写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2010年1月アーカイブ

26日は霞ヶ関の弁護士会館において弁護士さんと打ち合わせをした後、上野広小路亭へ向かった。O編集者と軽く江戸前鮨をつまんでから「桂春雨の会」に入った。この日の番組は、立川志遊師匠の「初天神」と春雨師匠の「代書屋」と「軒付け」の2番。浄瑠璃のはいる「軒付け」が、とりわけ味があって楽しかった。寄席は初めてと言うO編集者も「上方落語のくどいほどのこってり感が好きなんですよ~」とよく笑っていた。終了後、取材の打ち合わせを兼ねて、久しぶりに「アメヤ横丁」の飲み屋で一杯やった。


東京地裁隣の法務省の建物の上に真昼の月が・・・・・。

東京地裁隣の法務省の建物の上に真昼の月が・・・・・。


翌27日も昼から霞ヶ関、この日は東京地方裁判所である。実は2年ほど前から裁判をしている(協)日本写真家ユニオンの証人の一人としてこの日、出廷を依頼されていたのである。JPUの役に立つのならという思いと、良い人生経験と思い引き受けたのである。僕の時間は1時間ほどだったが、まったくの自然体で臨むことができた。相手側の弁護人の意図をもった質問にも真正面から堂々と答えることができ、気持ちがよかった。宮崎から傍聴に駆けつけた芥川仁JPU理事長をはじめ丹野章相談役などとコーヒーを飲みながら暫し写真談議をして別れた。帰りに池袋でチベット山岳写真協会の新年会をやっているというので顔をだした。写真家の烏里烏沙君を中心によくまとまった会で、メンバーの誕生パーティを毎月開いているという。2次会として、もう20年以上親交のある友人が経営している店に久しぶりに寄ってみた。彼女は若い頃と少しも変わらないみちのくの女(ひと)の人情味あふれる接客で、烏里君たちはすっかり気に入ったらしく、さっそく次回の会の打ち合わせに、この店を使うことにしたのだ~。


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正月の5日に頂いた桜の枝がいま、僕の仕事机の前で満開に咲いている。たとえ小さな切り枝であっても生きているという証があると、人は何故かホッとするものである。昨日は21日以来、4日ぶりに都内に出た。つい先日まで大相撲の初場所が行われていた両国で、弁護士さんと打ち合わせをした後、新宿御苑前のアイデムフォトギヤラリー・シリウスで開催されている英伸三写真展「浅草 初春 事始め」を見に行った。先のオープニングパーティには出れなかったので写真展だけは見ておこうと思っていた。会場には、英さんと奥様の愛子さんもいて久しぶりにゆっくりと話すことができて楽しかった。とくにお二人は中国に対しても造詣が深いので、最近の中国事情などで話が弾んだ。以前にも書いたと思うが、英さんは僕が若い頃、写真を学んだ先生だった。「英塾」というのがあって若いフリーの写真家、もしくは写真家をめざしている猛者たちが集まっていて活気があった。よく飲み、写真について激論した。家に帰れなくなって仲間の家でごろ寝したことも少なくなかった。その中には、今も現役で活躍している人もいるが、若くして亡くなった人も多く残念の極みである。彼らの分までがんばらねば・・・・と、英さんと話しながらしみじみと思った。


5月の津軽海峡

5月の津軽海峡


北国の街・弘前でぶらりと入ったバーで。

北国の街・弘前でぶらりと入ったバーで。

2週間ぶりに都内に出かけてみた。大都会の雑踏は疲れることを改めて実感した。何をしているわけでもない。ただ佇んでいたり、ゆるやかに歩いていたり、メトロに揺られていたりするだけなのに・・・・・。1200万人の人いきれに、自分の皮膚感覚がついていけないのかもしれない。あるいは2週間もの間、家の中に篭っていたことにより、体調がやはりどこかズレていたのかもしれないが・・・・・。兎にも角にも恵比寿の東京都写真美術館までは辿り着いた。「木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン  東洋と西洋のまなざし」と「日本の新進作家展VOI・8 『出発ー6人のアーティストによる旅』 」を観た。感想は、止めておこう・・・・・。まあ~自ら足を運んでみてください。


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コーヒーを飲んで、一息ついた後、第43回「志遊の会」へ行った。スッキリしない気持ちを吹き飛ばすような初笑いを求めて。座席は、ほぼ満席。昨年、真打になったばかりだからと心配するも、大丈夫のようだ。演目は2人の前座の後、仲入りをはさんで「湯屋番」と「三枚祈請」。周りのおばさんたちは、ツボにはまったらしく終始笑いこけていたが、僕はいまひとつ腹の底から笑えなかった。噺の内容の浅さにあるのだろうか?、やはり立川志遊には人情噺が合っている。泣かせて笑わせるほうがいいなあ~と思った。次回は、いよいよ国立演芸場での「立川志遊の会」だ。6月6日、いまから予定していて欲しい。ついでに1月26日、第116回「桂春雨の会」が上野広小路亭で開かれる。春雨師匠の高座も最近聴いたのだが僕はいっぺんに好きになった噺家である。彼は桂春団冶(3代目)師匠の愛弟子。志遊師匠の小石川高校の先輩でもある。鳩山首相も小沢民主党幹事長も同窓の先輩だというからおもしろい。さて、この「春雨の会」にも志遊君は出演する。木戸銭は2000円なり。ふるってご来場くださいませ。帰宅途中の寒風のなか、不審な警察官2人に呼び止められてどうでもいいことをあれやこれやと高圧的に質問されて不愉快極まりなかった。僕はれっきとした正真正銘の日本人だぜよ!!

風通信005s

              一身独り生没し、


              電影是れ無常なり。


              鴻燕、更も来り去り、


              紅桃、昔芳を落す。     「遊山慕仙詩」


1月3日、帰省中に風邪をひき帰京後、新年の挨拶回りを無理しておこなって、さらに風邪をこじらせたことは前に書いた。8日に外出して以来、今日まで丸11日間、家の中に篭っていた。13日に近くの病院へ肺炎の検査など診察に出たきりである。こんなことは本当に久しく何年ぶりであろうか。咳き込みと睡眠不足のため、頭が朦朧として仕事らしい事はなにひとつできなかった。しかし、ようやく快方に向かい始めている。僕の無神経なメールをみて、ご心配をおかけしてしまったこと心からお詫びいたします。元気で生きています。北海道から九州まで電話やメール、お手紙でご心配をして頂いたみなさん。本当にありがとうございました。


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さて、冒頭の文言は空海の言葉である。この間深夜眠れない時に、空海の言葉に向き合っていた。3年前に中国の唐の都だった長安(現在の西安)で、空海が遣唐使の一員として修行をしていたという青龍寺を訪ねたことがある。現在の寺は発掘された地に復元されたものではあるが、この場所にあったのは事実らしい。日本のそれも四国の人々が多額の寄付を寄せて復元されたと聞いた。身体が弱っていたときだけに、空海の言葉の一節一節は心に沁みるものがあった。他に万葉集にも目を通してみた。


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とにかく11日間は長い。何もしていないのだから・・・・・。他に読んだ書籍は、『入蔵日記ー矢島保冶郎』(チベット文化研究所)、『高橋克彦自選短編集』(講談社文庫)全3巻。作家の高橋さんとは長い付き合いになるが、ありがたいことに彼は著作の新刊は必ず送ってきてくれる。高橋さんのミステリー小説もいいが、僕は時代小説が一番好きだ。それにやはり新刊を送ってきてくれる2人の敬愛する写真家、水越武さんの『熱帯の氷河』(山と渓谷社)と石川文洋さんの『私が見た戦争』(新日本出版社)の2冊の写真集はさすがに見ごたえがあった。新鋭写真家の石川直樹君も最新刊『ARCHIPELAGO』(集英社)を送ってきてくれたので読んだ。「アーキペラゴ」とは、群島・多島海という意味。力作である。彼は「開高健ノンフィクション賞」を2008年に受賞しているが、作家・石川淳の孫にあたるとは知らなかった。原稿は「上毛新聞」からの依頼の1本のみを仕上げた。僕にとっては、言わば”休養の11日間”であった。(写真はネパールの神々。600年ぐらい前に石に彫られたブッタの青年像)

我が親愛なるヒマラヤの友・プナム マン プラダ君よ、やすらかに眠りたまえ・・・・・・・・


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上の写真はプナム君と最後の旅となった2008年9月11日から25日までの15日間に初めて使ってみたコンパクトデジタルカメラで撮影したものである。そのなかから彼と思い出深い地となった場所で撮った写真からいくつかをピックアップしたもの。カトマンドュウの彼が結婚するにあたり新築した家(左から2人目がプナム君)、亡くなったプナム君が荼毘に付されたパシュパティナート、カトマンドュウの街が一望できるスワヤンブナート、彼が好きだったポカラ、僕と何十回も取材したムスタンなど・・・・・・・。


プナム マン プラダ君がエベレストベースキャンプへ向かう途中の4400メートルの地で高山病になった日本人を救出するために、シェルパと2人で降ろしはじめて、3300メートルまで下がって来た時に突然倒れて亡くなってから間もなく一年が経とうとしている。僕はこの事について今まで多少は触れてきたが余りの衝撃で書くことができなかったのである。昨秋から彼と「ヒマラヤ祭事巡礼」の本格的な取材に入る予定だったが、それも全てキャンセルした。5年間でネワール族の代表的な祭りを取材し、僕の還暦にあわせてヒマラヤシリーズの最終章として出版しょうというのも彼との計画だった。が、その気力も正直失せてしまうほど僕にとってはショックであった。今までにも何人ものヒマラヤの友人たちが亡くなっているのだが・・・・・・。


プナムくんは、ネワール族で1966年8月10日生まれ。ネパールでは最高学府である国立トリブバン大学を卒業し、同時に日本語学校も優秀な成績で卒業している。僕とはじめて会ったのは90年代の中頃だから、彼が旅行社をはじめて間もない頃である。彼とあった人はご存知と思うが英語や日本語、タイ語をはじめ6ヶ国語を話すインテリでもある。彼は旅行社を経営する傍ら、僕が会長を務めている日本・ネパール写真交流協会の事務局長としても活動していて絶対の信頼をおいていた。ネパールや日本の写真家たちからもとても愛されていた。他にも奉仕活動としてカトマンドュウのロータリ倶楽部の会長なども務めていたのだ。そんなプナムが42歳の若さで新妻さえもおいて逝ってしまった・・・・・・。この晩夏には彼の地に行って、彼との約束を果たす為に、祭事巡礼の取材を再開しょうと思っている。プナムよ。君が大好きだったお母さん(一昨年病気で他界した)とともに僕らの行く末を見守っていてください。 合掌

1月8日に無理して出かけたのが祟って、以来、家の中に篭って今日で4日目。咳と痰がひどく全身が痛い。夜、床についてからの咳き込みがひどく、眠れないから頭は、一日中ぼーっとして、読書もままならない。よってこのブログも書く意欲がおきなかったのだ。しかし余り更新の日を空けると心配するのではないかと思い、こうして書きはじめたのである。今年2010年は、石川啄木の処女歌集『一握の砂』が刊行されてちょうど100年となる。ある月刊誌の2月号に、そのことをグラビアと文章にして載せた。


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「上毛新聞」という群馬県を中心に発行されている地方紙の文化部から文学についての原稿依頼がきていて、いま何を書こうかと考えている。僕の田舎に疎開して約7年間暮らしていた歌人・土屋文明のことを核にして、「写真に記憶される文学風土」というものでも書こうかなどと風邪のぼーっとした冴えない頭で考えたりしている。他にも宮沢賢治の取材計画やチベット取材企画のことなどが頭をグルグルとめぐっている・・・・・・。今週一杯は”引き篭り生活”が続くと思われるが致し方ない。御陰様で体重は5キロ程痩せはした。(上の3点の写真は2年前に初冬の箱根で撮ったもの。いまの僕の心象風景かな・・・・・)  合掌

あの厳しかった中国取材でも風邪ひとつひかなかったのに、正月早々田舎へ帰って風邪をひいてしまった。いつもは新年の挨拶回りはしないのだが、昨年末は写真関係の忘年会にはひとつもでなかった不義理をしたこともあり、1月5日から幾つか写真展を周った。まずポートレイトギャラリーのテラウチマサト写真展「島姉妹」に行った。彼とは一昨年の日本写真家ユニオン第3回公募展の審査を一緒にした関係もあり、顔を出そうと思っていた。日本写真文化協会の新年会も兼ねていたので、会場は写真関係者をはじめテラウチさんの若いモデルさんや女性ファンたちの熱気で会場はムンムン。とても写真をじっくり見るどころではなかかった。


翌6日は、アイデムフォトギャラリー・シリウスの関口照生写真展「地球の笑顔」に顔を出した。7日のオープニングパーティの案内状がきていたが、そう毎日は出れないので写真展だけは見ておこうと思ったのだ。女優竹下景子さんの夫としても知られているが、れっきとした日本写真家協会の同じ写真家仲間でもある。次に銀座ギャラリー・アートグラフで開催している飯島幸永写真展「日本画家・堀文子ー美の旅人」。飯島さんとは古い友人で俳句仲間でもある。彼の人物写真には卓越したものを感じる。ちょうど田沼武能JPS会長も見えられていて「毎日会うね。ご苦労さま・・・」と笑いながら仰られたので、思わず苦笑した。


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中国取材で撮影したフイルム86本を写真弘社へ現像に出した後、飯島さんと銀座二コンサロンへ行った。長江で落下し故障した愛用の二コンF3/PHPを修理に出した後、三木淳賞の10周年記念「クロッシング・カオス1999-2009」のオープニングパーティに出席した。第2回受賞者の鈴木忍さんは、JPUの加入の時に僕が推薦人になった人。いま彼女は理事としてがんばっている。第8回の受賞者は石川直樹君。いま若手では一番注目され、活躍している写真家だ。体調が良くなかったので、三木さんご子息などに挨拶をすませて早々と失礼をした。


僕と石川君とかんばっている美術出版社の編集者のNさん(傍らにいた写真家某君がシャツターを切ったがご覧の通り。残念!)

僕と石川君と美術出版社でがんばっている編集者のNさん(傍らにいた写真家某君がシャツターを切ったがご覧の通り。残念!)


そして一日置いた8日。品川キャノンギャラリーSでオープンした石川直樹写真展「ARCHIPELAGO アーキペゴラ」へ行った。風邪が治らず咳込みがひどいので、正直止めようかとも思ったが本人にも行くよと約束していたし、中国5000キロの旅をともにした鈴木さん、塩崎君それに烏里君の3人にも声を掛けていた。パティーが終わった後、4人で無事帰国したことに乾杯することになっていたからである。石川君とも話したが、久しぶりに日本写真界の最長老の芳賀日出男さん、丹野章さん、それにJPS副会長の熊切圭介さんとじっくりと話せたのがうれしかった。石川君は日本の写真界を将来牽引していくだろう有望株である。直向きに創作活動をしていくことを切に望むものである。品川駅前の路地裏を入った焼き鳥屋で、中国の思い出を肴に楽しい酒を飲み交わして帰路についたのはすでに11時を廻っていた。

元旦の午後、自宅を発って故郷へ向かった。僕が生まれたのは正確に言えば岡山県の中国山地にある湯原という小さな温泉町である。が、その地は父の水力発電ダム建設の仕事の関係で1年余りいただけで、物心付いた頃からは、母の故郷・上州で育った。故に僕が実感として故郷と呼べるのは上州なのである。帰省する時は、僕は各駅停車の列車に乗ってのんびりと帰ることにしている。車窓に流れる様々な風景をボーっと意味もなく眺めているのが好きなのだ。実家に着いたのは6時過ぎであったが、谷間の町はすでに真っ暗であった。しかし、家では恒例の新年会で盛り上がっていた。毎年一番下の弟の地元の友人たちが6~7人集まって元旦の朝から飲み明かすのがいつもの事となっている。僕にとってはみな後輩たちなのだが、歳が離れすぎていて記憶のない者もいる。でもみな同じ町に暮らしているのだから直ぐに打ち解けて宴は遅くまで盛り上がったのは言うまでもない。


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翌日、末弟夫婦と親父たちの墓参りを済ませたあと初湯に出かけた。町内には温泉は10箇所以上はある。言わばどこをボーリングしても温泉が噴出する土地柄なのである。この日は墓地の近くにある「あづま温泉」へ行った。吾妻川の辺にあって、風呂からは目の前に奇勝「岩井洞」を望めるナトリウム―塩化物の湯である。実家の近くには名湯の誉れ高い草津、伊香保、万座、四万、水上などあげれていけば切がないほどの温泉だらけ。高校一年の夏休みに地学の先生が「休み中に郡内の全ての温泉に入ったやつには通信簿に5をやるぞ~」と言われたがとても多すぎて廻り切れるものではなかった。あづま温泉の前では正月らしく子どもたちが凧上げをしていた。


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2日の夜、突然次男の弟夫婦が新鮮な伊勢えびやマグロの中トロなどを持ってやって来た。久しぶりにお袋と次男夫婦とゆっくりと飲んだ。彼は伊香保温泉の老舗旅館の料理長を務めていて僕の写真の生徒たちの合宿などで、何かといつも世話になっている。翌朝、犬の五右衛門を連れてこの辺りの鎮守様の川戸神社へ初詣に行った。川戸一の宮であるこの神社はかっては「首の宮」と言った。「かみの宮」と読む。いまでも神社がある集落を上の宮という。


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子どもの頃、そのいわれをさんざ大人たちから聞かされたものだが、改めて手元にあった『吾妻郡城塁史』(昭和47年刊)を紐解いてみた。この本は実は僕が昔働いていた印刷屋で刷っていた地域新聞社が発行したものであった。この神社の創建は鎌倉時代にさかのぼる。家の目の前に聳える岩櫃山(802m)の中腹にあった岩櫃城主・吾妻太郎行盛が自刃した折、300メートル飛んできた生首を村人たちが祀ったのが始まりだそうだ。これには様々な興味深い物語があるのだが、ここでは書ききれないので後日にしたいと思う。但し一言書くとすれば、新田一族の碓井の豪族、里見義時に不意をつかれ、裏切りもあり無残にも敗れた吾妻太郎行盛が吾妻川の対岸、他立石川原(現在も集落の地名として残っている)で自刃した時刻が詳しく記録されているのには驚いた。「貞和5年(1349)5月25日の深夜子の刻」とある・・・・・・。ちなみに母方の上田家の先祖は後に岩櫃城を配下に治めた信州の武将・真田昌幸の家来で現在、実家のある場所にあった内出城の城代家老を務めた河野家(関が原の戦で敗れた後、姓を上田に改名)だったという。


自宅の庭。丘になっている所が内出城址の二の丸跡と手前が空堀。

実家の庭。丘になっている所が内出城址の二の丸跡と手前が空堀。本丸跡地は今も上田家本家の土地となっている。

2010年 元旦の雲ひとつない朝。自宅裏の畑
2010年 元旦の雲ひとつない朝。自宅裏の風景を初撮り。


去年今年幾山河をあゆみ初む   (2007年)


初空や赤城の桑樹天を衝く     (2008年)


背を向けて全山枯野のなかにをる (2009年)


たましひを放つ独りの初湯かな   (2010年)


この4年間、賀状に添えた僕の俳句であるが、おそらく出来はそんなに良くはない。それは十二分にわかってはいる。・・・が、これからもこのパターンは続けるつもりである。「一年の計は元旦にあり」などと言われるが、僕なりの新しい年の目標とも言うべき課題を実行するぞ!と言う決意表明なのである。今日これから80歳をこえた母が独り待つ田舎へ帰省する。本年のもうひとつやりたいことは、この母とできるだけ多くの時間を共有したいと言うことである。19年前に逝った父は、僕がヒマラヤの取材中に亡くなった。長男の僕としては何もしてやれなかった事への自責の念が残った。それからずーと独りで生きてきた母にはそうした思いはさせたくないと思っている。40年前に田舎を飛び出してから帰って何ひとつ親孝行らしいことをして来なかった者のせめてもの務めであると思うのである。

新しい年は、さらに精進を重ねますゆえ、皆様のご指導、ご鞭撻のほどくれぐれもよろしくお願いいたしまする。  合掌

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