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2010年2月27日 上州が生んだ希代の冒険家・矢島保治郎(1882-1963)の西蔵入城ルートの取材計画を練る。

昨日、池袋にある東京芸術劇場で中国の写真家・烏里烏沙(うり・うさ)君と会った。それは2013年に生誕130年、没後50年を迎える郷土・上州が生んだ冒険家・矢島保治郎が世界で初めて外国人として四川省からチベットのラサへ入国したルートを取材する計画のためだ。僕が矢島のことを知ったのはつい7~8年前のことであるが、折りに触れ資料などは収集していたのだ。いつの日かこの上州の先輩が遥か明治時代に果たした旅程を自分も辿ってみたいと思っていたのである。


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矢島は明治15(1882)年、群馬県に生まれ、育った。26歳の明治42(1909)年2月3日に、単独で世界一周旅行をめざし横浜港を出港している。まず向かったのは中国大陸。上海、北京、成都などを経由して明治44年3月4日に当時、鎖国政策をとっており「秘密国」であったチベットの都・ラサにようやく到達している。しかしこれは軍や大きな宗派など一切の後ろ楯の無い者にとっては、正に奇跡ともいえる所業であった。ラサには1ヶ月間程滞在の後、ダ―ジリンで第13世ダライラマに拝謁する機会を得てインドのカルカッタへ到着。その後、英国の貨物船の船員となって東南アジア、アラビア、エジプト、スペイン、モロッコなどを経てアメリカのボストンに明治44年11月27日に上陸。翌年の1月1日にはニューヨークを出港し、同年4月に横浜港に到着した。3年振りの祖国であった。しかし矢島のすごい所は、そのわずか2日後には、またチベットへ向けて横浜港を出港していることだ。2回目のラサ入城ルートはインド、ダージリンを経て3ヶ月間程かかり、単身でチベットへ入国している。明治45年7月23日午後2時に、ラサに二度目の入城。この日から7年間にわたる運命の矢島のチベット生活が始まるのである。


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この2つのルートを完全走破して取材する計画立案のために、矢島が約3ヶ月間滞在した西蔵との国境の町・打箭炉(康定)出身でイ族でもあり、チベットに詳しい烏里君の協力を得たいと思ていたのだ。大きなチベット地図を広げて取材ルートを確認しながら食事をとっていると写真家の塩崎亨君が仕事先から駆けつけてきた。池袋北口は近年、中華街ができるほど中国の店が多くなっている。調味料から酒、雑貨などなんでもそろっているスーパーも多い。「どうして中国よりも安いのよ~?」と言いながらも烏里君は、奥さんと子どものために大量の食材を買い込んでいた。僕も豆板醤などを求めた。確かに信じられないほど安い。食堂も本場の四川料理に近い味を出していて格安である。特に酒の安いのは驚きであった。中国の農民や労働者が好んで飲む焼酎、「二鍋頭」(アルクオトウ・56度)が4合瓶でなんと1000円だった。もちろんそれだけで僕ら三人は完全に夢心地になってしまった・・・・・。昨年の「中国・三国志大陸の旅」を思い出した春の雨の宵であった。

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