写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2009年12月アーカイブ

早いもので今日は2009年の大晦日、 あと数時間後には除夜の鐘が鳴り始める。俳人の森澄雄の名句に「 徐夜の妻白鳥のごと湯浴みをり 」という美しい愛の詩がある。僕もここ数年、年賀のあいさつ代わりに駄句を書いているが、今年は「 たましひを放つ独りの初湯かな  風写 」という句をしたためた。新しい年を迎えるにあたり、この一年を振り返り、来年のすべき目標を自らに課すことを残る数時間のなかで独り静かに考察したいと思っている。


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中国取材の報告は、昨日までの5日間で紹介したが、その間に河南省の安陽で曹操の墓が発見されたというニュースが流れて話題を呼んだ。中国の友人からも早速メールが入り、近く特別立ち入り許可を取りますから来てくださいと言ってきた。もう少し早く発見されていれば廻れたのにと思った。すでにこの場所は2度取材には行っている所である。暮れも押し迫った26日、写真集団・上福岡の第27回写真展の合評会と打ち上げが川越で行われた(写真)。翌27日は、写真研究会「風」2009年望年会が開かれた。同人、会員をはじめ、株式会社タムロンの広報・宣伝部長の千代田路子さんをはじめ、写真家、編集者など15人が参加して遅くまで盛り上がった。中国からの土産も鈴木、烏里さんから届けられて、みんなで本場四川の味の辛さを堪能した。


僕の仕事部屋で静かに燃えるストーブ・・・・・。2009年もあとわずかで終わる。

僕の仕事部屋で静かに燃えるストーブ・・・・・。2009年もあとわずかで終わる。


みなさん今年一年間、僕のつぶやきみたいなブログにお付き合いいただき本当に感謝しています。ありがとう・・・・・。新しい年は、さらに一段とグレードアップしてブログの内容だけでなく、他も更新をして豊かなサイトにしていきたいと思っています。どうぞ来年もよろしくお付き合いをお願いします。みなさん、ご自愛のうえ、良い新年をお迎えください。  合掌

 

12月17日。この日は湖北省嘉魚県にある赤壁へ向かう。天下統一を狙う曹操の大軍が呉の周喩率いる水軍に大敗を期した古戦場として有名である。途中どうしても魏軍の大本営が置かれた地、烏林と曹操が敗走した華容古道を取材し、夕暮れの長江を船で赤壁へ渡りたいと思っていた。中国にきてこの12日間、夕日といえる光景には出会えていなかったが、この日はなんとしても・・・・・と神々に祈る思いであった。宣昌から赤壁の対岸である烏林までの道程も心配だった。うまくその時刻までに到着できるだろうかと。現在、烏林のある場所は、長江の流れから10キロほど離れた地で、当時の面影は何一つ留めていない小さな集落であった。観光ブームの影響か、近年村人たちが建てた粗末な曹操の廟が、ぽっーんと村外れに忘れられたようにあるのみである。


12月17日。烏林から赤壁へ向かうフェリーから長江へ沈む落日を撮った。この時、愛用の二コンF3PHPが300ミリを付けたまま鉄の甲板へ落下して動かなくなってしまった。

12月17日。烏林から赤壁へ向かうフェリーから長江へ沈む落日を撮った。この時、愛用の二コンF3PHPが300ミリを付けたまま鉄の甲板へ落下して動かなくなってしまった。


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武漢で泊まる予定だったが、赤壁で泊まることにした。町は屋台が多く、どの店も長江で獲れた魚が豊富であった。ドライバーの何君と塩崎君を僕らは「タバコ兄弟」と呼んでいた。

12月17日。武漢で泊まる予定だったが、赤壁で泊まることにした。町は屋台が多く、どの店も長江で獲れた魚が豊富であった。ドライバーの何君と塩崎君はヘビースモーカーなので、僕は2人を「タバコ兄弟」と呼んでいた。


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12月18日。この日合肥までたどり着かねばならず、早朝の出発となった。宿の近くの屋台で温かい麺をとる。若いお母さんが働いているので、僕は少し子どもと遊んだ。
12月18日。この日、合肥までたどり着かねばならず、早朝の出発となった。宿の近くの屋台で温かい麺をとる。若いお母さんが懸命に働いているので、僕は少し子どもと遊んだ。


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12月18日。合肥へ行く途中、黄梅市という町で昼飯を食べた。この店の至る所には、革命時代の毛沢東の写真が飾られており、最近の中国では珍しい光景だった。

12月18日。合肥へ行く途中、黄梅市という町で昼飯を食べた。この店には至る所に、革命時代の毛沢東の肖像写真が飾られており、最近の中国では珍しい光景だった。


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12月18日。合肥の夕食は土家族の料理の店にまた行ってみたが、宣昌のように美味しくなかった。最後にでた饅頭がやけに可愛らしかったのでパチリ。帰りに烏里君と足の按摩をやった。チップも取らず一生懸命に揉んでくれたのでありがとうと感謝の気持ちを込めてパチリ。

12月18日。合肥の夕食は土家族の料理の店にまた行ってみたが、宣昌のように美味しくはなかった。でも最後にでた饅頭がやけに可愛らしかったのでパチリ。帰りに烏里君と足の按摩をやった。一銭もチップを取らず一生懸命に揉んでくれたのでありがとうと感謝の気持ちを込めてパチリ・・・・・。


12月19日。赤壁から合肥、そして上海と約830キロ走り、ようやく最終地点まで辿り着いた。ホテル近くの南京路を歩いてみる。最後の夜ということで「北京ダックを食べた~い」と言うので老舗の北京料理店へ行った。しかし皆、四川料理に馴れてきたので味が薄く感じて、塩崎君は胡椒を山になるほどかけまくっていた。

12月19日。赤壁から合肥、そして上海と約830キロ走り、ようやく今回の旅の最終地点まで辿り着いた。ホテル近くの南京路を歩いてみる。中国最後の夜、「北京ダックを食べた~い」と言うので老舗の北京料理店へ行って乾杯することとした。しかし皆、すっかり四川料理に馴れ親しんできたので味が薄く、塩っぱく感じ、塩崎君にいたっては胡椒が山盛りになるほどかけまくっていた。


12月20日。帰国の朝、上海のホテルの部屋の窓から。この日の取材メモより「上海の朝。さわやかな朝日に目覚める。夕べのマッサージ気持ち良し。優しいこころを感じた。朝食後、烏里君は書店に高山植物の資料を買いに。鈴木、塩崎両名は街の朝の光景を撮影にでかけた。僕は15日ぶりにのんびりとコーヒーを飲みながら伸びた爪を切っている。空けた窓辺から冷たい風とともに街の活気ある音が聞こえてくる。・・・・・・」

12月20日。帰国の朝、上海のホテルの部屋の窓から。この日の取材メモより。 「上海の朝。さわやかな朝日に目覚める。夕べのマッサージ気持ち良し。癒しのこころを感じた。朝食後、烏里君は書店に高山植物の資料を探しに。鈴木、塩崎両名は朝の街の光景を撮影にでかけた。僕は15日ぶりにのんびりとコーヒーを飲みながら、伸びた爪を切っている。空け放った窓辺からは、冷たい風とともに街の活気ある暮らしの音が聞こえてくる・・・・・・」 遥かなる中国大陸よ! 15日間ありがとう。 合掌

12月14日。漢中から安康、武当山を抜けて襄陽を経て南陽へと行く予定であったが、大雪の天気予報だったので急遽、西安へと向かう。西安で一泊し12月15日、三門峡を通って洛陽に入り、そこから南下して南陽へと向かった。三国の古戦場の博望、新野を経て襄陽へは、夜8時過ぎにようやく到着した。この日一日で走った距離は600キロメートルを超えた。


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西安では新疆・ウイグル族の屋台街へ行った。しかしどの店も禁酒で飲ましてもらえず、氷雨のなか歩き回った。

西安では新疆・ウイグル族の屋台街へ行った。しかしどの店も禁酒で飲ましてもらえず、氷雨のなか歩き回った。


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12月15日。西安から襄陽へ向かう途中、またもや吹雪に見舞われる。

西安では新疆・ウイグル族の屋台街へ行った。しかしどの店も禁酒で飲ましてもらえず、氷雨のなか歩き回った。12月15日。襄陽へ向かう途中、またもや猛吹雪となり困難を極めた。


12月16日。襄樊で3年ぶりに会った崔君は、この街に日産の大型トラック工場は作るプロジェクトのため、2年前から鄭州から通っているという。漢水の魚料理を食べた後、崔君の案内でカラオケに行ってみた。

12月16日。襄樊で3年ぶりに会った崔君は、この街に日産の大型トラック工場は作るプロジェクトのため、2年前から鄭州から通っているという。漢水の魚料理を食べた後、崔君の案内でカラオケに行ってみた。

12月16日。宣昌へ向かう朝。崔君が取ってくれたホテルの近くの店で、豆腐麺を食べた。僕以外はお変わりをするほどの美味しかった。
12月16日。宣昌へ向かう朝。崔君が取ってくれたホテルの近くの店で、豆腐麺を食べた。僕以外はお変わりをするほどの美味しかった。


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12月16日。長江の岸辺の街、宣昌。土家族の料理の店で夕食を取った。女主をはじめみな明るく久しぶりに楽しく食事ができた。

12月16日。長江の岸辺の街、宣昌。土家族の料理の店で夕食を取った。女主をはじめみな明るく久しぶりに楽しく食事ができた。


12月17日。赤壁へ向かう朝。朝食は屋台が多い。早くて旨くて、それでいて30円程と安いと来ているからたまらない。

12月17日。赤壁へ向かう朝。朝食は屋台が多い。早くて旨くて、それでいて30円程と安いと来ているからたまらない。

12月11日。閬中への道は非常に険しく細い山岳道路と川や湖水を渡る小さなフェリーの連続であった。
12月11日。閬中への道は非常に険しく細い山岳道路と川や湖水を渡る小さなフェリーの連続であった。


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閬中は張飛が守って、死んでいった街。いまでも街の中心には張飛廟があり、張飛牛肉などの名産品も多い。

12月12日。閬中は張飛が守って、死んでいった土地。いまでも街の中心には張飛廟があり、張飛牛肉などの名産品も多い。


12月13日。この間、死を何度か意識したときもあり、風呂上りに自写像を思わず撮る。きも~いなんて笑わないでくださいね。

12月13日。この間、死を何度か意識したときもあり、風呂上りに自写像を思わず撮る。きも~いなんて笑わないでくださいね。


12月13日。3年ぶりに徐さんと会い交友を暖めた。漢中名産の黒米の酒を空けた。

12月13日。3年ぶりに徐さんと会い交友を暖めた。漢中名産の黒米の酒を空けた。




12月14日。漢中は三国志の舞台の中心。孔明墓、最古の武候祠、定軍山、陽平関、馬超の墓など史跡も多い。


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日本を出発してから4日目の夜、三国志の古戦場である文県を抜けて、ようやく九溝へ着いた。気温はマイナス10度。床についても寒くてなかなか寝つけなかった。翌朝の12月10日は8時に出かけて途中、温かい麺を食べて直ぐに山へと向かった。標高4000メートルの山々に囲まれた谷間の2~3000メートルの地に9のチベット民族の村とともに点在する湖や滝が九溝を形成している。僕らしくない「冬の仙境」の美しい写真を紹介する。


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12月11日。2日前に来た道があまりにも悪路だったため、3400メートルを越す峠を越えて平武に抜けたが、普通車で普通タイヤの僕らの車では1000メートルの氷雪の谷は恐かった。

12月11日。2日前に来た道があまりにも悪路だったため、3400メートルを越す峠を越えて平武に抜けたが、普通車で普通タイヤの僕らの車では1000メートルの氷雪の谷は恐かった。午後3時過ぎ、ようやく江油に到着。餃子を食べて昼食とした。この辺りでも地震の被害は至る所で見られた。


SDIM316912月11日。江油で餃子を食べて昼食とした。この辺りでも地震の被害は至る所で見られた。

僕の「中国・三国志巡歴」の20年にわたる総決算の取材というべき、今回の旅は正直、相当ハードであった。蜀の都・成都を起点に魏、そして呉の国で、僕がまだ取材を残している土地をはじめ、再度取材したい土地を網羅したコースだったのでその走行距離は約5000キロに及ぶこととなった。これを実質13日間で周るのだから・・・・・。ましてこの時期は冬の寒さが厳しい時である。それも運悪く大陸を異常寒波が包んだのである。3000メートルを越える山岳地はもちろん氷雪であったが、西安や南陽など平地でも吹雪に見舞われた。路面の凍結による事故、昨年の四川大地震による道路崩壊等の工事などによる悪路や大渋滞は、想像を超えるものであった。この旅の報告は写真と短いキャプションを中心として5回程度とする。本格的な文章は来るべき本の発行をもって報告としたいからである。


12月6日。日本から約8時間近くの飛行時間を経て四川省成都に19時に到着。初めての料理は屋台の麺の旨い店だった。

12月6日。日本から約8時間近くの飛行時間を経て四川省成都に19時に到着。初めての料理は屋台の麺の旨い店だった。


ホテルは武候司の直ぐ前、遅い夕食の後、少し街を散策した。

12月6日。ホテルは武候祠の直ぐ前、遅い夕食の後、少し街を散策した。


12月7日。成都市街地から60キロほど離れた世界遺産・都江堰。

12月7日。成都市街地から60キロほど離れた世界遺産・都江堰。


都江堰の街で遅い昼食をとった。湯でもの、蒸かしもの料理が多く口に馴染んだ。

12月7日。都江堰の街で遅い昼食をとった。湯でもの、蒸かしもの料理が多く口に馴染んだ。

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夕方、市内へ戻ってから武候祠と昭烈帝廟へ行った。

12月7日。夕方、市内へ戻ってから武候祠と漢昭烈廟へ行った。


12月7日。チベット民族の歌や踊りの繰り広げられる店に流れて大いに烏里君を中心に盛り上がった。

12月7日。チベット民族の歌や踊りの繰り広げられる店に流れて大いに烏里君を中心に盛り上がった。


12月7日。最後の店はイ族の女性の店で歌もうまかった。ビールはこの店を合わせて一晩で80本空けた。

12月7日。最後の店はイ族の女性の店で美しく歌もうまかった。ビールはこの店を合わせて一晩で80本空けた。


12月8日。綿陽の街で昼食。たくさんの茸と牛の生肉の鍋料理が旨かった。

12月8日。綿陽の街で昼食。たくさんの茸と牛の生肉の鍋料理が旨かった。


遅くなったので急遽、剣閣関の町に泊まった。屋台街で夕食に在りつけた。

12月8日。遅くなったので急遽、剣閣関の町に泊まった。屋台街で夕食に在りつけた。


12月9日。昨年の四川大地震の最大の被災地だった青川県は、まだいたるところに、救援テントが張られており、人々はそこで暮らしていた。

12月9日。昨年の四川大地震の最大の被災地だった青川県は、まだいたるところに、救援テントが張られており、人々はそこで暮らしていた。


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利根川と榛名山、その向こうに白銀の浅間山が遠望できる
利根川と榛名山、その向こうに白銀の浅間山が遠望できる


中国取材から戻った翌々日、「群馬県山村フォトコンテスト」の審査のため、前橋にある群馬県庁へと朝から向かった。高崎駅には担当者2人が出迎えに来てくれていた。今年で僕が審査委員長を引き受けてから3年目となるが、この間約10倍に応募作品数が増えた。うれしい限りである。神流町長、中之条町長、県の企画部長なども審査委員として加わっている。作品の質はやはりここ数年格段に向上し、どこに出しても恥ずかしくないレベルまでに到達して僕としては一息付いたところである。入選作品展は、2010年2月3日から県庁1Fの県民ギャラリーで開催されるのをはじめ、銀座の「ぐんまの家」でも昨年に引き続き開催される予定である。


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審査が終了後、県立群馬文学館・土屋文明記念館の岡田館長とギャラリー・ノイエス朝日の武藤さんとで一杯やった。芸術、文学などの話に花が咲いて楽しい一時を過ごした。2人とは四半世紀前からの友人で随分と世話になっている。本当にありがたい友である。その足で末弟の家に泊まり遅くまで弟夫婦と飲み、翌日、母が一人で暮らす実家へと戻った。いつものように、やることがないので犬の散歩と「上州故里」の取材をぼけ~としながら2日ばかりして帰ってきた。81歳となった母は耳が多少遠くなったものの相変わらずの元気でよく働いており安心した。年の瀬には、兄弟が集まるので長男の僕としてはまた、帰省せざるを得ないので今回は早めに帰ってきた次第である。


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留守中にも讃岐の女性写真家のKさんが僕の大好物の讃岐うどん、宮崎で医師をやりながら写真活動を続けているOさんから美味しい芋焼酎のセット、福岡のT君からはやまやの辛子明太子、岡山のHさんからは大きな「あたご梨」を、そして鹿児島で活躍している写真家で、空手で全日本を制したこともある現役の武道家のM君からは山野井の生ハム詰め合わせを送ってもらった。東京の出版社のM君は、ドイツ村へ行って黒ビールとフランクフルトを買って届けてくれた。ありがたいことである・・・・合掌。

 

昨夜、遅く「冬の中国・三国志大陸5000キロ走破の旅」から全員無事に帰国した。成田からの帰路、トラック事故のため渋滞に巻き込まれたが、中国での工事中の悪路や事故渋滞に馴れっこになったせいか、平然としていた自分に苦笑してしまった。明日早朝から「群馬県山村フォトコンテスト」の審査と「上州故里」の取材のため数日間でかけるので、今回はとりあえず帰国した報告のみとして後日、中国取材の旅は数回に分けて報告することとしたい。ご期待ください。


四川大地震の被災地だった世界遺産の都江堰で。同行した鈴木、塩崎氏と(12月7日)

四川大地震の被災地だった世界遺産の都江堰で。同行した写真家の鈴木紀夫さん、塩崎亨君と(12月7日)


雪は少なかったが日中も氷点下。厳しい寒さだった九寨溝で(12月10日)

雪は多くはなかったが、日中でも氷は溶けず厳しい寒さだった九寨溝で(12月10日)


3年前の旅で同行した元漢中博物館館長で三国研究家の徐鴻藻さんと再会できた(12月13日)

3年前の旅を共にした元漢中博物館館長で三国研究家の徐鴻藻さんと再会できた(12月13日)


20年前の初めての中国取材から何度も2人で歩いた崔曙軍君が襄樊まで会いに来てくれた。彼は今、日産自動車の鄭州の会社に勤めていた。3年ぶりの再会。日本人同行者と中国の写真家・烏里烏沙君とドライバーの何平君(12月15日)

20年前の初めての中国取材から何度も2人で歩いた崔曙軍君が襄樊まで会いに来てくれた(左)。彼は今、日産自動車の鄭州の会社に勤めている。3年ぶりの再会。日本人同行者と中国の写真家・烏里烏沙君(右下)とドライバーの何平君(12月15日)

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明日早朝、成田を出発し上海を経由して夕方6時半には四川省の成都に着く。そこを起点に15日間にわたって約5000キロメートルを車で、三国志の大陸を走り続け、上海に到達するのは20日の予定だ。旅にノートパソコンを持参して、このブログをアップし続けようかとも考えたが、やはり取材に集中したいと思い止めた。ということで帰国するまでの間しばらくは、お休みさせていただきたいと思います。ブログ用にデジタルカメラは持っていって撮影してきますので楽しみにお待ちください。一点でも多く自分で納得できる作品を作るために、全力全霊を傾けてがんばって参ります。みなさん、師走で何かとお忙しいと思いますが、くれぐれもご自愛くださいませ・・・・・。では、行って参ります。


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あいさつはそのくらいにしておき、日本人には昔から年末になると世話になった人などに贈り物をするという風習がある。いわゆるお歳暮というものである。貧乏暮らしのフリーの写真家にとってはこの季節は唯一少し贅沢になった気分になれるから、本当にありがたい風習だ、感謝!!。長崎の写真家のY君から「角煮まん」、埼玉の写真家Sさんからは「オホーツク漬け」、千葉のFさんからは「御味噌汁セット」、その他にも「乾燥どんこ」やビールや焼酎など各地の友人、知人からいろいろと頂き、いつもありがたい気持ちでいっぱいである。改めて深く感謝したい。あ・り・が・と・う・・・・・。

今朝は朝から冷たい雨が降っている。こんな日は心なしか寂しいものである。昨日、中国取材へ行く前の最後の打ち合わせをO編集者として、しばらくは食べれなくなる和食の魚料理をご馳走になった。彼女も2日前まで香港に8日間、食の取材で出かけていて毎日、グルメな中華料理を食べ歩いていたという。「2,5キロも太っちゃいました!」と笑いながらも、熱燗を干している。そして「やはり、日本人ですね~。豚の頭よりもカンパチの頭のほうが断然いいですね~」と言っては、ほうばっているのである。僕はまた、太ってしまうのではないかとハラハラ心配するのであった。だからよ~。


僕の仕事部屋の風景

僕の仕事部屋の風景


師走も押し迫った12月24日(木)~28日(月)まで、川越駅東口アトレ6階・川越市生活情報センター展示室(049-226-7066)において、第27回 「写真集団・上福岡」写真展が開催される。創立以来、僕が顧問を務めてきた地域の作家集団である。今回は会員14名が出品、僕も10月に高知県美術展覧会に展示した「土佐の記憶ー津野山神楽」を出品する。毎回、一人の会員による個展も併設して開かれるが、今回は古谷博亮さんが20年以上にわたり撮影してきた「富士山遠望」を同時展示する。見ごたえのある作品に仕上がっている。26日(土)15時からは同会場において、僕が作品合評をおこなう。無料で自由参加ですので、どうぞご参加ください。また11月に相次いで亡くなられた2人の会員の遺作も展示される。心からのご冥福を祈りつつ・・・・・合掌。

 

今日からは、2009年12月に入る。いわゆる師走、極月とも言う。俳人・鈴木真砂女さんの句で「極月や朝を勝負の魚市場」という句がある。築地に程近い銀座1丁目の路地で小さな飲み屋「卯波」を女手ひとつできり盛りしていた真砂女。いかにも彼女の句らしい活動的で、その場の匂いが漂う生活感あふれる句だ。生前に何度か飲みに行き、オホーツク海の流氷を見てみたいという真砂女さんと一緒に旅に出る計画などを語ったことがある。何席もない店内は、いつも彼女に会うのが目的の俳人や編集者で一杯であった。


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一昨日、讃岐から重い荷物が届いた。何だろうと思って開いてみると醤油だった。数えると全部で15本ある。だし醤油、ぽん酢醤油、さしみ醤油、サラダ醤油、おまけに低塩だし醤油まで揃っている。いくら料理好きの僕でもここまで醤油の種類にこだわって揃えたことはない。さっそく今朝、庭で満開に咲いていた山茶花の花弁を添えて、冷奴に葱と擂り胡麻を盛って頂いたが、かつお節とさば節に昆布の旨味が混じり合って何とも上質な味であった。ちなみにこの醤油の製造元は坂出市にある。創業寛政元年というから1789年、フランス革命がおきた年である。長い歴史に裏打ちされた技のもとで生まれた味なのである。送ってきてくれたのは、名古屋市在住の写真家H君。夏にも名産・名古屋コーチンの詰め合わせという結構な物を届けてくれた。ありがたいものである。彼とは今春に知り合ったばかりなのに・・・・。年の瀬も押し迫った12月27日に、地元でやることになった”写真研究会「風」2009望年会”にも奥様と名古屋からわざわざ出向いてくれるとのこと。これもまたありがたい・・・・。精進をつんで、本格的な写真家に育っていって欲しいと願うばかりである。 合掌

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