写真家 小松健一・オフィシャルサイト / Photographer Kenichi - Komatsu Official Website

2009年9月アーカイブ

9月25日、東京・池袋にある琉球料理の店・みやらびにおいて、写真家水越武さんと僕をを囲む会が大勢の親しい友人や仲間が集っておこなわれた。この会は、新潮社の「K編集者」こと、金川功編集室長が今年、水越さんの『わたしの山の博物誌』と僕の『太宰治と旅する津軽』の2冊を担当したこともあり、身内でささやかなご苦労さん会をやろうということで始まったのである。会場は僕も長年通っており、友人の石川文洋さんの義理の妹、琉球舞踊家の川田功子さんが経営しているお店ということもあってお世話になることにした。


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華麗な琉球舞踊のライブを観賞しながら、水越さんは、知床の秋鮭の手作りイクラ漬けと富良野のメロン。僕は上州・吾妻の特産品の生コンニャクの刺身と尾瀬の大豆と水で作った「尾瀬豆腐」を参加したみなさんに振舞った。本格的な琉球料理とともに山海の珍味に舌鼓を打って歓んでいただいたのは何よりであった。主な参加者は、写真界からは丹野章さん、岡井輝毅さん、高野潤さん、堀瑞穂さん、中国の写真家、烏里烏沙君をはじめ若い写真家たち、それに著名なグラフィク・デザイナーの鈴木一誌さん。カメラメーカーの人やカメラ雑誌の編集者たちなど。出版社の友人たちも大勢駆けつけてくれた。各マスコミの友だちも・・・・・・。


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また、ヒマラヤに何度も一緒に登ったネパールのシェルパ族の友人や遠く津軽から来てくれた友人などたくさんの仲間が、思いもよらず参集してくれたのは、本当にうれしかった。会場の盛り上がった雰囲気は、文章ではなかなか伝わらないので、当日記録担当としてスナップを撮ってくれた写真家の塩崎亨君の写真をご覧いただき、その一端を感じていただければと思います。この場をかりてあらためてご参加いただいた皆さんに心から感謝いたします。ありがとうございました。 合掌
                                                               (モノクロ写真の撮影は全て塩崎 亨さん)

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             巡礼の道赤く染む蕎麦の花   風写


僕がヒマラヤの蕎麦の花に初めて遭遇したのは、いまから20年前の8月の末のことである。場所はネパールの西北部、アンナプルナ山群とダウラギリ山群の北側、かって氷河であったカリ・ガンダキ川の上流、チベット国境に面したムスタン王国とよばれていた土地であった。ここにヒンドゥ教の聖地ムクティナート(標高3800メートル)がある。その巡礼の道が真っ赤に染まっていたのだ。最初、一面茶褐色の大地に忽然と真っ赤な絨毯が敷き詰められたようでわが目を疑った。「何だあれは!!??・・」が、その時の偽らざる僕の心境であった。


その桃源郷のような光景を1900(明治33)年に仏教の原典を求めて単身チベットへ向かった青年僧侶・川口慧海が、このムスタンの地に1年間ほど滞在して見ている。その時の旅行紀を読むと今もその光景は変わらない。「麦畑は四方の白雪凱凱たる雪峰の間に青々と快き光を放ち、その間には光沢ある薄桃色の蕎麦の花が今を盛りと咲き競う・・・・・」これは1904年に刊行された『西蔵旅行記』のなかの一節だ。僕はその光景を祖国日本でも見たいという衝動にかられ、幾度となくムスタンの人々から蕎麦の実を譲り受けてチャレンジしてみたのだ。上州の田舎の庭や東京の蕎麦屋の店先や埼玉の農家などで。しかし、そのどれもが失敗であった。芽を出し、花もいくつかは付けたのではあるが、高く伸びすぎて倒れたり、ほんのわずかしか芽を出さず、花が赤くならなかったり・・・・。もう日本の気候、風土ではだめなのか、とあきらめかけていた。


2年前に現地へ行ったときに、たまたまフィルムケースに2つばかり蕎麦の実をもらってきていた。そのひとつを欲しいという知人がいたのであげたのだった。その知人の父親が家の近くの畑に昨年蒔いて実を収穫し、さらに今年も蒔いて花を付けはじめたという。江戸川の支流にあたる利根運河の土手沿いにムスタン王国のヒマラヤの赤い蕎麦の花が一面に今年も咲き始めたとこの写真を送って来てくれたのだ(まだ一部咲き程度でこれからが見頃だそうだ)。うれしいではないか。ヒマラヤの風がこの大都会の近郊の街にも吹いてると思うと・・・。何故かしきりとヒマラヤの村々やそこに暮らしている人々の顔が想い浮かぶのである。ヒマラヤの赤い蕎麦の花を祖国の地に咲かせてくれてありがとう・・・・・・。ダンニャーバード!ナマステ!!(ネパール語で「本当にありがとうございます。感謝します」の意味。写真は2点とも伊馬流さん撮影)


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小松健一主宰・写真研究会「風」弟3回例会が9月19日に、都内で開かれた。今回は同人、会員7名と福島からKさんがたくさんの作品を持ってゲスト参加した。一度研究会の様子を見てから入会を決めたいとはるばる福島からの参加であった。この研究会は、1回は希望があれば自由に参加できることになっている。今回の例会は、インド取材から戻ったばかりのYやスペイン取材帰りの塩崎君などの大量の作品をはじめ、各自が取り組んでいる写真の新作を持ち寄り、夕刻まで熱気ある合評をたっぷりとおこなった。


ゲスト参加のKさんは、これから岩手の遠野祭りの取材に行くというので、5時前に帰ったが残りの有志でインド・スペイン帰りの2人の無事帰国を祝いささやかに飲み会おこなった。当事者の取材先でのエピソードを聞きながら笑ったり、驚かされたり、感心したりで皆大いに盛り上がった。そして12月に冬の中国・三国志の大陸を5000キロメートル走破しようという計画がそこにいたメンバーで持ち上がり、3人が行こうと言うことになった。こういうプランは、行こうと思ったときに行かないと実現できない。僕も行くと決めた。出発は12月4日から帰国は20日にする事になった。15日間の旅である。人生とは愉快なものである。どんな珍道中が待ち受けているか、今からとても楽しみである。


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インドから戻ったYさんは一度に乗り切らないほどの成果をもって参加した第3回例会。


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お店というより我が家という存在。今や若いカップルなども訪れ店内は今日も賑わっていた。(photo:t.shiozaki)

画像をクリックしていただきますと多少大きく見れます。

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僕が20代の頃、同じ釜の飯を食った友人たちが、昨年創刊した「季論21」(発売・本の泉社)という雑誌の第6(秋)号のグラビアに掲載して欲しいと声がかかったので、その昔、苦楽をともにした仲間ではあるので協力することとした。ちょうど9月25日に『太宰治と旅する津軽』(新潮社)を発売するので「津軽ー太宰治生誕100年に寄せて」という8ページのモノクログラビアと1200字余りの解説を寄稿した。原稿を渡すかたがた十何年振りかで会った編集委員をしているという友人は、昔とちっとも変わらぬ人なっこい風貌で、お互いにすぐに青春時代にタイムスリップしたように話が弾んだ。池袋の飲み屋で一杯やりながら頭は白髪になったその友は「やはり昔の仲間はいいなあ~。みんなあったかいし、気持ちが通じ合えるよ・・・・」としみじみと語った。「季論21」に寄稿した一文をここに載せ、僕の新刊の紹介としたい。


2009年の今年は、太宰治の生誕100年である。太宰をはじめとした20世紀初頭に生まれた文学者を見ると、その多くが昭和文壇を代表する文学者となっているのに興味を覚える。1901年生まれの梶井基次郎、2年の小林秀雄、3年は小林多喜二、林芙美子、山本周五郎、4年は堀辰雄、6年に坂口安吾、7年は、中原中也などなど主な作家をあげていってもきりがない程、この年代に輩出しているのである。それぞれの作家たちの生誕100年のイベントがこの間おこなわれてきたが、太宰ほど多くの企画・行事が催される作家はいないであろう。日本映画だけでも3本が公開され、フランス人監督によるドキュメンタリー映画も公開されるそうだ。出版やテレビの特集番組も盛りだくさんである。まるで我もわれもと太宰ブームに乗っかって、悪乗りをしているかのようにすら見える。


実は、僕もそのブームにあやかったわけではないが、9月20日に『太宰治と旅する津軽』という本を刊行する。新潮社の「とんぼの本」のシリーズである。僕はライフワークとして「日本の文学風土記」を40年近く前から取材しつづけている。日本の近現代文学、作家の原風景を切り口にして、日本人の暮らしと風土を写真によって記録・表現しょうという試みである。太宰の故郷、津軽をはじめて訪れたのは、今から30年前の早春。その後、4度取材で旅し、生誕100年の今年、厳寒の2月と、太宰が名作『津軽』で旅したのと同じ季節の5月にさらに取材を重ねた。そうして完成したのが今回の本である。使用した写真は1980年からのものもあり、改めてネガから引き伸ばしたが、若き日のさまざまな旅情が思い返されて不思議な気がした。


この本のテーマは「ね、なぜ旅に出るの」 「苦しいからさ」・・・・・と太宰がもらした言葉にある。小説『津軽』を道標に、津軽半島に遺された太宰の望郷への旅の足跡を巡った。そして五度に及んだ自殺、心中の現場を訪ね、その日、そのとき、太宰の目に映った心象風景を追ったのである。さらに太宰の死の直前のポートレートを撮影した写真家田村茂と太宰治の二人の「無頼」について考察し、レポートを書いた。その作業のなかで、田村茂撮影の太宰の未公開の肖像写真を六葉発掘し、この本に初掲載したのだ。僕の写真の師たちである田村茂は太宰より3歳年長、土門拳は太宰と同年、藤本四八は2歳下である。こう考えると61年前に亡くなってはいるが、太宰は決して過去の作家ではない。僕らと同時代に生きた人間であるとあらためて認識したのであった。(定価1500円・税別、カラー124p、モノクロ16p A4版/表紙の写真は、三鷹で1948年2月に撮った太宰治<部分>田村茂撮影と、りんごの花と岩木山、2009年5月小松健一撮影)


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平成21年度「ぐんまの山村」フォトコンテストの作品募集が9月1日から始まった。応募期間は11月13日まで(詳しくは群馬県のホームページで。TEL027-226-2371 )。群馬県と全国山村振興連盟群馬県支部が主催。群馬県教育委員会、群馬県観光国際協会、上毛新聞社、群馬テレビなどが後援している。今年で僕が審査委員長となって3年目を迎えるがこの間、応募作品数は6倍に増加した。山村で暮らす人びとを通して、そこに伝わる生活文化や残したい自然など魅力溢れる地域の表情を捉えた写真を募集しているこのコンテストは、僕の故郷上州への郷愁とかさなるので、できうる限り協力してきたのである。入賞作品、佳作作品は、来年2月上旬、群馬県庁において表彰式とともに写真展が開催される。その後、東京・銀座にある群馬県観光物産店「ぐんまの家」で展示されたり、県内各地を巡回する。応募料は無いので自信作をどしどし応募して欲しい。展覧会のレベルも高く、他のコンテストと一味ちがうのでぜひ、挑戦してください。力作をお待ちしています。上州の山河、温泉、祭り、食、人びとの気の好さ・・・・・・・。僕の母の故郷であり、僕を育んでくれた土地、上州。僕は現代詩人たちのふるさとともいえるこの風土を限りなく愛している。僕が十代の頃、大都会での生活に疲れ果て、初めて帰省したときに詠んだ短歌を書きとめておこう。かれこれもう40年程前になる遥か彼方の追憶である。


   北へ向かう車窓に赤城山広がれば母の故郷(くに)なり深く呼吸(いき)する  健一


平成20年度、最優秀賞を受賞した田中栄治さんの作品「好日」

平成20年度、最優秀賞を受賞した田中栄治さんの作品「好日」

突然、ネパールの友人から電話が入った。「いま、東京にいるので会えませんか」と。2週間程前にネパールのカトマンズで旅行社を経営しているプリティビ・シュレスタ君からメールがあり、今度会社の役員が2人、日本へ行くので会って欲しいと言ってはきていたのだが、無しの礫だったので、どうしたのかと心配していたのだ。それが帰国寸前になっての連絡。ちょうど銀座へ行こうと思っていたので和光デパート前で待ち合わせをした。プリティビ君とは彼が学生時代からの付き合いで、現在、僕が会長を務める「日本・ネパール写真交流協会(JNPS)」をともに創設した仲間である。現在、彼は同協会の副会長を務め、ネパール現地ではスポークスマン的な役割を果たしている。


今から18年前にプリティ君らが設立した「NEPAL  KAZE  TRAVEL」のマネジャーのホム・シュレスタ君とスレシュ・サキャ君の二人とは数年ぶりの再会である。彼らとはカトマンズの穴倉のような飲み屋をよく飲み歩いたものだった。今回の来日目的は営業が主目的で、大阪をはじめ関西圏をすでに廻り首都圏には、もう10日間滞在しているという。「東京は人がたくさんだし、階段の上り下りも多い。ネパールより疲れますね」とこぼしていた。ヒマラヤの山々でトレッキングガイドとして鳴らした彼らも、人間だらけのコンクリートジャングルの大都会は勝手が違うらしい。「二コン フォトコンテスト インターナショナル2008-2009入賞作品展」のオープニングレセプションが銀座二コンサロンで開かれていたのでネパールの彼らを伴って出席した。数日前にインド取材から戻ったばかりのYとフリーライターのSの二人の写真研究会「風」のメンバーも合流して、しばし新涼の夜の国際交流の輪を広げたのである。


ネパールの若き友人、ホム・シュレスタ君(右)とスレシュ・サキャ君と銀座7丁目ライオンで。

ネパールの若き友人、ホム・シュレスタ君(右)とスレシュ・サキャ君と銀座7丁目ライオンで。撮影・Y「風」会員

真夏日が、ぶり返したような日曜日の午後、演劇集団いたわさ 第5回公演「ぼくと貧乏神」を六本木にある麻布区民センターホールへ観に出かけた。ここでのいたわさ公演は3年続けて鑑賞してきた。この企画は「麻布演劇市」という港区の助成事業になっていて区在住、在勤、在学者は公演料金3000円がすべて無料と粋な計らいとなっている。僕は港区在住でないから本来は3000円支払って入場しなければならないのだが、この劇団の代表であるI君がいつも招待券を送ってきてくれるのである。会場は昼にもかかわらずほぼ満席の入りであった。


I君とは、かれこれ20年以上前からの知り合いである。新宿の「ぼるが」でたまたま隣合せに飲んだのがきっかけだ。彼は当時、月刊誌「暮らしの手帖」の写真部員だった。サハリンへ取材に行くのでアドバイスをしてくれというので、何かあれこれと飲みながら話した記憶がある。そんな彼も結婚をして、「暮らしの手帖」の編集長となった。ある日、劇団を作って公演するので観に来てほしいという手紙が突然来た。確か10数年前だったと思う。ワインを2本ぶらさぜて行ってみたら2~30人しかは入れないようなムンムンとした狭い所だった。もちろん本人たちは一生懸命だったが、内容は学園祭の出し物に毛が生えたようなものだった。しかしI君はそうした悪評にめげずにずーと役者と編集者の二束のわらじを履きつづけてきたのだ。そうした努力が実って行政にも認められて助成事業にもなったのだろう。


とりわけ今回の劇は、今の時代によくマッチしており、いい出来であった。会場も終始爆笑の渦で、僕も久しぶりに腹の底から笑った。「貧乏と貧しさは違う」、「貧乏はお金の問題ではない。心の問題だ」と現在、不況、リストラのなかで生きている庶民へやさしく問いかける今回の劇は、まさしく圧倒的多数の日本国民への共感のメッセージであろう。アンケート用紙に「あなたの貧乏指数は?」という記入欄があったが、いつも貧乏神さまと暮らしている僕ではあるが、こころの貧しい人間にだけにはなりたくないものだとつくづくと思った。I君、本当にこころゆたかな人間が生きていける社会へとなって欲しいものだね。楽しい芝居ありがとう・・・・・・。


演劇集団いたわさ 第5回公演「ぼくと貧乏神」・麻布区民センターホール(9月7日)

演劇集団いたわさ 第5回公演「ぼくと貧乏神」・麻布区民センターホール(9月7日)

いよいよ今月20日に刊行される『太宰治と旅する津軽』(新潮社)の印刷刷り出しの立会いに、凸版印刷板橋工場に丸2日間出かけた。数年ぶりの立会いであったが、その時間は延べ24時間、けっこう疲れた。しかし現場の技術者の人たちとの交流など、一緒に本を作り上げていく楽しさがとりわけ心地よいものであった。毎朝9時前には、現場へ入ったのでいつも床の中でゆったりとしている僕にとっては、この2日間は正直厳しいものであった。出版社のK編集者も休日を返上して付き合ってくれて、その熱意たるや今どきの編集者の範とすべきものであるとつくづくと思った。凸版の営業の人も、ADの人も、刷りの人たちも本当に一生懸命にがんばってくれて、涙がでるほどありがたいと思った。こころから感謝している。


今回のスタッフに不思議なことに、AD部課長と担当営業の人が青森出身者であった。いくら太宰の本を作っているからといってもここまで合わせてくれなくともいいのにと思うほどであった。おまけに営業担当のN君は、凸版相撲部のホープ。僕と体型はいい勝負。だが彼の方が断然若いし、お腹がでていないところが決定的にちがいますよ。とK編集者から笑われた。一つの創作物を完成させていくということは、数え切れないおおくの人たちのサポートがあって成り立っていることをあらためて実感するとともに、感謝した2日間であった。後はどれだけ多くの人びとにこの本を手に取ってもらえるかが問われている。作り手としては、世に送り出せば終わりではなく、より多くの人びとに読んでもらえるか、その努力も責任も著者にはあると僕は常々思っているので、当然今回も全力で努力したいと思う。それが協力していただいたたくさんの方がたにたいして、ささやかではあるが恩返しであると思うからである。今夜は刷り出しを肴に独り、仲秋の満月を仰ぎながら心ゆくまで盃をかたむけるとしょうか・・・・。合掌


輪転機のある現場で、刷り出しをチェツクする。

輪転機のある現場で、刷り出しをチェツクする。


印刷現場の技術者たちと刷りを検討するK編集者。

印刷現場の技術者たちと刷りを検討するK編集者。


ようやくカラー16版、モノクロ2版の印刷が終了した。

ようやくカラー16版、モノクロ2版の印刷が終了した。


丸2日、24時間におよぶ立会いは、結構疲れる。文字通り体力勝負だ。

丸2日、24時間におよぶ立会いは、結構疲れる。文字通り体力勝負だ。


印刷立会いの校正室から見るたそがれる凸版印刷板橋工場の風景。一服するK編集者。

印刷立会いの校正室から見るたそがれる凸版印刷板橋工場の風景。一服するK編集者。

切れ長の仏眼にこぼる白露かな   小松風写

かってヒマラヤの国・ネパールで詠んだ句である。白露とは二十四節気の一、陽暦の9月8日ごろ。処暑から15日目にあたる。季語では、白露の節ともいう。丁度今頃の季節をいうのだろう。関東地方を直撃するはずだった台風11号は、拍子抜けするほど早々と太平洋上を北上してしまったが、台風以上に強大な激震が自民党、公明党の現政権を襲った。連日の新聞、テレビ等マスコミがそれについては、あれこれと論評をしているので、ここで僕がいまさらながら言うつもりはない。今後の成り行きを一人の日本人として、しっかりと見守っていくつもりである。しかし、一票の重さを改めて実感した選挙ではあった。紙と鉛筆による民衆の革命である。世紀末の1989年に僕は、東欧の東ドイツと南米のチリを取材した。当時、チリは南米で唯一残っていた軍事独裁国家であり、東ドイツはベルリンの壁に象徴される強固な社会主義国であった。それも東西二つの大国のお膝元で民主主義と自由を求めて民衆が立ち上がったことに深い感動を覚えたのだ。それはまさしく、今回の日本と同じように、血を流さずに紙と鉛筆による民衆の民主主義革命であった。しかし、民主党は多数派にものをいわせ驕るのではなく、少数の意見にもしっかりと耳を傾ける姿勢は忘れてはなりますまい。それこそが成熟した議会制の民主政治であるからだ。30数年前の若き日に詠んだ短歌がノートに記してあったので書き留めておこう。

         枯葉舞う師走の街角曲がりきて遠くアンデスの国思う冬

         冬深し目に沁む青き日本のこの空も遥かチリにつながる  (1976・冬)


民主党の圧勝を報道する8月31日の各紙朝刊と1989年、ピノチェト軍事独裁政権下でおこなわれたチリ大統領選挙。チリの民衆は、軍と一部の大資本家による弾圧に屈せず、紙と鉛筆の革命で、アデンジェ大統領以後はじめて自分たちの大統領を選出し、軍事政権を終焉させたのである。

民主党の圧勝を報道する8月31日の各紙朝刊と1989年、ピノチェト軍事独裁政権下でおこなわれたチリ大統領選挙。チリの民衆は、軍と一部の大資本家による弾圧に屈せず、紙と鉛筆の革命で、アデンジェ大統領以後はじめて自分たちの大統領を選出し、軍事政権を終焉させたのである。

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