写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2009年11月アーカイブ

昨日から四谷ポートレイトギャラリー(03-3351-3002)で始まった「知られざる秘境の山々ー魅了するチベットカム地方の秀峰」展(12月2日まで)のオープニングパーティに出席した。主催するチベットカム山岳研究同好会の会長を烏里烏沙(うり・うさ)君が務めているからだ。来月初旬に出発する「冬の中国・三国志大陸5000キロ走破の旅」に、四川省のイ族出身の写真家であり、探検家でもある烏里君も共同企画者として同行する。そうしたこともあって参加したのである。今回の写真展には13人が出品しており、それぞれに珍しい山の表情や麓の暮らしぶりなどが捉えてあって興味深く見た。有名なヒマラヤの山々と異なり、はじめて撮影されたという山容など現地に足を運んで撮影するまでの苦労話なども楽しく聞くことができた。


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この日、正式に「チベット山岳写真協会」が発足し、初代会長には烏里君が就任した。16人が二次会へと流れたが、この席で急遽、同協会の顧問を僕がやることになった。まあ、山岳写真家ではないが、会員の皆さんの情熱と烏里君に少しでも協力できればと思い引き受けることにしたのである。実はこの日、会場に来る前に、ほんとうに久しぶりに毎日新聞社へ寄ってきた。20年におよぶ中国取材の話をする目的で行った。また生前に日本写真家協会の理事を共に務め、先輩としてずいぶんお世話になった野上透さんの息子さんが出版写真部に勤めていることを知って訪ねてみようとも思ったのだ。彼に紹介されて会った出版企画室の人も、「サンデー毎日」の編集委員の人も何度か会っている顔見知りでうれしかった。ここ10年程はいわゆる営業活動はしてこなかったが今回は行ってみてよかったと思った。まだ写真をわかってくれる編集者がいたのだという実感を味わえたからである。

中国取材もあと10日余りと押し迫った連休最後の日、トレーニングを兼ねて20数年ぶりに高尾山へ友人と登ってみた。高尾山はご存知標高600メートル足らずの低い山ではあるが、都心から50キロ余りで行けることもあり、最近とみに家族連れなどに人気が高まっている。山中には不動明王の化身といわれる飯縄大権現を奉った高尾山薬王院有喜寺がある。創建は今から1265年前、天平16(744)年というから古い歴史をもつ寺である。古来、修験道の山伏たちが篭る天狗信仰の霊山としても広く知られている。


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実は僕も1970年代初めから80年代半ばまでは毎年夏には3日間、この薬王院の宿坊に寝泊りして毎朝、護摩焚きの修行を受けていたのである。いや、何も宗教上のことではなく写真の道場がここで開かれていたのでそこに参加していたのだ。いまは亡き、田村茂先生、濱谷浩さんの実兄の田中雅夫先生、伊藤逸平先生などそうそうたる方々が指導しての講座であったからまだ20代から30代の僕などは、ただ黙ってそこにいるだけでもしあわせだったものだ。何度目かに参加したときに300枚ほど4ッ切にプリントして作品を担いで夜道を登って行ったら先生方がえらく誉めてくれて「夏期講座賞」という参加者の作品の中から1点に与える最高賞をいただいたことがあった。参加者は日本全国から腕自慢の写真家たちが100人を超える年もあって、僕にとっては夢の様な出来事だったので、すごくうれしかったことを昨日のように思い出す。


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久しぶりの高尾の山はすっかり観光化され、変貌していて昔の面影は見る影も無かった。特に参道はすべて舗装され、ハイヒール姿や乳母車を引いての登山客の多さには眼を覆うばかりであった。これも時代の流れであろうが、あの巨木杉の深い森に霧がたちこめて何とも霊験あらたかな雰囲気であった高尾の御山が、お気楽なピクニックコースとなっていたのである。外国人観光客の姿も目に付いた。これも仕方のないことではあろうか・・・・・。帰りに清瀬のギャラりーいちご(042-494-0529)で、12月5日まで開催している「赤い大地から インド紀行写真展ー北インド・ラダック地方」によってみた。


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旅した人は、僕が1歳の時から知っている近所の友人の娘さん。いまから8年ほど前に突然、僕を訪ねてきて、「おじさんヒマラヤへ織物を学びに行きたいから協力して!」という。話を聞くと真剣なのでいろいろと協力したのだが、その後、何故か向こうの生活にはまってしまって、ネパールやインドで暮らしてすでに6年にもなる。友人は最初は帰国しない娘を怒って、僕はすっかり悪者になってしまったのだが、いまは時々夫婦でインドを訪ねたりするようになった。その彼女をパートナーのスロベニア出身のジャーナリスト・アレス コチャン君がそれぞれの風土なかで撮影した写真を30数点展示している。黄色く色づいた欅並木を半地下の窓辺に見ながら美味しい手作りケーキとコーヒーを味会うのもおつな楽しみ方ではある。

ここ数日前から胃が重く痛い。こんな経験はもう何年もしていなかったのに、一体どうしたのだろう。昨日から薬局で胃薬を買って飲んでいるが一向に症状は変わらない。以前は2~3回飲めば直ぐに治ったのだが、やはり歳のせいで体中ガタがきているのだろうか・・・・。などと少し心配しながら八丁堀にある(株)日本写真企画の「フォトコン」編集部へ行った。2008年12月号の座談会「写真のテーマについて考える」から数えると13回目となる「小松健一の写真道場」の取材のためだ。この日、道場の門下生の出川雅庸さんが岡山の玉野市から、青木竹二郎さんが奈良の生駒市から作品を携えて上京してきていたのである。


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実は、この連載、「写真道場」誌上での指導を中心として、1年間余りでそれぞれの門下生に個展を開催させようという前代未聞の珍企画というか、大胆不敵な企画であった。そんな企画を同誌藤森編集長の英断と坂本担当編集部員の普段の努力によって、もちろん門下生たちの努力、それに僕の少しの努力などが実ってなんとか1年間の連載を続けてきたのである。それが案外評判が良いらしい。悪代官の役割を果たしている道場主の僕に対して、何を言われても真剣に取り組む2人の真面目な門下生という構図が受けている一要因だと言う。「ムッムッ・・・おもしろくない」と少しばかりは思いつつ、案外納得している僕ではあるのだ。バカボンのパパ風にいえば「これでいいのだぁ~」。


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つまり好評に付きもう一年間続けるとのこと。門下生の2人は「えっ!!やっと鬼道場主から解放されると思っていたのに・・・・」と残念がっていたが、ここまで来た以上とことん最後までやってやろうじゃないか、と半ばヤケクソ気味に覚悟を決めたのである。今まで2人が撮影してきた数百枚の作品からそれぞれ40枚程度まで絞り込み、さらに深めるべき点などを論議して、撮影を続けることを互いに確認したのだ。そして懇親を深めるべき坂本編集部員を囲んで、木枯らし舞う八丁堀の飲み屋へと繰り出したのである。ちなみに20日発売となった「フォトコン」12月号には、この「写真道場」の他に巻頭グラビアページに、僕の写真と文「津軽ー太宰治生誕100年」が掲載されていますのでご覧頂ければ幸いです。

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昨日、ほんとうに久しぶりに「一滴(しずく)会」の第101回句会に顔を出してみた。現在、講師として来ていただいているのは、池田澄子さん。この日は同人互選の会なので池田さんは出席されていなかった。岡井輝生代表の司会進行で進められていった。兼題は「小春日」、「冴える」と雑詠である。一人3句投稿した中からそれぞれ特選1と入選6を選び発表する。その合計が多い句が上位から高得点句として紹介され、選評されるのである。本来句会は、座の文芸などと言われ、酒席などで戯れ事としても楽しんでいたのであるが、我が句会は参加人数も多いし、まじめ一本で4時間ほど集中してやるから、よほど疲れるので僕はあんまり出席しない不良同人である。でも毎月開いているので、年3回は出席しないと退会となる厳しい掟が定められているのだ。


さて、僕の句はといえば、一昨昨日に散歩したときに詠んだいつもの駄句。僕は兼題というのが嫌いなのでほとんどは無視する。だいたい俳句などというものは、自分が詠みたいものを詠むものであって誰かに、この季語で詠みなさいなどと言われるのは、はなはだおもしろくないのである。しかし今回は一句兼題をいれて詠んだ。ほんとうに小春日和の気持ちのよい天気だったからだ。


        小春日や雲流しやる隅田川


        夕焼けの川面切り裂くかいつぶり


        寒鯉の鱗ひかりぬ川面かな      風写


寒鯉の句が一番点が入って5点、小春日の句が3点、夕焼けの句が1点で上位の高得点句には選ばれなかった。ちなみに最高得点句は8点。だいたい僕の句はここ10年選ばれたことが少ないから「ああ~いつものことだな~」程度である。言わば句会は、勉強会なのでこんな所で一喜一憂する必要はまったくないのだ。写真とは違いこれからじっくりと推敲を重ねていって、いい句に仕上げていけばいい事であって、句会に出すために詠んでいるのではないのである。でもやはり毎回欠かさずに参加して精進している人たちは、すごく伸びているのは事実ではある。


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冬の中国・三国志大陸走破5000キロの旅は、もう間近くなった。今回は写真研究会「風」同人の写真家・鈴木紀夫さんと塩崎亨君の2人に、中国のイ族出身の写真家で探検家でもある烏里烏沙(ウリ・ウサ)君の4人で行くことになった。四川省の4000メートル近い高地から秦嶺山脈を越えて長江流域を南下してきて最終目的地は上海である。2006年に今回も参加する塩崎君と成都を出発して5200キロを走り、20日間かかってようやく北京に到達した。しかし今回は上海に変更した。ここ一ヶ月間ほど長期取材には、体調管理が一番なので散歩したり、ストレッチをしたりして少しでも体力維持に留意して中国の旅に備えている。昔、中国で詠んだ句のなかから幾つかを紹介します。


        白帝城の悲話の明るむ諸葛菜


        春霖に野良の帰りも墨画かな


        野蒜売りの五指の曲りて朝の市   風写

久しぶりに会った精神科医のHを誘って、品川のキャノンギャラリーSで開催されている長倉洋海写真展「シルクロードー人間の貌」を再度見に行った。日々仕事で疲れている彼女にとっては、長倉の撮った子どもらの澄みきった瞳は、癒されるのではと思ったのである。その足で東京都写真美術館へ行った。セバスチャン・サルガドの「アフリカ」と「旅 異邦へー日本の写真家たちが見つめた異国世界」を見るためだ。サルガドとは日本写真芸術専門学校校長の藤井秀樹さんの紹介で、一度会い、写真を撮らせてもらって固い握手をしている。現存する世界の写真家のなかで、僕が最も注目している写真家の1人である。何度もみている作品も、現在、彼が取り組んでいる「最後の大プロジェクト」のシリーズ「GENESIS/起源」の作品も圧倒的な迫力で見るものに訴えかけてくる。混雑していた会場内にあっても、息を呑むような静寂さが支配していた。


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別会場で開催されていたもうひとつの写真展「旅 異邦へ」も木村伊兵衛、名取洋之助、渡辺義雄、奈良原一高、川田喜久治さんなどの作品を興味深く見た。特に渡辺さんの「イタリアより、1956年」は印象に残った。先生の新しい側面を垣間見た気がした。外に出るとXマス用にデコレシーョンされたイルミネーションの木々に、木枯らしが吹き抜けていた。ブログ用にと撮影していると「よーお、小松ちゃん」と暗闇から声がした。びっくりして振り返ると渡辺義雄先生の教え子であり、お弟子さんでもあった木村恵一さんがいた。そこで一杯やろうと言うので目の前のビヤホールでご馳走になった。何故か写真家の末路についてしみじみとした話になった。


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下町の江戸っ子を自認する木村さんに言わせれば、「鬼灯市は愛宕が本家本元でいい、ぜひ行ってごらん。浅草は後で始まったので観光化されすぎてね・・・・・」だそうだ。何故、こんな話になったのかといえば、僕の親父は神田生まれの神田育ちだが、祖母の実家は、愛宕山の麓にあった大きな魚屋さんであったと言う。祖母の生前中に「昔は賑やかでね~健ちゃん。店に越後からよく行商に来ていたお祖父さんと出合って一緒になったんだよ~」と威勢のいい声で話してくれたものだった。そんな話を少し木村さんにしたからである。ちなみに祖母は94歳まで生きてその人生を全うした。前置きが長くなったが、この日はお酉さまの一の酉。僕は師走を前にしたこの市が好きで、東京にいれば必ずといっていいくらいに足を向けている。年によって浅草の大鳥神社の時もあれば、新宿の花園神社の時もある。こちらには今やすっかり珍しくなった見世物小屋の興行も境内でやっている。何しに行くのかと言えば別段目的は無い。ただその人混みの中に身を置いて人々の声を聴いているのが楽しいのである。翌日は上野の森美術館で開かれている「聖地チベットーポタラ宮と天空の至宝」展を見に行った。肌寒い上野の森には数百人のホームレスの人々が集まって震えていた。世界でも有数の経済大国の大都で、聖地とは程遠い光景が現実としてそこにはあった。

2009年11月9日。テレビのニュース番組に流れ続けていたのは、東西冷戦の象徴であったドイツのベルリンの壁の崩壊20周年のセレモニーの画面であった。まるでお祭り騒ぎのような様相と各国要人の笑顔には何か違和感を感じながらも、あれから20年の歳月が流れてしまったのかと、当時の東西ドイツの光景が走馬灯のように僕の脳裏に蘇るのであった。1989年9月、医療関係者向けの季刊誌「シェスタ」という雑誌に売り込んだ企画が通って、友人の作家・寺岡襄さんとまだ東西ドイツに分断されていた両国にまたがる取材へと旅立つたのである。それは、東西ベルリン、ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヒェンと取材した後、パリ、ロンドン、スコットランドと巡った長い旅であった。(この連載は1997年に『鴎外 東西紀行ー津和野発ベルリン経由千駄木行』(京都書院)として文庫本で刊行された)


取材の第一目的は、森鴎外の青春時代の航跡を辿ることであった。フランスやイギリスについては、夏目漱石、高村光太郎をはじめ、僕の感心があった彫刻家・ロダンや写真家・アッジェなどの足跡を歩いた。1961年に全長155キロメートル、高さ3.6メートル、302の監視塔を備えた東西ベルリンを分断するために建設された「ベルリンの壁」を越えて旧東ベルリンへ入り、取材を開始したのは街路地の枯れ葉舞う秋も深まった日であった。東ベルリンでは、ブランデンブルグ門に続くウンター・デン・リンデン通りの地下酒場で市民が狂喜する踊りの渦に巻き込まれ、ドレスデンでは鴎外の下宿跡が1945年の連合国の無差別爆撃で灰燼に帰していたものを、100年かけても街を修復させようと黙々と普請を続ける人々の姿に感動した。(当時、ロシア前大統領・現首相のプーチンが旧ソ連国家保安委員会(KGB)の中佐としてドレスデンに就任していたことは最近知った)


「森鴎外の航跡をたどる旅」が連載された雑誌と刊行された『鴎外 東西紀行』

「森鴎外の航跡をたどる旅」が連載された雑誌と刊行された『鴎外 東西紀行』


そしてライプツィヒでは文豪ゲーテが『ファウスト』の創作のヒントを得た場所であり、その130年後に若き鴎外が『ファウスト』の翻訳を決意した場所であったアウエルバッハ・ケラーのあなぐらの様な地下酒場で、寺岡さんと酒杯を上げようとしたときであった。忘れもしない1989年9月18日の午後3時過ぎだった。入ってきた市民の一人がいま外で市民のデモ隊と警察が対峙していると告げた。僕はカメラを持ってすぐに飛び出した。そのライプツィヒの市民による初めてのデモが2ヶ月後におきる「壁」崩壊の序章であったとはそのときは知る由もなかったが・・・・・・。


カメラを持っている報道関係者はもちろん、外国人は僕だけだったのですぐにみんなが最前列へと出してくれて、この状況を撮れと言うのだ。対峙している若い警察官たちは、婦人たちの呼びかけに笑顔で応えたりして険悪な雰囲気はなかったので安心したが、よく見ると広場を遠巻きに軍隊の車両が黒々と列をなしていた。時々、ビルの窓から警察官たちへ向けて水の入った袋が投げつけられた。僕らは東ドイツに入国するにあたり、取材許可を取ったのだが、そこには今回の取材目的以外の行動は一切しないという誓約書も取られていた。撮影禁止場所も駅だとか空港など細かく指定されていたのだ。そのことがチラッと過ぎったがこれは撮るしかないと腹をくくって撮り始めた。そうするとすぐに5~6人の警察官に取り囲まれて連行されそうになった。


寺岡さんは酒場で待っていてもらったがもし、僕が捕まれば今回の取材はパーになるし、編集部には申し開きがたたないと思いが巡った。その時、10数人の婦人たちが警察官を逆に取り囲んで、「何故、この人を連れて行くのか!」と敢然と抗議して僕をみんなで囲んで警察から救ってくれたのである。「あんた、いい写真を撮って世界中に知らせてね」と次々に僕の手を握りしめて励ましてくれたのだ。言葉はわからなかったが態度からそう理解できた。僕は撮影したフィルムとカメラをバックに隠して、寺岡さんの待つ酒場へと急いだのである。ようやく着いたその地下室の酒場はまるでさっきまでの外の光景が嘘のように静かで、みなワインを傾けながら楽しそうに語っているのであった。僕がこの日のデモが旧東ドイツにおける民主化要求の先駆けとなった記念すべき民衆のデモであったと知ったのは、帰国した一ヶ月後であり、そしてまもなく歴史的な日となった1989年11月9日を迎えたのであった。

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津軽りんごや秋野菜が友人、知人から届いたとこの5日にブログに書いたら、”全国お布施党”党首の僕としては、大変ありがたいことに、今度は土佐のOさんから巨大な梨の新高梨と葉わさび漬け、わさびの味噌漬けが届いた。紹介はしなかったが、先日もやはり土佐の別の友人から山栗と梨をいただいている。Oさんは、僕が先月、高知へ行っていたときに、台風が接近していたにもかかわらず、撮影助手兼ドライバーをかって出てくれた写真の友人である。その前日には、金沢の如来寺という名刹のご住職から「御佛供米志」という新米を御裾分けしてもらった。今の世の中、自分の信念のみで写真の創作活動をしていただけでは、なかなか食べていけるわけもなく、こうして全国のたくさんの人びとに支えられて暮らしているのは事実である。僕としては皆さんの暖かいご行為には、感謝こそすれ、恥ずべき行為ではないのでこうして記しているのである。本当にありがたい限りである。  合掌

僕が主宰する写真研究会「風」の第4回例会が世田谷区の桜新町区民館で、昨日おこなわれた。会場に行く途中の道には一面に狂い咲きの里さくらが満開だった。(例会の内容については、近く発行される「風通信」第4号に載せますのでお楽しみに)。 僕はこの朝、写真仲間の郷司正巳君の悲報を知らされて、そのあまりの突然の死に、しばらくは呆然として胸の高鳴りを押さえることができなかったのである。重い足取りで研究会へと向かったのだが、思いもよらない薄い小さな花弁をつけた里さくらに迎えられて少しはこころが救われた気がしたのだった。


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郷司君とは、現代写真研究所の創設時の頃からの付き合いだから随分と長い。僕は1期生で、彼は3期生だった。大阪芸大を卒業して上京してきて、開校したばかりの現研でフォトドキュメンタリーを学ぶのだと意気揚々としていた。講師陣もみな若く、ともによく飲み、よく語り、そしてごろ寝したものだった。当時、愛知県の岡崎市から夜行列車で通っていた竹内敏信さんや樋口健二さん、英伸三さんらがカウンセラーで、土門拳、田中雅夫、伊藤逸平、田村茂、藤本四八、伊藤知巳、丹野章、目島恵一、川島浩先生たちを中心に講義がおこなわれていた。さらに杉村恒、脇リギオ、重森弘淹さんら外部講師たち。他に詩人、役者、音楽家、彫刻家など他のジャンルの芸術家たちからもゲスト講師として多くを学んだ。


その後、郷司君とは企画展「戦後40年 戦争を知らない写真家たちの記録」を取り組み、原宿の歩行者天国、明治大学、渋谷・山手教会など様々な所で、出前・出張写真展などをおこない、当時マスコミをにぎあわせたものだった。僕がJRPの事務局長をやるはめになった時にも、事務局次長として4年間、小倉隆人さんと共に支えてくれた。彼が重い病気なって肝臓移植をしてからも折に触れて会った。今年2月に開いた僕らの写真展にも来てくれた。先月も電話があり、最後に話したのは10月31日だった。腹水がたまり調子があまり良くなく、入院していたとのこと。声は少しでにくい感じではあったが、それでも近じか会って仕事の話でもしようよと10分余り話して電話を切った。その4日後にまさか亡くなるとは・・・・・思いもよらなかった。彼が残した仕事はたくさんあるが『半世紀の肖像ー戦災障害者の記録』、『ベトナムの海の民』は残る仕事であると思う。郷司君は飲むといつも「一寸法師はベトナムから日本へ来たんだ。俺はその海の道を辿るんだ」といって事実、何度もアジアの海洋民族の取材に挑戦していたのである。


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もうひとり僕にとってはとても親しかった写真家が先月の3日に急死した。それは沖縄の平敷兼七さんだ。写真をはじめてからこの40年、沖縄だけを撮り、「人間とは、沖縄人とは・・・・・」を探求しつづけた真のウチナー写真家である。一昨年、写真集『山羊の肺 1968-2005年』を刊行し、昨年5月銀座二コンサロンで同名の写真展を開催して、それが第33回伊奈信男賞受賞となったのだ。その銀座二コンサロンへも行ったが、沖縄から大量の泡盛と、とうふよう(泡盛に島豆腐を漬けて醗酵させたもの)を持ち込み昼間から会場で飲んでいた。もちろん僕も御相伴にあずかったが、二コンの担当者はサロン始まって以来の珍事ですと苦笑していた。彼はまったく気にする風でもなく「小松さん飲もうさ~」とニコニコと勧めるのだった。最後に会ったのは昨年の師走も押し迫った12月28日。沖縄に行っていた僕を訪ねてきてくれて、写真家小橋川共男さんと一緒に夜中の2時過ぎまで那覇の街をハシゴしたのだった。郷司君(享年56歳)も平敷さん(享年61歳)も僕と同世代。これから本当にやりたい仕事を追求していこうと思っていただろうに・・・・・・無念の極みという他はない。  ただ、ただ合掌するのみである。

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最近、家に篭っていることが多くなったと前にも書いたが、昨日も国会中継と野球の日本シリーズをボーっと眺めていた。石川遼君が登場してからは、したこともないゴルフも比較的見るようになった。昨今のテレビドラマなど見ているよりはるかにドキドキさせられておもしろい。与党となった民主党がどう野党の追及に答えるのか、その一問一答も楽しみなのである。宵に散歩に出た。オレンジ色の満月が昇り始めたところで、お月様におもわず手を合わせてしまった。それ程美しかったのである。そんな昨夜、新潮社の金川編集室長が津軽のりんごを届けてくれた。春に取材した青森の農家のおじさんが、『太宰治と旅する津軽』を送ったお礼にたくさん「一寸一休」という銘柄のりんごを送ってきてくれたのだと言う。添えられた手紙には、もう津軽は冬支度に追われていると記してあった。


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そして今朝、今度は千葉の友人から取り立ての秋野菜がどっさりと送られてきた。写真に写っているのはその一部で、今日早速、糠漬けやら煮物などを作ろうと思う。そうでないととても食べきれない。家の周りの畑から昨日収穫して、送ったとメモ書きが入っていた。津軽の農家のおじさん、千葉の友人も本当にありがたいと思う。ただただ感謝するばかりである。こうして野菜不足気味の僕の食生活も何とか改善されるのだ。昨年、沖縄取材中、岩場で転倒してしたたかに膝を打ってからどうも調子が良くない。この12月に中国・三国志の大陸を5000キロメートル走破する計画を立てているが、それには体調を整えねばと思っている。何よりも先ずは、食生活の改善と適度な運動である。今回のプレゼントはそのひとつの手助けとなった。  合掌

冬将軍の到来か?と思わせるようなこの晩秋一番の寒さの昨夜、品川にあるキヤノンギャラリーSで、2日から12月19日まで開催される長倉洋海写真展「シルクロードー人間の貌」を見に行った。18時半からのオープニングパーティの案内も来ていた。この間に開かれた彼の写真展に招待されていたのに行けなかった事もあり、顔を出しておこうと思ったのである。久しぶりの品川駅の港南口から歩いて行くと人人の波でくたびれた。ギャラリーまでの両側は、気の早いXマスのデコレーションが飾られていて、冷たい秋雨のなかで淋しく灯を点滅していた。


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長倉さんとは年齢も、プロ写真家としてスタートして日本写真家協会へ入会したのも、ほぼ同時期である。お互いにテーマも近いこともあり、互いの仕事を見続けてきている。もちろん気を使わない関係の写真仲間ではある。今回は、長倉さんの写真家としての30年の節目の写真展だけあり、1点1点力のこもった作品が展示されていた。見るものに時代を超え、国境を越えて、生きる人びとの生き様が胸に迫ってくる。ぜひ足を運んで欲しい展覧会である。


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パーティには、彼の人脈の広さもあり、たくさんの写真家、編集者、業界関係者などが出席していた。僕も久しぶり会う人も多かった.写真集『雲上の神々』、『ヒマラヤ古寺巡礼』を手がけてくれた東京印書館の統括ディレクター高柳昇さんや写真弘社の柳沢社長はじめ、写真家の田沼武能さん、野町和嘉さん、松本徳彦さん、齋藤康一さん、木村恵一さんなどと珍しくゆっくりと話した。写真研究会「風」のメンバーも3人来たので、パーティ終了後、品川駅の路地裏で終戦直後からやっている焼き鳥屋へ行った。フリーライターを生業としている進藤美恵子さんが考えている写真家と作品をメインにした新企画の話や来月、中国取材に行く鈴木紀夫さんの相談など時間の経つのを忘れて聞いたのであった。今宵は満月であったが、残念なことに家路への道は秋時雨にけぶっていた。

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