そして今回写真展と合わせて写真集『バス停留所』(リトルモア)を刊行した。彼の写真の師は、僕と写真学校が同期だった写真家・町田昭夫さんだという。一昨年の12月、まだ若くして癌で亡くなられたが、草葉の陰で弟子の柴田君の活躍をさぞや喜んでいる事であろう。・・・・・合掌



その足で銀座の写真弘社へ。先日、中国四川省西南部を取材・撮影してきたフイルムの現像を出しにいった。ここに併設されている「フォトアート銀座」の写真展を見て、今日最後の予定である日本橋高島屋で開催されている「坪島土平作陶展」(6月1日まで)へ行った。弘社の社長夫人が「先生、日本橋はすぐそこですから歩いていらした方がいいですよ」というので銀座、京橋、日本橋と久しぶりに歩いてみた。途中気になった光景があったので何カットかパシャリとシャッターを切った。土平さんとは20数年前に雑誌の仕事で、三重県津市にある広永窯を訪ねてからの親交である。あの時は、窯元で一緒に酒を飲み、興にのってそのまま温泉に出かけてまた飲み、泊まった思い出がある。



土平さんはおん歳82歳となるがとてもそうは見えない若さだ。作品も次々と新しい表現に挑戦して生み出している。「半泥子は昭和の光悦・・・・」とか「東の魯山人、西の半泥子」と言われた川喜多半泥子の唯一の内弟子としてその精神を継承してきたのが坪島土平さんである。17歳から広永窯に入ってから約10年間、半泥子が窯に立てなくなるまでの最晩年の半泥子の生き様を見続けた人である。土平作品は、今はとても高価て僕などには手がでないが、その昔、土平さんのお猪口や徳利を幾つか買っていたのでいまも大切に持っている。気分が落ち込んだ時などは、”土平猪口”でしみじみと飲むと何故か気分が晴れてくるから不思議なものである。藤村州二君という確かな後継者もできて土平さんは今後益々活躍することであろう。ちなみに7月に大阪高島屋で、11月には横浜高島屋での作陶展の開催が決定している。自愛しつつ、いつまでもすばらしい作品を見せてください。 合掌

昨日、5月26日は「フォトコン」編集部の坂本太士君と同誌に連載中の「小松健一の写真道場」の7月号以降の打ち合わせを有楽町でした。同企画もいよいよ大詰めとなり門下生2人の個展開催の準備段階へと入ってきた。2008年12月号から2011年1月号までの予定だから足かけ26回の長期連載となった。ところで今日、都内に出かけてきた最大の目的は岡井輝毅さんの77歳の喜寿をお祝いするためだ。2人でしみじみと一杯やろうということになっていたからである。



岡井輝毅さんは写真界では知らない人はいないほど著名なジャーナリストである。本当は写真評論家と言ってもいいと思うのだが、本人が嫌ってこの肩書きは絶対に使わない。早稲田大学政経学部を卒業後、朝日新聞社入社。南米移動特派員やソウル支局長、「週刊朝日」副編集長、「アサヒカメラ」編集長など歴任して1989年に退社。以後フリーのジャーナリストとして写真評論の執筆、写真集の編集などを手がけてきた。主な著書には『評伝林忠彦・時代の風景』(朝日新聞社)で2001年日本写真協会賞年度賞、『土門拳の格闘』(成甲書房)で2006年日本写真協会学芸賞、『昭和写真劇場ー遥かなる時代の告白』の大著など多数がある。編集に携わり世に出した写真集は96冊。後4冊出して100冊にしたいと意気込んでいる。著書も後5冊は刊行したいと言う。



また、俳句同人誌「一滴」の代表を務める俳人でもある。この日、岡井さんと待ち合わせをしたのは新橋の烏森口のちゃんこ料理「井筒」。この店は岡井さんのお気に入りでもう35年ばかり通っていると言う。僕も岡井さんに連れられて、写真家の水越武さんと来てからすでに10数年になる。新橋へ来たときにはたまには顔をだす客である。「井筒」は言わずとしれた大相撲の井筒部屋の初代鶴ヶ峰関の女将さんが昭和42年に開店した。鶴ヶ峰といえばあの名横綱・双葉山の親友である。いまは長い間、井筒部屋の料理人をしていた野村龍二(70歳)さんが2代目の主人として店を繁盛させている。板場のなかには3代目を継ぐ息子さんも修業している。店のはし袋には、まわしの絵に「井筒部屋の唄」が3番まで印刷されていて関係を偲ばせる。以前に主の相撲甚句を聞いたことがあるがよく通る声で感嘆した記憶がある。




岡井さんと僕はちょうど20歳離れている。いわば親子の関係に近い歳の差の友人である。「アサヒカメラ」編集長時代から知ってはいたが、親しく話したことなどはなかった。親しく付き合うようになったのは20年前、何かのパーティーだった気がする。以来、よく飲み、よく論議した。だいたいは岡井さんの弁を僕が一方的に聞くことになるのであるが・・・・・。彼の書く文章は勿論好きではあるが、正義を貫くジャーナリスティクな人間性が何よりも好きで尊敬できる人である。酒の飲みっぷりも気持ちが良いほど豪快であった。ご自宅で夏に開く「トマト会」にも何度かおよばれした。奥様がまた美しく素敵な方である。「井筒」の焼酎のボトルに、この日の記念にと僕が「残雪の峠は風の音ばかり・・・・風写」と書いたら岡井さんがそれを受けて「風を聴くそぞろに偲ぶ初夏の喜寿・・・・輝生」としたためた。久しぶりに愉快な酒であった。岡井さんと別れてから長く通っている有楽町のガード下の「さつま」(創業昭和26年)と「銀楽」(創業昭和32年)へ顔を出し、一杯やって帰路についたのであった。


5月22日、23日に江ノ島・鎌倉において中学校の同窓会がおこなわれた。何故、江ノ島・鎌倉なのかというとそれは45年前に修学旅行に来た思い出の地だからである。僕は数日前に中国四川省西南部、チベット国境の旅から戻ったばかりで疲れてはいたが参加した。2年前の同窓会は、ちょうどヒマラヤ取材と重なっていて参加できなかったので、今回4年ぶりに幼稚園、小学校、中学校と同じのみんなと会えることになるからである。僕らの同窓生は卒業生は99人いたが亡くなったり、行方不明で連絡がつかなかったりで、現在91人しか連絡がつかない。そのうち今回参加したのが38人、約42%の出席率だからたいしたものだ。幹事のみんなが魅力的な企画を立案してくれたからであろう。まずはご苦労さまでした。



初日の22日は、13時に集合して有志で江ノ島めぐりをした。上州からの参加者組はバスを仕立ててそれこそ修学旅行気分で、”海蛍”などを見学して少し遅れて到着した。初夏の日差しで湘南の海にふさわしい日和であった。江ノ島は江戸時代から観光の地として栄えていたというがこの日も参道は人でごったがえしていた。僕は若い頃、小田急沿線に10年間程住んでいたので、まだ小さかった子どもたちを連れてよく遊びにきていた。一昨年は、雑誌「PHP」の連載「路面電車の走る街」の取材で2度。昨年は、生誕100年を記念した太宰治の本を新潮社から出版するために、太宰が二度の自殺未遂を計ったこの江ノ島と鎌倉に2度取材に来ている。と言う訳でわりとよく訪れているのである。



でもここへ来ると必ず口ずさみ、思い出す歌とそのエピソードがある。それは「真白き富士の峰、みどりの江ノ島・・・・」の歌である。修学旅行でバスガイドさんが語ってくれた哀しい物語を40数年たった今も忘れずに思い起こすのである。胸が熱くなるのだ・・・・・・。夜はお決まりの大宴会。数十年ぶりの同窓生もいて懐かしい話と美味しい酒は尽きなかった。野球部員だった男5人と女性2人で夜明けまで街のカラオケで盛り上がって5時に戻ったという猛者の同窓生もいた。とにかくみんなうれしいのである。頭髪はすっかり薄くなり、白髪も多くなった友、僕のようにお腹が出て太り、歳相応に皺を刻んだ友。夫と死別し、妻と別れ、再婚した友、そして外国で暮らしている友・・・・・。この45年の間の人生は一人ひとりそれぞれだ。僕は友たちの老いた顔を見つめながら美しいと思った。愛おしいとも思ったのである。そんな友と飲む酒はまた格別に旨かった。



翌日は雨・・・・。緑雨である。鎌倉の古刹・長谷寺から巡ることにした。この寺は奈良時代の天平8年(736)開創だから鎌倉でも有数の古寺である。相合傘で境内を周る友をほほえましく思った。お守りをひとつ買い求めてから近くの鎌倉大仏へ行った。ここは修学旅行で全員で記念写真を撮った思い出の場所である。大仏様を背景にしてみな緊張した顔でおさまっている写真が一葉、僕の手元にもまだある。同じクラスだった友が僕の傍に来て与謝野晶子の短歌、「鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」(『恋衣』)を口ずさんで、「この歌碑が大仏様の裏手の目立たない所にあるのですよね」というのだ・・・・。こういう会話はこの地にふさわしい。その時は言わなかったが、歌中の「釈迦牟尼」は誤りでこの大仏は、「阿弥陀如来」の坐像である。



降り続く雨のなかを御霊神社を経て極楽寺まで歩いた。途中、今朝しらすが獲れたというので地元の「三郎丸」という小さな魚屋で「釜揚げしらす」を買った。上州から来た友たちも土産に買っていた。「鳩サブレー」も大量に買っていたが・・・。江の電で腰越まで行き、しらす料理で知られる「かきや」で昼飯とした。しらす丼、生しらす、しらすのかき揚げなどしらす三昧であった。けっこう歩いたので渇いた喉にビールが沁みた。ここでまた、3年後の再会を誓って名残欲しくも解散したのである。いのちあらばまた3年後に語り飲み明かそうではないか。わが友たちよ!ありがとう。達者でね・・・・・・・。  合掌




この日、下の弟夫婦が上京していたので、行きつけの銀座ライオンで会った。嫁のガラス工芸の先生が松屋で展示会をしているので見にきたのと弟は仕事の打ち合わせだという。弟は家に泊まった。兄弟でゆっくりと飲んだ。

去る5月20日、東京銀座でおこなわれた「第7回飯田市藤本四八写真文化賞」の受賞式ならび記念パーティーに出席した。先立って5月26日まで、キャノンギャラリー銀座で開催されている受賞記念展覧会を見た(なおこの展覧会は5月29日から6月13日まで飯田市美術博物館においても開催される)。今回の写真文化賞は、奈良に在住して一貫して日本の美と文化をテーマとしてきた写真家の井上博道さんが受賞した。同写真賞は、岡田勤さんの「Nature-mind-命の瞬き-」である。この賞は飯田市出身で戦後日本の写真界の発展に寄与した写真家藤本四八先生の業績を称えるとともに、日本写真芸術の未来を拓くことを目的に平成9年(1997)に飯田市が主催で始まったものである。



「環境と文化」というテーマに基づきプロ写真家として永年写真芸術活動に貢献した作家を顕彰する同写真文化賞は、2年に1度選考がおこなわれている。第1回の受賞者は、芳賀日出男氏、第2回目が不肖僕。第3回水谷章人氏、第4回三好和義氏、第5回野町和嘉氏、第6回竹内敏信氏が歴代の受賞者であり、僕を除けば堂々たる日本を代表する写真家たちである。選考委員長は藤本先生が務められていたが亡くなられてからは、田沼武能(社)日本写真家協会会長が務めている。公募の部の「写真賞」には、いままで3人の僕の写真の生徒、教え子たちが受賞しているのも少しは自慢である。



この日は井上博道さんの受賞ということで、僕はうれしかった。彼の一貫した創作活動には以前から注目していたし、入江泰吉さんや司馬遼太郎さんの影響を色濃く受けている写真家でもある。会場には奥様も出席されていて受賞をこころから歓んでいた。選考委員長の田沼氏は「仏像を撮っても、遠い過去の仏師がかれによって再誕し、刻んだときのの心まで写し出している・・・」という作家・司馬遼太郎さんの言葉引用して井上さんの仕事を絶賛した。小樽から藤本先生の長男の建築家の藤本哲哉さんもかけつけてきており、久しぶりの旧交をあたためた楽しいパーティーであった(上の真ん中の写真で芳賀さんと写っているのは「アサヒカメラ」奥田明久編集長)。

中国四川省西南部の旅の2回目の報告である。標高1600mの高原の都市・西昌から一路、標高3000mある大雪山脈の山懐にある町・九龍へ。約300キロの道程だ。この町は理事長の烏里烏沙君の生まれた所だ。小学校に上がる前までこの地で暮らしていたという。その後は一家で康定へ出た。康定から九龍へ続く道がようやく開通したのは、つい10数年前、烏里君一家は馬で一週間かけて、新居地・康定へ辿りついた記憶があるという。



九龍までの道路はひどい悪路で、背中の筋肉は激痛をともなった。車の乗り降りにも支障きたす程である。砂利道ならまだいい。アスファルトが欠けた道はどうしょうもない衝撃が車を襲う。重量オーバーの荷物を満載にした大型トラックが引切り無しだから道路も傷むのだろう。それでも10時間程かかって、ようやく九龍に着いた。ホテルですぐに1時間ばかりベットに横になった。しゃべるのも億劫なほど疲れていた。翌朝も早く出発、町の屋台で揚げパンと万頭と温かい豆乳で朝食とした。いままでは朝は麺類が多かった。そしていよいよ大雪山脈、折多山山脈を越えて、烏里君の兄弟をはじめ多くの親戚が今も暮らしている康定へ向かう。僕としては今回の旅でもっとも関心がある町である。それは上州出身の矢島保治郎(今年の2月27日のブログ記事参照)が今から100年前の明治43(1910)年7月から約4ヶ月間いた町である。当時の町の名前は打箭炉で、矢島の日記によれば人口10000人を超える大きな町であった。西蔵の強靭な馬や岩塩と中国の茶などの交易が盛んな町だった。いま僕は、先輩上州人・矢島保治郎が歩いた道程を100年後の今日、なぞってみたいと密かに計画を進行中である。





先ず最初の峠は鶏丑山峠、標高4500mだ。峠を歩いて越えて行くチベットの青年3人と出会った。風が強くタルチョーという5色の祈祷旗が音をたたて紺碧の空にはためいていた。一旦下るとチベットの村々が現れるが、そのどれもがりっぱな大きい寺(ゴンパ)のような作りだ。いわゆる建築ラッシュでどの家も新築に立て替えている。ここ3年~5年ぐらいのできごとであるらしい。部屋数は20部屋をこえ、中には3階、4階建てのまるで城のような家もあった。家の主に尋ねると「冬虫夏草」で儲けたのだという。つまり”冬虫夏草成金御殿”である。現地でも1個50元で売っていた。約10米ドルである。このブームになる前までは、1個5カク(1元の2分の1)でも売れなかったといからここ10年程で50倍の値段に跳ね上がったという事になる。御殿のような家が立ち並ぶはずである。だからみな4月~8月までは必死になって冬虫夏草取りにせいを出す。真面目にコツコツ仕事をやるのが馬鹿らしくなってしまい堕落した生活を送る者も多くなっているという。今回の旅での最高地は4600mの子梅峠だ。日陰ではまだ残雪があった。目の前には、大雪山脈もふくめた横断山脈の最高峰ミニヤ・ゴンガ7556mが聳え立っている。連なる峰峰もみな6000m級はあるがやはりミニヤ・ゴンガは図抜けて高かった。峠には必ずある石のチョルテン(仏塔)に身を任せて、しばらく風の音を聴いていた。



3つ目の峠は折多山峠、4298mだ。自転車で登ってきた漢民族の男女の青年たちと出会う。いま中国ではトレッキングやサイクリング、冒険などが一種のブームとなっているのだ。途中、ギャロン・チベット族の建築物として知られる「ちょう楼」と呼ばれる石を積み上げた5mから20mの建物が村の中に建つ村がいくつかあった。何に使うのか、目的は何なのかまだあまりわかってはいないみたいだ。それでも数百年の歴史はあるという。石楠花も大小様々な種類が咲き誇っていた。新緑の野山はまさに「山笑う」の季節で清流の響きが辺りに木霊してなんとも美しい風景であった。



烏里理事長が小学生から高校生まで暮らした町・康定である。少し郊外に立てば6000m級の連峰が見えるが、町の中は両側に山が迫る峡谷の町で、町のど真ん中に大きな川が急流をなしているのである。ちょうど100年前にこの地に辿り着いた矢島はどんな思いでこの町をながめたのだろうか・・・・・・。



帰国前夜、成都の街で1年ほど伸ばし続けて肩まで届いていた髪を急にバッサリと切った・・・・・(失恋したからでは勿論ない)。切る前と切り終えた後を何となく記録に撮った。腹が出ていて醜いのはご容赦!!また会おう!!

5月11日~18日まで、NPO法人「チベット高原初等教育・建設基金会」の派遣として、3名(烏里烏沙理事長、大岩昭之理事と僕)で出かけた中国四川省南西部の現地視察の旅を写真を中心にドキュメンタリー風に2回に分けて報告する。撮影は”SIGMA-DP1”なので、レンズは28ミリ程度1本のみ。雪山などのアップが欲しいところだがご容赦願いたい。




5月11日朝6時に、いつものタクシーが自宅に迎えに来る。最寄駅前からの高速バスは順調に成田国際空港へ着いた。予定より1時間も早かった。中国東方航空は定時に上海に。しかし万博に沸くこの上海で3時間待たされる破目になった。夕方6時に着くはずだった成都には9時過ぎに着いた。しかし、スイス在住の歌手のチベット人や出版会社の社長、銀行の幹部などが待ち構えていてくれて初日からの宴会となった。




5月12日、早朝に成都を出発。この日330キロ離れている涼山イ族自治州甘洛県まで辿りつかねばならなかった。雨の峨眉山(写真2枚目)を通り、大渡河に沿って南上していくのだが、その大峡谷の山道は凄まじいという言葉でしか表現できない。遥か下に成昆鉄道が走っているが、この鉄道の全長約1100キロの内、3分の1以上がトンネルであり、3分の1が鉄橋だと言われていることからもいかに厳しい環境がわかるだろう。途中、事故に会った。遺体はまだ路上に置かれたままであった。この国を旅していて必ず遭遇するのが交通事故で、いつ自分が会うかわからない不安がいつも付き纏っている。運転手の周君とその愛車・三菱パジェロを信じ、命を託すしかないのである。涼山イ族自治州全体の人口は1950000人、甘洛県は180000人だ。この町から約30キロ山奥に入った所に今回の基金会の事業対象である乃托村小学校がある。2年前に基金会の援助によって建設されたばかりである。到着後さっそく現地スタフッや県教育局幹部らと打ち合わせをおこなった。終了後、イ族料理で持て成しを受け、イ族の娘さんたちの歌声を聞いた。民族衣装も赤、黒、黄色の三色を基調として美しい。家の壁や衣装の文様がどこかアイヌ民族に共通するものを感じた。



5月13日、朝から人口1500人の乃托(ネァト)村へ向かった。つい最近道が開通して村まで車が入るようになった。今日はその記念式典も兼ねて、僕らの歓迎もしてくれるのだという。今までは車が入れる所から2時間以上の山道を歩かねば村には辿り着けず、学校建設の木材などの運搬はもとより、基金会のメンバーが現場視察に来るのも大変だった。道が開通したとはいえ、道路と呼ぶには程遠く、至る所でがけ崩れや湧き水で道路が泥水状態となり、何台もの車が立ち往生していた。ハンドル操作をひとつ誤れば谷底へ真っ逆さまである。今回の耐震補強工事に使用する資材も本格的な雨季に入る前に町から運びこまないと大変なことになることを実感した。最初の写真が村の遠景。左端の大きな建物が小学校。それ以外は、イ族のネァト村での人々のスナップ。ちょうど田植えの季節であった。



ネァト村小学校は先にも述べたが2年前に基金会の援助で建設されたばかり。写真でみて判る通り新しく、イ族の伝統的な建築様式を用いて周りの景観とも融合するように配慮された校舎である。全部で5棟あり広い校庭も子どもたちにとっては魅力的だ。この校舎の耐震補強工事が今回の支援事業の中心なのだ。理事長、建築が専門の大岩さんと現地スタッフと問題点を協議、確認しながら建物を見て回った。生徒は1年から4年生までで148人。来年から5年生、再来年は6年生が誕生することになるが教室は充分対応できる。教員は校長先生をふくめて現在4人だ。若い先生ばかりである。この日は豚をはじめ、牛も一頭絞めて僕たち来賓や村中の人たち、犬たちにまでも振舞った。ビールの量も1000本以上は空けたのではないだろうか。とにかく普段ご飯を食べるときにでもビールを2~3本注文するのではなく、ダースごと注文してダンボール箱をバリバリと破って飲みまくるのである。沖縄の宮古島の「お通り」や熊本、土佐の飲みぶりを思い出したが、イ族の方が上をいくだろう。とにかく教室にうず高く積み上げられているビール箱をみて唖然とした。むろん子どもたちも大人たちに混ざって平然と飲むのである。家でも何処でもだそうだ。烏里理事長の話によれば、3~4歳の子どもがお客さん相手にビールで乾杯する光景を何度もみているそうである。僕らも子どもの頃、お正月やお祭りの時などは、大人たちに「お前らも飲め~」などと言われたものであるが・・・・でも小学校高学年になってからだったような気がする。子どもには苦く、なんでこんな物をおいしそうに大人たちは飲むのか不思議でしょうがなかった。



5月14日、さらに南となる涼山イ族自治州の州都・西昌へ向かった。州の幹部と会うのとイ族の伝統的な建築物を見るのが目的である。甘洛からはまた山、谷の山岳道路で距離は260キロ余りだ。昨日から僕の体は、全身が筋肉痛で悲鳴をあげていた。西昌は標高1600mの高原の街で一年を通じて温暖な気候だという。雲南省の昆明よりも冬は暖かく過し易い。3~4000m級の山々に囲まれた街の中心に大きな湖もあり、確かに風光明媚な土地である。しかし人口は100万を超えるモダンな大都会である。いまも古くから日常的に使われているイ族語は、ナシ族のトンパ文字に似ている象形的なものもあれば、ハングル文字に近い文字もあって不思議だ。写真の二枚目は、北のシルクロードよりもはるかに歴史のある南のシルクロードであった街道の旧宿場町。いまも当時の宿泊客を守ったという城壁が残る村は静まりかえっていた。市内でくちなしの花の首飾りを2元で売り歩いていた少年。いい香りがするので僕は一つ買った。1930年代までイ族社会は奴隷制社会であった。人身売買の値段が定めらていて、19歳の未婚の娘が一番高く、僕などの値段はその60分の1にもならないタダみたいな値段だった。西昌のイ族博物館で、支配者階級の女が着けていた金の装飾品。三星堆文明の装飾品に似ているものを感じて興味を持った。


5月16日、標高4600mの子梅峠に同基金会理事でチベット建築研究家・大岩昭之さんと立つ。横断山脈最高峰のミニヤ・ゴンガ(7556m)が目前に迫る


先程、NPO法人「チベット高原初等教育・建設基金会」の中国四川省の甘洛県にある乃托(ネァト)村小学校校舎耐震工事事業の現場確認と打ち合わせを無事成功させて帰国した。僕を含めて3人とも何とか元気だ。8日間であったが、実質6日間という短期間で多くの現地の人々と会い、1670キロメートルの長距離を、それも4600メートルの峠をはじめ4500メートル、4298メートルの峠などの山岳悪路の連続で腰、背中、膝などの痛さで悲鳴をあげていたハードな旅であった。イ族とチベット族の人たちが多く住む地域で、夜の酒量も半端でなく、出てくる料理も大きい肉ばかり・・・・。そちらの方もほとほとに参った。ともかく詳しい報告は明日から何回かに分けてしたい。今日のところは死なずに無事帰ったというご挨拶にさせていただきます。ありがとうございました。 合掌


5月8日、僕が主宰する写真研究会「風」の2009年度の最後の例会が都内で開催された。会場は、世田谷線で行く初めての所だった。かっては路面電車だったこの電車に乗るのは30数年ぶり。昔と違って近代的な車両となっていて、こんな所にも時代の流れを感じるのだった。今回から新たにJPU会員でもあるNさんが入会した。この会の前身だった研究会のメンバーではあったが、ここ5年間程は合宿などの参加に留まっていた。「風」には入っていなかったのである。名古屋から通っているH君が二コン主催のコンテストの一席に入賞したというので彼の作品の合評から始めることにした。



この1年間で、それぞれが自分の作品作りのために努力した跡が、充分に感じとれる内容の作品であった。そして2期目となる2010年度は、各自が新たな目標をめざす事を確認しあったのである。ベテランのMさんは、この夏、20年間追い続けてきたタイ山岳地の最後の取材に挑戦するという。事務局長の鈴木さんは中国の作品50点を大四つのバライタ紙にオリジナルプリントとして引き伸ばすという。写真展と作品集の出版をめざすKさんは最後の追い込みの取材をすすめているし、塩崎「風通信」編集長は”五つの街の物語”シリーズの作品構成を深めている。・・・・・とにかく皆、オリジナリティーを発揮してがんばって欲しいと期待しているのである。以前、メンバーだったNさんが自宅の庭で取れたレモンを差し入れに来てくれた。会の終了後、H君の入賞とNさんの入会とYさんの写真学校の無事卒業を祝って乾杯した。



翌9日は、「NPO法人 チベット高原初等教育・建設基金会」の2010年度の総会が練馬区役所で開かれたので出席した。実はこの会の理事長は写真家の烏里烏沙君が務めている。昨年から僕と鈴木紀夫さんも協力しようと入会したのだ。今年の主な事業は、チベットの小学校の校舎耐震補強工事支援や図書室設備提供支援をはじめ、中国西南部地域との文化交流活動などである。年配の人が多かったがパワーを感じた。懇親会にも参加したがみなさんが、チベットへの熱い思いを語っているのを聞いてこうした場所に何故、日本の若者たちが参加していないのだろうかと寂しく思った。もともとこの会は、烏里君が日本の大学の留学生の時に、大学の仲間たちと立ち上げたものだそうだ。当初のメンバーは教員や学生たちばかりだったという。いまでは理事長である彼一人がダントツに若いのであって、次に若いのはどうやら僕のようであった・・・・・。明日、11日早朝から8日間ほど中国四川省の西奥地、横断山脈の最高峰ミニヤ・ゴンガ(7556m)の山麓にあるイ族の小学校の耐震補強工事の視察と打ち合わせ等のために、建築家の同基金会のメンバーと理事長の烏里君と僕の3人で行ってくる。帰国後、バッチリ現地の報告をしますのでご期待ください!!

 


諏訪から戻った翌日の5日は、昼から(株)日立製作所発行の「uvalere」の連載”中国大陸巡礼ー長江流域”の最終校正の確認と次回の”少数民族の故郷”の打ち合わせのために編集者のY君が来てくれたので、例の「三福」で会った。こどもの日(母への感謝の日でもある)の祝日なのに来てくれたので、まずはビールで乾杯した。2時間程で終わり、4時からは6月3日から9日まで川越のデパート・アトレで個展を開催する「写真集団・上福岡」のSさんが作品構成をして欲しいとやって来た。僕の写真が飾ってある奥座敷を借りて作品のセレクトと構成をした。タイトルは「瀧巡礼」で日本の瀧、108の風景を撮影しているのだが、風土や信仰と結びつけている美しい作品である。写真展の成功の前祝いということでまた乾杯をした。



翌日の6日も新宿のコニカミノルタプラザで開催中の野町和嘉写真展「サハラ、砂漠の画廊」を見に行った。野町さんがいたので作品のことで少し話を聞いた。その後、銀座で3箇所写真・絵画展を巡り、(株)二コンへ行った。機材のことや「矢島保治郎」の企画書の説明などするためである。中国の写真家、烏里烏沙君と合流して、すぐ近くのライオンビアホールへ行って何でもいいから黒ビールで乾杯した。この日も急に夏日となり喉が乾いていたのだ。その後、池袋の「琉球料理・みやらび」であらためて泡盛で乾杯しなおしたのである。  この日、親しい先輩写真家の藤井秀樹さんが亡くなられた。社団法人日本広告写真家協会会長を長く務めた。すばらしい大胆な広告写真を次々と発表した時代の旗手でもあった。ここ10年ぐらいはカンボジアのこどもたちをモノクロでドキュメントの手法で撮影していた。東京写真芸術専門学校の校長も秋山庄太郎さんから引き継いでからずーと務めてきていた。何年か前、僕がその学校へ行った時に、セバスチャン・サルガドが来ていて、彼に僕を「ヒマラヤを取り続けているフォトグラファーだ」と紹介してくれて、固い握手をしたことが忘れられない。まだ75歳だったというから無念の極みだ。やすらかにお眠り下さい・・・・・。  合掌



今日、7日は酒は飲むまいと思って外出した。まずは上野・アメ横へ。中国の友人への土産物を買いに出かけたのだ。そして毎日新聞社へ。「サンデー毎日」編集部の編集委員のYさんとデザイナーのAさんと打ち合わせのために出かけた。第2回目の「三国志大陸をゆくー魏之国」は5月11日(火)発売ですので、ぜひご覧下さい(6月からは毎月第一火曜日の発売号となる予定です)。写真原稿を4回分渡し、気分が良かったのと昼飯を食べてなかったので腹が減ったこともあって毎日新聞の地下レストラン街で昼飯ついでに黒生を一杯やってしまったのだ。トホホ・・・意思のなんて弱いことか。せっかく都内に出かけたのだから気になっていた都立写真美術館でやっている「森村泰昌・なにものかへのレクイエムー戦場の頂上の芸術」を見に行った。ここで一言で感想を言い表すことはできないが、写真という表現についていろいろと考えさせられた。おもしろいと思ったし、ドキッとさせられた作品もあったが、とにかく見を終えて帰るときは気分は重く沈んでいた。外の横殴りの雨もさらにこころを暗くしたのである。写真家としての立位置を今後どこに据えるのか。これからの時代さらに鋭く問われるだろうと思った・・・・・・。というような不安な気持ちを吹き飛ばしたいと思い、我が家の近所の「三福」で、来週からしばらく食べれなくなる魚貝の刺身と鰯の丸干しで、芋焼酎を一杯やっていて、雨が上がったのを見計らってさ~と帰宅したのであった。


立つっているのが主人のGさん、右が藤森編集長のお父さん




「フォトコン」藤森編集長のご家族


憲法記念日の5月3日の昨日は、「信濃国一之宮 総本社 諏訪大社」の上社本宮の御柱祭の里曳きを取材に行った。早朝に家を出て、新宿発「あずさ7号」で上諏訪へ向かった。写真研究会「風」の鈴木事務局長と樋口健二写真塾生だったIさんが同行した。上諏訪駅には「フォトコン」の藤森邦晃編集長のご両親が出迎えに来てくれていた。実は2年ほど前から7年に一度おこなわれる御柱祭に、ぜひ来てくださいと招待されていたのである。この日は、上社本宮と上社前宮のすぐ近くにあるGさんの家におよばれした。Gさんの奥さんのYさんは、編集長の父親である藤森さんの地元諏訪の写真教室の生徒さんであり、僕が「フォトコン」の審査員をしていた時の常連の応募者で、感性のいい写真家として存じてはいた。



G邸の16畳間には、すでにお客さんでいっぱいだった。Gさんは祭りの世話人で地元の顔役らしく、「6年間稼いできたものをこの祭りの3日間のためにみなつぎ込むのが奉納なんです。どんどん食べて飲んでください」と次々に訪れる客人にすすめるのである。僕らはこの地方で採れた茸や独活料理などおいしくいただいた。やがて編集長の家族も合流した。あんまり酔いが回らない内にと、藤森さんの案内で本宮へお参りに行った。途中、「御柱」と呼ばれる樹齢200年程の樅の巨木を氏子のみなさんと一緒に曳いてみた。この地から25キロメートル離れた八ヶ岳中腹から周囲3メートル、長さ17メートル、重さ12~3トンもある大きな御用材を車もコロも一切使わず1000~2000人の氏子衆の力だけで、急坂や川を曳いてくるのである。上社本宮と前宮で計8本。下社春宮と下社秋宮も8本の御柱を立てるが、こちらは約10キロ離れた霧が峰から切り出して曳いてくるのだ。起源は平安時代初期、桓武天皇の時代に遡るというから歴史のある由緒ある儀式である。



Gさんの家の庭には次々と八剣太鼓やら長持やら木遣りなどの行列がやってきて、演目を披露してくれる。その度に、料理を追加し酒を注いだり、ご祝儀を渡したりで主のGさんと奥さんのYさんは大忙しであった。僕らはご馳走を食べ、そして酒を酌み交わして、ときどきシャッターを切るだけという極めて”極楽とんぼ”である。夕日が残雪の八ヶ岳を照らしはじめるのを眺めながら35年前、まだ僕が新聞記者の駆け出しだった頃、諏訪の精密機械工場に勤める油絵を描く青年を取材に来た。そのとき偶然に下社の御柱祭の里曳きに遭遇して写真を撮ったことを思い出した。その青年はその後上京し、いまはある新聞社の写真部に勤めているという。一昨日、諏訪で暮らす親しい写真家の石川文洋さんに電話をしてみたら、ベトナム解放35周年の行事に招待されていて4日に帰国するとのこと。そう言えば文洋さんは、下社の御柱祭の記録担当を頼まれていて半被もそろえて張り切っていると奥さんがメールに書いていたっけ。久しぶりにお元気な先輩に会えると思っていたんだけれども・・・・・。



今日、5月1日はメーデー。労働祭、働く者の祭日である。水原秋桜子に「踏みしだく芝の青さや労働祭」という句があるが、ここ最近はほとんどと言っていいくらいにそうした実感はない。労働組合や学生運動も以前のような活気がなくなっているようで、メーデーの集会もあんまり聞かなくなった。僕自身ももう30年以上は参加していない。20代の頃の新聞記者時代は、職場の同僚たちと旗やプラカードを掲げて、会場の代々木公園に行ったものだった。デモ行進の解散後は、みな昼間からビールで焼き鳥と言うのが定番だった。若い女性もたくさん参加していて、新緑が5月の風にゆれ、彼女たちのはちまきをした長い黒髪から香ってくるシャンプーの匂いが新鮮だった記憶がある。




陽が傾きかけた頃、散歩がてらに駅前に置いてある自転車を取りに行った。帰りに僕の作品を購入して店に飾ってくれている”洒落た居酒屋・三福”へ寄った。喉が渇きビールが一杯飲みたかったのである。僕がこの店に行き始めてから、かれこれ27~8年になるがその間、10年間のブランクがある。東京の事務所をたたんで戻ってから、また行き始めて4年目だ。この「三福」という店は、昭和17年の創業で、今年で68年目となるからこの界隈では老舗である。現在、2代目主人の小寺長文さんと3代目の息子さんの正修さんが厨房に入り、客の仕切りは女将の時子さんがテキパキと切り盛しているのだ。鮮魚から肉料理、家庭的な手料理まであり、どれもが旨く安いときているからいつも地元のお客さんで満員だ。そこの女将が2作品を購入してくれたのである。奥座敷の床の間に「土佐の記憶ー津和山神楽」が飾ってあった。もう1点は「少年の海ー熊野灘」。佐藤春夫の小説『わんぱく時代』をイメージした作品である。何はともあれ、絵画も写真も今まであんまり興味もなく、買ったこともなかったという女将が芸術というものに関心と理解を示し、僕みたいな貧乏写真家を陰ながらサポートしてくれるのはうれしい限りである。今宵のビールはとりわけ旨かったぜよ。・・・・・合掌

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