写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2010年2月アーカイブ

昨日、池袋にある東京芸術劇場で中国の写真家・烏里烏沙(うり・うさ)君と会った。それは2013年に生誕130年、没後50年を迎える郷土・上州が生んだ冒険家・矢島保治郎が世界で初めて外国人として四川省からチベットのラサへ入国したルートを取材する計画のためだ。僕が矢島のことを知ったのはつい7~8年前のことであるが、折りに触れ資料などは収集していたのだ。いつの日かこの上州の先輩が遥か明治時代に果たした旅程を自分も辿ってみたいと思っていたのである。


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矢島は明治15(1882)年、群馬県に生まれ、育った。26歳の明治42(1909)年2月3日に、単独で世界一周旅行をめざし横浜港を出港している。まず向かったのは中国大陸。上海、北京、成都などを経由して明治44年3月4日に当時、鎖国政策をとっており「秘密国」であったチベットの都・ラサにようやく到達している。しかしこれは軍や大きな宗派など一切の後ろ楯の無い者にとっては、正に奇跡ともいえる所業であった。ラサには1ヶ月間程滞在の後、ダ―ジリンで第13世ダライラマに拝謁する機会を得てインドのカルカッタへ到着。その後、英国の貨物船の船員となって東南アジア、アラビア、エジプト、スペイン、モロッコなどを経てアメリカのボストンに明治44年11月27日に上陸。翌年の1月1日にはニューヨークを出港し、同年4月に横浜港に到着した。3年振りの祖国であった。しかし矢島のすごい所は、そのわずか2日後には、またチベットへ向けて横浜港を出港していることだ。2回目のラサ入城ルートはインド、ダージリンを経て3ヶ月間程かかり、単身でチベットへ入国している。明治45年7月23日午後2時に、ラサに二度目の入城。この日から7年間にわたる運命の矢島のチベット生活が始まるのである。


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この2つのルートを完全走破して取材する計画立案のために、矢島が約3ヶ月間滞在した西蔵との国境の町・打箭炉(康定)出身でイ族でもあり、チベットに詳しい烏里君の協力を得たいと思ていたのだ。大きなチベット地図を広げて取材ルートを確認しながら食事をとっていると写真家の塩崎亨君が仕事先から駆けつけてきた。池袋北口は近年、中華街ができるほど中国の店が多くなっている。調味料から酒、雑貨などなんでもそろっているスーパーも多い。「どうして中国よりも安いのよ~?」と言いながらも烏里君は、奥さんと子どものために大量の食材を買い込んでいた。僕も豆板醤などを求めた。確かに信じられないほど安い。食堂も本場の四川料理に近い味を出していて格安である。特に酒の安いのは驚きであった。中国の農民や労働者が好んで飲む焼酎、「二鍋頭」(アルクオトウ・56度)が4合瓶でなんと1000円だった。もちろんそれだけで僕ら三人は完全に夢心地になってしまった・・・・・。昨年の「中国・三国志大陸の旅」を思い出した春の雨の宵であった。

昨日は、僕らの俳句の会「一滴」(しずく)会に出席した。以前に僕はあんまり参加しない不良同人だと書いたと思うが、昨日はどうしても参加しなければならなかったのである。それはいままでの選者であった池田澄子さんから中原道夫さんにバトンタッチすることになっていたからである。僕の友人ということもあって、中原さんへ選者の依頼を同人のみなさんから頼まれ、僕からお願いした経緯があった。俳壇の超売れっ子俳人として、いまテレビやラジオにも引っ張りだこであり、俳句結社「銀化」の主宰もしている中原さんがよくもまあ引き受けてくれたと思う。ありがたいことである。


中原道夫新選者と岡井輝生「一滴」同人代表(右)

中原道夫新選者と岡井輝生「一滴」同人代表(右)


104回目の「一滴」句会は新選者の中原さんをふくめて21人が参加。兼題は無しで当季雑詠。僕もあんまりいい加減な句では彼に悪いと思って前々日に何句か詠んだなかから3句投稿した。僕にしては、めずらしく8点の高得点句と中原選の特選5句にも選句されたりでちょつと気恥ずかしいような気もした。句会終了後は、岡井代表を先頭に有志で飲み会へ。15人が参加して中原さんを囲んで盛り上がった。その後、2次会、3次会へと新橋の烏森界隈を流れた。最後は地元の同人も駆けつけて来てカラオケへ。中原さんの歌の上手さにも感嘆した夜でもあった。帰りは下車駅を乗り過ごしてタクシーでの帰宅。これも何年かぶりの所業であった。ト・ホ・ホ・・・・・・・。


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列立の兵馬俑坑余寒かな (特選句・中原道夫選)   茶褐色の大河の蛇行渇水期


雨水かなたましひ鎮め古戦場  (以上が句会投句作品)


密会の張良廟や春の雷       石仏前昼寝す漢春を待つ  (小松風写)

2月17日、大動脈瘤破裂で俳優の藤田まことさんが急死した。76歳のまだこれからという惜しまれる名役者であった。僕らの年代にとって藤田まことの存在は、テレビの普及とともに茶の間の人気者となった”スター”であった。日曜日の午後6時から始まる「てなもんや三度笠」を見ずには翌日の学校には行けなかった。教室では箒やハタキを腰にさして、上着の中に黒板消しを入れておき、机に上ってあの決め台詞をはきながら、「当たり前田のクラッカー」と黒板消しを懐から差し出すのだ。このポーズが誰が一番上手いか、みんなでやり合うのである。前田のクラッカーもずい分と食べた記憶があるが、口の中にやたらとクラッカーが広がってうまく噛めず、ムズムズしながら食べるのに苦労した。子ども心にはあんまり美味しくなかった。今もまだあるのだろうか?あの懐かしい味が・・・・・・。


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その後、「必殺仕事人」シリーズや「はぐれ刑事」シリーズ、そして池波正太郎の時代小説「剣客商売」シリーズなど彼の当たり役のテレビドラマは見てきた。肩肘はらない自然体の藤田の演技に好感を持ったのであろうが、それだけではない。終生芸を研き続けるという彼の芸人としての生き様に、カメラひとつで生きていく写真家として学ぶべきものを感じたのである。この間の藤田を追悼する歌番組をはじめいくつか見ていて、ふっと思ったことがあった。それは死んだ親父にどことなく雰囲気が似ているところがあるということだ。67歳で死んだ親父は、生前に似ているといわれた人に、東京オリンピックで日本の女子バレーボールチームを「東洋の魔女」と恐れられるまでに育て、金メダルに輝かせた大松博文監督がいた。もうひとりは、「クレジー・キャッツ」のリーダー、ハナ肇だ。僕も親父の笑い顔など似ているなあ~と思ったことはあつたが、藤田まこととは10歳ばかり離れていたせいか、似ているなどとは思ったことがなかった。それが今回追悼のテレビ番組を見ていて、ふっと親父が蘇ったような錯覚におそわれ、恥ずかしながら独り涙したのであった。酒のせいか、それとも歳のせいだろうか・・・・・。


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話しは、変わるが藤田の剣さばきの上手さは、他の役者と比較してみればすぐ解ることだが群を抜いている。それは僕が若い頃、剣道に明け暮れていたから、少なくとも剣の握り方、素振りや立ち振る舞いなどで直ぐにわかってしまうのだ。とくに「剣客商売」の藤田が役する主人公の小太刀の使い方はすごくリアルである。実は僕は枕元に今も小太刀の木刀を置いていて、朝起きた時などに左手右手各百回づつぐらい素振りをしているのだ。「ビュービュー」と風を切る音が清々しい。僕の三兄弟は若い頃は、みな剣道では知られた腕前であった。無論上州という地方ではあったが。それはみな死んだ親父の強い影響があったのは言うまでもない。庭先で素足になって真っ暗になるまで、竹刀で毎日稽古、手の甲がいつも擦り剥けて血が出ていたことを思い出す。あの頃の親父は本当に強かった・・・・・・。  合掌

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朝、眼を覚まして外をみると雪が降り積もっている。今年になってこれで8度めの雪だ。近年、地球温暖化問題を深刻に受け止めてきているが、その割には今年の日本はやけに寒い。冬季オリンピックが開催されているカナダのバンクーバーでは、雪不足に悩まされている様ではあるが・・・・・。昨日、2月に入って初めて都内へ出かけた。一昨年までの写真団体の役員をしていた時のことを考えると信じられないような生活環境の変化である。会議だ、打ち合わせだ、業界への挨拶回りだと今考えると、よくもあんなに出かけていたものである。僕の日記帖をめくってみるとこの5年間で、年間平均500時間ぐらい費やしていたことになる。勿論、ボランティアであるが、僕ら写真家のため、日本の写真業界のために、少しでも役立つことが出来たらと思ってやってたこと、自分としては全くの悔いはない。


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昨日は、(社)日本写真家協会の第3回国際交流委員会セミナー「久保田博二の軌跡と展望」に参加するためである。聞き手は細江英公さんだ。久保田さんは「信仰も生活習慣も美意識も、その地の自然風土によって成り立っている。その全てが独自的だ」という視点にたってこの50年間、世界を撮り続けてきている。直接本人からお話を聞ける機会はそうはないので、出かけたのである。細江さんのトークにも魅力があった。会場は100人以上の参加で満席だった。僕は30分前に行って前の席を確保していた。話は1947年にロバート・キャパやカルティエ・ブレッソンらによって創設された「マグナム・フォトス」についてから始まり、'65年にマグナムに参画して渡米したニューヨーク、シカゴ時代、'69年の復帰前の沖縄取材、'75年のベトナム・サイゴン陥落取材、その後の中国全省、アメリカ全州、アジア、日本などの取材活動を様々なエピソードを交えながら語ってくれた。


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そして70歳を過ぎたいまもなお、全世界に51名しかいないマグナム正会員であり(アジアでは久保田さん一人)、現在も「世界の食料」をテーマに旺盛な取材活動を展開しているという。5月には14度目となる北朝鮮への取材をすると意気込みを語っていた。会場の若い写真家や外国の人たちからの質問にも「夢は持ち続けること、諦めないで絶対にやる、死んでもやり抜くんだという気持ちが大切だ。資金が無いなどと諦めてはだめだ・・・・・」と熱いエールを送っていた。会の終了後、参加していた「風」同人の鈴木紀夫さんと塩崎亨君と近くの奄美料理を出す店に行ってみた。僕の顔を見るなり「何年ぶりかね~、あんまりご無沙汰しているのでヒマラヤで死んじゃったかと思ったよ・・・・」と女将に言われ何故かうれしかった。2年前に入れた芋焼酎の一升瓶もとっておいてくれて出してくれた。みんなも感激し、今日の講演を肴に、大いにお湯割りの盃はすすんだ。「俺たちが中国を5000キロ車で走って大変だと思ったが、久保田さんはアメリカをキャンピングカーで25万キロ走ったという話には参ったね・・・・・」と久保田さんと同世代の鈴木さん。もっともっと精進してがんばらねばとつくづくと思った。店の外に出ると火照った顔に、都会の雪がちらついて気持ちがよかった。

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カナダ・バンクーバーの冬季オリンピック大会が始まり、深夜までその熱戦をテレビ観戦しているので、サラリーマンやOLも、みな眠たそうな眼をして出勤しているのだろうと想像しつつ・・・・、僕はテレビに釘付けでいるのだ。つまり閑を持て余しているのである。昨年の師走に中国大陸を5000キロメートル車で走ったことは、12月の末にブログで報告した通りだが、その旅でとりわけ気に入った街があった。それは三国時代の武将・張飛が治め、彼が亡くなった地、中である。長江の上流、嘉陵江の岸辺に数百年前の歴史ある町並みが今も残っており、人々はそこで生活を送っているのである。


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もうひとつの街は四川省の都・成都だ。人口1100万人の大都市とは思えないゆったりとしたマイナスイオンのようなリズムが流れており、そこに身を置くとなんとも言えないように心がリフレッシュされるのだ。それになんといっても「味は四川にあり」と言われるように、古代よりこの地は食の名産地として知られているのである。この二都を中心にのんびりとした旅をこの夏、企画したのだ。名付けて『写真家小松健一と三国歴史遺跡を探訪しながら蜀国をゆくー四川料理の本場・世界美食之都を訪ねる旅』。成都(4泊)周辺では、子龍墓、武候祠、都江堰、金沙博物館、パンダ公園、そして少数民族の村々を訪ねる。中(2泊)へ行く途中では、德陽の統祠や中の張飛廟なども見学する。食事はそれぞれ有名な「一品天下」や「玉林広場」などの店をはじめ、地元の人々が愛する屋台などでも味わうユニークな企画を立てている。余り知られてない「三国志」の舞台を歩き、ツアーなどでは絶対に味わうことのできない本物の四川の味を楽しもうという”通のあなた”のための旅である。


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<募集要項>★2010年7月7日(水)~13日(火)の7日間 ★募集 8人 ★参加費1人 188.000円(一人部屋希望はプラス25.000円) ★参加費には、全日程の食事代、ホテル代、入場料、通訳・ガイド料、交流会費、中国国内交通費、エア・チケット代(成田ー上海ー成都往復)が含まれる ★各自の保険料、空港使用料、飲食代、おみやげ代などは参加費には含まれていません ★締め切り 5月31日(月)まで ★申し込み先 練馬区中村南1-8-19-603 チベットカム山岳研究会 ★TEL 03-5848-8311 FAX 03-5848-8299 ★現地、四川出身の探検家・写真家の烏里烏沙(うりうさ・NPO法人チベット高原初等教育建設基金会理事長)さんも同行して案内してくれます。 ★詳しいパンフをご希望の方は上記までご連絡をください。


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月日の流れるのは、実に早いもので上州から戻った翌日の6日から今日までの9日間、またまた家の中に篭っていたことになる。正確に言えば、その間一歩も出なかったという訳ではない。二つの出版社の編集者が打ち合わせに来てくれて、最寄駅前の行きつけの居酒屋で一杯やったし、ヒマラヤへ何度も一緒に登ったシェルパ族の友人と、南米のアンデス登山から戻ったばかりの友人が2人で訪ねて来てくれて、近所の日本山岳ガイド協会認定ガイドでもある主人がやっている店で、岩魚で一杯やったりもしたのだが・・・・・。基本的には家にいたという心情ではある。


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では、何をしていたかというと別段なにもしていない。だからブログにも書くことがなかったのだ。しいて言えば(株)日立製作所の社内誌用のために「中国大陸巡礼ー黄河流域ー」という原稿を1本と、「フォトコン」の”小松健一の写真道場”の原稿を書いたぐらいだ。・・・・・あとは2月14日というと世の中はバレンタイン・デーとかで、男どもは義理チョコを何枚プレゼントしてもらったかなどと、どうでも良いことで騒いでいるらしい。僕もその昔は、女性の編集者などから手作りチョコなどをそれなりにプレゼントされたものであるが、昨今は皆無である。僕の体のことを心配してくれてのことだと勝手に思い込んでいたが、単純にそうでもないらしい。ということでやたらとチョコレートが食べたくなって、「手作り板割りチョコ」などというものを買い求めてきて、家に来た編集者君と男同士でひっそりと食べていたのである・・・・・。(写真は近所の家、前から気になっていたので撮ってみた)

今朝、見知らぬ人から「どうかしましたか。ブログ楽しみです」というメールをいただいた。どなたかわからないがありがたい方である。僕のブログを楽しみにしていてくれているとのこと。こういう人がいるからがんばれるのだとつくづくと思う。実は2月5日以来、更新していなかったのは、愛用のデジタルカメラのシグマDP1が「上州故里」の撮影中に調子が悪くなって修理に出していたからである。すぐにシグマは対応してくれて7日には代替のカメラは届いていたのだが、僕がサボっていたのだ。ごめんなさい。さっそく、その代用カメラで撮ってみてブログをアップすることにしたのだ。「コマケン写真日記・blog」を開始して9ヶ月間になるが、この間アクセスしていただいた人は約6500人。月平均720~30人である。これがどういう数字なのかは僕にはよくわからないが、とにかくコツコツと持続させようと思っている。今日のメールのような人がいる限り、書き続けていく。


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今日の写真の2点は僕の仕事部屋といおうか、仕事デスクの右側と左側である。自分の作品などは1点も家には飾ってはいないが、気に入った絵画や書、版画、こけしなどはやたらと周りに置きたいのだ。珈琲を飲み、音楽を聴きながらボーッと眺めているとこころが何故か落ち着いてくるのである。右側(上の写真)に置いてあるのは、日本現代グラフィクデザインの先駆けである高橋錦吉(1911~1980)さんの生涯一度きりの展覧会の出品作品。漢詩をレタリングしたものだが、この漢詩が好きだ。高橋さんとは生前に何度かご一緒したことがある。戦前に日本工房や「FRONT」に参加し、戦後は雑誌「美術手帳」、「世界」などの表紙を手がけレタリングの名手として知られている。函館や釧路にある本郷新・作の石川啄木像の碑文の文字も高橋さんである。それに英文学者で詩人であり、画家でもあった麓惣介(1920~2002)の版画が2点。もうひとつは、現在も活躍中の画家・美崎太洋さんの沖縄舞踊の版画だ。


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左側(上の写真)のこけしは、秋田・木地山系こけしの名工といわれた小椋久太郎(1906~1998)の3体。数年前に秋田県湯沢市の泥湯温泉に行ったときに偶然に手に入れたものだ。昭和40年頃の冬、僕の写真の師の一人である土門拳が箱ぞりに乗せられてこの木地山を訪ね「世界」のグラビアの撮影をしている。その時の印象を後に、久太郎は「ずいぶんと気難しい人・・・・」と回想している。不思議な縁である。それに友人の宮城・遠刈田系の佐藤英太郎さんと洋子夫人の作品だ。もう20数年前のこと新宿小田急デパートで大きな展覧会をした時に買い求めた。夫婦して内閣総理大臣賞と経済通産大臣賞を受賞した頃だったと記憶している。それに上州の親友の福島汪江さんの現代こけし。彼女は日本近代こけしアカデミー唯一の女流作家である。ときどき気が向くと違う作品と替えることもあるが、とにかくこころを癒してくれるすばらしき”仲間”たちであることは確かである。

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平成21年度「ぐんまの山村フォトコンテスト」の表彰式が2月3日、群馬県庁1階県民ホールでおこなわれた。”自然と暮らし”をテーマに、上州の山村の自然や文化の魅力を広く発信しょうというこのコンテストは今回で4度目。回を重ねるごとに応募者数、応募作品数とも増え、今回は320点を超えて、内容も格段と良くなっている。審査委員長である僕も参加して講評をし、表彰式に参加した入賞・入選者の作品について、一人ひとりアドバイスをした。佳作作品もふくめた約50点が展示されて見ごたえのある写真展となっていた(2月7日まで)。後日、東京・銀座にある「ぐんまの家」でも展示される予定だ。(上記3点の写真撮影:鈴木紀夫氏)


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「ノイエス朝日」でコーヒーをごちそうになってから、”日本三大うどん”の里として知られる水沢寺の前を通って伊香保温泉へと向かった。数日前に降った雪がまだところどころに残っていて、日陰の路面は凍結しており運転は大変だった。伊香保の常宿は「金太夫」という老舗旅館である。僕のすぐしたの弟がここの料理長をしていることもあり、よく使わせてもらっている。毎年この表彰式のあとは必ず金太夫に泊まるのが恒例になっているのだ。伊香保は言うまでもない全国的に知られた由緒ある名湯である。幾多の文人たちがこの温泉町を愛したが、作家の林芙美子も金太夫に投宿しており、その代表作『浮雲』のなかに次のような一節を残している。「・・・伊香保は坂の多い温泉町でその坂は路地ほどの狭さだ。湯の花の匂いがむっと鼻をにくる。ところが不如帰で有名な伊香保というところが、案外素朴で、いかにもロマンチックだった。・・・」また、彼女は旅の随想にも金太夫のことを書いている。


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この宿のいいところは、「黄金の湯」という茶褐色の湯と「白銀の湯」という無色透明の湯の2種類の源泉の湯に浸かることができることである。僕はもっぱら昔から親しまれてきた黄金の湯が好きだ。冬晴れとなった翌日は写真研究会「風」、「写真集団・上福岡」のメンバーと今、注目されている「八ッ場ダム」建設工事がおこなわれている現地、河原湯温泉へ行った。この間、何度も「上州故里」の取材にきているが、この光景はしっかりと記録しておかねばという思いから今回も来たのである。民主党政権になってから一応本体工事は止まってはいるが、昨年来た時よりも関東耶馬渓の美しい景観は、ずい分と破壊されていた。僕は地元に関わりのあるひとりとして、故郷の自然と人々の暮らしが壊されていくのがやはり許せないという思いでシャッターを切っている。その晩は久しぶりにおふくろを囲んで3兄弟が勢ぞろいして、秋田の男鹿半島から送られてきた鱈の鍋、刺身、生白子の料理などをご馳走になった。何年かぶりにおふくろさんの歌を聞き、末の弟の家で母とやはり何年かぶりに布団を並べて寝たのである。


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1月下旬は、すっかり春のぽかぽか気候だったのに、節分を前にした昨夜から今朝方にかけて急に冷え込み、久方ぶりに都会でも積雪があった。白く薄化粧した景色が綺麗だったので、家の庭側と玄関前を撮影してみた。ついでに「雪」を季語にした俳句をどのくらい詠んでいるかを調べてみたくなって手元にあった同人誌をめくってみた。僕が俳人の高島茂さん主宰の同人誌「獐」に本格的に投稿を始めたのは1995年12月号からだった。冬の句は少なくないが「雪」そのものを詠んだのは思いのほか少なかった。以下、今朝の雪景色の写真とともに、いくつかの句を紹介してみよう。


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   荒川に雪はげし我が裡に降れ   雪国の童女に似たり冬牡丹 (1996・3)


   ぼたん雪九枚目のでて出雲そば (1997・3)


   初雪や子規庵はホテルに埋もれ  青年独歩の武蔵野のあり深雪晴れ


   長き長き葬列のごと深雪径     尾長鳥べうべうと舞ふ竹の雪 (1998・2)


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   氷雪や蝿は一途に空を欲り     初蝶の流されゆけり大雪渓


   氷雪の嶺に対峙す大銀河      糞拾ふ子らの瞳や雪解水


   雪しまく蕾のよふな尼と逢ふ     寝袋のヒマラヤ山中雪女郎


   貴重なる卵ふるわす雪崩かな    雪に死す村に赤子の響きかな (1998・3) 


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   湯布院に軍靴一面二月雪 (2000・3) 細雪母の声享くかうかうと (’01・1)


   同胞の声の遠のく雪の原 (’01・4)   新雪や遠吠へ止みし母の里 (’02・2)


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   唇を奪ひし雪の山河かな (’02・4)  黙しつつ振り子のつづく雪の果て


   たましひのきづなの果ての雪解水 (2002・5)


   郷里は湖底に暮るる雪、雪、雪 (2005・2)         小松風写


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すっかり春めいた1月30~31日。写真研究会「風」の第1回合宿が静岡県熱海市で開催された。潮の香りがする熱海駅に降り立つと梅や薄桃色の花弁の河津桜が満開に咲いて僕らを出迎えてくれた。今回の参加者は総勢14人。遠く長崎から1人、岡山から2人、京都から1人、名古屋から1人と地方からの参加者が目立った。また、一般参加者としてJPU会員や中国の写真家たちも参加した。皆で昼飯を食べた後、さっそく市立中央公民館で一回目の合評を開始した。


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この日、持ち寄った写真はプリントだけでも2000点以上、データをいれると4000点を超える作品数。これらを2日間で全て合評するというのだから結構ハードである。5時過ぎからは、会場をホテルに移して夕食まで第二ラウンド。夕食後の9時から主宰である僕の講義をおこないその後の懇親会では、0時過ぎまで熱い写真論議が続いた。2日目も朝9時から12時まで合評と講義。せっかくの熱海の温泉にゆったりと浸かる余裕がないような超過密スケジュール。しかし写真の勉強に来ているのだから、誰一人からも文句はでない充実した研究会であった。


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昼飯を食べたあと再会を誓って熱海駅で解散し、希望者11人で真鶴半島の付根にある湯河原の福浦漁港へ向かった。きつ~い合宿の後は、釣り船で伊豆の海に出て潮風を満喫し、漁師出入りの地元の魚料理店で、旨い相模湾の魚で一杯やろうという企画であった。天恵丸の船長の20年来の友人である佐々木幸寿君の計らいで、割烹料理屋の大将も張り切ってくれた。大きな金目鯛の煮付けや平目の姿お作りをはじめ次々と地元産の魚介類の料理を出してくれるので、みんなは大喜び。漁港で漁師から仕入れてきた捕りたての鮑も刺身でいただき大満足だった。帰りに大将からみかんとカタクチイワシの一夜干しを一人ひとりがお土産にもらいそれぞれ帰路に着いたのであった。ともかく疲れはしたが心地よい疲れで「風」の合宿は大成功であった。子細についての報告は「風通信」NO.6号で、塩崎編集長の熱い現場レポートが掲載されます。ご期待ください。


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